教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

石戸谷哲夫の日本教員史像―教員の社会的位置

2008年02月29日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は石戸谷哲夫『日本教員史研究』(野間教育研究所、1958年)の整理をします。同著は、1967年に講談社からも出てます。
 石戸谷哲夫『日本教員史研究』は、明治~戦前までの時期における小学校教員の経済・社会・政治的位置を検討するため、近代日本の社会変動との関連から、教員たちの動向・運動と「それに対する」教員政策を明らかにしようとしました。それは、ビール(Beale, H.K.) のアメリカの教員史研究(1941年)に影響を受け、多くの新聞・雑誌資料を用いて、小学校教員独自の社会(教育学との間に「壁」を作りうるほどの独自性を持つ)を、「教職に関する社会学的研究の一環」として明らかにしようとしたものです。その内容を大まかに要約すると、戦前の小学校教員社会の特質は、以下の3つにまとめられると思います。
 第1に、戦前の小学校教員社会に対して強い影響力を持っていたのは、中央政府(官僚)と地方有力者層(町村長・議員・吏員)の2つの権力であったということです。地方有力者層は、小学校教員を決して好意的には受け入れず、たびたび劣悪な待遇を与えていきました。他方、政府は、政府政策を伝達・実施する役割を教員に担わせるために、諸教員政策によって、政治活動の禁止、(準)官吏待遇、免許・品行検定、教員養成制度の整備などにより、小学校教員を地方有力者層の支持する各運動(自由民権運動・国立教育運動など)から「隔離」していきました。その結果、小学校教員と地方有力者層との間は離れていった、ということです。
 第2に、小学校教員は、5度にわたって政府に抵抗してきたということです。1度目は自由民権運動と関わって明治10年代前期に、2度目は帝国議会議員選挙をめぐる対立と関わって明治25年頃に、3度目は第一次世界大戦後のデモクラシー高潮と関わって大正中頃に、4度目は昭和恐慌と関わって昭和5~8年頃に、5度目は太平洋戦争終結後から現在(1950年代)であると捉えられています。1・3・5度目の抵抗は次のような共通点をもっていたといいます。すなわち、その抵抗は、物価上昇のなかで小学校教員の待遇(とくに俸給)が劣悪になるにつれて激化し、政策や不景気によって待遇が改善されるにつれて沈静化したという点です。なお、2度目は正答の反政府的風潮に影響されて教育界上層部が主導したもので、4度目は教育界外部の政治勢力の指導による一部の教員によるものだとしました。ただ、2・4度目の反抗も、町村の圧迫による教員の生活難が背景にあったとしています。つまり、これらの5度の抵抗は、小学校教員の待遇悪化を重要な要因として起こった、と一貫して把握されているようです。
 第3に、戦前の小学校教員は、明治20年代から自らの経済的・社会的地位を意識し始めたことです。明治20年代の教師組合の思想にはじまり、明治30年代の自然主義・社会主義の影響、大正中期以後の教員会や教員組合などの結成による教員再組織の動向を経て、小学校教員たちは「教育労働者」として自覚していきました。
 このように、同著は、小学校教員が、政府と地方有力者層とに左右される社会的位置から、待遇改善に関する政府への抵抗と労働者意識の自覚とによって、独自の社会的位置をつくり出していった、という日本教員史像を描きました。ここに見られるような教員の反政府的運動と政府の教員統制という二項対立的な図式は、以後の日本教員史研究の典型的な図式ではないでしょうか。なお、同著における教育会は、「御用教育団体」「政府の翼賛団体」「上からの統制組織」などと呼ばれ、官製団体として位置づけられる傾向があります。教育会は、小学校教員と地方有力者層とを引き離し、政府の統制下に位置づけるシステムの一部として捉えられているようです。
 石戸谷氏は、昭和20年代に東京文理科大学の助手をつとめている際、教育学理論をはねかえすほどの「壁」を持つ教員社会の独自性に興味をもちました(「はしがき」参照)。また、石戸谷氏は、昭和29(1954)年から32(1957)年まで、野間教育研究所で『日本教員史研究』につながる研究に取り組みます。野間教育研究所は、昭和21(1946)年、基礎的研究によって教育理念の確立を図るため、日本教育史・社会教育・教育心理などの研究を進めるために設立された研究所です。石戸谷氏が教員社会の「壁」を見出した昭和20年代といえば、教育学者が、教員組合や教育運動団体に入り込んで、教育研究運動やコアカリキュラム運動などで大いに活躍した時期でした。石戸谷氏は、教育学者と現場教員の交流が進む中でその間に「壁」を見出し、その「壁」が教員の教育活動を「阻んでいる」と問題視したわけです。
 先日私は、唐澤氏の『教師の歴史』を、教員養成の現場から、理想の教師像を模索する研究ではなかったかと述べました。このような論法で言うならば、石戸谷氏の『日本教員史研究』は、教育学研究の現場から、教育学と教員との距離をつめる手がかりを模索しようとした研究ではなかったかと思われます。
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唐澤富太郎の日本教員史像―師範タイプの克服を目指して

