教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

1 明治中期における学問の制度化

2011年03月31日 23時55分55秒 | 日本教育学史

 2010年度も今日でおしまい。早すぎる…

 さて、昨日から始めました未公開稿の公開の続きです。この原稿を見ていると、この原稿は、2005年度~2006年度の時期に苦しみながら積み上げた学習成果を集大成したものだなぁ、としみじみ感じています。昔からこのブログをごらんになっていた方には(どれくらいいるんでしょうね)、あぁ、こいつ、こんなんやってたな、と思われるんでしょうか。
 ちなみに、こういった学習成果が最大限に活かされたのが、「研究論文業績一覧」の9番と11番の論文です。こういう学習・研究をしていたからこそ、科学史学会の『科学史研究』に論文を掲載できたんだと思います(11番の論文のこと)。なお、『科学史研究』の存在は、高等工業学校の研究をされていたすぐ上の先輩からうかがって知りました。

 なお、本文を何かで利用される時は以下のように書かれるのがよいのではないかと。↓

引用・参考文献の表記(例):
 白石崇人「1 明治中期における学問の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.31(2007.1.19稿)。
または、
 白石崇人「明治中期における教育学の制度化」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170、2011.3.30~4.8(2007.1.19稿)。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」(未公開稿)より

Ⅰ.明治中期における学問の制度化

1.学問の制度化

 社会的現象として学問の歴史を研究した者に、中山茂がいる。中山は、学問を「その文字を誌す者と読む者との間のコミュニケーション(伝達)の場においてはじめて成り立つもの」および「伝達できる知識」とし、学問の歴史を「先行者の仕事に魅せられた後続者が、先行者の仕事を選択し、拒否し、また発展させる不断の行為の連続」と捉えようとした。中山は、唯物史観科学史のように学問と一般社会とを直接対応させることを批判し、学問と一般社会との間には、両者を仲介する形で「制度」(または「研究体制」「体制」)が存在することを指摘した。科学の制度scientific institutionsの研究は、中山の師であるクーン(T.S.Kuhn)において、科学を一般社会に位置づける外的科学史External historyの一領域に過ぎなかった。しかし、中山茂は、学問を社会の中で認識することを目指して、学問の制度を学問史(科学史)の重要領域に引き上げた。中山によれば、通常の場合の学問史は、パラダイム発生→支持集団形成→経典化(教科書化)→講壇化(専門的職業集団の再生産)の順に進むとされている。
 学問の制度(研究体制)には、例えば研究者集団・大学・学会・研究所・教科書などがあり、学説・思想の形式を再生産して学問の発達を促進・抑制する機能がある。制度化institutionalizationとは、一般的に、ある社会における相互作用の場面で、互いの行動様式が確立する過程であるが、「学問の制度化」という場合、異なる文脈において様々な意味で用いられてきた。関連する先行研究を整理した橋本鉱市は、「学問の制度化」を「ある知的領域-科学(学問)分野が、役割の明確化と専門職業化を経た科学者集団(教授)によって一定の機関(大学・研究所)において持続的に教育・研究され、それを通してその知識体系を習得した人材が普段[不断]に再生産される制度が確立するプロセス」としている。
 橋本は、帝国大学における各学部の分析をするためこのように定義したが、本稿では、帝国大学や研究所に限らない制度化過程を分析するため、領域を科学に、機関を大学・研究所に限ることは避けたい。それは、第一に、本稿では、「科学」のような学問だけでなく、「学」としての枠組みを未だ持たないものも対象としたいからである。教育学は、西欧諸国では未だに「学」として認められない傾向があるのである。また第二に、本稿が対象とする明治中期においては、諸学問はいまだ制度化の過程にあり、とくに専門的学者・大学・研究所といった諸制度は確立していないからである。ただ、制度化が展開される[する?]一定の主体と空間は不可欠である。したがって、本稿で用いる「学問の制度化」の意味は、橋本の定義を若干修正し、「ある知的領域(学問)が、役割の明確化と専門職業化を達成しつつある集団によって、一定の機関において持続的に教育・研究される制度が確立するプロセス」とする。

