教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

『東京府教育会雑誌』解説

2017年12月29日 16時13分03秒 | 教育会史研究
 投稿第3弾。

 去る11月30日付で、不二出版と一緒にやってきた『東京府教育会雑誌』の復刻事業が完了しました。これで、明治21(1888)年~31(1898)年の東京府教育会機関誌を簡単に確認できるようになり、明治中期教育史や東京府教育史の研究が少ししやすくなるでしょう。原本を発見できなくて欠号もありますが、この復刻事業がきっかけになって発見できれば幸いです(実際、1~5号はこの事業がきっかけになってその存在が知られるようになったので)。
 また、同日付けで復刻版の別冊として、白石が編集著作しました『『東京府教育会雑誌』解説・総目次・関連年表』(不二出版、2017年)が出版発行されました。解説は私が37ページ書きました。総目次・関連年表もデータを私が作り、不二出版にご協力いただいて校正・編集してもらいました。総目次・年表は、見てもらえればわかりますが、かなり力を入れて作成したものです。本当は、目次・年表作成でわかったことを徹底的にフル活用したかったのですが、私に時間がなくて断念しました。ですが、解説では、東京府教育会の前史や組織構成などについて、新資料を使いながら整理しましたので、先行研究に新しい事実を多少なりとも付け加えることができたかなと思っています。
 とりあえず、『『東京府教育会雑誌』解説・総目次・関連年表』掲載の解説論文「『東京府教育会雑誌』解説」について、論文構成を下記に紹介します。

  はじめに
 1 東京府教育会前史
  (1)東京府教育談会の結成―東京教育会・東京教育学会と普通教育擁護・推進
  (2)東京府教育談会から東京府教育会へ
 2 東京府教育会の組織
  (1)目的と組織構造
  (2)東京府教育会の事業
 3 『東京府教育会雑誌』の傾向
  (1)雑誌の性格
  (2)記事傾向
  おわりに

 注文は不二出版まで(東京府教育会雑誌【復刻版】全9巻・別冊1)。東京府教育会機関誌にはまだ続きがあるので、復刻事業は続かせたいです。
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明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員

2017年03月03日 23時55分55秒 | 教育会史研究
 いつもお世話になっております。年始からさっそく忙殺されておりましたが、やっと落ち着きました。腰の調子は一進一退で、治ったような治っていないような感じです。気をつけなきゃ。
 1月は整体接骨院に通いながら、仕事始め、研究会、センター試験業務、卒業論文指導、出版のための校正最終段階、詰まり詰まった授業、成績採点など。2月も整体に通いながら、成績採点、入試業務、卒業論文発表会、組織改革の委員会、集中講義(教育史)、実習訪問指導、教員採用セミナー講師など。いままでは2月に入ったら多少楽になったのですが、今年はちょっと違いました。来年はもう少し落ち着くといいな…

 さて、先日よりお知らせしているとおり、待望の学位論文が出版されました! 索引含めて658頁! 分厚い! 
 題名は『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員』(溪水社、2017年)です。目次は溪水社ホームページに掲載していただいている通りですが、これでも長いので下記に章題だけにして紹介します。

 序 章

第Ⅰ部 教員改良の原点
 第1章 「師匠から教員へ」の過程における教員改良問題の発生
 第2章 東京教育会における官立師範学校卒業生の動員 ―東京府教育の改良―
 第3章 明治13年東京教育会における教師論 ―普通教育の擁護・推進への視点―
 第4章 東京教育学会から大日本教育会へ ―全国教育の進歩を目指して―
 第5章 明治期大日本教育会・帝国教育会と指導的教員
第Ⅱ部 国家隆盛を目指した教員資質の組織的向上構想
 第1章 大日本教育会結成期における教員改良構想 ―教職の専門性への言及―
 第2章 明治23年前後における教員改良構想 ―教職意義の拡大と深化―
 第3章 大日本教育会末期の教員改良構想 ―単級教授法研究組合報告と高等師範学校附属学校編『単級学校ノ理論及実験』との比較から―
 第4章 明治期帝国教育会の教員改良構想 ―日清・日露戦間期の公徳養成問題に注目して―
 第5章 教育勅語解釈に基づく教員改良構想 ―国家・社会改良のための臣民育成を目指して―
第Ⅲ部 教員講習による学力向上・教職理解の機会提供
 第1章 夏季講習会による教員講習の開始
 第2章 大日本教育会による教員講習の拡充 ―年間を通した学力向上の機会提供―
 第3章 帝国教育会結成直後の教員講習 ―教員の学習意欲・自律性への働きかけ―
 第4章 明治期帝国教育会における教員講習の展開 ―帝国大学卒・高等師範学校卒の学者による小学校教員に対する中等教員程度の学力向上機会の提供―
 第5章 帝国教育会による教員講習の拡充 ―中等教員講習所に焦点をあてて―
第Ⅳ部 輿論形成・政策参加による自己改良への教員動員
 第1章 討議会における教員の動員 ―「討議」の限界性―
 第2章 「研究」の事業化過程 ―輿論形成体制の模索―
 第3章 「研究」の事業化における西村貞の理学観 ―教育の理学的研究組織の構想―
 第4章 研究組合の成立 ―教育方法改良への高等師範学校教員の動員―
 第5章 全国教育者大集会の開催背景 ―輿論形成体制への地方教育会の動員―
 第6章 学制調査部の「国民学校」案 ―輿論形成・政策参加への教員動員―
 第7章 全国小学校教員会議の開催 ―指導的教員による専門的輿論形成・政策参加―

 結 章 明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良とは何か

 とまあこんな感じです。だいたい学位論文の通りですが、第Ⅱ部第5章と第Ⅲ部第4章は学位取得後に書いた論文です。とくに、教育勅語解釈に関する第Ⅱ部第5章は、教育史学会で発表後、活字化のタイミングを結局逃したので、今ではこの本でしか読めません。また、序章・結章・各部の小括はもちろん、第Ⅰ部第1章・第Ⅳ部第7章も学位論文をまとめたときの書き下ろしです。第Ⅰ部第2・4・5章も、初出時とくらべてずいぶん加筆修正しました。それから、あとがきも学位論文の時に比べて自由に書かせていただいています(笑)。
 本書の内容については目次の通りですが、大まかに説明すると次のような感じです。本書は、日本最古の全国教育団体である明治期大日本教育会・帝国教育会が行った教員改良活動について、実証的に研究したものです。両教育会が、教員(とくに小学校教員)の資質能力向上に対して、帝大や高師、その他の官私立高等・専門教育機関の教員などを動員しただけでなく、全国の師範学校教員や指導的小学校教員を動員したことを詳細に明らかにしました。その歴史的事実からは、近代日本の成立期において、学校教員という職業が誕生する際に、教職の専門性に対する意識がどのように生まれ、育てられようとしたかがわかります。また、全国の指導的教員が、他律的に動員されただけでなく、自ら自分自身や同僚・部下を改良しようとしていた実態も垣間見ることができました。すなわち、近代日本における教職の自律性の萌芽も明らかにしたつもりです。指導教員から「素直に書きすぎ」と批判されたところもありますが、まず愚直に史料に忠実に事実を明らかにすることが次の批判的研究につながると考えて突き進みました。
 400部しか刷っていない高額(税込9,612円)の専門書ですが、どうぞ大学図書館や公立図書館に入れてもらって手にとってみてください。日本の教師とは何か研究する上では必読の本であると自負しております。

 ちなみに、カバーはこんな感じですが、
 
 これはかなりこだわって作ってもらいました。編集担当さんにずいぶん無理を言って、何度も直してもらいました(こんなことまでしているから時間がなくなるのですが苦笑)。以下、こだわりポイントの解説をさせてください(^_^)。
 表紙は題名と写真等で構成されています。ここのこだわりは3つ。第1に、大日本教育会の会員章をたまたま手に入れていたので、題名の左上に使ってもらいました。史料に沿って解釈すると、会員に配られた会員章なのか功績者に配布された会章なのか判断が難しかったのですが、裏に刻まれている「会員章」という文字を信用しました。こいつはかなり貴重です。第2に、『大日本教育会雑誌』に掲載されていた明治26年に建築されたばかりの大日本教育会事務所の絵を使ってもらいました。写真もいちおう存在するのですが(現物は未確認)、帝国教育会になってからのものであり、かなりぼやけています。また、私の論文が明治中期を中心に会の成立あたりを詳細に書いているので、時代の雰囲気を伝えるためにも明治26年新築時の絵を使ってもらいました。第3に、会幹部たちの顔写真群です。私は研究生活を始めた早い時期からずっと、教育会は機械的なシステムではなく、生身の人が動かしていた人間組織であることにこだわっていました。なかでも、中央教育会の教員改良の始動や時々の画期に活躍した幹部たちに注目しました。彼らによって、明治期によちよち歩きを始めた教員という職業が専門職に向けて歩み始めたのだということを表現したかったのです。顔写真は本文でもふんだんに掲載しましたので、よく読めば誰の写真を使っているかわかるのですが、とにかく各時期のキーパーソンになった人たちを厳選しました。順番は、何となく、かかわりが古い順で下から並べています。そういう意味ではもっとたくさん載せたかった人はいるのですが、デザイン上18名に絞られました。ちなみに、顔写真を使いたかったのは私、事務所絵を使いたかったのは編集。両方を組み合わせてみようということになった結果、いい感じになりました。
 背表紙のこだわりは2つ。第1に、副題が埋もれてしまわないように文字色を変えてもらいました。本書は歴史書ですが、教育学書でもあるので、教育学的な問題意識を大事にしたい気持ちがあったからです。第2に、背景に大日本教育会の会章図をあしらってもらいました。デザイン自体は単純なのですが、中の太極図や周辺の光線・剣の傾きなど、あんがいよく見ると正確でないところがあったので、何度か確認して直してもらって完成したものです。
 裏表紙のこだわりは1つ。第1回全国小学校教員会議の集合写真を使ってもらいました。本文にも書いたのですが、この会議は両教育会の教員改良活動の集大成にあたるものです。表紙の人々が始めた教員改良の成果を形に表したかったので、この写真を使いました。この手法は、実は拙著『鳥取県教育会と教師』でもこだわったところです。まあとにかく教員会議の写真が残っていてよかったなあと思います。
 あと、カバー全体の色ですが、薄緑色?になっています。これは、大日本教育会の会旗に使われた色が赤・黄・緑・白だったので、このあたりの色を使ってもらえないかと頼み込んで、しっくりくる色を使ってもらいました。つや消し加工もしてもらって、とてもいい色になったと思います。顔写真も埋もれず主張しすぎずの難しい色合いを要求したのですが、いい感じになりました。最後に価格ですが、税込み1万円は超えないように無理を言って聞いてもらいました(^^;)。溪水社さんのご厚意・ご協力に感謝です。

