教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

論文(4)提出完了!

2006年08月31日 19時38分39秒 | 教育研究メモ
 完全に起床失敗。時間も遅いし、雨が降りそうだったので車で登校。登校中に雨が降る。論文(4)を修正し、提出。その後、某先生から頼まれていた本を高等教育研究開発センターへもらいにいく。そして、後輩と日本教育史読書会。9月以降どうやら後輩も忙しくなるそうなので、涙をのんで今後の読書会の予定は未定にする。読書会は続けたいんだけどね。

 と・も・か・く
 本日無事、論文(4)の提出が終わりました~
 この一ヶ月半の成果を手渡し、10分ほど質疑応答しなければならなかったので、かなり緊張しました…
 思えばこれで、8月までの仕事は全て終了したことになります。ホントに長い道のりだったけど、振り替えれば短かったとも思ってしまうところが不思議。月数でいえば6月と7月の境目が1年の折り返し地点だと思いますが、今年の私にとっては今日この日8月31日が折り返し地点のように感じます。明日からまた違った日々が待っています。博論が書けるかどうかは今日提出した論文(4)、または8月頭に出した論文(1)と(2)の出来にかかっているんですが、博論が書けるということになると、これまで以上に重要な半年になります。
 ちょっと説明モード。上記の「博論が書ける」という言葉に、「?書くことはいつでもできるんじゃないの?」とひっかかった人がいるかもしれません。いいえ、博士論文はいつでも書くことはできません。H大の制度に加え、K講座の慣習を加えて考えると、博士論文完成までにはたくさんの段階がありまして、我々院生が直接関係ある大事な段階は次の4段階があります。

【第1段階】第一次審査:
指導教員(主任・副)の前で博士論文の構想を説明する第一次審査があり、ここで博論のテーマ(主題名)が決まり、大まかな研究方針が定められます。
【第2段階】レフェリー論文作成:
全国規模の学会のレフェリー(審査)を受けたレフェリー論文を2本そろえる段階で、第二次審査を開いてもらう資格を得るまでの段階です。
【第3段階】第二次審査:
再び指導教員の前で博論の構想を説明する第二次審査があり、ここで博論の章構成が決まり、博士論文を書き始める許可を得ることができます。
【第4段階】教授会:
最後に教授会の採決を受け、教授方の投票で博士論文と認めるかどうかが審査されます。教授会での説明は主任指導教員に任され(この直前に講座での下見もある)、院生がやることは、博士論文の概要がわかる資料を作ることです。第4段階を経て、ようやく博士論文完成、博士号が授与される、というわけです。

 博士論文は第3段階を経ないと書けません。今の私は第2段階にいます。今の私にはレフェリー論文が1本しかないので、残りの1本を、指導教員グループによる審査付きのレフェリー論文(『研究科紀要』に掲載される)にしようと今日までもがいていました。もう一回ぐらい訂正指示があるかもしれませんが、ともかく最善は尽くしましたよ。ダメなら論文(1)・(2)の結果を待つのみです。3重の構え(笑)。なお、先輩方の例を思い浮かべると、第3・第4段階はほとんど間をあけず飛びかかってくるようです。
 ともかく、今日まで最善は尽くしました。今は振り返る必要はない。再び次にすべき仕事をこなしていくのみ。

 1.教育史学会第50回大会個人発表レジュメ作成(9/15〆切・11日にゼミ)。
 2.某先生から依頼されたデータ作成と整理(〆切日不明、10月ぐらいまで)。
 3.中国四国教育学会第58回大会個人発表レジュメ作成(11/24〆切)。
 4.博士論文を構成予定の、未執筆の部分(論文1本分くらい)を書く。
 5.参考予定の文献を読む。

 おぉ、仕事内容は一部曖昧だけど、なんだか見た目スッキリしたなぁ。
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作曲の反響、論文修正、レポート作成

