さて、以下は、「なぜ幼稚園は誕生したのか?」の最後です。出典を示されるときには、以下のように示してもらえると幸いです。
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白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月4~11日。
または
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?(7)」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月11日。
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?―啓蒙思想の影響とフレーベルの幼稚園構想から考える―」 より
おわりに
以上、18世紀後半の啓蒙思想とフレーベルの幼稚園構想とを検討することによって、なぜ幼稚園が誕生したかを明らかにしてきた。
フレーベルは、啓蒙思想の時代に生まれた。啓蒙思想は、すべての人間は生きながらにして、自らの判断・行動によってものごとの本質を認識し、道徳的存在になることができると考えた。そして、すべての人間には、主体的・道徳的に判断・行動する能力や資質が備わっており、その能力・資質を調和的・合理的に発達させる義務があると考え、教育を重視した。また、子どもの要求に基づく自己活動を尊重し、その現れとして遊びの教育的意義を見出した。フレーベルもまた、基本的には、この啓蒙思想的な思考様式に基づいて遊び論を形成したと考えられる。合自然的教育や自己活動による教育、すなわち「発達状況に応じた教育」や「主体性を伸ばす教育」、「遊びによる教育」、「環境による教育」などの幼児教育原理の思想的基盤は、フレーベルが啓蒙思想から引き継いだのである。
なお、啓蒙思想は、自己活動や遊びを技術的に追究し、形式的・機械的な教育技術の蔓延を招いた。フレーベルはその問題性に気付いたが、恩物研究において顕著に見られるように、彼もまた形式的教育技術を生み出してしまった。この思想的限界は、幼稚園における恩物主義保育として長く幼児教育の呪縛となった。画一的な遊び方を教え、子どもの自由や主体性を軽視してしまう技術主義保育という意味では、現在でもその限界に陥ってしまう隘路は残っているのかもしれない。
1840年以降に徐々に実現した幼稚園構想は、フレーベルの教育思想・実践の集大成といってもよい。なぜ幼稚園は誕生したか。幼稚園は、学齢前のすべての子どもの全面的発達を保障し、実習によって次世代の保育者を養成し、子どもの本質に基づく遊びを普及させ、子どもを中心にして国民の連帯意識を形成するために誕生した。幼稚園は、ただの規律訓練や記憶練習の場ではなく、子どもが自己決定と自分の活動衝動によって自分自身を知り、自ら資質・能力を調和的に発展させ、遊び相手とのつながりを認識・尊重し、道徳的性格を育てるために誕生した。また、ただ子どもを保育し、保護者の子育てを支援するだけでなく、遊びの指導者としての保育者を養成するために誕生した。保育者が保護・刺激・指導すべき遊びとは、ただの気晴らしや娯楽としての遊びではなく、人間や世界の本質を意識的に認識・表現する自己活動としての遊びであった。この遊びの考え方は、放任していては共有・普及できないため、幼稚園の間で意識的に相互共有する仕掛け(団体・出版物)が必要であると考えられた。
幼稚園は、子どもと子ども、子どもと保育者、子どもと親とのつながりを形成するだけでなく、一定の連帯感を有する国民を形成することを目指して誕生した。ただし、後のドイツにおいて幼稚園は、上層階級向け(家庭連合幼稚園)・中層向け(市民幼稚園)・下層向け(民衆幼稚園)に分裂して、国民的統一とは反する方向に発展した。アメリカで受容されたのは、このうちの上・中層向けの幼稚園であった(これが日本にも渡来した)。フレーベルは、「すべての」と言いながら当時の階級意識から自由ではなかった。その後の歴史的展開において、その限界性が露呈した事実は隠せない。また、「ドイツ人」や「国民」として認められる存在のみを対象とした点にも、フレーベルの幼稚園構想の限界が見出せる。
なお、幼稚園がフレーベルの教育思想を実現・普及するために誕生したと考えれば、子どもの環境の認識・構成や自己表現を重視し、それを支援・指導するために幼稚園は誕生したと言える。しかし、このまとめは幼稚園構想の重要な特徴を覆い隠す。フレーベルの教育思想にはキリスト教の影響が濃厚であり、「神に与えられた人間の使命」を目的に位置づけた。そのために、キリスト教以外の宗教的立場に立つ人々にとって、理解し難いところはどうしても出てくる。そのため、本論文では一般化するために「神性」をフレーベルの言葉を借りて「人間の本質」に読み替えたが、それによって幼稚園構想の本質を読み違える危険は免れえない。幼稚園は、時間的に普遍的な制度ではなく、あくまで特定の時代や社会における歴史的産物であり、特有の意義と限界とを有することを忘れてはいけない。時代に応じた幼児教育の未来は、幼稚園の意義と限界とをしっかりと受け止め、克服することによってはじめて見出せるのである。
※ 本稿は、2014年の広島文教女子大学初等教育学科における講義(幼児教育課程論)のために、2012~13年の鳥取短期大学幼児教育学科における講義(教育原理Ⅱ)を再構成したものである。
【主要参考・引用文献】
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フレーベル(荒井武訳)『人間の教育』上下巻、岩波書店、1964年。
カント(伊勢田耀子訳)『教育学講義』世界教育学選集60、明治図書、1971年。
フレーベル(岩崎次郎訳)『人間の教育・幼児教育論』世界教育学名著選8、明治図書、1973年。
カント(篠田英雄訳)『啓蒙とは何か』岩波書店、1974年。
ペスタロッチー(前原寿・石橋哲成訳)『ゲルトルート教育法・シュタンツ便り』玉川大学出版部、1987年。
ペスタロッチー(東岸克好・米山弘訳)『隠者の夕暮・白鳥の歌・基礎陶冶の理念』玉川大学出版部、1989年。
長尾十三二・福田弘『ペスタロッチ』人と思想105、清水書院、1991年。
村井実『教育思想(下)―近代からの歩み』東洋館出版社、1993年。
ペスタロッチー(長田新訳)『隠者の夕暮・シュタンツだより』岩波書店、1993年改版。
小笠原道雄『フレーベルとその時代』玉川大学出版部、1994年。
小笠原道雄『フレーベル』人と思想164、清水書院、2000年。
教育思想史学会編『教育思想事典』勁草書房、2000年。
宮澤康人編『三訂版・近代の教育思想』放送大学教育振興会、2003年。
今井康雄編『教育思想史』有斐閣アルマ、有斐閣、2009年。
森川直『近代教育学の成立』東信堂、2010年。