2.科学の制度化

(1)科学の体制化へ至る過程
 本節では、明治中期における科学の制度化過程を考察する。ここではまず、日本における科学の制度化過程を考察する視点を設定する。なお、本稿で単に「科学」というときは、自然科学を指すものとする。
 廣重徹は、日本における科学の制度化過程を明らかにする意味を次のように述べた。明治日本において系統的に移植された科学は、西欧において17世紀頃から質的に変貌しつつあった科学であり、教科書化され制度化された科学であった。この時期は世界的に科学の制度化が進む時期であり、日本における科学教育・研究・利用のための制度の移植は、世界的な科学の制度化過程そのものの一部である。しかも、日本における「科学の体制化」の歴史、すなわち「国家・産業・科学の三位一体」の形をとる科学の体制的構造の形成過程は、第一次大戦で芽生え、第二次大戦で決定的になり、世界的な動向と並行して行われた。そのため、日本における科学の制度化は、「欧米には進んだ科学があり、日本がそれをどこまで消化し、世界的水準に近づいたか」という観点から史実の選択と評価を行う「追いつき史観」では捉えられない。その際に必要な視点は、西欧科学の文脈における科学的概念や発見が日本・アジアにも見出せるかどうかという西欧中心的視点ではなく、日本における科学の構造や既存の社会と文化のなかでの位置づけと意味を問う視点である。また、非西欧国の日本における科学の制度化を研究することは、西欧における科学の制度化に対する異質性を明らかにし、近代科学の特質・限界を示唆することができる。その意味で、日本における科学の制度化過程の研究は、科学を発達させるだけではなく、科学・技術を制御し、その本来的な制約を克服していく現代的課題に応える研究であるとした。
 日本における科学の制度化過程は、西欧におけるそれと並行して行われ、第一次大戦以後の国家・産業・科学の癒着[三位一体化]による科学の体制化に結実するとされている。

[中略 ※後日upします]

 以上、制度化の視点からの先行研究を有する自然科学・社会科学(法学・政治学・経済学)・歴史学・社会学を事例として、それぞれの制度化過程を検討し、明治中期における学問の制度化の特徴を明らかにした。その結果に従い、明治中期における学問の制度化の特徴を整理すると、大きく次の3つの特徴を指摘できる。第1に、明治前期から引き続く国内における教育制度の整備が、帝国大学を中心に一応確立したことである。第2に、専門教育を受けた学者が、同様の関心を持つ人々と協力して、学協会を組織化し始めたことである。第3に、学協会の成立・発展過程に関連して、西欧の学説を直接移植するだけに止まらず、自国の実際的な諸問題に対して自覚的立場に立つ学説が現れてきたことである。

 (以上、2007年1月19日稿。[ ]は2011年3月31日附記)

<参考文献>
①中山茂『歴史としての学問』中央公論社、1974年。
②T・クーン(我孫子誠也・佐野正博訳)『科学革命における本質的緊張』みすず書房、1998年(Thomas S. Kuhn, The Essential Tension; Selected Studies in Scientific Tradition and Change, The University of Chicago Press, Chicago and London, 1977)。
③橋本鉱市「わが国における学問の制度化過程-医学部教授集団のプロソポグラフィー」大学史研究会編『大学史研究』第11号、1995年。
④廣重徹『科学の社会史-近代日本の科学体制』中央公論社、1973年(岩波現代文庫、上下巻、岩波書店、2002年)。

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明治中期における教育学の制度化

2011年03月30日 20時36分50秒 | 日本教育学史

 現実から逃避するように、昔書いたお蔵入り研究データを「はしご」しておりました。忙しい時に掃除をしたくなるような感じです(笑)。
 かつてどんな問題意識で研究していたか、久しぶりに思い出しました。今から見ればまだまだ未熟なのですが、このままお蔵入りにしておくには惜しい未公開原稿が出てきたので、何回かに分けて公開しようと思います。
 現在、新しい記事を書く気力もないですんで、ちょうどよいかと…。