2006年08月30日 19時37分14秒 | Weblog
 本日も起床失敗。昨晩の寝付きは、ぼちぼちでした。昨晩の帰宅後から、体に疲れがたまっています。今朝起床後も、疲れがとれていない感じでした。無理をしないように、今日は車で登校。
 なお今日は、先日委嘱曲を納品した、HZ大邦楽部の部長さんからのメールで目が覚めました。起こしてくれてホントありがとう(笑)。納品した曲について、演奏者が気に入ってくれたとのこと。少しホッとしました。そして、とてもうれしい(^^)。
 登校後、論文(4)の修正にとりかかる。以前に比べて、だいぶ修正部分が減ってきました。完成に近づいている予感。といっても、明日提出しなきゃいけないんだから、完成に近づいてもらわなきゃいけないんだけどね(笑)。あと一回確認すれば、完成したことにしよう。
 論文(4)の修正完了後、明日、後輩と一緒にやる日本教育史読書会で使うレポートを作る。作るのは、中内敏夫『新しい教育史』改訂増補版(新評論、1992年)の第1章「人口動態の歴史と社会史」の要旨。この章は、社会史に大きな影響を与えた人口動態論の歴史を通して、社会史の基本的特質を明らかにしよう、という内容(だと思う)。研究上で何気なく使っている「史料」や「数」には、それぞれ特有の意味がある、ということを改めて感じました。18時半すぎ、完成。
 疲れがとれないので、今日は少し早く帰ろうと思います。
 家で論文(4)のチェックをしながら寝よう。
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資料調査の旅計画

2006年08月28日 22時41分47秒 | Weblog
 あちゃ~
 今日は希望通りの時間に目が覚めたのですが、眠気に負けていつも通りの起床失敗… 昼過ぎ、徒歩で登校。
 今日は論文(3)を集中的にやる。とりあえずもういいだろう、というくらいになりました。さあ、今日帰って見直して、明日投函してしまおう!
 その後、B.C.ヴィッカリー(村主朋英訳)『歴史のなかの科学コミュニケーション』(勁草書房、2002年)の続きを読む。内容は、研究体制史的な科学史研究の成果の要約。1章分を読み進める。
  
 まだ外が明るかったので、9月の東京行きの計画を立てる。今回の目的は、9月16日・17日の教育史学会第50回大会への参加と、東京都内の公設機関に所蔵されている史資料の調査。私の博論審査は、諸事情のため、教育学者ではあっても日本教育史研究者ではない、専門外の先生方に見てもらわなくてはありません。そのため、資料のアドバイスは受けられません。しかも私の研究対象の大日本教育会・帝国教育会の研究活動には、当時の有名人がたくさん関わっているので、「有名な人だから史資料もたくさんあるだろう。探しなさい。」という、「無理難題」をふっかけられることもあるんですよね。確かにちゃんと調べれば見つかるかもしれないし、逆に「何処何処にはありません!」と言い切る(ホントは言い切れないものだけど)ためにも、基本的な施設はあらかじめ調べておく必要があります。今まで、東京大学、国会図書館、東京都公文書館、国立公文書館、日本教育会館にはよく足を運んだのですが、都内の地方自治体の各図書館(とくに東京都立中央図書館・千代田区立図書館・中央区立京橋図書館)、旧東京高等師範学校の筑波大学、旧東京女子高等師範学校のお茶の水大学、旧東京府師範学校の東京学芸大学には行ったことがないので、今回ちゃんと目を通しておこうかなと思っています。東大・国会図書館にも一応行ってみよう。博論の審査のためとはいえ、あんまり効率的とはいえないけど…
 (広島に居ながら知り得て、直接研究に必要な史資料なんて、もうとっっっっっくに調べて手に入れているに決まってんだろうが~!(泣))
 ちなみにこれらに行ったことがないのは、どんな資料があるのかあらかじめ調べられないため。大抵の図書館では、ネット検索できる書目には限りがあるので、本気で調べるには直接行って目録やカードをチェックし、場合によっては職員に尋ねることをしないといけないのです。とくに私のような歴史研究をしている者が使う史資料は、人によってはゴミクズに見られるようなものが多い(言いすぎ?)。ネット検索できるものなんて限られているので、遠方にあるものはチェックしにくい。教育史学会大会でも機会があったら、大先生方から情報を集めてみようっと。
 とりあえず計画を立てる。今回の調査は一日二日では無理なので、思い切って7泊してやる予定。学会は朝から開かれるので15日から。9月15日~22日まで在東京の予定を立ててみる。こんだけ時間をとっても、意外とゆっくり調査できる感じにはならないなぁ。宿泊場所も調べてちょうどいいのをみつけたけど、なにしろ7泊。赤字路線をまっしぐらに走っている現在の懐具合では、「うぅ!」っと行きが苦しくなる額なので、すぐには「予約決定!」とはできない。どうせ出さなくちゃいけないお金だろうに… うぅむ、なんという小心者だ…。じ、時間を下さい…
 いちおう、明日いっしょに行くI先輩と相談してみよう。
 さ、帰るべ。
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大家の論理と一般化に学ぶ