 とまあ、こんなこだわりと約15年間の研究成果がこもって、やたら分厚く重い本になりましたが、ぜひ手に取ってみていただけると幸甚です。2016年度日本学術振興会科学研究費補助金研究成果公開促進費(学術図書)の補助対象物です。よろしくお願いします。
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「学び合いのネットワーク」と「教育会」

2016年01月16日 06時12分11秒 | 教育会史研究

 センター試験ですね。受験生の念願成就を祈ります。開催会場の大学の教員もお互いがんばりましょう。

 さて、昨年末に出された中教審答申「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学びあい、高めあう教員育成コミュニティの構築に向けて~」(平成27年12月21日答申)を、時間を見つけて熟読しております。教員養成・研修のあり方を大きく変える答申であり、しっかり受け止めなければならないことが答申全体にわたって書かれています。
 この答申にこんなことが書かれていました。

 近年の大量退職、大量採用の流れの影響から、必ずしも年齢構成や経験年数の均衡がとれている学校ばかりとはいえず、効率的・効果的な校内研修の実施に支障を来す場合があることも想定される。たとえば、ミドルリーダーとしての活躍が期待される教員が不足し、単独では十分な校内研修等の実施が困難な地域においては、中学校区を一単位としたブロック単位での研修実施などの工夫が見られる。このように、必要に応じ、各教育委員会が域内において学校種ごとあるいは国公私が連携した合同での研修やさまざまな年齢や経験を持つ教員同士の学びの機会を提供し、そうした教員同士における学び合いのネットワークの構築が図られることなどが望まれる。また、そうした学びの機会が可能な限り得られるよう、校長等が配慮するとともに、そうした体制を整えていくことが必要である。(21~22頁)

 ここでは、教員研修の改革のために学校内に限らず中学校区単位の「教員同士における学び合いのネットワークの構築」が提案され、その主体として各教育委員会と校長等が挙げられています。これは、私が長年研究してきた「教育会」のあり方にとても似ていると思いました。教育行政当局と校長・指導的教員がこの「学び合いのネットワーク」づくりの中心的担い手になるとすれば、「教育会」の組織構造にそっくりです。ミドルリーダーの不足と初任・若手教員の増加という教員構成上の問題状況も、明治以来の「教育会」が必要とされてきた問題状況とよく似ています。違うのは、「学び合いのネットワーク」はすでにあった教員の学び合いの文化が崩壊しつつあるという問題認識に基づいてその文化を再構築するために必要とされ、「教育会」はそのような学び合いの文化がまだ形成されていないという問題認識から必要とされたことです(白石の学位論文「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員」および白石『鳥取県教育会と教師―学び続ける明治期の教師たち』参照)。
 現在、「学び合いのネットワーク」が必要だとすれば、その先例として明治以来の「教育会」に注目することが有効なのかもしれません(参考にすべきところも批判・克服すべきところも)。しかも、教育会は地域に根ざした団体であったわけで、現在の教育改革の方向性にも近いように思います。

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明治期帝国教育会における教員講習の展開

2015年04月06日 21時13分46秒 | 教育会史研究

 本日やっとチューターガイダンスが終わりました。まだまだ指導は必要ですが、おそらくこれで、新入生たちもなんとか前に進んで行ってくれるはず。明日から2日間、オリエンテーションセミナーという行事のため合宿に出ます。

 さて、先月末に論文が1本活字化されましたので、お知らせします。すなわち、「明治期帝国教育会における教員講習の展開―中等教員程度の学力向上機会の小学校教員に対する提供」(中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第60巻、2014年、37~42頁)です。以前、明治31(1898)年までの大日本教育会・帝国教育会夏期講習会を整理しましたが、この論文では、そのあとの明治32~45年の帝国教育会夏期講習会と、そのほかに帝国教育会が実施した教員講習会について整理しました。論文構成は以下の通りです。

 はじめに
1.受講対象者としての小学校教員の明記
2.教員講習の拡充・発展
 (1)女子小学校教員に対する中等教員程度の学力向上機会の提供
 (2)冬期における小学校教員の学力向上機会提供
 おわりに

 帝国教育会夏期講習会すべてを整理した先行研究はありませんし、帝国教育会女子講習会・冬期講習会についても先行研究は見当たりません。あまりたくさんは書けませんでしたが、先鞭はつけたかなと思います。明らかになったことで一番重要な事実は、中等教員程度の学力向上を目指す帝教の講習会に、少なからぬ女性小学校教員や、准教員が受講しに来ていたことでした。
 ちなみに、夏期講習会の教育学講師についても、一応まとめて概要を検討しましたが、これは学位論文の出版の際にお目見えすると思います。(いつになることやら…)

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「教育情報回路」概念の検討(10)―おわりに

2015年02月23日 19時52分42秒 | 教育会史研究

 長らく連載しました「「教育情報回路」概念の検討」、本日で結論です。出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 おわりに

 以上、「教育情報回路」概念の検討とそれによる教育会史の試論的叙述を試みた。「教育情報回路」概念は、確かに教育会史研究を進めている。しかし、研究の進展とともに明らかになった課題も多く残され、教育会の歴史的意義を十分に明らかにしたとはまだ言えない。史料的水準もまだまだ高めていかなければならない。
 教育会は、1870年代の各地域において形成された学事協議・教員講習・教育研究の機能を継承し、1880年代に民権結社とは異なる組織体として成立した。その後、教育会は、教員・教育行政関係者・学者・教育ジャーナリストなどの教育関係者を組織化し、地域の教育情報を集積して、時事案件に関する輿論形成へと動員した。各地域単位および全国規模でそれぞれ形成され始めた各教育会の教育情報回路は、1890年代半ば以降、その機能を充実・多様化させるとともに、それぞれ連絡関係を形成していく。また、とくに1900年代以降、教育会同士にとどまらず、中央・地方の学務当局や議会、および各種教育運動とも連絡関係を形成・強化して、社会的地位を確立していった。1910年代以降は、教育会の系統化が全国的に進められるとともに、郡市町村教育会が地域の他機関・組織と連携して活発化し、教育情報回路の機能充実が見られるようになった。1930年代以降になると、教育会は学務当局の教員統制の影響を強く受け、その教育情報回路ごと総力戦体制へと取り込まれていく。1940年代には、戦時下に全学校教職員を正会員として職能団体化したが、それゆえに戦後の教職員の待遇改善要求に応え切れず、教員組合との勢力争いに敗北して解体されるに至った。一部の教育会は1950年代以降にも活動を続けているが、現在に至るまで、戦前に形成された教育情報回路の規模や機能を完全に取り戻すことはできていない。
 教育会は、主に明治期から昭和戦時期までの間、日本全国の教育関係者を組織化・動員し、様々な教育情報を集積・変容・循環させる教育情報回路を全国各地に張り巡らせて、時事案件への対応へと活用した組織といえる。また、教育会の情報回路は、中央・地方の教育政策過程や教育運動に接続し、教育関係者の組織化や教育思想・政策・制度等の形成へと深く具体的に関与したものと思われる。いわば、教育会は、地域の教育関係者・教育情報を多様性を保ちつつゆるやかに統合し、独自の価値観や方策を形成して、日本独自の教育社会・文化を構築した主要な組織の一つなのではないか。

[了]

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「教育情報回路」概念の検討(9)―教育会史試論(1930~40年代)

2015年02月22日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 今日は、1930~40年代について。出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 3.「教育情報回路」概念による教育会史試論