2008年02月26日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 このところ読んだ本を読みっぱなしにしていたので、ここらでその内容を整理していきたいと思います。読書後の内容整理をするのは、思考を深めると同時に、後々になって論文や授業を作成する際、非常に有益な参考資料になるためです。今やるのは、論文や授業作成に生かしたいからです。このブログに書く理由は、①読者へ参考資料を提供することもある、②検索が容易になる、③要点を整理する一つの動機になる、④ブログ更新を促進できる、といったところでしょうか。

 今日は、唐澤富太郎『教師の歴史―教師の生活と倫理』(唐澤富太郎著作集第5巻、ぎょうせい、1989年)の内容を整理しようと思います。制度と実態の両面から分析された通史的研究であり、戦後における日本教員史研究の出発点ともいえる著作です。同著での主な問題関心は、なぜ「師範タイプ」が生まれてきたか、師範学校を中心として解明するところにあります。
 同著は、創文社から1955年に出版されたものを、加筆修正したものです。1955年出版のものは、唐澤氏が東京教育大学で日本教育通史の講義をするにあたってまとめた『日本教育史』(1953年)を発展させ、さらに専門的な「近代教育史三部作」を構想した時、その第1作としてまとめられたものです。「近代教育史三部作」というのは、『教師の歴史』(1955年)、『学生の歴史』(1955年)、『教科書の歴史』(1956年)の3つです。唐澤氏の教育史研究は、日本人の形成史を人間像の展開と捉えて、各時代ごとにどのような人間像を理想とし、どのように目指したかという観点から構想されたものでした。この『教師の歴史』も、時代ごとの理想的教師像を制度よりも実態の面から明らかにし、教員たちがその像の実現をどのように目指したか明らかにしたものです。同著で取り上げられている各時代ごとの理想的教師像には、「士族的教師像」「師範タイプ」「教育労働者」が挙げられます。
 最初に挙げられた「士族的教師像」は、明治5(1872)年の学制頒布以降から明治19年ころまでのものです。これは、近世以来の寺子屋師匠像と連続しており、生徒に厳格な態度をとって村人・父母・生徒からの尊敬され、天職・聖職としての教職観に支えられた教師像でした。当時の教員をこのように回顧する者が多いことや、士族出身者が多かったことから、当時の代表的な理想的教師像として取り上げられているようです。なお、明治政府は、寺子屋師匠の知識・技術・出自を否定して教員養成を始めたのであり、士族的教師像と寺子屋師匠像との連続性は単純なものではありません。また、当時(というより近世にも)、そのような教員ばかりだったわけではありませんでした。
 次に挙げられた「師範タイプ」は、明治19(1886)年の師範学校令以降から昭和20年代前半の師範学校制度の終結までのものです。これは、天職・聖職としての教職観を引き継ぎつつ、明治13(1880)年前後の徳育重視の教育政策から準備され、初代文部大臣・森有礼の師範学校改革によってその原型が作られた、順良・信愛・威重の徳性を重視する教師像でした。「師範タイプ」は、兵式体操や寄宿舎などの師範学校教育による「軍隊式」養成や、政治活動禁止の諸法令による政治的圧迫をともないました。この時期の教師は、期待される役割のわりに、適切な地位や俸給をなかなか保証されませんでした。これらの結果、「師範タイプ」は、「着実」「真面目」「親切」などの長所をもちましたが、同時に「内向的」「裏表がある」「偽善的」などの短所をもつにいたりました。
 最後に挙げられた「教育労働者」は、昭和20年の敗戦以後のものです。これは、大正期の人文主義や教員の地位低下、昭和期の新興教育運動・教員組合結成などにおいて準備され、戦後の教員組合運動において目指されたものです。そして、聖職的教職観を否定して労働者としての教職観にもとづき、「現代職業人」としての性格を追求しようとする教師像でした。この教師像を代表的に説明するものとして、昭和26年宣言の日本教職員組合(日教組)「教師の倫理綱領」が挙げられています。
 このように、同著は、「士族的教師像」から「師範タイプ」への変遷に聖職的教職観の連続性を見出し、「師範タイプ」から「教育労働者」への変遷に近代的職業人としての自覚の芽生えを見出す、という近代日本教員史の歴史像を描きました。この歴史像は、今では日本教育史研究者の間の通説となっていると思います。また、同著では、後に発表された近代日本教員史研究に通じる内容が、思っていた以上に表現されているということに驚きました。なお、唐澤氏は、これらの教員像について、どれかを最も理想的なものとして選ぶのではなく、それぞれの良いと思われる要素を抽出して、現代(1955年または89年時点という意味での現代)における「正しい教師像」を構想しようとしています。それは、「人間形成者としての教師」「精神技術者としての教師」「近代職業人としての教師」として3つの要素に整理されるものでした。これらの内容はここでは説明しませんが、これは、唐澤氏の提示する理想的教師像であり、1955年(または1989年)における一つの教師像でしょう。
 同著は、戦前師範教育の生んだ「師範タイプ」を克服する教員像を追求したものでした。同著は、戦中以来師範教育に深く携わった唐澤富太郎氏によって、戦前の師範教育の頂点であった東京高等師範学校の伝統を引き継ぐ、東京教育大学という新しい教員養成の現場において、戦前師範教育を克服して新しい教員養成の実践を生み出す課題を背負って形成されたものだと思います。唐澤富太郎『教師の歴史』にまとめられた教師像(およびその基礎としての教員史像)は、戦後から1950年代にかけての教員養成の実践的課題に応えようとしたために生み出されたといえるのではないでしょうか。そうだとしたら、我々は、形成後50年を経た時代に求められる教員養成の実践的課題に基づいて、教師像(教員史像)を捉え直す必要があるのではないでしょうか。
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今日の結果報告

