教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

腰、科研申請、発表準備

2008年10月28日 19時39分24秒 | Weblog
 腰は相変わらずです。階段の上り下りが不安無くできるようになりました。ですが、寒くなってきたので(患部が冷やされると痛み出す)、腰の痛みを恒常的にぼんやりと感じるようになってきました。最初は数週間で治す、と豪語していましたが、毎日病院通いするのもいろいろ大変なので、諦めました(苦笑)。無理しないように、数ヶ月かけてじっくり治していきます。
 最近は、科学研究費補助金(科研)の申請にかかりっきりでした。特別法人化のため、大学が仕えるお金が減った結果、大学が準備してくれる個人研究費が少なくなったようです。そのため、大学内では、研究費は教員が個別に科研を申請して、自分で確保しましょう、という流れになっております。私は初めからそういう状況におかれているので、昔よりも~という論法はよくわかりませんが、所属研究科の方針なので申請作業にあたっていました。科研の採択率はけっして高いわけではないので、取れるかなあ、どうかなぁ、という気持ちで、とりあえず申請手続きを済ませました。もしや取れたとしても、来年度、無職や学生になったら、返さなくてならないのですがね。
 来月の学会発表(「明治10年代後半における大日本教育会の教師像」)に向けた研究も、同時並行で進めております。明治10年代の研究なので自由民権運動史や「民権運動と教育」の先行研究を読んだり、教師像の研究なので教職論や教員史の先行研究を読み直したりています。長い間やってきた論文作成の経験から、論文のまとめ方が少しずつわかってきたように思います。すると、何を準備しなければならないかがわかってくるので、だいぶ論文・発表準備のコツがわかってきたように思います。
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日本教育学会編『教育学研究』へ掲載されるまで

2008年10月21日 19時47分43秒 | 研究業績情報
 すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、先日、とても嬉しいことがありました。
 拙稿「明治20年代後半における大日本教育会研究組合の成立」が、日本教育学会編『教育学研究』第75巻第3号(2008年9月号)に掲載されたのです。これで、時々このブログで「某学会へ投稿」と報じていた分は、すべて結果が出たことになります。
 このブログは教育学者以外の方も見ていますので、少し解説します。日本教育学会とは、3千人近い会員によって構成されている学会で、日本で最も権威ある教育学会です。その機関誌『教育学研究』に研究論文が掲載されたということは、自分の教育学研究が意義あるものだと評価してもらったということです。これはとても喜ばしいことです。また、今後の教育・研究活動によって、日本の教育学の権威をおとしめず、その質を高め、次代へと引き継いでいく重い責任を背負うことでもあります。そのため、今の私の気持ちは、嬉しいという感情以上に、気が引き締まる思いでいっぱいだ、というのが正直なところです。
 ここに到達するまでは、本当に、長い道のりでした。
 2006年8月、日本教育学会『教育学研究』へ初投稿。これが最初の挑戦であり、この後続く長い戦いの幕開けでした。同年11月、掲載不可の結果が返ってきました。当時のログを見ると、相当に落ち込んでいることがわかります(苦笑)。めげずに、2007年4月、再投稿しました。7月、ついに再投稿再審査の結果が。9月に再々投稿すると、11月に修正指示が送付されてきました。その後、翌2008年1月から8月まで、修正←→修正指示の往復を、4度繰り返しました。2008年8月、ようやく最終原稿の提出の運びとなり、初稿・二校・三校を経て、ついに掲載に至ったというわけです。再投稿再審査の判定から約1年3ヶ月、最初に投稿してからだと2年4ヶ月かかりました。
 編集委員会・査読者から言い渡された修正指示は、いずれも厳しい内容で、そう簡単に修正できる生やさしいものではありませんでした。その作業は、長期にわたる修正作業は精神上かなり過酷なものでした。しかも、当時の日本東洋教育史研究室には指導者となる教員がなく、同志である日本教育史専攻の院生もいませんでした。同時に進行した博士課程後期4年目・5年目の在学延長申請のために、かかった精神的負担も強烈でした。様々な機会にお会いする先生方、専門を異にする友人たち、応援してくれた両親に、本当に本当に支えてもらいました。皆さんがいなければ、最後の最終原稿提出どころか、修正指示への対応すらできなかったと思います。
 また、日本教育学会編集委員会の先生方と、査読者の先生には感謝してもしきれません。私の未熟さのため、長い間、お手数をおかけしました。先生方が粘り強く対応してくださらなかったら、この結果はありませんでした。なにより、厳格で精細な査読意見を毎回まとめてくださった査読者の先生には、本当に御世話になりました。
 皆さん、本当に、本当に、ありがとうございました。