2006年08月25日 21時49分07秒 | Weblog
 今日は久しぶりに起床失敗。昼過ぎに徒歩で登校。
 今日も登校後は、論文(3)と(4)の修正。外で論文(4)の読み直しをしていると、I先輩がお茶をおごってくれました。しばらく話していると、遠くで雷鳴と閃光。論文の読み直しは途中でしたが、また大雨に降られるとイヤなので、研究室へ避難。研究室で論文(4)をワープロ打ち。続いて論文(3)を直す。今日の論文(3)の修正は、今まで論文(3)を修正した中で一番内容に関わる修正でした。元の論文(3)より、よくなった気がする。
 論文2つを直した結果、まだ外は明るい。今日はスタートが遅かったし、もう少しやろうと思い、中内敏夫『新しい教育史』(改訂増補版、新評論、1992年)の第1章を読む。今や教育史研究のあちこちで吹聴されている社会史は、そもそものところどういう理論的問題を抱えているか、という内容が書かれています。その根っこにあるのは、史的人口動態論だそうです。
 中内著を読んでいて、論文(4)を少し書き足したくなったので、さらに論文(4)を書き直す。直接関係ある内容が書いてあったわけではありませんが、論文(4)は非常にまとめに苦労していましたので、中内著の論述の仕方に刺激をうけたわけです。中内氏は教育学の大家ですから、私のような駆け出しよりも、はるかに論理の整理と事実の一般化を見事にやっています。やっぱり、資料にあたっていく研究も大事だけど、大家の著作も読むことも大事だな、と思いました。
 思った以上に修正に苦労しましたが… お、さらによくなったぞ。
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日本を離れる友人

2006年08月21日 20時56分07秒 | Weblog
 今日は午前起き。昼から人に会うので、午前中に起きる。人に会うので、車で登校。歩くと汗びっしょりになるので。
 昼に会った人とは、一昨年私の師匠のS先生の下で研究指導を受けていたイギリス人の友人Mくん。この度無事博士論文を提出し、ついに日本を離れることになったので、そのお祝いと送別を兼ねて、私から食事に誘いました。Mくんは昨年から別の先生に指導を受けることになって、ほとんど会うことはなくなり、最近では時々キャンパス付近で会うことはあったけど、立ち話になってしまい、あまり話すことはできませんでした。だから、一度ゆっくり話したかったのです。
 そして、Mくんには大きな借りがある。2年前、S先生に連れられて中国の杭州に行ったとき、ホテルの部屋のルームメイトだったのがMくんでした。年齢の上ではMくんの方が2つ上なので、私は最初は目上に対する姿勢で接していたのですが、Mくんはそんなに歳は違わないのだから友人のように接してくれと言ってくれました。また、Mくんはイギリス人ですから英語はペラペラ、そして中国にいたこともあるので中国語もペラペラ。私はS先生に連れられて行っただけなので、まったく英語も中国語もしゃべることも理解することもできず、Mくんにたくさんお世話になりました。ですので、どうしても送別会をしたかったのです。
 久しぶりのため話できるかな、と心配しましたが、時間を忘れて話ができました。Mくんは熱心なキリスト教徒で、9月から台湾へ行き、そしていつかは東南アジアへ行って、聖書の勉強を続けるそう。もうすぐ日本を離れるということなので、ちょっと寂しい気がしました。
 2時過ぎに研究室へ戻って研究にとりかかる。先に昨日書いた参考文献一覧を修正し、その後、論文(4)の修正にかかる。ようやくひと通りできあがり。後は「はじめに」「おわりに」と本文の内容を調整していくだけ。順調であります。
 今日はまたも雷雨。 前ほどではありませんでしたが。
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大和ミュージアム

