教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

新しく大学教員(教職課程担当者)になるみなさんへ

2018年03月08日 22時33分55秒 | 教育研究メモ
新任の大学教員(特に教職課程担当者)のみなさん、あるいはその予定のある候補者・希望者のみなさんへ

みなさんには、自分の専門があります。
それは大事にしてください。
今後のキャリアの核となり、アイデンティティの核になり、学問の核にもなります。

しかし、それだけでは大学教員として生きていくことはできません。
関連領域または親領域についても、専門性を求められることがあります。

「私はこの科目を教えるためにこの大学に雇われたつもりではないのに」と思う気持ちは痛いほどわかりますが、
(この科目「も」担当してくださいとは、募集要項に書いてあったと思いますが)
みなさんの専門の科目だけでみなさんを雇う大学は、この日本では絶滅危惧種です。
まず出会えないと思ったほうがいいです。

今の日本の多くの大学は、「これしかできない」という人を常勤で雇ってはくれません。
また、今の日本の教職課程は、教科科目と教職科目との融合を目指しており、この流れはたぶんしばらく変わりません。
そういうことなので、悲しいことですが、あきらめて、専門を広げていく覚悟をもったほうが良いと思います。

なお、ここで大事なことは、専門を「広げていく」覚悟です。
専門を「なくす」覚悟ではありませんし、
専門と「まったく違うことをする」覚悟ではありません。(まあ、そういう覚悟が必要な時もありますが)

専門を広げていく覚悟とは、社会や大学から求められる役割と自分の専門とを結びつける覚悟です。
専門を広げていくと、いつの間にか専門の造詣も深くなっていきます。
狭かった自分の専門知識・技能の全体像が見えてきます。
または、近隣領域における自分の専門の可能性が見えてきます。
自分の専門の面白さが改めて見直され、研究の可能性も広がります。

たとえば、かつての私のように、明治教員史の研究者が幼稚園免許の教職科目を持つこともあります。
この時、明治教員史研究と幼稚園の教職科目とは別物だ、と割り切ることもできます。
この時、研究をしている時間と、授業やその準備をしている時間とはまったく無関係の時間になります。
その場合、授業や授業準備の時間は苦痛でしかありません。
しかし、教育史研究を応用する機会だとおもって幼稚園の教職科目に取り組めば、
いくらかやる気も出てくるところもあります。
やる気が出てくるところが見つかれば、そこから専門を広げていくのです。
そうすればそれなりにやる気も、居場所も見つかります。
専門が広がっていくと、悩んでいた研究の道が開けてくることもあります。

それから、場合によっては、学生にとってよいこともあります。
たとえば、教科教育の教員が教職科目を持つことがあるかもしれません。
教科の内容は大好きでそれを教えるのも好きなんだが、教職科目を学ぶのはだるい、という学生は少なからずいます。
そんなとき、教職科目のこの内容は教科のこの単元を教えるのに役立つ、とか
特別活動のなかで教科の学びを活用できる可能性がある、とかいったことを教えてくれる教員がいたらどうでしょうか。
学生は教職科目に興味をもちますし、教科の学びも広がります。

大学教員が必要に応じて専門を広げることは、うまくかみ合えば、研究にとっても、学生にとってもいい結果を生みます。

もちろん、広げる本人はしんどいです。
専門を広げるということは、自分を変えるということですから。
自分を変えるということは、簡単なことではありません。

でも、どうせやらなければならないなら、誰かから言われる前に自分でやってやろうという気持ちを持ったほうがいいと思います。
やらされることほどしんどいことはないので。
いわれる前に徹底的にやってやろう。
気が付いたころには、意外に面白い自分になっているかもしれません。

教職課程担当教員の養成では、こういうことになっても図太く生きていける力を育てていく必要があると思います。
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