 かつて、私は日本教育史研究会の『往来』で、「日本教育学史研究には研究体制史の視点が必要だ」とぶち上げました(白石崇人「日本教育学史研究の展望―教育学研究体制史研究の推進」『日本教育史往来』No.163、日本教育史研究会、2006年8月、1~3頁)。そこまではよかったのですが、その後の諸事情により、ど直球の成果はまとめられないままに、今にいたっております(「研究論文業績一覧」の論文番号9・11・12のように関連する論文はあります。これらの論文の意義を説明するための論説だったので、致命的な問題はないつもりですが)。あれだけ言ったのに情けないこったなぁ、と長年モヤモヤしていました。
 このたび公開しようと思う文章は、『往来』の文章を書いた頃の問題意識を直接反映した形で「まとめかけた」ものです。実は最近、日本教育学史研究が、少しずつ旬なテーマになってきているような気がします(HK大のS氏など←出身講座の後輩)。今回公開しようと思っている文章は、かつてかなり力を入れてまとめかけていたので、こんな形で公開するのはもったいないなぁ、とは正直思うのですが、そう言いながら4年も立ってしまいました。放っておくといつのまにか旬が過ぎそうですし、現在の研究の流れにささやかにでも乗っかりたくて(笑)。そもそも、研究論文ほどの水準には達していないし、この問題意識で質を高めてまとめる余裕は今の私にはなく、ちゃんとしたものにしようと思うと5年~10年はかかりそうです。なにより、専門の教育会史・教員史研究を中途半端なままに、本気でとりかかるわけにはいきません。もったいないけど、お蔵入りよりは今の流れの何かの役にたつかなと思いまして。
 自己満足の難しい話がしばらく続きますが、なにとぞご海容のほどを。日本教育学史研究をやってみようかという研究者や、これから教育学を学ぼうと思っている学生に、ほんのちょっとでも参考になれば、幸甚の極み。

 今回公開の「はじめに」は、とっても「青い」文章ですね(笑)。本命は以後公開の本文ということで。なお、「教育研究活動」については、2008.7.15の記事を参照すると、私の言いたいことが少しわかるかも。


白石崇人「明治中期における教育学の制度化」、2007年1月19日稿(未公開)。

はじめに
 本稿では、明治中期における教育学の制度化状態を明らかにすることを目的とする。本稿における明治中期とは、明治15(1882)年~30(1900)年の時期を中心とし明治10年代半ばから明治30年代半ばまでの時期を指す。この時期は、明治15年の伊沢修二『教育学』出版に見られるように、日本の教育学が「学」としての自覚に目覚め、明治20年以降のヘルバルト主義教育学を受容・展開させる時期である。なお、この時期の前後には、啓蒙主義的教育学などのように、西洋の教育学の受容を始めた日本の教育学の最初期にあたる明治前期と、樋口勘治郎によるヘルバルト主義の批判や社会学的教育学などのように、教育学の内容が多様化する明治後期を想定している。
 社会制度としての教育学を形成する行為形式には、教育学説の深化・精密化を目指す教育学研究と、実際的な教育問題の解決を目指す教育研究の二種類がある。教育学は純理論的な学問ではなく実践的・実際的な学問であり、後者の教育研究を不可欠の行為とする。ただ、教育研究を行うには、理論(教育学)と実際(教育実践等)の接続関係をいかに形成するか、より具体的には、教育学者と教育実践家(学校教員、または教育行政官や教育運動家)との共同研究をいかに組織するか、という問題がある。さらにこの問題の根本には、そもそも教育学者と教育実践家は共同研究を組織できるのか、という問題がある。両者は互いに独立した歴史と自律性を有する職業であり、互いの意見に拘束される必然はない。また、現代日本において、教育学者の行う研究と教育実践家が行う研究を同列で語ることができるかと問うた時、できる、と答えられる者は少数だろう。これでは共同研究を組織したとしても、問題を表面的・形式的に解決する結果しか生み出すまい[生み出せないだろう、か?]。
 教育学者と教育実践家との間にある「壁」を取り払うことなしに、有効性ある教育研究は望めない。そして、その「壁」を形成する最大の要因は、職業としての教育学者のあり方であり、その職業的基盤としての教育学のあり方ではないか、と筆者は考える。日本における教育学者と教育実践家の間の「壁」を取り払うすべを模索するには、まずなぜ教育学者と教育実践家とは違う存在として認識されるに至るのかを明らかにしなくてはならない。そのためには、教育学者と教育実践家との関わり方に注目しながら、日本における教育学の制度化過程を明らかにする必要がある。筆者のこれまでの研究によると、実は、明治中期の大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動では、教育学者とおぼしき者たちと教育実践家との共同研究を見出すことができる[「研究論文業績一覧」論文番号12参照]。なぜ、彼らは共同研究を組織できたのか。まず、教育学者たちは、明治中期において如何なる状況にあったのかを明らかにする必要がある。日本教育学史の先行研究は、学説・思想研究中心であった。しかし、筆者が注目するのは、教育学説・思想の発達状況ではなく、制度としての教育学・教育学者の社会的位置である。そのため本稿は、他の学問史研究の成果や教育学史の先行研究を参照しながら、明治中期において教育学はどの程度制度化されていたか明らかにする。
 以上の問題意識と課題設定により、本稿は次のように論述する。まず、明治中期における教育学の制度化過程を位置づけるため、明治中期における諸学問の制度化過程を明らかにする。次に、明治中期における教育学の内容的状況を概観するため、同時期の教育学説の到達点を明らかにする。次に、明治中期における教育学教育の状況を明らかにする。[略]

