教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

2014年はどんな年になりましたか?

2014年12月30日 23時55分55秒 | Weblog

 ただいまゼミ生11名の卒論をチェック中。一人分約4~6時間くらいかかるので、年末年始はゆっくりできません。頑張ります。

 さて、2014年がそろそろ終わりますね。新年始まっていいスタートを切るために、この一年を振り返っておきましょうね。
 みなさんの2014年はどのような年だったでしょうか。私の2014年は、これまでの総仕上げと新たな展開の兆しが見える年でした。

 まず、学位論文「明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良—指導的教員の資質向上への動員」を1月24日に広島大学に提出し、3月5日に博士号を授与されました。審査の山は旧年中に超えていたからか、提出→授与の間は不思議と静かな気持ちだったのを覚えています。研究テーマを教育会に定めて以降ですから、10年間の研究の集大成になりました。ただし、すぐに対応すべき課題も残っており、9月ごろまでその研究に取り組み、10月の教育史学会と11月の中国四国教育学会で発表しました。また、出版助成を受けるために、10月ごろまで何かと学位論文+αをいじっていました。つまり、博士号を授与された後もずっと学位論文に関わっていたわけです。2014年は、学位論文の仕上げの年でした。
 なお、新しい研究の見通しも見えてきた年でした。決定打は、5月に全国地方教育史学会で発表したテーマ「1900年代鳥取県教育会における小学校教員批判ー教育研究態度の改良に向けて」でした。明治30年代の小学校教員社会における自己改良の機運と「研究」の流行の実態を垣間見た研究になりましたが、この研究をまとめるなかで、このテーマはおもしろいと確信しました。今後は、鳥取に限らず中央・全国各地にも焦点をあてて研究していきたいテーマです。なお、そもそもこの研究の発端は2010・11年度に発表した倉吉の教員集団に関する研究ですが、実際に取り組むきっかけになったのは新鳥取県史編さん事業に関連したブックレット執筆の締め切りでした(笑)。9月末に締め切りを切られていたので重い腰を上げて書いていったのですが、思っていた以上におもしろく、執筆を始めてからは意外とすいすい書いていきました。すでに入稿済み校正中で、よほどのことがない限りは3月に鳥取県立公文書館から発行されるはずなのですが、題目は仮題でまだ変更可能性がありそうなのでブログでの公表は控えておきます。今は県史編さん委員の校閲を受けているところです。興味深い反応をしてくださっているので、うれしい限りです。さて、どうなるかな。
 それから、「教員が元気になる教育史」、「役に立つ教育史」についても、本格的に考え始めました。これから、具体的な実績をあげていかなければなりません。

 それから、3月に5年間勤めた鳥取短期大学を辞して、4月から広島文教女子大学に勤めることになりました。いろいろ戸惑うこともありましたが、幸い、上司・同僚に恵まれ、助けられて何とかやってこられています。「勤め始めてまだ一年も経ってないんですが…」というシーンが山ほどあり、困惑することたびたびでした。とはいえ、保育者養成に5年間必死で携わってきた経験と、博士(教育学)に応じた実績とをかわれてのことですので、ブツブツ言いながらも期待に応えようと仕事に取り組んできました。まあ、気になることがあると黙っていられない性格なので、何かと口を出すから余計に仕事が回ってくるのでしょうけど(笑)。自業自得ですね。
 新しい職場は結構気に入っています。忙しすぎるのは玉に瑕ですが、教職員の間には、お互いに助け合おうという気風と学生を育てようという気風があり、学生の間にも、もっと学びたいという姿勢やみんなで助け合って目標に向かっていこうとする姿勢があります。これらは、そう簡単に醸成できない気風と姿勢です。そして、学生たちは小学校教員採用試験のすさまじい結果を出しました(約70名中一次合格51名、二次合格38名)。私もこのような文化と実績を持つ職場の一員になったのだなと思うと、うれしいです。多忙の解消は、自分の工夫次第で何とかなるでしょう。
 なお、鳥取短大時代の教え子たちのことも忘れていません。とくに、おいてきた旧4組のことは、今の状況や進路などどうなったか気になるので、風の便りに聞いています。おおよそみんな進路が決まったようなので、とりあえずほっとしました。特別研究発表会は行けませんが、卒業前にどうにか会えないかな、でもそんなの求められてないかも、なんて思います。