(5)教育情報回路の徹底・変容・再編 (1930年代~40年代)
 明治後期から大正期にかけて、教育会の情報回路の機能は、教育研究活動を基軸として充実を極めた。昭和期に入ると、郡役所廃止による県学務当局の台頭を背景に、学務当局の指導強化を受けて教員統制の基盤となっていく道府県教育会が現れた57)。明治後期以降、地域の教員たちの研究発表の場として機能していた教育会雑誌も、道府県学務当局から学校へ、時局に応じた教育内容・方法を伝達する回路となっていった58)。ただ、学務当局の統制のあり方は、全国一律一様のことではなく、道府県によって異なると思われる。県によっては、会長に知事等を自動的に選出するのではなく、師範学校長や民間人を選出して、行政の統制体制からいちおう距離を取ろうとするところもあったのである(信濃教育会や山口県教育会など)。教育会を通した教員統制の多様性の解明については、今後の事例研究の積み上げを必要とする。
 1930年代~40年代の教育会史研究は、2009年以降、飛躍的に進められた。ただ、それらをまとめる時間的余裕がなかったため、以下、おおまかな中央教育会の通史的流れを説明することで本時の発表を果たしたい59)。
 さて、昭和9(1934)年、帝国教育会は、全国連合教育会(帝国連合教育会が改称したもの)と合併し、道府県郡市区教育会を団体会員とした(そのほかの教育研究調査団体も入会可能)。それ以降、幹部や会議出席者を団体会員から割り当てて選出するようになっており、団体会員の大半を占める地方教育会の影響力は、帝国教育会内部で強まっていったと思われる。1940年代前半の帝国教育会は、おおよそ2段階にわたって組織的性格を大きく変容させた。まず、昭和18(1943)年、組織のあり方を、従来の会員の集合体から、道府県市植民地教育会と全国規模の教育団体とをもって構成される「本邦ノ包括的教育団体」(定款第3条)へと変容させた。次に、戦時協力のために教育団体を帝国教育会に一本化し、昭和19(1944)年、大日本教育会と改称して、幼稚園を含む全学校教職員を正会員とし、文部大臣を名誉会長に推戴して会長・副会長を文部大臣の指名制とする「教育翼賛団体」(定款第3条)となった。わずか2年の間に1930年代から進められていた教育団体の統合を実現させたにとどまらず、総力戦体制の構築・徹底という大きな流れの中で、文部大臣を頂点として全国の全学校教職員を包摂する一大職能団体を誕生させた。
 1945年8月、日本は終戦を迎えた。同年10月頃以降、GHQの労働組合育成の方針と終戦下の劣悪な教育環境とを背景として、教員組合が結成され始めた。1947年には、日本教職員組合(日教組)が結成され、全国五十万の教職員の団結を標榜して活動を開始した。他方、戦時末期に職能団体化した教育会は、戦後の民主化の方向性にあわせて再編に努める一方で、1946年から47年にかけて教組の影響を受けて解体されていく。大日本教育会は、1945年11月に機構民主化・運営自主化を目指して定款改正を行い、文部大臣の会長・副会長指名制などを廃止した。さらに、1946年7月に日本教育会と改称し、都道府県市地区教育会またはそれに準じる教育団体の連合体へと再編された。日本教育会は、教育会を「職能団体」と位置づけ、待遇改善を目的とする「教員組合」とは異なる役割を持つ団体とし、地方教育会の解体を押しとどめようとした。1947年に入って、教組との連携をも模索したが、教組側では教育会解散を望む声が根強く残った。各地では、教組代表の教育会幹部への就任により、地方教育会の解散が進んでいく。日本教育会も、1948年8月、地方教育会の解散反対の声を押し切って解散することになった。
 1948年8月、日本教育会解散を決めた総会直後、長野・茨城・栃木・東京・岐阜・愛知・山口・鹿児島・富山・山梨・福井・神奈川の代表が集まり、新しい教育会の結成を申し合わせた。その結果、信濃教育会・茨城県教育会・栃木県連合教育会・東京都教育会の発起により、1949年11月、日本教育協会が結成された。日本教育協会は、その目的を「教育の振興」「職能の向上」「学術の研鑽」「教育の民主化」「平和国家の建設と世界文化の発展に寄与すること」とする、都道府県教育会およびそれに準じる団体の「連合機関」であった。
 1940年代後半の全国教育団体は、待遇改善のための教員組合の勃興・活発化、職能団体化していた教育会の解体という形で、変容・再編した。1940年代の日教組は、職能向上に関わる教育研究活動を避け続けた。他方、日本教育協会は、組織単位たる地方教育会の不安定な活動状況を反映し、十分な成果を上げられなかった。1940年代後半の全国教育団体は、教員の職能向上よりも待遇改善に傾斜して機能した。
 日本教育協会は、日本独立の機運にのって、1952年11月に日本連合教育会と改称し、漸次加盟教育会の数を増やしていく。また、日教組は、様々な待遇改善運動を展開するとともに、1951年9月に教研活動を始め、職能向上の機能も持つに至った。さらに、1940年代末頃から、全国規模の教育研究団体や校長会などが結成され始めている。1950年代にも、全国教育団体は新たな文脈のなかで変容・再編したと予想される。その検討は、今後の課題として残されている。
 なお、1940年代前半・後半ともに、地方教育団体の変容・再編のあり方は一様ではない。1940年代の全国教育団体が地方教育団体の連合体であったことを踏まえると、そのあり方の検討は不可欠である。たとえば、1940年代後半の地方教育会存続・解散には、県・教組・軍政部との関係や、教育会財産管理をめぐる動向などの多様な問題要素が絡んでいる。各県ごとの研究が必要である。

57)山田恵吾「教員統制と地方教育会―一九二〇年代後半から一九三〇年代前半における千葉県教育会を事例に」梶山編『近代日本教育会史研究』、197~220頁。
58)坂本紀子「一九二〇年以降の北海道連合教育会の変容過程」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、433~456頁。
59)白石崇人「1940年代日本における全国教育団体の変容と再編(年表解説)」未刊行。 [※現在は、次の形で活字化済み。白石崇人「1940年代日本における全国教育団体の変容と再編(年表解説)」教育情報回路研究会編『近代日本における教育情報回路と教育統制に関する総合的研究』日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書(Ⅰ)、東北大学大学院教育学研究科内教育情報回路研究会、2012年、 1~10頁。]

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「教育情報回路」概念の検討(8)―系統化と集積循環機能の充実(1910~20年代)

2015年02月21日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、情報回路の検討は、1910~20年代。最新の研究では、以下の動向は1900年代から始まっていたようですが、やはり全国的に本格化するのはこの時期だと思います。以下、出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 3.「教育情報回路」概念による教育会史試論

(4)教育会の系統化と情報集積・循環機能の充実 (1910年代~20年代)
 明治後期以降、道府県教育会は、郡市教育会の系統化と教育雑誌の改善によって、地域会員を組織化してその情報発信・受信・交流を促す機能を高めた48)。この機能向上の根幹には、同時期における郡市教育会の発展・充実があると思われる。例えば、大正期の郡市教育会(または道府県教育会部会)は、郡内の教員団体・組織(校長会・教員会・方部会・初等教育研究会など)と連携またはその育成・後援を図るとともに、近隣郡市で連合を組んで独自の事業(展覧会など)を実施した49)。また、全国的な女教員問題を契機として、地域の女教員をその力量形成と動員のために女教員会へと組織化し50)、全国的な情報回路へと動員していった。
 大正期の郡市教育会は、独自に研究調査を組織して、師範学校附属小学校訓導などの協力や県外の新教育実践校への視察派遣などによって、活発に情報収集・受容に努めたようである51)。また、地域で展開する多様な教育運動とも接続した。すでに、新教育運動と教育会についてはもちろん、郷土教育運動と教育会52)、報徳運動と教育会53)、ペスタロッチ記念祭にともなう運動と教育会など54)、多様な運動との連動接続関係が明らかにされている。また、大正末期以降から昭和戦前期にかけて、村教育会も地域の教員の教育研究活動を支え、それを地域に発信する機能を果たした55)。なお、これらの郡市町村教育会の活動は、単独で行われたというよりも、当該地域の講習会や教員の研究会などと連動していたようである。いわば、郡市町村教育会は、多様な機関・組織によって形成されていた郡市町村単位の教育情報回路において、その重要な一部として機能していたといえる。
 これら郡市町村教育会における教員の自主的な研究活動や情報収集・受容の成果は、県教育会雑誌へと提供・集積され、県内各地へ配信されていった56)。また、郡市教育会は、従来に引き続き、連合教育会における道府県単位・地方単位の輿論形成へと定期的に参加し続けた。道府県教育会は、雑誌編集・刊行や連合教育会開催により、郡市単位での情報集積の成果をさらに集積し循環させる機能を果たしていった。大正8(1919)年には、帝国教育会と道府県市教育会とが加盟して、帝国連合教育会を成立させた。
 大正期以降は、道府県単位・地方単位・全国単位での教育会の系統化が進み、情報回路が充実した。明治期ととくに異なる点は、郡市単位で形成・集積・循環する情報の質が、郡市教育会やその他の教員会・研究会等の活動によって高まったところにある。教育会の情報回路を通して循環する情報が地域の教育にいかなる影響を与えたか、道府県を超えた情報循環の実態はどのようだったかなど、まだまだ研究課題は多く残っている。

48)山田恵吾「地方教育会雑誌からみる教員社会―一九〇〇―一九二〇年の『茨城教育』(茨城県教育会)の分析を通じて」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、197~228頁。
49)須田将司「大正期福島県における教育会活動の重層性―郡内方部会と郡市連合教育会の存在」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、283~316頁。
50)小山静子「女性教員たちが集うということ―全国小学校女教員会議と全国小学校女教員会」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、229~249頁。
51)永江由紀子「大正期の地方教育会における「新教育」への対応―福岡県を事例として」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、317~343頁。
52)板橋孝幸「昭和戦前期秋田県における郷土教育運動と地方教育会―農村の小学校を重視した施策の転換に着目して」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、407~432頁。
53)須田将司「恐慌から戦時に至る地方教育会の動向に関する一考察―学務部・郡教育会・児童常会に着目して」梶山編『近代日本教育会史研究』、267~302頁。
54)清水禎文「郡制廃止前後における地方教育会の課題とペスタロッチの受容をめぐって」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、377~406頁。
55)板橋孝幸・佐藤高樹「農村小学校の学校経営と村教育会―宮城県名取郡中田村を事例として」梶山編『近代日本教育会史研究』、221~266頁。
56)佐藤高樹「大正新教育をめぐる情報の流入・交錯と地方教育会―宮城県を事例として」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、345~375頁。

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「教育情報回路」概念の検討(7)―情報回路の確立(1890年代半ば~1900年代)