2006年08月16日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は松山→東広島。
 11:15の呉広島行きフェリーに乗って呉へ。松山から東広島に帰るには、松山観光港→呉港→JR呉駅→JR海田市駅→JR西条駅が最短。
 呉港下船後、港の隣にある大和ミュージアム(正式名称は、「呉市海事歴史科学館」)へ。展示物の数、質、見せ方いずれもすばらしい。機械技術の戦前から戦後への継承、というテーマも一貫して良い。2時間以上館内にいましたが、それでも全部見切れませんでした。同館でとくに思うところがあったのが、以下の3点。
 第1は、旧帝国海軍の技術力でした。館内に展示されていたのは、大和や回天などのできあがった全体としての兵器だけではなく、その全体を構築している部品もたくさん展示されていました。その精密さは、素人目でもすごいということぐらいはわかります。今まで小さな模型や本でしか知らなかった兵器が、これだけの技術力を駆使して作り上げられていたのだ、ということを知り、感動しました。これらの技術は、戦後、さまざまな機械技術に平和利用されていくのです。
 第2は、戦争の狭間に見える人間らしさでした。第二次大戦は組織戦ですから、兵士は人間らしさを捨てなくてはいけません。ですが、実際の兵士は死に直面したとき、極めて凝縮された人間らしさを発揮します。回天特別攻撃隊少尉の塚本太郎氏が出撃前に自分のハンカチに遺した遺言を見て、深く感じました。すなわち、「悠策 兄貴ガツイテヰルゾ 頑張レ 親孝行ヲタノム」。私にも弟想いの兄がいてくれています。他の人の遺言に比べ非常に短いものですが、自分と自分の兄に重なり、涙がとまりませんでした。
 第3は、完全に私事ですが、肝付兼行(きもつき かねゆき)という海軍軍人の功績と写真が展示されていたことです。肝付さんは、私の研究対象である大日本教育会・帝国教育会の幹部として、熱心に教育会の活動(すなわち「我邦教育ノ普及改良及ビ上進」)に参加していた人です。海軍軍人であることは知っていましたが、海軍軍人として何をした人かは知りませんでした。展示によると、呉に海軍の重要施設である鎮守府を設置する候補を決める際、呉湾の測量調査にあたり、「此呉湾ヲ除キテ他ニナシ」と報告した人物が、肝付さんだとのこと。呉に鎮守府を置いた立て役者の一人が、肝付兼行だったのです。思わぬ発見でした。
 大和ミュージアムは呉港の隣にあるので、私は帰省から帰るたびに近くを通って来ました。それでも今まで入ったことがなかったのは、その来館者の多さ。いずれ少なくなるさ、と思っていたのですが、一向に少なくならない。その理由はわかりませんが、今回巡ってみて、来館者はその展示の魅力にひきつけられているのではないか、という考えるようになりました。来館者が普通の博物館じゃありえないくらい多いのは、大和のエンターテイメント性だけに支えられてるのではないように思います。超おすすめ。
 写真は有名な10分の1戦艦「大和」を上から撮ったものです。
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石井北小学校