<論文構成>
Ⅰ.明治中期における学問の制度化
 1.学問の制度化
 2.科学の制度化
  (1)科学の体制化へ至る過程
  (2)明治中期における科学教育・研究の制度化
 3.人文・社会系諸学の制度化
  (1)人文・社会系諸学の制度化
  (2)明治中期における歴史学の制度化と「日本」
  (3)明治中期における社会学の組織化
Ⅱ.明治中期における教育学の制度化
 1.教育学説の発達
  [(1)自然科学的教育学(明治維新前後から明治20年代まで)]
  [(2)社会科学的教育学(明治30年代から大正・昭和前期まで)]
 2.教育学教育の整備
  [(1)師範学校における教育学教育の制度]
  [(2)師範学校における教育学教育の内容]
  [(3)帝国大学における教育学教育]
  [(4)「文検」における教育科]       [後略]

 (以上、2007年1月19日稿、[ ]は2011年3月30日附記)

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現時点での研究業績の系統的整理

2011年03月29日 23時55分55秒 | 研究業績情報

 な…もう…4月になりそうだと…

 書き散らしてきた拙稿がバリエーションに富んできたので、雑誌論文・著書論文・口頭発表(論文化されているものを除く)を含めて整理してみました。いいかげん本にまとめたらどうだ、と、まれに言われますが、まだ構想全体の2分の1を少し超えたくらいなので、まだまとめるに至っていません。
 なお、以下の「教員改良運動の開始期・模索期・確立期・展開期」というのは、現在のところ、教員史・教育会史を分析するために私が設定している時期区分です。一般社会状況および教育制度・政策・学説・方法・実践・輿論等の変遷をふまえつつ、教師論・教員集団の変遷を基準として設定しているものです。博士論文の構成基準としたいのですが…はてさて、いつになるやら。

[教育会史研究]

○ 総論的研究

  1. 白石崇人「大日本教育会における研究活動の展開」修士論文、広島大学大学院教育学研究科、2004年。
  2. 白石崇人「大日本教育会および帝国教育会における研究活動の主題 ―学校教育・初等教育・普通教育研究の重視」中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第51巻、2005年、66~71頁。
  3. 白石崇人「大日本教育会および帝国教育会における広島県会員の特徴 ―明治16年の結成から大正4年の辻会長期まで」『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第54号、2005年、87~95頁。
  4. 白石崇人「明治期における教育会の情報交換」全国地方教育史学会第29回大会口頭発表、広島大学、2006年5月21日。
  5. 白石崇人「明治期大日本教育会・帝国教育会像の再構築」教育史学会第50回大会口頭発表、大東文化大学、2006年9月16日。
  6. 白石崇人「大日本教育会および帝国教育会に対する文部省諮問」梶山雅史編『近代日本教育会史研究』、学術出版会、2007年、303~326頁。

○ 教員改良運動開始期/明治10年代/1880年代前半~半ば

  1. 白石崇人「東京教育学会の研究」中国四国教育学会編『教育学研究紀要』第48巻第1部、2003年、50~55頁。
  2. 白石崇人「東京教育会の活動実態 ―東京府学務課・府師範学校との関係」全国地方教育史学会『地方教育史研究』25号、2004年、47~68頁。
  3. 白石崇人「明治二十年前後における大日本教育会の討議会に関する研究」『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第53号、2004年、103~111頁。
  4. 白石崇人「結成時における大日本教育会の根本的目的」教育史フォーラム・京都 第20回研究会口頭発表、京都大学、2007年9月2日。

○ 教員改良運動模索期/明治20年代前半/1880年代後半~1890年代前半

  1. 白石崇人「明治21年の大日本教育会における「研究」の事業化過程」『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第55号、2006年、83~92頁。
  2. 白石崇人「1880年代における西村貞の理学観の社会的役割 ―大日本学術奨励会構想と大日本教育会改革に注目して」日本科学史学会編『科学史研究』第47巻No.246、岩波書店、2008年、65~73頁。
  3. 白石崇人「全国教育者大集会の開催背景―一八八〇年代末における教育輿論形成体制をめぐる摩擦」梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』学術出版会、2010年、109~132頁。

