教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

『復刻版 東京府教育会雑誌』の配本開始予定について

2016年08月23日 20時55分17秒 | 教育研究メモ

 ここ数日多少余裕が出来たので、どっぷり関わっている仕事をちょっと宣伝。

 

 ついに『東京府教育会雑誌』の復刻版が不二出版から発行されることになりました! 9月に第1回配本が予定されています。来年11月までに、全3回配本の予定です。 教育史学会での立ち話を真に受けて、東京府教育会の機関誌を復刻しようという企画書を、私が不二出版の担当者さんに送りつけたのがたしか2011年くらいのこと。それ以来関係者の努力あってもなかなか前に進まなかったのですが、不二出版さんがついについにここまで持ってきてくださいました。

 東京府教育会は、明治21(1888)年に結成され、大正14(1925)年に東京市教育会と合併して帝都教育会の母体になった地方教育会です。その後、昭和18(1943)年に東京都教育会に改称して、現在に至るまで現役で活動しています。東京府教育会は、首府東京全体をカバーする地方教育会として、江戸由来・大都市東京特有の教育問題や関東特有の教育問題に向き合い、府内の郡区教育会や関東圏内の地方教育会、帝国教育会などと協働しながら、独自の教育普及・改良活動に取り組んでいました。その機関誌には、その活動に関連する様々な教育情報や地域情報が豊富に掲載されています。今回復刻される『東京府教育会雑誌』は、明治21年から31(1898)年まで刊行された、府教育会の最初期の機関誌です。地域の公私立学校の実践・実態や、教員・教育関係者の論説、教員人事の動向など、第一次・第二次学校令期における東京府・都市部の教育事実を示す記事が数多く収録されています。
 麹町、神田、芝、日本橋、四谷、小石川、浅草、京橋、荏原、葛飾、多摩云々……東京にお住まいの方々にはなじみ深い地域の名前が多数出てきます。『東京府教育会雑誌』をめくっていくと、そういった地域の明治期における教育実態が浮かび上がってきます。東京にお住まい・おつとめの方々なら、おそらく近所の小学校の名前も出てきますよ。学校誌や沿革史には記されていない事実も発見できるかもしれません。

 『東京府教育会雑誌』は、明治31年に『東京教育雑誌』に改題され、明治42(1909)年にはさらに『東京教育』に改題されました。その後の機関誌は、大正15(1926)年に『帝都教育』が創刊されています(昭和18年まで)。東京府教育会・帝都教育会の機関誌は、号数を確認できる(欠号含む)だけでも、計600号以上になります。これに、前身の東京府教育談会の機関誌『東京府教育談会報告書』と、東京市教育会の機関誌である『東京市教育時報』『東京教育時報』『東京市教育会雑誌』『都市教育』とを加えますと、実に900号以上です。各号数十ページありましたから、そのページ数たるや万を軽く超えます。そこに豊富な記事が載っているのですから、情報の宝庫と言えましょう。『東京府教育会雑誌』はその最初期のものというわけです。
 『東京府教育会雑誌』は、明治東京の教育実態を明らかにする上では、必須の重要史料です。おそらく日本教育史研究者だけでなく、東京史研究者にとっても座右の資料集となるでしょうね。学校史・教育史教材にもなる記事がある可能性も十分あります。今回は特に、今まで所在不明であった創刊号から第5号までを含めた復刻に成功しました。今まで『雑誌』を触ったことのある研究者にもぜひ触れてほしい復刻版です。

 私は解説を担当しているのですが、復刻にあたってもちょくちょく口を出させていただいています。どうにもならないものもありますが、できる限りよいものにしていきたいと思いますので、どうぞ購入予定に入れておいていただけますと幸甚です。
 世知辛い世の中、今後この事業が続くかどうかはこれから次第。どうぞ前向きにご検討ください。

 また余裕があったら続報を出しますね。

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教育史教育の有用性、そして教育史教育者の責務

2016年08月21日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 教育史教育の有用性はどこにあるか。

 教育史教育の有用性は、学習者自身が教育観(子ども観・社会観・人間観なども含む)を問い直し、教育について考える土台を作ることができるところにある。教育の場面では、自然に形成された教育観では対応できない問題がある。教育の専門家として教師が生きるならば、問題解決の過程で教育観・子ども観を問い直 して根本的に考え直すことができるようにならなければならない。一般人と教師とを分ける根本的なものは、自分の教育観・子ども観などの観念のレベルから問題を問い直す姿勢だと考える。このような姿勢は、自然の経験だけでは形成しにくい。教育史教育はその姿勢を形成する。
 人は誰でも一定の教育観をもっている。教育する時、意識するしないに関わらず、人は自分が有している教育観に従って被教育者と関わっている。教育観は、被教育者との関わり方を規定する。教師や大人の子どもに対するふるまい方は、根本的に、それぞれが有している教育観から生じている。教育観は日々の経験のなかで形成されている。親からのしつけや今まで出会ってきた教師の指導、同級生や先輩後輩との教え合いなどを通して、人々はそれぞれ教育観を形成している。教育史教育が対象とする人々は、何の教育観も抱いていない無垢な人々ではない。そのため、教育史教育とは、ゼロから学習者の教育観を形成することではない。教育史教育は、そのような意味で、「問い直す」機会にならなければならないのである。