 今年前半は、拙著「幼児教育の理論とその応用」シリーズ2巻本について、ずっと売れ行きが気になっていました。若造が単著で書いたテキストでしたが、まったく無視されるわけでもなく、そこそこ売れてくれていたので、どこまで行くんだろうかと興味がありました。転売ヤーの仕業で、amazonでの取引金額が一時「万超え」(第1巻が14,700円に!)するなど、ネタには事欠きませんでした。今は売れ行きがついに落ち着きましたが、楽しませてもらいました(笑)。
 拙著を使っての授業も実践してきましたが、職場・学生が代わるとやはり今まで同じではうまくいきません。前期には追加教材を作りました(フレーベルについての論文)。また、まだここでは報告していませんが、後期の講義4科目中3科目の授業形態そのものを思い切って変えました。講義から、学生の発表と質疑応答・補充的講義に切り替えました。これは、大学が授業におけるICT機器の利用とアクティブラーニングを推進していることを受けたものです。まあ、「外圧に負けた」「流行に乗った」結果でしょう(笑)。やり始めた当初はうまくいかず、取り組んだことまでも後悔しましたが、ちょちょっと流れを工夫したところ、今では比較的うまくいくようになりました。うまく行き始めたのは何より、学生が授業形態に慣れた上に、この学び方にのってきてくれたからでしょう。ちょっとやる気のあやしい学生たちの発表回と、学ぼうという気持ちの強い学生たちの発表回とでは、授業の雰囲気がまったく違います。
 やる気のある学生たちに応えようとすると、事前の個別指導にかなり時間が必要です。授業や会議でコマをいっぱいに詰め込むと、個別指導の時間がなくなり、授業の出来もお粗末なものになります。教員も学生も、いかに時間を作るかが大事です。また、今の拙著のように最低限のことだけを書いているだけでは、学生の学びを発展させることが十分にできません。さらなる教材の研究開発が必要だなと思っています。

 最後になりましたが、8月20日の集中豪雨・土砂災害はたまりませんでした。甚大な被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。
 本学も大きな被害を受け、9月中旬まで復旧作業に追われました。私も自宅や研究室は被害を受けなかったものの、キャンパスが被害を受けていたため、できるだけ復旧作業に加わりました。研究や後期準備の大詰め時期に、復旧に大量の時間を費やし、汗を大量に流し、強い筋肉痛になって、大変でした。連日の作業でできた日焼けは、今でも腕に刻まれています(笑)。
 今までボランティアなんて他人事だったのですが、この復旧作業に取り組むことによって、当事者にとってボランティアってこんなにありがたいものなんだな、と実感しました。正直、人生観が少し変わったほどです。

 疲れていますが、不思議と前を向けています。これも周りの皆様の支えのおかげです。来年もよろしくお願いします。

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教職課程教員は教育史にどのように向き合うべきか

2014年12月23日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 先日の記事では、教育史が役に立つと言いました。今回は、教育史を有効に活用するために、教職課程教員は何をすべきかおおまかに言い換えてみたいと思います。