○ 教員改良運動確立期/明治20年代後半~明治30年代半ば/1890年代後半~1900年代前半/日清日露戦間期

  1. 白石崇人「明治三十年代前半の帝国教育会における研究活動の展開 ―学制調査部と国字改良部に注目して」中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第50巻、2004年、42~47頁。
  2. 白石崇人「明治32年・帝国教育会学制調査部の「国民学校」案 ―明治30年代における初等教育重視の学制改革案の原型」中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第53巻、2007年、46~51頁。
  3. 白石崇人「明治20年代後半における大日本教育会研究組合の成立」日本教育学会編『教育学研究』第75巻第3号、2008年、1~12頁。
  4. 白石崇人「日清・日露戦間期における帝国教育会の公徳養成問題 ―社会的道徳教育のための教材と教員資質」『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第57号、2008年、11~20頁。
  5. 白石崇人「大日本教育会単級教授法研究組合報告の内容―高等師範学校編『単級学校ノ理論及実験』との比較から」日本教育学会第68回大会口頭発表、東京大学、2009年8月28日。

○ 外国教育情報の受容に関する研究

  1. 白石崇人「『大日本教育会雑誌』における外国教育制度情報 ―情報の使用形態に注目して」中国四国教育学会第55回大会口頭発表、広島大学、2003年11月9日。
  2. 白石崇人「大日本教育会機関誌における外国教育情報に関する研究」国際研究集会口頭発表、中国浙江省杭州市、2004年4月3日。
  3. 白石崇人「19世紀末の大日本教育会・帝国教育会機関誌にみる西洋・東洋教育情報」アジア教育史学会2004年度第二回例会口頭発表、広島大学、2004年11月6日。
     (いずれも、加除訂正して拙稿の修士論文に所収しています)

○ 明治期以外

  1. 白石崇人「1940年代末結成の日本教育協会―日本連合教育会改称までを視野に入れて」1940年体制下における教育団体の変容と再編過程に関する総合的研究第1回研究会口頭発表、東北大学、2009年7月18日。

[教員史研究]

○ 教員改良運動開始・模索期/明治中期/明治10年代後半~20年代半ば/立憲制成立前後

  1. 白石崇人「明治10年代後半の大日本教育会における教師像 ―不況期において小学校教員に求められた意識と態度」中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第54巻、2008年、270~275頁。
  2. 白石崇人「明治20年代初頭の大日本教育会における教師論―教職の社会的地位および資質向上の目標化」中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第56巻、2010年、268~273頁。

○ 教員改良運動確立・展開期/明治後期/明治20年代後半~/日清日露戦間期

  1. 白石崇人「沢柳政太郎の教師論 ―教師の専門職性」卒業論文、広島大学教育学部、2002年。
  2. 白石崇人「明治後期の教育者論―教員改良のためのErzieher概念の受容と展開」中国四国教育学会編『教育学研究紀要(CD-ROM版)』第55巻、2009年、314~319頁。
  3. 白石崇人「明治後期の保育者論―東京女子高等師範学校附属幼稚園の理論的系譜を事例として」『鳥取短期大学研究紀要』第61号、2010年、1~10頁。
  4. 白石崇人「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員の問題意識―『東伯之教育』所収の小学校普及・中学校増設関係記事から」『鳥取短期大学研究紀要』第62号、2010年、11~23頁。
  5. 白石崇人「明治30年代初頭の鳥取県倉吉における教員集団の組織化過程-師範卒教員と検定教員との衝突・分離・合流」日本教育学会第69回大会口頭発表、広島大学、2010年8月22日。

[教材史研究]

  1. 白石崇人「小学校歴史教科書における寺子屋記述」『鳥取短期大学研究紀要』第60号、2009年、9~20頁。
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明治20年代初頭の大日本教育会における教師論

2011年03月28日 20時12分33秒 | 教育研究メモ

 忙しくなってきました。今週から6月半ばまで、長期間、息をつく間のない激務に入る予定。

 さて、昨年終わり頃に書いた論文が活字化されましたので、お知らせします。
 題目は、「明治20年代初頭の大日本教育会における教師論―教職の社会的地位および資質向上の目標化」(中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第56巻、2010年、268~273頁)です。ちょっと副題はうまくありません。2年前に同じ紀要に書いた「明治10年代後半の大日本教育会における教師像―不況期において小学校教員に求められた意識と態度」の続編です。
 本論文は、要するに、明治20(1887)年・21(1888)年の大日本教育会における教師論を見ると、どうもこの時期に教職の社会的地位や資質を向上させることを目標化する論説が出てきたことがわかった、という論文です。この後の大日本教育会(ひいては後身の帝国教育会)が推進した社会運動の出発点を示しているのではないか、と今のところ感じています。
 論文構成は以下の通り。