2015年02月20日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、教育会史試論の続き。1890年代半ばから1900年代の話です。最近の私は、この時期の教育会を中心にずっと研究していました。今はとくに1900年代に注目しています。
 下記について出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 3.「教育情報回路」概念による教育会史試論

(3)組織改革による教育情報回路の確立 (1890年代半ば~1900年代)
 教育会とくに道府県教育会は、明治26(1893)年10月の文部省訓令第11号を受けて、組織的に大きく動揺した。また、明治20年代半ば以降、市町村学事会や郡小学校長会に教員たちが積極的に動員され、郡市教育会も活動不振に陥っていく35)。明治33(1900)年前後には、激変する時代に対応しようとしない旧世代の先輩教員たちに対して、師範卒の青年教員たちが激変する時代に対応して自己改良する教師像を掲げて、郡教育会の改革を要求するような地域もあった36)。このような組織的動揺からの脱却を目指し、道府県教育会は、道府県内の教育情報を調達・集積・循環させて教育輿論形成へ活用するために、よりきめ細やかで充実した情報回路を構築するような抜本的な組織改革に取り組んでいく。明治30年代から40年代にかけて、道府県教育会は、有志個人会員の集合体から郡市教育会の連合体へと組織を転換させ、かつ公設会議が担っていた教育諮問機能を吸収統合し37)、地域における地位を確立していく。教育会の法人化もこの頃から始まっており38)、財産の蓄積や責任体制の明確化などによって、教育会の組織運営や社会的位置が次第に安定してきたように思われる。
 この時期には、全国連合教育会や道府県連合教育会が定期的に開催された。これらの連合会議は、全国規模・地方規模での教育情報回路の充実を図る一つの指標として重要であろう。文部省は、全国連合教育会へ諮問することで、文部行政のいだく問題へ教員を方向づけるとともに、施策立案のための参考資料として教員から個別具体的方策を収集した39)。それは、教育会を文部政策決定過程へ参加させることにより、中央教育行政体制における小学校教育に関する諮問機関の欠如を補完することでもあった40)。また、教育会は、帝国議会・地方議会・行政当局へ、しばしば会内部や連合で形成した教育輿論を建議として提出し、圧力団体・利益団体的役割を演ずることも多くなった。つまり、教育会の情報回路は、行政や議会の教育政策過程へ接続するようになり、とくに文部省や地方教育行政当局とは互恵関係を形成しながら接続するようになっていく。
 また、明治20年代以降、道府県教育会は、会議開催による断続的な関係だけでなく、他府県教育会との雑誌交換・寄贈関係をも徐々に構築し、全国各地の教育会が継続的に情報を発信・受信し合う複雑な情報回路を形成していた41)。この頃、教育会は、台湾など植民地にも統治機関主導で結成され42)、情報回路に加わっていったと思われる。
 明治20年代半ば以降、教育会は、事業の多様化を進めている。この時期の事業の多様化についての研究はまだ十分とは思われないが、次にいくつか挙げておこう。
 第1には、教員養成(講習)事業が恒常化した。これは、教員免許検定制度の整備(とくに明治24(1891)年制定の小学校教員検定等ニ関スル規則)の影響が大きいと思われる。教育会の教員養成事業に関する研究は、師範学校の教員養成に対して「もう一つ」の教員養成と呼ばれ、近年の教員養成史研究の傾向をも受けて関心が高まっている43)。地方教育会の事業は小学校教員養成事業であったが、大日本教育会・帝国教育会の教員養成事業は中等教員養成をも視野に入れている。とくに、明治33(1900)年の中等教員講習所開設以降は、明らかに中等教員養成に取り組むようになった44)。教育会において、教員養成へ恒常的に人材と情報とを活用する回路が、この時期以降に確立していったといえる。
 第2に、教育に関する共同研究・調査活動が活発化した。地方教育会では、教材開発にかかわる多くの共同研究が組織された。時事的問題に対応するために会員から自主的に組織されたものもあったが、教育行政の諮問に対して答申するために共同研究を組織することも多かった。研究と運動との関係にも変化が現れた。明治23(1890)年以降、国家教育社の結成によって中央教育会の研究・運動機能が分化したが、明治29(1896)年には帝国教育会の結成により再統合された45)。そして、明治30年代以降、帝国教育会では、研究調査活動が中央の各種教育運動(学制改革運動・国字改良運動など)と連結して展開し、そこで検討された案件を全国連合教育会や全国小学校教員会議へ提案するようになった46)。教育会は、共同研究調査を組織することによって、人材と情報とを集積・操作し、新たな輿論とそれにもとづく教育会の立場を形成して、独自に教育運動へ参加するようになったともいえる。この時期、教育会の情報回路は、研究調査活動を通して、教育政策過程や外部の教育運動と連結して機能した。
 第3に、社会(通俗)教育事業が本格化した。教育会の社会教育事業は、社会教育史研究としてしばしば取り上げられてきたが、教育会史研究として取り上げられることはまだ少ない。図書館(書籍館)の設置運営や、各種展覧会・博覧会の開催、学術・通俗講演会などは、教育情報回路に関する重要な論点となるだろう。例えば、この時期の社会教育事業が、私立教育会結成以来行われてきた集会等の地域住民への啓蒙活動といかにつながり、いかに異なるのか。まだまだ明らかにすべきことは残されているが、地域住民との接続ルートとしての社会教育事業が、教育会の情報回路において、従来以上に存在感を持つようになったことは確かであろう。
 第4に、移民養成事業の開始である47)。移民養成事業が、全国的に類似の事例はあるのか、一部の地域の特殊事例なのかも明らかになっていない。たとえば、後の教育会が満蒙開拓へ積極的に関与したことと、この時期の教育会が移民養成事業をしていたこととの関係など、まだまだ検討の余地があるように思われる。
 その他、災害復旧の援助や教育倶楽部など、この時期に開始・本格化した事業は他にもある。この時期の教育会史研究は、まだ研究途上と思われる。

35)清水禎文「明治期群馬県における教育会の展開」梶山編『近代日本教育会史研究』、107~141頁。
36)白石崇人「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員集団の組織化過程―地方小学校教員集団の質的変容に関する一実態」中国四国教育学会編『教育学研究ジャーナル』第9号、2011年、31~40頁。
37)山谷幸司「明治期石川県における教育会の組織化過程」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』、61~107頁。
38)教育会の法人化については、まだ研究が十分ではないが、大迫章史「地方教育会の法人化について」(教育情報回路研究会第7回全体研究会、2008年5月18日資料)がある。
39)千田栄美「一九〇九年文部省の全国連合教育会諮問―日露戦後天皇制教育の一断面」梶山編『近代日本教育会史研究』、327~375頁。
40)白石崇人「大日本教育会よび帝国教育会に対する文部省諮問」梶山編『近代日本教育会史研究』、303~326頁。
41)白石崇人「明治期における道府県教育会雑誌の交換・寄贈―教育会共同体の実態に関する一考察」『広島の教育史学』第3号、広島大学教育学部日本東洋教育史研究室、2012年、27~47頁。
42)陳虹彣「日本植民地統治下の台湾教育会に関する歴史的研究」梶山編『近代日本教育会史研究』、377~405頁。
43)笠間賢二「宮城県教育会の教員養成事業」梶山編『近代日本教育会史研究』、143~166頁。大迫章史「広島県私立教育会による教員養成事業」梶山編『近代日本教育会史研究』、167~195頁。笠間賢二「近代日本における「もう一つ」の教員養成―地方教育会による教員養成講習会の研究」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、251~281頁。関連して釜田史『秋田県小学校教員養成史研究序説―小学校教員検定試験制度を中心に』学文社、2012年。これらの流れの出発点には、梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」(本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、437~498頁。
44)白石崇人「明治30年代帝国教育会の中等教員養成事業―中等教員講習所に焦点をあてて」教育史学会第56回大会コロキウム、2012年9月23日資料。
45)山本和行「国家教育社の活動とその変遷―一八九〇年代における中央教育団体の結成と挫折」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、133~167頁。
46)白石崇人「明治三十年代前半の帝国教育会における研究活動の展開―学制調査部と国字改良部に注目して」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第50巻、2004年、42~47頁。白石崇人「明治32年・帝国教育会学制調査部の「国民学校」案―明治30年代における初等教育重視の学制改革案の原型」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第53巻、2007年、46~51頁。国字改良運動と帝国教育会との関係については、山本正秀や長志珠絵の研究が詳しい。
47)大迫章史「広島県私立教育会による移民補習教育」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、169~195頁。

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「教育情報回路」概念の検討(6)―情報回路の形成開始(1880~90年代半ば)

2015年02月19日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、今回は1880~90年代の教育会史です。出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 3.「教育情報回路」概念による教育会史試論