 今、切に思うのは、研究は一人でやるものではない、ということです。
 研究とは、協同作業です。
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日本東洋教育史研究室の復興

2008年10月19日 20時40分51秒 | Weblog
 腰は相変わらずです(定式挨拶)。
 後期が始まって半月経ちました。それと同時に、わがH大学の日本東洋教育史研究室が復興してから半月経ちました。新しく研究室を組織されることになった先生は、とても研究熱心で研究者として尊敬できる方です。研究室経営にもやる気に満ちてらっしゃっていて、研究室の今後が楽しみで仕方がありません!
 研究室(施設というより、教育-被教育の関係にある研究者・研究者志望者の集団)は、研究の盛衰に密接に関連しています。興味関心の共有により、研究者は精神的に励まされ、研究に打ち込むことができます。また、一定の専門性に貫かれた定期的な意見交換によって、研究者は常時刺激を受け、批判にさらされ、個人では達せられなかった視点や知識を獲得できます。このため、研究室が正常に機能していれば研究は進みやすく、正常に機能していなければ停滞しやすくなります。研究の進展にとって、研究室の状態はとても重要な要素の一つなのです。
 我が日本東洋教育史研究室は、1年間半(または2年半?、I助手単独の時期をどう位置づけるか…?)のブランクを経て、この2008年10月に復興しました。研究室には、現在、学部3年生が4名所属しています。ですので、かつて基本的に院生指導の場だった「特研」(ゼミのこと)を開く必要はありません。ですが、先生に頼み込んで、特研を復活してもらいました。私が特研の早期復活を願った理由は、正直に言って次の3つ。第1に、私自身、短い周期で、日本教育史に関する定期的な意見交換の場に参加したかったため。第2に、私の近代日本教育史研究に関する拙い専門性をもって、先生の研究室の体制づくりに少しでもお手伝いができたら、と思ったため。第3に、前期後半から夏休みにかけて行っていた、学部生への研究アドバイスに対する責任を少しでも果たすため。
 とりあえず、そんなこんなで、先生と私と学部生で日本東洋教育史研究室の特研が開かれております。毎週金曜日に開かれ、これまでに3回開かれました。今後、院生が増えるにつれて、元の形態に戻していく方針のようです。
 今後、われわれの研究室が、ますます盛り上がりますように!
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明治人の距離感覚と大日本教育会

2008年10月16日 20時08分22秒 | 教育会史研究
 腰の調子は相変わらずです。しかし、5年前は一度何ともなくなるまで治ったので、リハビリを続けていればいつかは治るものと考えています。
 さて、腰のケガによって長時間の移動に不安があるため、最近どうしても行動範囲が狭くなってしまいます。長時間の移動といえば(強引(笑))、明治人の距離感覚のこと。
 教育会は、直接交流の難しい人々が意思疎通を図るために結成されたとも考えられます。「群像」で書いた町田の愛媛教育協会結成への思いを参照すると、なるほどそうかもしれんと思ってもらえるのではないでしょうか。このような教育会結成の意味をよりリアルに理解するためには、どうしても明治人の距離感覚をイメージせざるを得ません。距離感覚をつかむ資料として、地図以外に、とりあえず今は旅にかかった時間を考えています。前回の記事のような旅程の資料は、そういうイメージ喚起を助けてくれます。
 例えば、明治19年9月22日に横浜から汽船に乗って23日に神戸に着いた、という旅程。私が移動する時なんかはよく電車や新幹線を使いまして、長時間の乗車も気にならない方ですが、それでも丸1日も乗っていたらどうにかなってしまいそうです。丸1日神戸に留まって、25日に出発した町田の気持ちもわからなくもないですね(単に用事があっただけかもしれませんが)。今では成田空港からパリまで12時間で行けるみたいですが、明治19年の横浜-神戸間はその約2倍の時間がかかるわけです(きっかり24時間かかったわけではないと思いますが…ここではそういうことにしておいて、と)。横浜-三津浜(松山)間にいたっては、移動時間だけでも現代人がパリに行く時間の約4倍の時間がかかっていたわけです(きっかり48時間かかっ…以下略)。
 パリは昔に比べて近くなったとはいえ、外国です。私は海外旅行をめったにしないので、パリより遠いところって…想像できないです。想像したとしても、交通手段の発達していない外国だろうな、という程度のぼんやりとした想像しかできません。ようするに、明治19年の横浜にいた人が神戸や愛媛松山のことを想像することは、現代の日本人がパリよりもうんと遠いところを想像するようなものだったわけです。
 そう考えると、全国画一の普通教育を実施しようとした明治5年の学制は、本当に荒唐無稽な政策だったように思えてきます。また、こんな距離感覚を持たざるを得ない当時の人々が、明治16年に大日本教育会を結成して全国の教育を普及・改良しようとした事実には、心底驚くと同時に、心底スゴイ!と思わざるを得ません。だって、今で考えたら、世界規模で教育を普及・改良しよう、と言っているようなものなのですから。