2006年08月15日 23時55分55秒 | Weblog
 15日は、ようやくゆっくりできました(笑)。
 昼に歩いて大好きなうどん屋へ。その後、歩いて近所を散歩。久しぶりに母校の松山市立石井北小学校に行ってみました。石井北小学校は、私の故郷、石井・椿地区の人口増に併せ、昭和63(1988)年に創設された小学校です。同校の創設記念碑には、「開」と一文字書かれています。「開」とは、「自らを鍛え、明日をたくましく切り開く豊かな人間性育成を念じて」贈られた言葉だそうです。知らなかった…(笑)。写真は、同校の裏側の写真。ここに見えている2階にあるのが、体育館です。なんと、この学校は2階に体育館があります。今日久しぶりにここへ来るまで、すっかり忘れていました。なお、教室はすべてオープンスペースになっており、カバンなどをいれるロッカーを移動させると、廊下と教室がつながりました。今となって思い出してみると、かなり新しい試みを取り入れたものだったようですが、実は当時の私は廊下と教室がつながる構造をあんまり好きではありませんでした(笑)。なお、同校は、同地域の歴史的な某問題に対しても画期的なことをやった、というように親から聞いています。
 人気のない小学校の周りをぐるっと回った後、帰りました。帰りながら思ったのは、小学校と自宅の距離について。小さい時はずいぶん遠くにあった気がしてましたが、今歩くとそれほどでもない。そう感じたのは、歩幅が変わった、というよりも、世界が広がったため、かもしれません。距離感の変化に驚きました。
 夕方、兄が出張から実家に帰ってきたので、一緒に酒が飲めると期待したのに、父がいらないことを言ってパァに。この二人の仲は、犬猿の仲。まったく、いつまでも変わらない人たちだなぁ…
 夕食後、父から実家のいわれを詳しく聞き出す。かなり複雑で、いっぺんには頭に入らない話でした。でも、自分のルーツに少し触れた気がして、うれしかった。
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父の期待、祖父の期待

2006年08月13日 23時55分55秒 | Weblog
 13日は高松→松山。お盆なので、実家に帰るのです。
 午前中は高松城を散策。それからみやげを買って、うどんを食べる。電車の時間まで少しあったので、喫茶店で四人で話しながらお茶をする。
 予讃線12:39発の特急に乗って、高松を後にしました。YとMくんも同じくらいの電車に乗って、それぞれ高松を立ちました。途中、宇多津駅で乗り換え。今治までは順調に帰っていたのですが、対向ですれ違う予定の岡山行きの電車が、例の事故(13日予讃線)を起こす。そのため、私の乗っていた電車も、あと20~30分で松山に着く直前で停車。結局、電車の中で1時間くらい立ち往生でした。
 JR松山駅に着くと、切符切りの駅員さんたちが、ぼっちゃんとマドンナのコスプレ(笑)をしていました。その後、路面電車に乗って市内電車の駅の松山市駅へ行き、いよ立花駅へ。それからバスに乗り換え、最後は徒歩15分ほど歩いて実家に到着。や~バテました。それからすぐ、墓参りへ。ちなみに私の家は真言宗です。四国らしいですね。
 最近、今年の3月で定年退職した父が、自分の持っている書類・手紙・写真などを整理しているらしい。それで、整理したものを私にも見せたいらしく、父から古い写真(明治末期~昭和40年代くらいのもの)や祖父・叔父・叔母が書いた父宛の手紙などを見せられ、いろいろな話を聞かされました。自分の3代前くらいの先祖の話なども興味深かったのですが、一番感じたものがあったのは、祖父が書いた父宛の手紙でした。私の父はE大農学部卒業後、苦学してK大で博士号を取得した人物です。そのとき、祖父は、松山から遠く離れた場所で勉学に励む父へ、たくさんの手紙を送り、はげましの言葉と期待、そして苦労して学費を工面している様子が綴られていました。すべての手紙を見ることは出来ませんでしたが、手紙には祖父の父への期待がにじみ出ており、父は、このような祖父の献身的な努力を背負って勉学に励んだんだなぁ、と感動しました。私は、その父から学者になることを期待され、修士まで学費・生活費を援助してもらいました。博士課程以降は学術振興会の援助によって学資を得ていますが、やはり私は今も父の期待を背負っています。そしてそれは、かつて父が背負っていた祖父の期待も背負う、ということも意味すると私は思います。私は、父の期待を通して、祖父の期待をも背負っているのです。
 私はへこたれていられない。がんばらなくっちゃ!
 そして、絶対に負けない!
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