(2)私立教育会結成による教育情報回路の形成開始 (1880年代~1890年代半ば)
 明治10年代以降(とくに明治12(1879)年以降)、教育会の主要な形態は、次第に臨時的会議の形態から恒常的団体の形態へと移っていく。とくに、「官側が発起し教育関係者を組織する自費による有志の私立教育会」という方式が主流になっていく30)。この時期の私立教育会結成の重要な契機には、次の2つがある。第1の契機は、明治14(1881)年6月の文部省達第21号・第22号から明治15(1882)年末の学事諮問会・『文部省示諭』に至る、一連の教育会の統制である。これは、一般的には、民権運動から教育会を引き離す方策として位置づけられている。結果として、全国的な教育会設立・再編を促し、教育会のあり方や教員の関心・活力を、政治的活動から教育活動へ方向づけていく(囲い込んでいく)重要な契機となった。第2の契機は、明治16(1883)年8月の文部省達第16号である。この達は、教員改良のために教員講習や督業訓導の設置を促したものだが、とくに講習の開催が教員の集合機会となって、そのまま教育会結成へ発展することが多々あった。
 私立教育会は、これらを重要な契機としつつ、府県郡区町村それぞれの固有の経緯・形態をもって全国各地に結成された。明治10年代後半には、ほぼ全ての道府県教育会が結成され、明治16年には全国規模の大日本教育会が結成された。道府県教育会は、地域の教育行政関係者・小学校長・府県師範学校同窓生などを組織化し、集会開催と雑誌刊行とを中心事業として道府県内の教育情報回路を形成し始めた。大日本教育会は、道府県教育会関係者や中央の教育行政官・学者・教育ジャーナリストなどを組織化して、全国規模の教育情報回路を形成し始めた。
 この時期の教育会の教育情報回路形成に関する契機は、多々あるが、重要なものに次のようなものがある。第1には、明治10年代後半から20年代初頭における森有礼の一連の地方演説である。とくに、教育事務に関する「和働自理」構想の反響は大きく31)、教育専門家の専門性・倫理性による合議の権威化過程における一つの画期として位置づけられている32)。第2には、明治21(1888)年以降の市制町村制の発布・施行である。これは、教育関係者に教育費負担に関わる管理運営問題への関心を持たせ、教育会を教育費国庫補助運動へ接続する重要な契機となった33)。第3には、明治23(1890)年の帝国議会開設である。議会への不安を背景として、大日本教育会による道府県教育会の動員・組織化を促した34)。これは、全国規模の教育輿論体制の形成を意図しており、後日、全国規模の教育情報の凝集と時事的教育問題解決へのその活用との場になる全国連合教育会の成立契機となった。

30)梶山雅史「教育会史研究へのいざない」梶山編『近代日本教育会史研究』、21頁。
31)谷雅泰「森の「自理ノ精神」と福島県での受容―福島(県)私立教育会の発足から規則改正まで」梶山編『近代日本教育会史研究』、81~105頁。森川輝紀「教育会と教員組合―教育ガバナンス論の視点から」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、457~491頁。
32)森川輝紀、同前。
33)山本和行「1890年全国教育者大集会における「国家教育」論の構造」日本教育学会編『教育学研究』第76巻第1号、2009年、13~21頁。
34)白石崇人「全国教育者大集会の開催背景―一八八〇年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、109~132頁。

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「教育情報回路」概念の検討(5)―教育会史試論(1870年代)

2015年02月18日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、「教育情報回路」概念の検討の続きです。今回から、「教育情報回路」としての教育会の歴史を、研究会メンバーの先行研究をフルに用いて叙述してみようという部分です。出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 3.「教育情報回路」概念による教育会史試論

 これまでの教育情報回路研究会の研究は、各研究者の専門性・関心を優先させて行われてきた傾向は否めない。多様性に焦点をあてることは教育会史研究の基本姿勢であるため、このような研究体制・姿勢は必要である。しかし、「教育情報回路」概念による教育会史研究がその多様性を総合的に捉えることを目標とする限り、各研究成果を分裂した状態に止めていてはならない。そこで、ここでは試論的に、教育情報回路研究会および研究会メンバーの研究成果によって、教育会史の主要な流れを検討してみたい。ただ、発表者の力量と研究環境のため、今回取り上げきれなかった研究も多いが、ご容赦いただきたい。
 教育会は教育情報をどのように凝集・循環してどのような時事案件の処理へ活用したのか。この問題こそ、「教育情報回路」概念による教育会史研究の核となる。なお、ここでの教育情報とは、機関誌・刊行物・演説・討議などにおいて言語表現された(文字には限定しない)教育に関する論説・思想・学説等とし、その表現主体としての個人の存在を前提とするものとする。
 以上の関心から、以下、教育会史を試論的に叙述する。これにより、教育会史研究における「教育情報回路」概念の具体的意味内容について、現在の到達点を検討したい。

(1)地域における学事協議・教員講習・教育研究機能の形成と継承 (1870年代)
 教育会の源流をおおまかに捉えると、次のようになる21)。すなわち、行政設置の学事会議(諮問会議)、および行政設置の教員講習会的組織、教育内容・方法等に関する教育研究会との3つとされる。第1の行政設置の学事会議は、「公議」への参加意識により教育行政官や教員を動員し、大学区・学区・県・郡・学校連合といった対象地域を異にするものがあった22)。第3の教育研究会は、有志教員が自主的に結成したものとして捉えられている。これらの源流の成立背景には、『文部省雑誌』や田中不二麿による海外情報(NEAなど)の影響が示唆されている。また、各地域における近世以来の教育不振地域の存在など、地域ごとの歴史的な課題とも深く関わっている23)。
 教育会前史としての学事会議は、次のような歴史的意義を有していた24)。当時の地方吏員は、教育行政という新しい職掌について専門的知見を持ち得たわけではなかった。地方吏員たちが教育施策について自ら手探りをしつつ、関連の知見を有する者を動員して意見・智恵を出し合って協議するために、このような「協議方式」の学事会議は必要だった。学事会議における師範学校スタッフの発言に焦点を当てると、異なる師範学校出身者間で意見対立や見解の相違が現れており、教育情報の内容・相互反応のあり方に影響を与えている。学事会議はその後、事務連絡会議にすぎなくなったとする研究もある25)。しかし、近年では、学事会議研究の進展を受けて、学務課・師範学校が学事振興・拡張のための現実問題に一体的にあたる場となり、「師範学校が県教育行政のパートナーとして施策を翼賛することが当然とする意識」を定着させる機会となったと高く評価されるようになっている26)。
 このような発想は、県学務課と師範学校を核とした学事協議装置として教育会を成立させる基盤となったが、そのあり方が必ずしも「官主導」であったかどうか判断することは難しい27)。教育会成立におけるリーダーシップの所在やあり方は、公設学事会議から発展的解消的に移行した場合と教育研究会的組織を母体とした場合とのように前身の違いや、その時期が明治14年の教育会統制前か後かという時期の違いなどによって、異なるのではないか。自由民権運動の中心的活動家が教育会の源流へ合流することや28)、民権運動の啓蒙的側面とその後の教育会活動とを連続的に考えると29)、単純に「官主導」と捉えてしまうことで教育会の意義を捉え損なう可能性がある。これは、この後の時期の論点として現れる、「私立」教育会の「公的」性格という論点にもかかわる問題である。
 教育会前史研究は、学事協議機能の継承という観点からの研究が最も進んでいる。しかし、第2・第3の源流、すなわち教員講習・教育研究機能の継承については、事実の指摘はされてきたものの、比較的、研究は遅れていないだろうか。または、源流が3つあると考えることそのものを問い直す必要もあるかもしれない。そもそも、当時の実態として、学事協議・教員講習・教育研究の場が、明確に区別されていたといえるだろうか。とすると、源流の把握様式そのものを見直す必要があるのかもしれない。

21)主に、梶山雅史「教育会史研究へのいざない」(梶山編『近代日本教育会史研究』、7~33頁)と梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」(梶山編『続・近代日本教育会史研究』、7~25頁)を参照。
22)千葉昌弘・釜田史「東北地方における教育会の成立と展開―岩手・秋田の両県を事例として」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、27~60頁。
23)千葉昌弘・釜田史「東北地方における教育会の成立と展開―岩手・秋田の両県を事例として」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、27~40頁。
24)梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、10頁。
25)田島昇「福島県教育会議の終焉―「福島県私立教育会」創立前史」梶山編『近代日本教育会史研究』、55~79頁。
26)梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」梶山編『続・近代日本教育会史研究』、22頁。
27)白石崇人「東京教育会の活動実態―東京府学務課・府師範学校との関係」全国地方教育史学会編『地方教育史研究』第25号、2004年、47~68頁。
28)千葉昌弘「自由民権運動の展開と教育会の源流小考」梶山編『近代日本教育会史研究』、35~53頁。
29)山本和行「一八九〇年代宮城県における国家教育社の活動―自由民権運動との連続/非連続に着目して」日本教育史研究会編『日本教育史研究』第28号、2009年、45~73頁。

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「教育情報回路」概念の検討(4)―『続・近代日本教育会史研究』に対する批判

2015年02月17日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、本日は『続・近代日本教育会史研究』に対する批判点の整理です。出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 2.「教育情報回路」概念による教育会史研究への批判点

(3)「職能団体」と「教育情報回路」
 次に、菅原亮芳の批判を検討する18)。菅原は、従来の教育会史研究が「教職の自立性や教育実践の主体性・自立性等を掲げた教員の職能団体という位置づけ」を行ってきたが、『近代日本教育会史研究』と『続・近代日本教育会史研究』では、そのことを踏まえつつも「地方教育政策と教育要求の最も現実的、具体的調整を担った極めて重要な存在」として位置づけ直したと整理している。その上で、『続』に「結章」がないことと関連して、以下のように批判した。

 梶山氏が指摘するように教育会が教育情報を収集・循環させ「戦前の教員・教育関係者の価値観と行動様式を方向づけ」たとするならば、教員の、あるいは教職のどのような価値観を、いかなる行動様式を、どのような方向にオリエンテートしようとしたのか、そのことは設置主体と形態の違いによってどのような変化と特質を見せるのか等を明確にしてほしかった。

これは、教育会史の先行研究が取り上げてきた教職の専門性に関する問題意識からの批判といえる。
 また、「教育情報回路」概念に関するストレートな質問が、以下のように提示された。

