教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

復刻版『東京府教育会雑誌』続刊(明治25~29年)

2017年05月29日 20時02分55秒 | Weblog
 忙しすぎて疲れのたまる毎日をすごしております。

 さて、2017年5月25日、不二出版さんから復刻版『東京府教育会雑誌』第4~6巻が発行されました。昨年発行された第1~3巻に引き続き、第33号(明治25年2月)~第76号(29年1月)を復刻したものです。箝口訓令・日清戦争前後の東京府における教育界の動きがわかる史料です。明治研究の基礎史料として、ご購入いただければ幸いです。
 この復刻版、各巻に収録する資料が年ごとや年度ごとになっていないのですが、これは出版上の都合だそうです(各巻の頁数)。まあとにかく、貴重な基礎史料が簡単に参照できるようになります。
 『東京府教育会雑誌』は明治31年までの発行ですが、府教育会の機関誌は昭和期まで続きます。教育会機関誌の記事は明治30年代以降にさらに多様化するので、研究者の多くにとっては、さらなる続刊が期待されるところでしょう。
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日本国憲法と教育、親子関係と教師とケア

2017年05月07日 16時31分25秒 | 教育研究メモ
 憲法記念日と子どもの日をおもって、以下、ごちゃごちゃメモ。写真は関係ないですが、下関の水族館にいた、悟りを開きかけたコウイカです。

 教育とは、人間の自由と権利を保障するための努力である。日本国憲法第12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とある。この「不断の努力」の一つが教育である。
 日本国憲法には、国民の様々な権利や義務が示されている。たとえば、国際平和を希求すること(第9条)や、個人としての尊重を受けること、生命・自由・幸福の追求(第13条)、法の下の平等(第14条)、公務員に対する選定・罷免・請願・賠償(第15~17条)、奴隷的拘束や苦役を受けないこと(第18条)、思想・良心・信教・表現・居住・移転・職業選択・学問の自由(第19~23条)、婚姻に関すること(第24条)、健康で文化的な最低限度の生活(第25条)、教育を受けること(第26条)、勤労の権利と義務(第27条)、団体交渉・団体行動(第28条)、財産権を侵されず用いること(第29条)、納税の義務(第30条)などがある。そして、これらの自由や権利を濫用せずに、常に公共の福祉のために利用する責任を果たすために(第12条)、教育は必要である。
 たとえば、われわれにとって、公共の福祉のために自らの幸福を追求し、自由に思想して表現し、職業を選択して働き、団体で行動し、納税の義務を果たすために、教育は欠かせない。だから、日本の教育は、公共の福祉の実現と自分の幸福追求とを両立する生き方や、思想・表現・学問などを自由に行うこと、自由に職業を選択して働くことなどを教えなければならない。世界平和をのぞむ心や、集団行動をする方法、なぜ働かなくてはならないか、なぜ納税をしなければならないかを知って実践することなどを教えなければならない。

 子どもも含めて、われわれは教育を受ける権利をもっている。生きる権利をもっている。守られる権利をもっている。育つ権利や参加する権利をもっている。これらの権利を保障するには、教育とともにケアが必要である。現代人は、生まれながらにして身体的・社会的な不平等を抱えている。その不平等からくる様々な格差は、放っておけば、時間が経つにつれて大きくなっていく。現実の社会では格差をなくすことはできない。したがって、格差から生じる苦しみも消し去ることはできない。しかし、格差と苦しみを緩和することはできる。われわれが権利を保障し、義務を果たすためには、われわれの間に生じる格差を少しでも緩和させるための努力(政治・政策や社会活動)はもちろん、格差によって生じる苦しみを緩和させる努力(ケア)が必要である。
 人間は相互に関わり合いながら生きている。特に、子どもは、生まれてすぐ親に依存しなければ生きていけない。しかし親は、子どもを産めばすぐ親になれるわけではなく、子どもと関わりながら、育てながら親になっていく。子どもの育ちと親の育ちとのタイムラグは、双方に様々な苦しみを生じさせる。ここで生じた苦しみは、時間が経って双方が成長するにしたがって緩和していく。ただし、その緩和加減は家庭によって異なり、様々な格差を生み出していくことになる。子どもは、それぞれ自分の家庭生活・親子関係から生じた苦しみや格差を背負って、毎日通学してくる。子どもたちの家庭生活・親子関係は、日々の学校生活の質や教育の効果にも影響する。教師が教育の質を上げようとするならば、この点にも配慮する必要がある。
 現代日本において、教師の多忙化は深刻である。教師が家庭生活由来の問題を直接ケアするのは無理がある。他の専門職との連携を考えなくてはならない。教師は、ケアの重要性を知り、子どもたちに適切なケアを提供できる専門職につなぐことができなければならない。それは、今現在と将来において、子どもたちの生まれながらの不平等や格差を緩和し、権利と自由を保障し、ひいては日本国憲法を実現することにもつながっている。
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やっと連休にたどりついた

2017年05月03日 15時57分16秒 | Weblog
 お疲れ様です。連休にたどり着きました。写真は4月中旬に撮った大学裏山の新緑です。
 やっと年度初めが終わった、と感じます。4月は行事で多くの土日がつぶれ、平日ももちろん休める余裕はありませんでした。プレッシャーの大きな仕事も多く、くたびれました。何より、実習を控えた学生と実務家教員の前で、「示範授業」として道徳の模擬授業をしなければならなかったのが一番のプレッシャーでした(笑)。授業自体は期待通りの出来(良くも悪くも)でしたし、学生たちの反応も興味深いものだったので良かったのですが、しばらく燃え尽き状態に陥って難儀しました。とりあえず、この連休は少し休ませて下さい(^_^;)。

 というのも、先だって出された中教審答申・教育職員免許法改正を受けた教職課程改革が、そろそろ実体を見せそうです。教職課程をもっている大学は、例外なく再課程認定に取り組まなければなりません。教職課程改革がそのまま大学改革に直結してくる大学も多いでしょう。われわれ教育学者は、どうしてもその大学改革の中心に引き出されることになります。研究業績の観点から見ても、狭い専門分野一辺倒の業績では太刀打ちできない厳しい状況が目の前にやってきました。授業改善にも取り組まなければなりません。教育学とは、教員養成とは、真剣に考える必要性が日に日に大きくなっています。
 日々の教育、大学改革、業績づくり。その上に授業改善。どれもおろそかにできません。腰の調子は何とか小康状態を保っていますが、油断禁物な状態。体調を少しでも整えなければ、待ち受ける激務に耐えられないです。ましてや研究者としての+αの仕事をや。
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