 たとえば、先日は次のように教育史の効果について以下のように述べました。

  教育史は、過去の経緯を明らかにし、現在の教育のあり方を相対化する。現在のあり方を批判可能にし、将来のあり方を考える材料と姿勢をつくる。

 教職課程教員としては、このような現在の教育のあり方を相対化するような授業教材や活動を研究・開発していかなければなりません。現在の教育を批判的(否定的にではありません)にとらえて将来のあり方を考えるように、教材や活動を具体的に考え、計画し、実践を積み重ねなければなりません。
 この場合、教師志望者にはとくに、ことの本質にせまるような教育研究・教材研究の批判的立場を備えて創造的な実践を考えたり、計画したり、模擬的に行ったりするような活動機会を提供するとよいでしょう。また、教師にはならないけれども教員免許状取得や卒業単位のために教職関係科目を履修する学生には、進路選択や子育て、生涯学習、政策参加などについて主体的・自立的に考えたり、模擬的に行ったりするような活動機会を提供し(この活動機会は教員志望者にも必要ですが)、より自由で適切な国家社会を形成する国民や市民を養成することに寄与するように構想・実施するようにするといいと思います。

 そのほかに、過去の教育の成功についての教材を通して、教育の遂行や条件整備の際に、守っていくべき理念や手順を見極める活動を考えることも大事です。また、過去の失敗についての教材を通して、教訓を読み取ったり、類似の教育課題に適用してみたりする活動を考えることも大事です。これらによって、教職科目履修者に、現在や将来の教育のあり方に関する決断や合意について、的確さや説得力を付与していく能力や擬似経験を得させるのがよいと思います。

  なお、上記の教材・活動には、過去において特定の教育思想や学説、方法、制度などが成立した歴史的文脈を把握する教材・活動が不可欠です。これによって、過去の成功や教訓を、そのまま現在に適用するような短絡的輸入や形骸化を避ける態度を身につけるように、授業を計画・実施します。そのあとに、現在の歴史的文脈に対する注目を促しながら、現在・将来の教育についてより慎重・適切に思考する活動を位置付けるとよいでしょう。

 以上、教職課程教員が教育史にどのように向き合うべきか考えてみました。上記のような方針に基づき、教材研究・開発や授業計画・改善を行っていくと面白いことができそうです。むしろ、「役に立つ教育史」を実現するには、研究のあり方を変えるだけでなく、教職課程の現場が変わらないといけないような気がしてきました(とくに教育史学者である教職課程教員が)。

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「教育史は何の役に立つか」という問い

2014年12月22日 01時10分49秒 | 教育研究メモ

 「教育史とは何か」という問いと、「教育史は役に立つか」という問いは、別々に論じていてはいけないのではないか。教育史が存在することが、役に立てようとしようがするまいが、そのまま何かの役に立つのでないといけないから。

 教育史は様々なことに役立つ。
 教育史は、過去の経緯を明らかにし、現在の教育のあり方を相対化する。現在のあり方を批判可能にし、将来のあり方を考える材料と姿勢をつくる。教育史は、教師に、ことの本質にせまるような教育研究・教材研究の批判的立場を用意し、創造的な実践を生み出す可能性を開く。国民には、主体的で自立的な進路選択や子育て、生涯学習、政策参加などの立場を用意し、より自由で適切な国家社会を形成する可能性を開く。
 教育史は、過去の教育の成功を明らかにする。教育の遂行や条件整備の際に、守っていくべき理念や手順を見極める材料を提供する。
 あるいは、教育史は、過去の失敗を明らかにし、教訓を示す。それは、類似の教育課題に取り組む際に、注意すべき留意点を考える材料になる。すなわち、教育史は、教師・国民に、現在や将来の教育のあり方に関する決断や合意について、的確さや説得力を付与する材料になる。
 または、教育史は、過去において特定の思想や学説、方法、制度などが成立した歴史的文脈を明らかにする。それは、過去の成功や教訓をそのまま現在に適用するような短絡的輸入や形骸化を防ぎ、現在の歴史的文脈に対する注目を促し、現在・将来の教育に対する慎重・適切な思考と態度を生み出す。