 『教育情報回路』とは文字化された①教育情報を提供するチャンネルという意味か。②それとも、教育会の活動自体が諸情報の総合的メディアだったということか。

この①の質問は、「教育情報回路」概念は、教育会雑誌などに文字化された教育情報のみを対象とする概念ではないと捉えてよいのか、という確認であろう。実際、この質問に続いて、「教育関係ジャーナリズム史特に府県教育会等発行の教育会雑誌等の全面的研究」についての不足を指摘している。②の質問は、①でないとした場合の「教育情報回路」概念内容の確認である。ただ、「教育情報回路」が意味するのが「教育会の活動自体が諸情報の総合的メディア」であるというならば、次のものが不足していると批判している。すなわち、「地域の教育事業振興に深く関わった」のならば、「教職の自律性、教職の専門性等という重要なテーマ」にかかわって、職能団体としてどのように地域の教育振興に関わったのかという検討が必要であるという。「職能団体」として教育会を捉えてきた先行研究との関係を問う、重要な指摘である。
 また、森川論文の「教育会の存続か、解散か」というテーマに興味を示して、最後に以下のような提案も行っている。

 関連して、何故に第2次世界大戦後に多くの教育会は解散したのか、その要因を探ること等は、教育会の本質を見極めることになるのではないだろうか。

先述のように、2009年度以降、「教育情報回路」概念による教育会史研究は、戦後も対象時期に設定するようになっている。その問題意識と重なり合う提案といえる。
 以上のように、菅原の批判は、基本的に、教育ジャーナリズム史および教育会史の先行研究(とくに菅原が深くかかわってきた先行研究)の立場から、「教育情報回路」概念の位置づけ直しを要求するものといえよう。とくにそれは「職能団体」および「教職の自律性・専門性」という観点からのものに集約されている。この観点は、梶山も言及している本間康平の地方教育会研究や、中野光を代表とした帝国教育会研究においてくり返し強調されてきたものである19)。

(4)「教育情報回路」概念の総合的研究を求めて
 湯川嘉津美は、『続・近代日本教育会史研究』の各論文を一つ一つ丹念に整理した上で、「『教育情報回路としての教育会』の総括的研究」を期待して3つの問題提起を行った20)。その問題提起を整理すると、以下のようになる。

① 何をもって「教育会」というのか、その範囲を含めて明確にする必要があるのではないか。
② 情報回路全体を視野に入れた「教育情報回路としての教育会」の研究が必要なのではないか。
③ 共同研究者の関心に即して時代・地域・対象が選択される現状では、事例研究を複数つないでみても全体像を把握することは難しいのではないか。先行研究を超える知見を得るために、地域事例に即した検討が必要ではないか。

 ①は、「教育会史研究において校長会・教員会・教育研究組織・学事会をどのように位置づけるか」という問題を取り扱うものである。教育会に教員会等を含めるかどうかによって、教育会の性格づけや教育情報回路機能の評価は大きく変わってくるのではないかという指摘である。教員会を教員のみによって構成される職能団体と見なすと、この指摘は教育会の職能団体としての機能・意義をどう捉えるのかという問題と関連していると考えられる。
 ②は、教育会の教育情報回路機能の研究が断片的・一面的に終わっているという指摘である。とくに、以下の指摘は重要である。

 総じて、教育会組織を検討する者は、組織化によって上意下達の情報回路が形成されたことを問題にし、教育会の事業や活動内容を検討する者は、教員相互の情報交流により教員社会の形成を促す回路が形成されたことを評価する傾向が強い。教育会の組織と事業・活動内容の双方から、総合的に情報回路としての教育会が果たした役割や機能を捉える視点が必要なのではなかろうか。

これは、教育会で形成された縦の関係にかかわる「上意下達」の回路と、横の関係にかかわる教員社会形成の回路との整合性・関係性にかかわる指摘であろう。縦の関係と横の関係との両側から総合的に捉えることを要求するものといえる。なお、「情報回路全体を視野に入れた」研究を求めているが、先述の梶山の問題設定に見られたような、教育会以外の情報回路を含めた上での検討を求めているわけではなさそうである。
 ③は、事例研究の位置づけに関する批判である。ここでは、特定地域の教育会史研究の成果をそのまま別地域の教育会史研究に持ち込むのでなく、事例研究によって特定地域の教育会史研究の成果を乗り越えることが求められている。「教育情報回路」概念について、全国唯一の定義を有する概念として扱うのでなく、事例研究を積み上げていくことで常に鍛えていくべき概念として扱うべきではないか、という提案として受け止めうる。
 以上のように、湯川の批判は、「教育情報回路」概念による総括的な教育会史研究の要求であった。それは、教員会・校長会・教育研究組織・学事会を対象化することの意味、組織研究と事業内容研究との関連づけ、教育関係者の縦の関係と横の関係との整合性、事例研究と総括的研究との相克的関係などに関する問題意識にもとづくものと考えられる。

18)菅原亮芳「梶山雅史編著『続・近代日本教育会史研究」(図書紹介)教育史学会編『日本の教育史学』第55集、2012年、183~185頁。
19)『帝国教育』復刻版の解説、および『教育公報』復刻版の解説など。
20)湯川嘉津美「梶山雅史編著『続・近代日本教育会史研究』を読んで」(書評)日本教育史研究会編『日本教育史研究』第31号、2012年、108~115頁。

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「教育情報回路」概念の検討(3)―『近代日本教育会史研究』に対する批判

2015年02月16日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、教育会史の研究動向の続きです。今回と次回は、『近代日本教育会史研究』正・続編の書評を整理したところです。出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 2.「教育情報回路」概念による教育会史研究への批判点

 これまで、『近代日本教育会史研究』は、『教育学研究』第75巻第4号(2008年12月)の図書紹介(米山光儀)と、『日本教育史研究』第28号(2009年10月)の書評(伊藤純郎)とに取り上げられた。また、『続・近代日本教育会史研究』は、『教育学研究』第78巻第3号(2011年9月)の図書紹介(柏木敦)と、『日本の教育史学』第55集(2012年10月)の図書紹介(菅原亮芳)、『日本教育史研究』第31号(2012年)の書評(湯川嘉津美)に取り上げられた。以下、それぞれの批判点を整理する。

(1)国際的視点の不足
 米山光儀は、基本的に、先述の梶山の「教育情報回路」概念による教育会史研究の問題意識を受け止めた後、以下のように述べた13)。

 教育会を教育情報回路として考える場合、国内や旧植民地地域にとどまることなく、教育会を媒介とした国際交流も視野に入れ、国際的な教育情報回路として教育会を検討することも必要であろう。

これは、教育会史研究の範囲が国内・旧植民地に限られていることへの批判である。これ以上の言及はないため、その批判の根拠は明確ではない。
 しかし、教育会が国際交流事業を行ったのは事実である。たとえば、大日本教育会・帝国教育会による国際交流(万国博覧会・教育会議等への代表派遣や出品、欧米・清国との教育交流、1937(昭和12)年の第7回世界教育会議主催など)や、戦後の日本教育協会・信濃教育会による国際教育団体への加盟などがある。
 また、「国際的な教育情報回路」として教育会を検討しようとすると、外国の類似団体に配慮する必要がある。とくに、アメリカのNEA(全米教育協会)やドイツ・フランスの教員団体などは、日本の教育会へ影響があったのではないかと考えられている。また、日本植民地以外の中国大陸でも「教育会」が活動していた14)。これら外国の「教育会」と日本の教育会との共通点・相違点・関係などについては、いまだ明らかではない。
 国際的な教育情報回路としての教育会研究は、多くの課題が残されたままである。

(2)「教育情報回路」概念内容の追究程度
 伊藤純郎は、近代日本教育史における教育会史研究の重要性を認めた上で、多様な観点から批判を行った。批判点を抽出して羅列的に整理すると、以下のようになる15)。

① 自由民権運動と初期教育会の源流の解明が不充分。
② 福島県私立教育会誕生の背景・理由に関する考察に課題が残る。
③ 森有礼演説に対する教育会の反応と規則改正に関する考察に課題が残る。
④ 中田村教育会と宮城県教育会-名取郡教育会-名取郡各部教員会との関係が不明瞭。
⑤ 中田村教育会の機能・意義について「断片的、一面的」な視点から考察することへの疑問。
⑥ 中田尋常高等小学校、農業補習学校、通俗図書館、青年訓練所、青年会、処女会等の「既設教育団体」との人的交流を含む相互関係を横断的に考察する視点の不足。
⑦ 「教育情報回路」としての教育会が果たした機能と役割に関する分析、およびそれぞれの時代における地方教育会の「教育情報回路」とは何かという考察、情報回路のメカニズムや広大な情報内容のトータルな解明が不充分。
⑧ 「教育情報回路」としての教育会史研究にどのような新たな地平を拓こうとしたのかといった、研究テーマの教育会史研究上の意義が不明瞭な論文が散見される。
⑨ 教育会所蔵史料を含めた史料論的考察の不足。

上記①~⑥は個別論文に対する批判であり、⑦~⑨は研究全体に対する批判である。総じて、「教育情報回路」概念内容の追究程度を問うものと思われる。
 上記①~⑥の批判は、個別論文に対するものであるが、一般的な教育会史研究の論点を含んでいる。たとえば、①は「自由民権運動と教育会との関係性」という問題、②は「教育会成立の複雑多様な背景・理由」という問題、③は「森有礼の教育会構想の歴史的意義」という問題、④は「県教育会-郡教育会-町村教育会の関係性・系統性」および「各地域レベルにおける教育会-教員会の関係性・系統性」という問題、⑤は「多様性・多面性をもつ教育会の事業総体における個別具体の機能の位置づけ」という問題、⑥は「教育会と当該地域の他教育機関・団体との交流や相互関係」という問題にもとづいている。これらの問題は、史料的限界などからくる研究可能性の差はあっても、あらゆる地域の教育会史研究においても問われるべき問題であろう。
 ⑦⑧の批判は、教育会史研究における「教育情報回路」概念の内容および研究方法上の問題を取り扱っている。⑦は、「時代ごとの教育情報回路の機能・役割とは何か」および「教育会の教育情報回路はどのようなメカニズムをもつか」「教育会の教育情報回路にのって循環した情報とはどのような内容をもつか」という問題にもとづいている。教育会の「教育情報回路」を普遍一般的なものとして捉えずに、歴史的に変化するものと捉えた点は、注目すべき論点である。⑧は、「研究者がそれぞれ『教育情報回路』概念をどのように捉え、位置づけるか」という問題にもとづいている。
 ⑨の批判は、長野県内の教育会所蔵史料を前提とした批判であり、従来の教育会史研究が、教育会雑誌・教育雑誌・学校所蔵史料・自治史収録史料中心で進められてきたことへの批判である。これに対して梶山は、各都道府県における教育会史料の所蔵状況の多様さや、機関誌・学校所蔵史料の解読作業の重要性に言及して反論しつつ、その批判を正論として認めている16)。この伊藤の批判点は、柏木敦の『続・近代日本教育会史研究』紹介文でも言及された17)。柏木は、『続』所収の各論文に「『情報回路』としての教育会の役割を解明するという明確な一貫性」を認めつつ、伊藤の指摘した教育会所蔵史料群の活用に関する課題に今後応えることを期待している。