2008年02月21日 23時55分55秒 | Weblog
 幸い、記事が書ける状況になりました。
 条件つきで、1年間の在学期間延長を許可してもらえました。条件とは、主題を修正することです。修正といいましても、対象は大日本教育会・帝国教育会のままです。教育会研究そのものは問題ないです。
 今までは「研究活動」一本槍でやってきたのを修正して、もっと広く両教育会の活動に視点を合わせることになりました。実は、自分自身、「研究活動」だけでは教育会を扱いきれなくなっていたので、願ったりかなったりなのです。当然、「研究活動」をテーマにしてきた研究は無駄ではありませんし、むしろ積極的に使っていきます。両教育会の数ある事業の中でも、「研究活動」に注目することで、先行研究にない新しい視点も見出せたわけですし、これこそ私の独自性だと思っているので。むしろ、より広い視野から「研究活動」を捉えることができるようになった、と言った方がいいかも。
 今後の博論の見通しとしては、詳しいことは言えませんが、明治教員史研究として大日本教育会・帝国教育会を捉えることになりそうです。今ある構想で、とりあえず指導教員から「それならやる意義を理解できる」と言ってもらえました。そのため、ゆっくり勉強しようと思っていたところを早急に勉強しないといけません。どうせ勉強しようと思っていたことだし、勢いがついてむしろいいくらい…ですかね。これこそ、「推進力」と思うべきところですね!(笑)
 結果を聴くまで気が気でなかったのですが、結果を聴いてほんとうにホッとしました。結果にたどりつくまでの道のりも、今日一日だけでも、とてもとても長かったです。
 ともかく、まずは某学会の機関誌に論文を確実に掲載させなければ!!
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「生かされる」強制力と「生きていく」推進力