 教育史は、ただの過去の事実に関する知識の羅列や年表であっては、現代日本においてその存在価値を認められない。社会において存在価値を失った学問は忘れ去られるのみである。しかし、私は、今は忘れ去られても、遠い将来に再び脚光を浴びるかもしれないさ、とあきらめることはできない。教育史には、上記のように極めて重要な機能があることを知っているからである。
 また、私には、教育史は歴史学や社会学の一領域である、と割り切ることもできない。歴史学としての教育史、社会学としての教育史はあっていいし、どんどん進めていけばよいと思う。しかし、その成果を、歴史学や社会学の枠内にとどめておく訳にはいかない。教育史は、教育の現在・将来を考え、よい実践を推進し、さらにはよりよい実践を生み出す立場と材料を提供することができるからである。教育史は、教育学のなかで鍛えられ、教育の現在・将来に生かされるべきである。

 教育史学者は、「教育的概念・現象がどのように歴史的に展開してきたか」をさらに細かく明らかにするだけでなく、「教育史とは何か」をもっと論じ合う必要があると思う。ばらばらに論じる(独白)のではなく、ともに論じ合う(対話)必要がある。互いの考えの違いをぶつけ合い、共通性と異質性を明らかにして、それぞれ認め合ったり、高め合ったりするところまで持って行かなければならない。そうしなければ、「教育史」という領域は消え去ってしまう。
 教育史は、いかに教育学として機能するか、またはし得るか。いかに教育政策過程や教員養成・国民育成・人間形成において機能するか、またはし得るか。これ らの問いに、教育史学者は明確な答えを持っているだろうか。「そんなことを考える必要はない」という思考停止や、「歴史は趣味である」という居直りは論外である。かつて教育史は教育学の中核の一つであり、今でもその役割を期待される向きは残っている(建前であれ、本音であれ…)。教育学は、現代日本において、その存在意義を問われている。そんな時に、教育史のみ、思考停止や居直り、あきらめ、無視を決め込むことは許されない。「何か役に立つはずだ」と言っていれば済む時代は、すでに過ぎたと思う。

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なかなかの積雪です

2014年12月17日 07時26分32秒 | Weblog

 一夜明けて朝の安佐北区。

 なかなかの積雪です。お気をつけて。

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雪が積もってきた

2014年12月16日 22時54分18秒 | Weblog

 このところずっとかかりきりだった仕事が、やっとひと段落つきました。代わりに、今日からまた大量の授業コマをこなす毎日に突入しました(オムニバス授業が回って来たので)。

 さて、数時間まえから、広島市安佐北区でも本格的に雪が降り始めました。積もる雪なんじゃないかなあ。写真はさっき大学のバス停を写したものです。

 明日の出勤・登校にはくれぐれもご注意を。

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教職課程教員の役割とは何か?

2014年12月09日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 教職課程教員の役割とは何か。
 専門的知識・技能の修得を支援することはもちろんですが、それだけにとどまりません。知識・技能のみを身につけていても、本当の教育をすることはできないからです。教育とは、教材を介した教師と子どもとの教育的関係における相互コミュニケーションです。その意味で教育するには、知識や技能だけでは不足です。では、ほかに何が必要なのか。
 教育するには、教師の「教育愛」「教育的態度」「教育的思考」が必要です。これらは、専門的知識・技能を絶え間なく実践し、教育上のコミュニケーションを形成・維持・向上させていく原動力になります。まず、教師の教育愛によって、教師と教職・子どもとの間に教育的関係が形成されます。次に、教師の教育的態度によって、教育的関係におけるコミュニケーションが維持されます。そして、教師の教育的思考によって、教育上のコミュニケーションの質が維持されるだけでなく、向上していきます。これらの過程において、専門的知識・技能は教育実践上に意味をもつことができます。
 そのように考えれば、教職課程において、学生の「教育愛」「教育的態度」「教育的思考」を養うことは欠かせません。ただし、これらを直接教えることは難しいでしょう。これらは、課程全体を通して行われる教員養成的な生活のなかで、学生たち自らはぐくんでいくものと考えられます。教職課程教員が可能かつやるべきことは、これらを目覚めさせ、活用する機会を提供して活性化することです。覚醒・活用・活性化の機会は、日常的にあります。授業だけを意識していたのでは不十分であり、授業・課外活動・実習を通した教員養成に関わる一連の生活を意識して、計画・運営・改善していかなければなりません。そのためにも、教職課程教員は、覚醒・活用・活性化のための教材研究・開発に取り組む必要がありますし、教材研究・開発の質や方向性を根本的に規定してしまう学術研究の量・質を高めなければなりません。
 なお、孤独で、息苦しく、与えられた課題でがんじがらめにされた生活では、上記の目標を達成することは難しいと考えます。自主的・自律的活動を保障する一定の自由感のなかで、仲間とともに高め合う生活様式が必要です。教職課程教員は、このような生活を可能にする教育環境をも作っていかなければなりません。
 「教育愛」「教育的態度」「教育的思考」は、現実の教員にとって修得困難な高いハードルであり、効果を検証することもきわめて難しいものですが、確かに 存在し、かつ教育を方向づけるうえで極めて重要なものです。曖昧で困難なものだからといって目を背けていては、教員養成を担う役割と責任に応えることはできません。教職課程教員は、極めて難しい課題に直面しています。