  はじめに
1.明治20年代初頭の『大日本教育会雑誌』における教員記事
2.教員資質と人件費削減との関係
 (1) 教員の収入増額のねらい―熟練の教師を求めて
 (2) 教育費節減にともなう教職の専門性軽視
3.教職の専門性向上を支える集団
 (1) 教員の自覚と「教育家」「当局者」の支援
 (2) 教員集団における専門性向上
4.教員の専門性への言及
 (1) 養成段階における専門性形成
 (2) 中等教育の独自性にもとづく教員の専門性
  おわりに

 本論文は、明治20年・21年の『大日本教育会雑誌』掲載の「教員」「教師」などを主題とした論説を丁寧に読み込んだ結果です。なぜ明治20年・21年を対象したのかというと、激務の中で力尽きたからという理由だけではなく(苦笑)、この2年間分の史料でまとまった結論を言えたからです。明治22(1889)年以降(大日本帝国憲法成立後)はまた違った社会状況に入るので、これだけで区切りました。
 本研究の結果、おおよそ次のようなことが明らかになりました。明治20年代初頭の大日本教育会における教師論が問題とした主要なテーマは、「教職の社会的地位と専門性をどのように確保するか」ということでした。大日本教育会ですら、教育費節減を優先するあまりに教職の専門性を軽視する論が現れる状況下で、次第に、教職の地位向上・待遇改善法としての資質向上・専門性確保論が主に展開されていきます。そこでは、教員自身の自覚と努力、行政や学者などによる支援、教員養成課程の充実という論点から、論理が深められていきます。この論理は、初等教育から見た中等教育の独自性にもとづいて、中等教員独自の資質・専門性についても言及されています。明治20年代初頭の大日本教育会における教師論は、教職の社会的地位向上の必要を契機として教職の資質向上を問題化したものであり、その具体的方策として、教育関係者に支えられた教員集団の形成、および教員養成の改善を目標化したものでした。
 この時期の教員史研究は、森有礼の言説研究または制度研究が中心ですが、それらでは明確でなかったことが明らかになったように思います。興味をもたれた方は、読んでみて頂けると幸いです。いつものように、手に入れにくい紀要で申し訳ありませんが…(国会図書館には冊子版(CD-ROM版を冊子にしたものですので、中身は同じ)が寄贈されているはずです)

 自分で言うのも何ですが、この論文をまとめることで大日本教育会・帝国教育会研究がさらに面白くなってきたなぁと思っています。これで研究する時間があればなぁ…

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養成課程で身につけるべき保育者・教師の資質

2011年03月21日 18時35分44秒 | 幼児教育・保育

 あまりじっくり書く余裕はないので、ごちゃごちゃしていますが、少しだけメモ。

 保育者・教師に真に必要な資質は、就職後の実践現場で身につく。たとえば、子どもの反応に即興的に応じて内容や方法を調整する実践力や、的確で幅広く深い子ども理解、的確なカリキュラム編成技術、学習を促進する技術や教育方法などである。これらは、現場に出て、子どもや同僚とかかわりながら、教育を実践する中で身につけることができる。養成課程で身につけられないこともないが、あまり効果的・効率的なものにはならない。では、養成課程で身につけるべき資質とは何か。
 養成課程では、教育に関する基本的な知識・技術を身につけることができる。教師志望者は、教材の学問的理解、担当教科に関する学問や技術の理解などを身につけることができる。保育者志望者は、ピアノの技術、様々な歌や遊び、絵本、牛乳パックで製作を進める仕方、小動物や虫の飼い方など、具体的な知識・技術を身につけることができる。教育は具体的な教材・活動を通して行われるものだから、これらの具体的な知識・技術を養成課程で身につけることは必要である。
 しかし、具体的な知識・技術一つ一つは、特定の条件においてのみ適用可能なものである。具体的な知識・技術は、特定の子ども、特定のクラス、特定の年齢、特定の時期など、限られた場面でしか使えない。いつでもどんなクラスでも適用できるわけではない。これらの具体的な知識・技術は、もちろん養成課程でもある程度身につける必要があるが、むしろ実践をしながら必要に応じて学んでいく方が適切であることも多い。