13)米山光儀「梶山雅史編著『近代日本教育会史研究』」(図書紹介)日本教育学会編『教育学研究』第75巻第4号、2008年、73頁。
14)今井航『中国近代における六・三・三制の導入過程』九州大学出版会、2010年。本書は、1910~20年代における六三三制構想の形成過程における、全国教育会連合会、広東省教育会、江蘇省教育会、浙江省教育会などの関与に言及している。
15)伊藤純郎「梶山雅史編著『近代日本教育会史研究』を読んで」(書評)日本教育史研究会編『日本教育史研究』第28号、2009年、82~87頁。
16)梶山雅史「伊藤純郎氏の書評に応えて」日本教育史研究会編、同上、93~94頁。
17)柏木敦「梶山雅史編著『続・近代日本教育会史研究』」(図書紹介)日本教育学会編『教育学研究』第78巻第3号、2011年、290~291頁。

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「教育情報回路」概念の検討(2)―「教育のメディア史」への位置づけから総合性への注目

2015年02月15日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、気を取り直して論文の続きです。

 出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 1.梶山雅史の「教育情報回路」概念

(2)総合性への注目―「回路」
 そして、2007年の論文「教育会史研究のいざない」に至る。この論文では、以下のように述べられた10)。

 戦後の教育団体に比して、教育行政担当者、師範学校等の教育機関スタッフ、小学校長・教員そして地方名望家を構成メンバーとした教育会は、日本教育史上全く新たな組織・システムの造出であった。[略]教育会は各地の教育課題への対処をなし、教育事業振興に深く大きな作用を及ぼした。教育会は、地方における教育政策と教育要求の最も現実的、具体的調整を担った極めて重要な存在であったのである。これまで教員史あるいは教育団体史の章、節内で断片的、一面的に取り扱われてきた教育会史研究は、根本的に視点の転換が必要になる。

前半部分は従来主張してきたことを引き継いだものであるが、だからこそ、教育会史は、教員史・教育団体史における断片的・一面的取り扱いでなく、日本教育史において総合的に取り扱う必要があると改めて強調した。そして、「教育情報回路」概念による教育会のとらえ方が示され、次のように根本的な課題が設定された。

 教育会の登場から解散に至る全プロセスを射程に入れて、この教育情報回路としての教育会が各時代に何をもたらしたか。いかなる変化が生じたか。この情報回路のメカニズムならびに回路を流れた情報内容についてトータルにその歴史的意味の解明にとりくまねばならない。

ここでは、2005年の共著論文における「教育会の組織・機能・活動実態」が、「情報回路のメカニズムならびに回路を流れた情報内容」とに置き換えられている。教育会史研究の主要対象であった組織・機能・活動実態が、「教育情報回路」概念によってより明確に方向づけられたものと意味づけられる。かくして、「教育情報回路」概念による教育会史研究の課題は、「情報回路のメカニズム」ならびに「回路を流れた情報内容」の歴史的意味の解明として設定された。ただ、2010年の論文「教育会史研究の進捗を願って」で「『総括的研究』次元にたどりつくには未だ道遠し」と表現されているように11)、この総合的視点による「教育情報回路」概念による教育会史研究はいまだ実現されていない。
 なお、2009年度から日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B))による梶山雅史代表の共同研究として、「1940年体制下における教育団体の変容と再編過程に関する総合的研究」が始まった(~2011年度)。ここで、従来昭和戦時期までを対象としていた研究の主要対象時期が、1940年代末まで延長された。この時期設定延長は、2009年4月14日付の補助金交付申請書には、以下のような趣旨が表明されている。

 戦前最大の教育団体・組織であった教育会が、昭和の戦時期にどのように戦争に組み込まれ、どのように機能したか、そして戦中から戦後への時代の転換、戦後の立ち上げにむけて、いかなる対応が現れたか。戦前の教育団体の最終段階の実像・実態、そして戦後教育発足の過渡期における教育団体の新たな組織論の登場と現実的展開、その歴史的経緯・歴史像の詳細について学術的に本格的な照明を当てる。

ここには、戦後1940年代後半の実態を、戦前の教育会の最終段階と見なし、昭和戦時期の総力戦体制における教育会の編入過程やその役割・機能と連続的に捉える視点が見いだせる。対象時期の延長は、明治以降形成されてきた教育会の結末を認識するには戦後1940年代後半を含む必要性から行われたものであった。なお、この共同研究により、1950年代以降をも視野に入れた研究が出てきていることも、付記しておきたい。
 以上のように、梶山は、近代日本教育史とくに「教育のメディア史」へ教育会を位置づける上で「教育情報回路」概念を使用し始め、次第に多様な構成要素や機能をもつ教育会を総合的・分析的に認識するための概念として使用するようになっていると思われる。一貫しているのは、教育会の基本的性質として、教育情報を凝集・循環して時事案件の処理へ活用することに注目している点であろう。それにより、教育会の歴史的意義として、教員・教育関係者・地域住民の価値・意識・行動の方向づけ、および教育政策と教育要求との現実的具体的調整の機能を、従来以上に強調するようになっている12)。
 梶山の定義にもとづき、教育会史研究における「教育情報回路」概念の意味内容を整理すると、次のようにまとめられる。「教育情報回路」とは、教員・教育関係者・地域住民の価値・意識・行動の方向づけ、および教育政策と教育要求との現実的・具体的調整のために、複雑な組織と多様な事業によって教育情報を凝集・循環し、それを時事案件の処理へ活用していった教育会の総合的機能をいう。そのため、この「教育情報回路」概念による教育会史研究は、各都道府県市町村・植民地教育会における教育情報の凝集・循環のメカニズムの形成過程と、それぞれの時期におけるその実態、および凝集・循環した教育情報の内容とを明らかにし、それを教育会総体の機能として総合的に把握していくことが求められる。なお、そのメカニズムはメディアに擬せられるが、それは教育会雑誌などの印刷物において見られるだけではなく、諮問会議や教員養成事業などの多様な教育会事業の総体の中で捉えられるものである。

10)梶山雅史「教育会史研究へのいざない」梶山雅史編『近代日本教育会史研究』学術出版会、2007年、28頁。
11)梶山雅史「教育会史研究の進捗を願って」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』学術出版会、2010年、9頁。
12)例えば、渡部宗助『府県教育会に関する歴史的研究―資料と解説』(平成2年度文部省科学研究費(一般研究C)研究成果報告書、1991年)は、教育会による教育政策・行政の補完と教育要求の反映とに言及し、その両者が「相補的」であった可能性を仮説的に述べている(4~7頁)。

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「教育情報回路」概念の検討(1)―梶山雅史氏の「教育情報回路」概念

2015年02月14日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 さて、「「教育情報回路」概念の検討」の続き。

 出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 1.梶山雅史の「教育情報回路」概念

(1)「メディア」としての仮説的認識
 「教育情報回路」概念による教育会史研究を最初に提唱したのは、梶山雅史である。梶山は、早くから教育会に注目してきた1)。1990年の論文「京都府教育会の教員養成事業」では、日本の教員社会の形成過程や、教育社会の翼賛体制形成過程における府県教育会の重要性について言及した2)。1997年の論文「岐阜県下地方教育会の研究―安八郡教育会の発足状況」では、「地方教育会の実像解明なくしては、地方における教育実態の構造的解明は、その深部の核心を把握しそこねるといっても過言ではあるまい」と強調している3)。しかし、まだこの頃は「教育情報回路」概念を用いてはいないようである。
 発表者が把握している最初の使用例は、2003年のものである。梶山は、2003年9月21日、同志社大学で開催された教育史学会第47回大会のコロキウム「〈教育のメディア史〉の可能性」(オルガナイザー:辻本雅史)において、「近代日本における教育情報回路形成史への視点(1)―情報回路としての地方教育会」と題して報告した4)。当日の配付資料には、以下のように記述されている5)。

 教育情報回路として一般的には、教育行政機構、学校装置、教員・教員養成システム、教科書・教材供給システム、通信・出版メディアが想起されよう。
 しかしながら、教育行政担当者、師範学校スタッフ、教員、地方名望家を構成メンバーとした戦前の地方教育会は、実に歴史上、新たな組織・システムの造出であったのであり、その組織体は注目すべき教育情報回路を形成した。
 [略]多様な事業を駆動し、恒常的運動体として、教育情報の集積、配給、そして情報操作を行い、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を水路づけ、さらには地域住民の教育意識形成に大きな作用を及ぼした。