2008年02月20日 19時12分00秒 | Weblog
 明日、来年度に院生でいていいかどうか判断される私です。
 明日の資料を整理していますと、いつの間にか、今までの研究を振り返っていました。
 私の教育会研究は、2004年(実質的には2003年度中)、某学会に認められました。内容については未熟極まりないものです。ただ、ここで問題にしたいのは、学会で認められたという事実です。この事実は、途中で放り出すわけにはいかない、という思いを、私が持続するに十分な要因となってきました。学会に認められたという事実は、これまでの私にたくさんの教育会に関する論文を書く動機となり、実際に多くの論文の活字化につながっていきました。そして、今の私にも、教育会研究を続けさせる動機となり、今こうして博士論文にまとめあげたいと考えさせる動機にもなっています。自分の研究がどんなに「わからない」「ダメだ」と言われ、苦しみ、逃げたい思いに駆られようとも、自分はこの研究に向き合わざるを得ないのです。いわば、あの時の学会の評価は、私の研究に対する「強制力」になっているようにも思います。
 しかし、私にとっての教育会研究は、学会での役割であると同時に、自分自身が論文を書いたり研究を進めたりするように「今を生きていく」動機にもなっています。私は「生かされる」のではなく、「生きている」のであり、「生きていく」のだと思っています。そのため、某学会で認められたという事実は、できれば私の研究に対する「強制力」ではなく、「推進力」と呼びたいと思います。
 そもそも私の教育会研究が始まったのは、修士論文の作成にあたってテーマを探している際に、『信濃教育会雑誌』と『大日本教育会雑誌』の復刻版に出会った時からでした。当時の私は、教員の専門性を考えるにあたって、教員以外の意見を顧みない閉鎖的な専門性ではいけない、素人に支配されるような中身のない専門性でもいけない、せめて教育に直接間接に携わる人々の意見を取り入れるような「柔軟性のある」専門性でなくてはならない、と考えていました。教員の専門性を考える時、職能団体抜きで考えることはできないことも、卒業論文作成の過程で知っていました。そのような中で、教員だけの団体ではなく、教員を含む様々な立場の教育関係者の団体である教育会の存在を知り、それぞれが雑誌の中でハッキリ意見を述べている様を見た時、私は教育会を研究したいと思うようになりました。私の教育会研究は、学会に認められたことによって、やりたくもないのに強制されることになったのではなく、もともとやりたいと思っていた中に様々な障害を乗り越える条件を得て、さらに推進されることになったのだと思います。
 明日どんな結果が出るかはわかりません。また、現在進行中の「掲載決定見直しの可能性をはらむ論文修正」の作業も、どんな結果が出るかわかりません。でも、修士1年の頃から6年間(前段階として卒業論文作成も含めると8年間)続けてきた教育会研究をやめることはないと思います。所属講座や学会に認められないくらいの理由で、教育会研究をやめる、すなわち「生きていく」ことをやめるわけにはいかないのです。
 失敗すればやり直せばいい。私はまっすぐ前に生きていきたい。生きていきたいから、どんなにみっともないと思われようが、やり直し続けたいです。

 明日の審査を前にして、だいぶ感傷的な文章になってしまいました。たぶん、今を生きるのがとても苦しい、でも立ち向かわなきゃ、という気持ちのあらわれだと思います(笑)。いつの間にか、私にとっての研究とは、生きることと同義になっていたようです。今日振り返って、気づくことができてよかった。
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結果を待つ心境

2008年02月14日 23時55分55秒 | Weblog
 在学延長申請のための審査会は21日になりました。
 申請〆切または退学願提出〆切は22日。
 さて、どうなるか。
 博士論文構想については、今の自分をほぼ出し切れたかなと思います。
 これでダメならどうやってもダメだろう、と思えるくらいのモノには仕上がりました。
 あと2・3日くらい準備期間があれば、もう少し洗練できただろうけど。
 その他の資料もちゃんと作りました。
 審査会では15~20分くらいの説明をしなければなりませんが、
 気分はすでに、結果を待つだけの気分になっています。