 養成課程で身につけるべき資質は、知識や技術を応用し、場面に応じて目標・内容・方法を取捨選択・操作・調整する力である。これは、実践力として主に実践現場で働きながら教師・保育者自ら発達させていくものであるが、養成課程において、その基礎を身につけることが可能であり、かつ重要である。実践力の基礎は、教育観・保育観や子ども観などの根本的な観念・概念・思想である。「教育とはこういうものだ」と理解しているから、具体的な場面に応じて「じゃあこうしよう」と考え、実践できるのである。
 たとえば、「保育とは絵本を読み聞かせることだ」程度にしか理解していなければ、どうなるだろうか。読み聞かせ以外の活動がおざなりになりはしないか。また、「教育とは試験勉強のためのものだ」と理解していれば、今は別のことをしたいという子どもの思いを無視することもあるだろう。教材選択や授業展開においては、世界を本質的または実感的に理解するような教材や展開よりも、試験に出る知識を子どもの発達状況を無視して詰め込むこともあるだろう。「教育とは子どもに合わせて無理なく発達を促すことだ」と理解していれば、子どもの興味や発達状況をしっかり把握しようとするし、そこから教材や展開を発想するだろう。このように、どのような観念・思想を持っているかによって、実践する教育のあり方はまったく変わっていく。
 もし養成校が最大の罪をおかすとしたら、それは何か。それは、教育のあり方や子どもの理解の仕方などについて、勘違いさせたままで、教師・保育者志望者を現場に出すことである。教育観・保育観・子ども観などは時代や社会とともに変化するため、重要なのは、一つの固定した観念や思想を教え込むことではない。「勘違い」とは、時代錯誤や独りよがりな理解のことである。教師・保育者志望者は、養成課程を受ける前にも一定の考えをもっている。しかし、それらはまだ未発達・未整理の状態にある。養成課程において本当にすべきことは、志望者たちの教育観などの発達を促し、整えていくことである。養成課程では、具体的知識・技術の学習と並行して、教育とは何か、保育とは何か、子どもをどのように理解したらよいか、などについて、根本的に的確に考える機会を十分に与えることが重要である。
 養成課程で取り扱うべき教育観・保育観・子ども観には、たとえば「保育・幼児教育は、遊び・環境を通して行う」「子どもの主体性を尊重し、それを伸ばす」「学習は経験を通じて行われる」「教育は、知識の蓄積だけでなく、社会性・道徳性を養わなくてはならない」「子どもにも基本的人権がある」などがある。教師・保育者志望者は、これらの観念・概念・思想を、言葉と感覚との両面から理解し、身につけ、自らの資質としていかなければならない。養成課程では、講義・演習・実習の環流のなかで、これらを知識として明確に、経験として実感的に、学んでいける機会を提供していかなくてはならない。

 優秀な教師・保育者を養成するには、どうすればよいか。やみくもに現場に出せばよい、実習の期間を増やせばよいというわけではない。それではわざわざ学校に行く必要はなく、普通教育終了後にすぐ教壇に立てばよいことになる。しかし、それでは教育や子どもについて、あるいは誤解したまま、あるいは未整理のまま、教育にあたることになる。中には偶然にうまくいく者もあるかもしれないが、2000万人近くの18才以下の国民の教育を偶然に任せるわけにはいかない。養成課程において、教育・保育・子どもを考えるための教材(学説・思想・政策・制度・実践など)に時間をかけてかかわり、教育観・保育観・子ども観などの根本的観念・概念・思想を発達させ、一定の程度までそれらの質を高めることが必要である。
 実践現場に出て教師・保育者が適切な教育を行い、適切に成長していくには、就職前すなわち養成課程において、「教育・保育・子どもとは何か」などについて明確に学び、一定の観念・概念・思想を形成する必要がある。これこそ、養成課程において身につけるべき資質であり、養成課程において身につけるにふさわしい資質である。そしてこれらは後に、現場で真の実践力を身につけていく基礎となるのである。

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入学から卒業まで世話をした初めての学生たち

2011年03月19日 23時55分55秒 | Weblog

 先週、また大雪が降りました。写真はそのときのもの。もう4月になろうというのに、勘弁してほしいものです。大量に積もりましたが、さすがに雪が止んだら、すぐに溶けてしまいました。