 あ、そういえば、「群像」更新しました。「岡五郎」氏を追加。この人も、明治20年代くらいまでに福井→東京→徳島→宮城→東京と転々としています。文部官僚のなかでもあまり注目されない方の人だと思いますが、その業績も調べてみればやはりスゴイ人です。
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東京-松山間の移動に約1週間かかった時代

2008年10月07日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 腰はなかなか完治しません。やっぱり、そう簡単には治らないか…
 仕事をしながら研究を続けています。今日は基礎研究として、大日本教育会・帝国教育会の会計報告を見ながら、収入額を整理していました。単純作業をしていると、集中しすぎてつい遅くなってしまいます。
 さて、先日、「大日本教育会・帝国教育会の群像」で町田則文のことを書いたときに、こっちのブログで紹介しようと思って忘れていた情報に気づきました。明治時代の国内移動の難しさについての資料です。『町田則文先生伝』には、以下のように、町田が茨城から愛媛へ転任する際の細かい日程と、転任した年に帰郷した時の日程が記されています。

 明治19年9月8日奉職確定→9日帰郷→17日上京→22日横浜から汽船(広島丸)に乗船→23日神戸→25日神戸から汽船(第二三光丸)出発→26日伊予三津浜到着・松山着→28日愛媛県庁出頭・辞令。
 明治19年12月26日帰郷の途に上る→31日帰郷。

町田は高給取りでしたから、基本的には、明治19(1886)年の時点で、最良の移動手段を使ったと考えてもいいでしょう。明治19年、憲法制定前・帝国議会開設前の日本において、当時それほど不便でない手段を使って、東京から愛媛松山まで移動すると、どれくらい時間がかかるか、を示した資料だと思います。横浜→松山間は、汽船を使ってぼちぼち移動して約5日。松山→土浦間は6日(年末は急いでいたようなので、最速移動時間と考えてもいいかも)。
 今では、飛行機を使えば、1時間20分で東京から松山まで移動できます。東京から四国までほぼ1週間かかるなんて、今では考えられません。町田は、松山行きの旅程に着く際には、相当な覚悟を決めたことでしょうね。

(※在京日数はこの記事ではあまり意味がなかったようなので、修正しました)
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教育者の教育者―町田則文

2008年10月01日 19時41分07秒 | Weblog
 我が研究室に新しい先生が正式にやってまいりました。これから楽しみです。
 腰の調子は横ばいです。毎朝通勤前に病院のリハビリに通っています。まだまだ油断できません。
 研究科紀要の論文は、無事提出しました。企業に頼んだ英文要旨の校正が、〆切時間ギリギリに返ってきたので焦りました(笑)。
 ひさびさに「大日本教育会・帝国教育会の群像」を更新しました。今回は「町田則文」氏。伝記にザッと目を通したのですが、非常に興味深い人でした。伝記『町田則文先生伝』は町田の日記を参照したとのことで、非常に詳しく、読むと書きたいことが多くて長い記事になってしまいました。町田の日記…現存しているなら、ぜひとも見てみたいものです。おそらく、教育会史、師範教育史、台湾教育史、盲教育史研究において、超一級品の資料になることでしょう。
 教育に対する情熱もすばらしく、履歴も申し分なく、研究者としても日々の努力を怠らない、明治の教育者といって申し分ない人ではなかったか、と感じました。高師教員として考えると、まさに明治の「先生の先生」といったところでしょうか。…ベタ褒めですね(笑)。
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