 教師の役割を果たし、教師としてふるまう上でも、教師が教育観を問い直す姿勢は重要である。確かに、教育観を問い直す姿勢がなくとも教育することはできる。しかし、問い直しの姿勢がなければ、その教育が根本的に間違っていても修正することができない。「教育とは何か」を深く考えたことがない教師や、教えたことや教育のやり方が間違っていた時に直すことのできない教師に、誰も教わりたいとは思わない。教師が子どもに対して自らの責任を果たそう、子どもに対して誠実であろうとするならば、教育観を問い直す姿勢は重要である。
 また、教師が社会に対して責任を果たし、誠実であるためにも、教育観を問い直す姿勢は重要である。社会が変化すれば教育に期待される役割も変化する。社会の期待に応えようとする時、教師は自分の教育観を問い直す必要がある場合がある。あるいは、社会の期待そのものが不明確・不十分である場合もあれば、間違っている場合もある。その場合には、言われるままに実践することはできないし、無批判・思考停止では許されない。教師自身が社会に働きかけ、適正な手段を講じて修正を迫る必要があるかもしれない。社会の期待に応えるにしても、批判的に関わるにしても、教師に確固とした教育観がなければそれは不可能である。
 教育観を確固としたものにするには、自らの教育観を問い直し、改善・補強し、その根幹を発見・自覚しておく機会が必要である。教育史教育はその機会を提供することができる。

 教育史教育は、学習者が自分の教育観を問い直す機会を提供しなければならない。だから、年号や人名、著者名、重要語句を覚えさせるだけでは不十分である。これらは、過去から考えるための索引のようなものであり、教育史教育の入口でしかない。教員採用試験や講習認定試験等が年号や人名、著書名、重要語句を問うのは、過去から考える入口に立っているかどうか確認するためであれば、いっこうにかまわない。入口に立たせることに意味はある。しかし、入ってからどうするかまで指導しなければ教育史教育にはならない。教育史教育は、教育観を問い直す「唯一」の方法ではないが、史料を用いて歴史的事実に触れ、過去にさかのぼって教育を問い直すことは、古来行われてきた身近な方法である。この身近な方法について、その意義や手段、効果などを考察し、実践し、検証・改善することは、我々教育史教育者の責務である。
 教育史教育は、史料を教材として、学習者を歴史的事実に出会わせ、教育を問い直す活動に導く教育実践である。これを通して、学習者が自ら教育観を問い直す姿勢を育て、その態度・能力を涵養し、そのための基礎となる知識・技能を身につける機会を提供する。そのために、教育史教育者は、教育史教育にとって価値ある史料を教材化し、教育観を問い直す過程を構想して授業化し、実践する。また、自ら教育史研究者となって教育史教材としての価値ある史料を発見し、解釈して、研究者間で吟味し、史料の教材としての価値を高める。従来、このような教育史教育者の活動は、個人の活動にとどまっていた。無自覚・無意識な活動にとどまった場合も多かったであろう。しかし、史料の発見・検討には自覚的で組織的な専門的研究が必要である。また、教材化や授業過程の妥当性や効果を高めたり、それを公表して、他の教育者や社会の参考に提供したりするためにも、自覚的・組織的研究が必要である。
 教育史教育研究は、よい教師を育てるために必要である。そのためにも教育史研究は必要である。教育史研究と教育史教育研究、そして教育史教育の実践が自覚的・組織的に共進することは、教師教育の質をより高める。教育史教育者が教育史教育とは何かを問い直すことは、教師・教師志望者に対する責務である。教育史教育者は、教育史教育の意義と責務とを自覚し、組織的研究に取り組む動きを始めるべきである。

 教育史教育者よ、我々は、「教育史を学ぶことに何の意味があるのか?」という問いかけに真っ向から答えなければならない。「教師にとって教育史は必要ないのではないか?」という世にはびこる誤解を解かなければならない。答えることをやめ、誤解をそのままにし、ましてや自分自身がその疑問と誤解に飲み込まれていないか。「教育史研究者」という自己規定にとどまっていないか。「教育史なんて役に立たない」という自己否定に陥っていないか。そのような心持ちで教育史を教えるのは、自己満足と自己欺瞞、そして学習者に対する不誠実しか生み出さない。
 教育史教育の有用性を問うのは、我々教育史教育者の責務である。

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学位論文出版の校正開始

2016年08月08日 20時17分40秒 | Weblog

 ごぶさたしております。学生は夏休みに入りましたが、私は相変わらず忙しい毎日を過ごしております。先週末には教員免許状更新講習6時間分の講師も務めておりました。教員・公立保育士採用試験も着々と進んでおり、4年生の準備支援にもぼちぼち加わっております。

 

 さて、そしてついに2014年2月に書いた学位論文の出版作業が本格化しました。学術振興会の公開費補助を受けての出版です。出版時期は、だいたい半年後くらいの予定だそうです。本日、出版社から初校原稿がやって参りました。大半は学位論文の時に徹底的に校正したので、そんなに校正時間がかかるとは思っていなかったのですが、追加部分と、構成上横組み表が縦組みになったところもあるのでしっかり見なければなりません。時間確保は大丈夫だろうか…
 索引など除いても600ページ以上あるので、物理的に重いです…汗 とはいえ、研究生活十数年の集大成なので、単行本になるのはうれしいです。いい本にしたいです。

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