 ただ、在学延長が認められたとしても、某学会の掲載決定が撤回されたら元も子もない。
 せっかく「最後のチャンス」をくれた学会に感謝しながら、
 論文と勉強を並行させて、慎重に書き直していこうと思います。
 3月中くらいに投稿できるくらいのつもりで、仕上げていこうかな。
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やるべきことをやるだけだ

2008年02月11日 12時55分46秒 | Weblog
成るときは成る。
成らないときは成らない。

結果はそれまでにやってきた集大成であり、
やってきた以上の結果が出ることはない。
だったら、先のことを心配して、
今やるべきことをおろそかにしては本末転倒だ。

やるべきことがわからないなら探せばいい。
やるべきことがわかってるなら、やればいい。
今やるべきことをやれば結果はついてくることを信じて、

やるべきことを今ひたすらやるだけだ。
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現状報告―未来をもぎ取るために作業中

2008年02月08日 23時18分52秒 | Weblog
 先ほどようやく作業が一段落しました。一向に更新されないトップ記事ばかり見せて読者に申し訳ないので、ちょっと気分転換に現状報告を。
 このところ記事を書けない状況が続いています。この1月までは、あまりうかつなことを書けない立場に立っていることと(この状態は今後とも続きますが)、投稿論文修正・非常勤授業作成・バイトの3つで手一杯だったことが重なって、あまり記事を書けませんでした。時々更新した時は、たまに余裕があった時、または余裕がなくてもどうしてもメモしておきたい教育関連の事項があった時でした。1月末に非常勤とバイトが一段落したので、その後はもう少し更新できるかなと思っていたのですが、ところがどっこい、入れ替わりに重大な課題がおおいかぶさってきました。
 重大な課題というのは、来年度の身分を左右する性質のものです。今年度の私は博士課程4年目だったわけですが、博士論文の要件である全国レフェリー付き論文をつくることで精一杯で、博士論文の完成にこぎつけるところまで到達できませんでした。ただ、全国レフェリー付き論文が、全国学会の機関誌に掲載されることが決定しており(掲載号は3月以降の未定号。このままいくとまさか決定を撤回されるのではと不安の毎日を送ってますが…)、数年前に取った論文と併せて、ようやく2本そろう目途が付きました。そのため、できたら来年度も続けて博士課程に所属して博士論文を仕上げたいと思い、博士課程5年目を申請しようとしました。就職もまだ決まらないし、博士論文を仕上げないと私の研究そのものも先に進めないので、博士課程5年目こそ、今私が選ぶことができる最良の来年度の進路なわけです。
 ただ、所属講座の慣例として博士課程5年目は無条件では認められないということで、博士論文の構想と計画を指導グループに審査してもらう必要が出てきました。ということで、目下、博士論文の構想と来年度の具体的な計画を作成中なのであります。在学延長の申請〆切日は今月22日なのですが、指導教員の資料読み込みと審査会の開催を考えて、休日明けの12日が指導教員へ資料を提出する〆切日となりました。ホントは資料を今週中に作って渡すつもりだったのですが、作成にかなり手こずってしまい、土日くらいに完成しそうだったので、無理を言ってこの日にしてもらいました。
 で、先ほど、なんとか博論構想を最後まで書けたので、作業が一段落した、というわけです。一段落はしましたが、完成までの道のりはまだ遠そうです。必要な作業は、

  (1) 章・節・段落単位で「言いたいこと」をハッキリさせ、それにそって書き直す。
  (2) 最初に設定した目的と問題に、論理展開と結論が直結するよう書き直す。
  (3) まわりくどい言い回しや、意味の通らない文章表現・文章構成を直す。
  (4) 要旨とは言えないくらい文章量がとにかく多いので、文章を精査し、必要ない文章を選び、削除する。

必要そうな内容をある程度のあたりをつけて配置してみた結果、かなり面白い内容になったと思います。正直言って、今まで作った自分の構想の中で、一番面白いと思います(自画自賛、笑)。これをちゃんと読んでもらい、評価してもらうために、上記の作業が必要なわけですね。
 必要な作業は、「読んでもらう努力」。
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