すなわち、ここではまず、「教育行政機構、学校装置、教員・教員養成システム、教科書・教材供給システム、通信・出版メディア」を一般的に指すものとして、「教育情報回路」概念が提示されている。そして、「戦前の地方教育会」は、その諸事業によって教員・教育関係者・地域住民の価値・意識・行動を方向づける教育情報回路を形成する一つの組織体として、注目されている。そして、地方教育会について、仮説的に以下のように述べた。

近代日本社会に学校装置を着地させ、駆動させる上で、地域に教育情報を最も濃密に凝縮させ循環させ、時事案件処理を担った地方教育会は、きわめて強力な「メディア」として機能したとの視点をなげかけてみたい。

 このように、「教育情報回路」概念は、2003年の教育史学会第47回大会コロキウムにて、「教育のメディア史」(辻本雅史)と関連づけながら使用された。ここで、この概念は、教育会研究特有の概念という位置づけではなかったものの、教育史研究における地方教育会の意義を説明する概念として使用された。教育会をメディアとして捉える「教育情報回路」概念の早い使用例である。
 梶山は、2004年7月3日、東北大学において「教育会の総合的研究会」を発足させた。この研究会の発会趣旨は、地方教育会の機能について、以下の点を強調している6)。

教育会の機能を端的に表現するならば、文部省の教育政策を前にして、地方における教育政策と教育要求を最も現実的具体的調整を担った特異な団体であったと言える。

このような表現は、1997年の論文でも使われている7)。また、この趣旨文には「教育情報回路」概念は使われていないようである(要確認)。なお、ここでは単に「教育会」とあるが、基本的には「地方教育会」を指している。
 再び「教育情報回路」が使われたのは、2005年3月、論文「教育会研究文献目録1」(竹田進吾と共著)である。とくに、この共著論文の以下の部分は重要である8)。

 明治、大正、昭和の戦時にいたる期間、全府県さらに朝鮮、満州、台湾、樺太、南洋群島にも設立されるに及んだ教育会は、近代日本の歴史において、空間・時間両軸において実に注目すべき巨大な教育組織であった。1872(明治5)年の「学制」発布以来、地域に教育情報を最も濃密に凝集させ循環させ、時事の案件処理にあたった教育会は、近代日本社会に学校装置を急速に普及定着させ、また社会教育を広範に推進したきわめて注目すべき情報回路であり、強力なメディアであったといえるのではあるまいか。教育会は多様な事業を駆動し、恒常的運動体として、教育情報の集積、配給、そして情報操作を行い、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を水路づけ、さらには地域住民の教育意識形成にきわめて大きな作用を及ぼしたのである。
 教育会の登場から解散に至る全プロセスを射程に入れ、教育会が各時代に何をもたらしたか。いかなる変化が生じたか。この教育会の組織・機能・活動実態について、トータルにその歴史的意味を解明することが必要である。

ここで、教育会史研究の対象について、全国内・植民地を対象とする対象地域の設定(空間軸)と明治・大正・昭和戦時期を主要対象とする対象時期の設定(時間軸)とが行われた。また、教育会について、国内・植民地の教育会全体を一つの巨大な教育組織として総合的に捉え、地域に教育情報を濃密に凝集・循環させて時事案件の処理に活用する存在として捉えた。ここでは、「教育情報回路」とは、近代日本社会における学校の普及定着および社会教育の推進にかかわるメディア、という意味で使われている。教育会はそんな「教育情報回路」またはメディアではないかと、仮説的に定義された。先述の通り、「教育情報回路」概念は教育会以外にも適用される概念であったから、ここで教育会はそのうちの強力なものとして位置づけられたということになる。2005年10月9日、東北大学で開催された教育史学会第49回大会において、コロキウム「近代日本における教育情報回路としての中央・地方教育会」が初めて開催されたが、このコロキウムの趣旨説明でもこの共著論文における定義がそのまま適用されている9)。

1)すでに、梶山雅史「教科書国定化をめぐって」(本山幸彦編『帝国議会と教育政策』思文閣出版、1981年)には教育会への注目が見られる。
2)梶山雅史「京都府教育会の教員養成事業」本山幸彦編『京都府会と教育政策』日本図書センター、1990年、491頁。
3)梶山雅史「岐阜県下地方教育会の研究―安八郡教育会の発足状況」全国地方教育史学会編『地方教育史研究』第18号、1997年、16頁。
4)なお、この前に、同年2月発行の『岐阜県教育史』通史編近代一において、教育会を「教育行政担当者・師範学校スタッフ・校長教員によって地域に新たに形成された教育情報回路」として強調している。(梶山雅史「総説」岐阜県教育委員会編『岐阜県教育史』通史編近代一、岐阜県教育委員会、2003年、1頁)
5)梶山雅史「近代日本における教育情報回路形成史への視点(1)―情報回路としての地方教育会」教育史学会第47回大会コロキウム配布資料、2003年9月21日。
6)梶山雅史「あとがきに代えて」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』学術出版会、2010年、493頁。
7)梶山、前掲注3)、16頁。
8)梶山雅史・竹田進吾「教育会研究文献目録1」『東北大学大学院教育学研究科研究年報』第53集第2号、2005年、304年。
9)『教育史学会第49回大会プログラム』、東北大学、2005年10月、19頁。

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「教育情報回路」概念の検討(0)―はじめに

2015年02月13日 23時55分55秒 | 教育会史研究

 ようやく「なぜ幼稚園は誕生したのか?」が完結しましたが、もう一つ公開したい論文があるのでもうしばらくおつきあいください。

 さて、今日からしばらく、以前、梶山雅史氏の主宰する教育情報回路研究会(教育会史研究会)で発表した、「「教育情報回路」概念の検討」という論文資料を紹介します。この約10年来の教育会史研究のキーワードである「教育情報回路」概念を整理したものです。主に研究会メンバーの研究動向の整理であり、梶山先生をさしおいて私がやってしまっていいのかという迷いもあって、活字化するタイミングを見失っているうちに、刻々と時間が過ぎ、研究もどんどん進んでしまい…と、今になってしまいました。
 同研究会メンバーが中心になって、今までに『近代日本教育会史研究』(学術出版会、2007年)と『続・近代日本教育会史研究』(同、2010年)とを出版してきましたが、「教育情報回路」概念についてはいまだにその中身が問われています。発表当時、現状を研究会メンバーの間で共有しようと思い、発表したものです。2012年段階の整理なので少し古い情報になってしまいましたが、現在にもつながる動向もある程度カバーできていると思いますので、この分野に興味ある方には参考になるかなと思います。
 興味のない方は、ふーんこんな研究してるんだ、程度にみていただければと思います。

 出典を示す場合は以下のように表記してください。
  ↓
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日。
または
 白石崇人「「教育情報回路」概念の検討」教育情報回路研究会発表資料、於・東北大学、2012年11月25日(「教育史研究と邦楽作曲の生活」http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2015年2月13~23日)。


 

 「教育情報回路」概念の検討
                             白石 崇人                                                                  

 はじめに
1.梶山雅史の「教育情報回路」概念
 (1)「メディア」としての仮説的認識
 (2)総合性への注目―「回路」
2.「教育情報回路」概念による教育会史研究への批判点
 (1)国際的視点の不足
 (2)「教育情報回路」概念内容の追究程度
 (3)「教育情報回路」と「職能団体」
 (4)「教育情報回路としての教育会」の総括的研究を求めて
3.「教育情報回路」概念による教育会史試論
 (1)地域における学事協議・教員講習・教育研究機能の形成と継承 (1870年代)
 (2)私立教育会結成による教育情報回路の形成開始 (1880年代~1890年代半ば)
 (3)組織改革による教育情報回路の確立 (1890年代半ば~1900年代)
 (4)教育会の系統化と情報集積・循環機能の充実 (1910年代~1920年代)
 (5)教育情報回路の徹底・変容・再編 (1930年代~1940年代)
 おわりに

はじめに

 本発表は、教育情報回路研究会の研究成果を整理し、「教育情報回路」概念の意味内容とその問題点とを検討することを目的とする。
 「教育情報回路」概念は、現在の教育会史研究においてなくてはならない概念である。この概念のもとに、世代・学閥を超えた教育史研究者が教育会を研究対象とし、日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(B))による共同研究に取り組んでいる。その結果が、『近代日本教育会史研究』(学術出版会、2007年)と『続・近代日本教育会史研究』(学術出版会、2010年)という研究書である。また、教育情報回路研究会では、前身の「教育会の総合的研究会」を含めると、すでに110本以上もの研究発表が行われた。さらに、教育史学会では、第49回大会(2005年)から第55回大会(2012年)まで、すでに7回のコロキウムを開催し、研究会メンバー以外の研究者にも教育会に関する興味関心を喚起してきた。「教育情報回路」概念は、このように教育会史研究を飛躍的に活発化させてきた重要な概念といえる。
 しかし、とくに前2著に対する書評等の中で、「教育情報回路」概念への質問が相次いでいるのも事実である。また、教育情報回路研究会メンバーの間にも、その概念理解の内容に差があるのも事実であろう。そこで、本発表ではこの「教育情報回路」概念そのものを整理・検討することで、我々の研究のこれまでを見つめ直し、さらには今後の研究を展望する土台を形成したい。
 以上の問題意識に基づき、本発表は次の通りに進める。まず、「教育情報回路」概念の主唱者である梶山雅史がどのようにこの概念を使ってきたかを取り上げ、現段階における概念内容を整理する。次に、『近代日本教育会史研究』と『続・近代日本教育会史研究』に対する批判を「教育情報回路」概念に対する批判として取り上げ、この概念についての残された課題を整理する。最後に、教育情報回路研究会および同研究会メンバーによる教育会史研究の成果をおおまかに整理して教育会史を試論的に叙述し、「教育情報回路」概念の具体的内容と今後の課題とを導き出すたたき台とする。

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