 さて、先日、勤務校で卒業式がありました。初めて入学から卒業まで面倒を見た学生たちの卒業式でした。100人以上の幼稚園教諭免許取得者、および10人以上の中学校・栄養教諭免許取得者について、最初から最後まで世話しました。これでようやく初めて、「先生の先生」をやれた公言できるような気がします。
 式当日は涙が出てどうにもならないかな、と思っていましたが、そんなことはなかったようです。このところ、今年度の諸々の始末と来年度の準備とに忙しく、教え子たちとの思い出を振り返るどころではありませんでした。また、式当日の仕事に緊張しすぎて、頭が真っ白に飛んでしまったこともあると思います(笑)。泣きはしませんでしたが、彼ら彼女らを卒業・免許取得させられて、本当によかったと思っています。
 担任の学生30数名から、手作りのアルバムをプレゼントしてもらいました。本当にありがとう。君たちは本当に印象深いクラスでした。君たちは、いろんな意味で(良い意味もたくさん入っていますよ笑)、今まで出会ったことのなかったタイプの人々ばかりでした。31年生きてきて、いろんな人生を見てきたつもりでしたが、自分の見てきた世界はまだまだ狭かったのだということを思い知ることができました。

 教育は被教育者の理解から始まります。そのため、教師は、人間・人生に関する広い視野を必要とします。このたび卒業・免許取得した皆さんと出会ったおかげで、私の視野は今まで以上に広がりました。皆さんのおかげで、教師として、人間として、一回りも二回りも成長させてもらったのです。私は今後も「先生の先生」でありたいと思っていますが、今後、より優れた教育をすることができるようになるだろうと確信しています。そして、皆さんにも、保育者・教師として必要な資質を身につける機会を少しでも与えることができていたなら、これに勝る幸せはありません。
 保育者・教師の道に終わりはありません。学校卒業と資格取得はスタート地点にすぎません。保育者・教師は、実践現場で本当の力を獲得していくので、保育者・教師になっていくのは実はこれからなのです。私も教師の一人です。皆さんと一緒に、教師としての力をさらにつけていくことができれば、幸いです。

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このたびのショック

2011年03月13日 11時49分14秒 | Weblog

 このたびの地震と津波、そして原発、大変なことになりました。被災された方々には、誠心よりお見舞い申し上げます。

 金曜からずっとテレビとネットから目が離せません。たまらない。私には何もできませんが、義援金の募金だけでもしようと思います。被災の様子を知るたびに、現地の人々の悲しみ・苦しみを想像し、つらい。知人・友人も多い地域なので、個人的な心配もとどまらず。

 今回、山陰はまったく影響を受けていません。仕事場で調べ物をするためにネットを使ったとき、震度3の速報をちらっと見かけただけでした(ホームページをyahooにしているので)。余震であるとも気づかず、「ああ、また地震があったのか」程度に思っただけで、こんなことになっていようとは思いもしませんでした。帰宅してニュースを見て、愕然。しばらく現実感はありませんでした。同じ国に住んでいるのにまったく知らずに何時間もすごしていた、という事実。なんという…

 ショックで何にも手につかない状態が続いています。その上に睡眠失敗、体調不良の悪循環。何やってるんだ俺。 被災してない者がこれでは、ダメだ。 明日までに立て直さなくては。

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精神的疲労と遅れ気味の仕事

2011年03月06日 21時52分42秒 | Weblog

 どうも、ごぶさたしてます。

 仕事上、一筋縄ではいかないことばかりで、精神的に疲れて参ってしまいそうです。そして、ストレス太りによる体重増(この半年で5kg増…)→食欲がとどまらないので食事抑制→さらにストレスを抱える(+食欲に負けて自己嫌悪(苦笑))、という悪循環。運動に回す気力と時間も不足気味。

 教育をするためには、授業作ったり、研究したりといった表に出てこない仕事が重要です。これらの仕事には、ひたすら時間がかかります。精神的に疲れてしまうと、力が出ず、こういった仕事になかなか手がつかなくなってしまいます。こういう悪循環から脱するには、栄養ドリンクなどでむりやり「ドーピング」(笑)するか、気分転換するしかないわけですが、なかなか思うようにはなりません。

 気分が換わるような良いこともたまにありますが、残念ながら、根本的に状況は変わらないまま。あぁ、こうしているうちに、論文の〆切が迫っている… すぐに4月になって、授業が始まってしまう…

 マズイ、マズイ、と焦るばかりで、どの仕事も遅々として進んでる気がしない。でも、少しずつではあるけれども、前に進んでいるだけ、まだマシか。。

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