 

 以上、下記論文を読んで思ったことのメモでした。

・橋本美保「教員養成における教育的思考」教育思想史学会編『近代教育フォーラム』第23号、2014年、129~143頁。
・渡邊隆信「理論―実践問題と教職の専門性―〈教員養成の思想史〉に向けて」同上、163~176頁。

※教育愛についてはシュプランガーの説がやっぱり興味深いです。教育的態度についてはヴェーニガーの説に興味をもちました。教育的思考については、まだこれからです。最近出版された文献にも、題目に掲げたものがありますので、検討したいです。とりいそぎ橋本美保氏の考えには納得できます。序盤のコミュニケーション云々は、「教」の語源から常々思っていることから持ってきました。ハーバーマスとか読まないといけませんかね。

 なお、日本における教育的思考の発生については、広田照幸氏の『教育言説の歴史社会学』を落とせませんね。

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立ち止まってられないね

2014年12月07日 18時45分02秒 | Weblog

 車のタイヤをスタッドレスに替えました。急に寒波がおそって来たのでびっくりです。

 体調はいいのやら悪いのやら。不安定で、ちょっとのことで不安が頭をかかげてくる面倒な状況。とはいえ、このところ朝がしっかり起きられるのでましかな。論文を読んだり、研究や大学の仕事を進めたりできていて、その意味では順調です。

 いま、大中小あわせて5つ原稿を抱えています。締切が少しずつズレながら(まだ締切が決まってないのも1つ)だいたい来年3月あたりまでに仕上げなければなりません。学内の仕事も1つ大きいのを抱えています。四年生の卒論も佳境に入ってきたし、一緒に頑張ろうと思います。運動もしなくちゃ。
 現実的な計画を立てたので、体調に気をつけて1日1日着実にやっていきたいと思います。予定が混雑してきた時こそ、計画立案大事です。

 たまに、ほっと一息つきたいですけど(^^;)

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久々の睡眠大失敗

2014年12月01日 21時32分54秒 | Weblog

 本日は、久しぶりに睡眠を大失敗し、最悪な気分で目覚めました。そのため、今日はぜったい仕事できないと思って出勤。しかし、今日中にやっておかないとまずいと思うことばっかり立て続けに起こり、ぐったりです。いつか回復するかと思いきや、結局夜までダメでした。

 睡眠時無呼吸の治療、再開すべきかなあ… 倉吉に転勤したときに周囲に専門医がいないのでやめていたのですが、広島に戻ってきてまで同じことする必要はないです。でも、CPAP治療すると、「一生これつけて寝なくちゃいけないのか…」と思ってしまって、いやになるんですよ。生活は明らかに楽になるんですけどね。
 とくに問題ない日も多いので、いまさら病院に行っても様子見で終わりそうだなぁ。がんばって運動してやせて、自力で何とかするのがいいような気がする。

 今日はもうねます。

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