教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

全国地方教育史学会第34回大会参加略記

2011年05月23日 21時23分22秒 | 教育研究メモ

 この土日は、東京で開催された全国地方教育史学会第34回大会に参加してきました。出張報告書に書いたことを再利用して、参加略記を書いておきます(報告書に、だいぶ手を加えていますのであしからず)。
 専門に直接関係するもの、間接的に関係するもの、さまざまな教育史研究に関する知的経験を積むよい機会となりました。

 5月21日、大会1日目。この日は、東京都北区飛鳥山公園内の渋沢史料館における史料見学会に参加しました。大会1日目の史料見学会は、この分野では珍しく、この学会の特徴の一つです。さて、同史料館では、近代日本の教育発展にも寄与した、渋沢栄一に関する史料や展示を見学させてもらいました。史料は、書庫や保管庫に所蔵されている膨大な量のものを見せて頂きました。学芸員さんの話によると、大正期の関東大震災によって多くの史料が灰燼と化したため、ほとんど震災以後の史料だそうです。しかし、現存のものだけでもかなりの量の史料が所蔵されており、渋沢が関わった団体や学校の史料もかなり所蔵されていました。渋沢を中心とした教育史研究の可能性を感じました。なお、同館の学芸員さんは、非常にいい声で、楽しそうに、明瞭かつ興味深く説明してくれました。渋沢への興味を引き出すのに、十分な説明でした。史料保存の様子も当然ながら、学芸員の学識を見て、渋沢史料館の実力はかなり高質だなぁと感じました。
 なお、同史料館では同時期に「法学者・穂積陳重と妻・歌子の物語」が展示されており、こちらも興味が惹かれました。穂積陳重は、公徳養成の研究をしていたときに出てきた重要人物だったので。時間がなくてさっとしか見れなかったのは残念でした。

 5月22日、大会2日目。慶應義塾大学三田キャンパスにて、研究発表・公開シンポジウム・総会に参加しました。研究発表は、学制頒布以前の地方における学校設立と廃止の実態と要因、教育令期の九州における県連合の教育会議、昭和戦前期の小学校報徳教育における生活指導実践、アジア太平洋戦争中における府県教育会機関誌の休刊とその後の復刊、についての発表を聴講しました。そのほか、休み時間などで各研究者と懇談し、研究に関する情報交換などを行い、充実した時間を過ごしました。
 午後から、公開シンポジウム「慶應義塾と地方教育」に参加しました。一般公開されており、おそらく学内関係者も参加していたらしく、研究発表の時より参加者が増えていました。シンポでは、青森県、愛知・静岡県(三河・遠江地方)、和歌山県の教育を事例に、慶應義塾との関係を探っていく内容でした。近代日本の教育に慶應義塾が深く関わっていたらしいことは周知の通りですが、各地の教育に対する慶應義塾の関係の仕方は異なっており、興味深い話を聞くことができました。シンポジウム後、総会に参加し、帰路につきました。
 なお、シンポジウムでは、大日本教育会や帝国教育会にも、幹部連中に慶應出身の教育関係者(後藤牧太や鎌田栄吉など)もいたなぁと思いながら聞いていました。福澤諭吉は、両教育会の名誉会員でした。鎌田栄吉は、昭和期に帝国教育会の会長を務めています(塾長を退いた後ですが)。大日・帝教と慶應との関係も、決して無関係ではないようです。

 なお、慶應義塾大学福澤研究センターより、福澤諭吉と教育との関わりに関するさまざまな史資料をいただきました。この史資料は、かなりの分量・質のものであり、お得感満載でしたよ。同センターのご厚意、ありがとうございました。
 1年ぶりに会えた人もおり、うれしい機会にもなりました。

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今後の純邦楽について―作曲法と曲の聴き継ぎ

2011年05月15日 13時22分34秒 | 純邦楽

 邦楽器(和楽器)を中心に用いた音楽=(純)邦楽。箏・三絃・尺八・笛・琵琶・和太鼓… さまざまな邦楽器がありますが、これらをつかった邦楽は、日本人の心と生活(自然に対する感情を含む)を表現するために不可欠な音楽だと思います。ただ、現在、邦楽はギリギリのところで生き残ってはいるものの、邦楽界の閉塞感は否めないところでしょう。この閉塞感を払拭するには、どのような方法が必要なのでしょうか。

 私自身は、多くのよい新曲が発表されるとともに、既に発表されてきた名曲(古曲だけでなく、近代以降発表されてきた曲も含む)が聴き・演奏され継がれることが必要だと思っています。今でも、おそらく100を超える新曲が毎年どこかで発表され、多くの名曲が聴き継がれ・演奏されています。しかし、新曲の発表数はまだまだ少ない。本当の名曲は、多くの曲が発表され、淘汰されていく中で生まれます。もっと多くの曲が発表される必要があると思います。

 多くの曲を発表する方法は、より使いやすい楽器に適した作曲法を抜きにして考えることはできません。明治以来、とくに戦後日本において、邦楽界が突き詰めてきた作曲法は、基本的に西洋において生まれ育てられてきた五線譜等による作曲法でした。演奏時に縦譜・文化譜(横譜)といわれる独自の楽譜形式も使われていますが、邦楽の作曲法の基礎理論はやはり五線譜による作曲法です。しかし、邦楽器独特の個性や演奏法を表現しようとすると、五線譜では非常に困難です。無意識・意識的にそういう独特の個性を表現することを避けてしまう結果、邦楽器でなくてもかまわないような薄っぺらい音楽を作曲してしまうことになりかねません。邦楽器独特の個性を五線譜に表す表現法は、これまでも様々に開発されてきました。今後、邦楽器による作曲は、五線譜による邦楽器独自の個性を表現する作曲法を追い求めていくべきか、独自の作曲法を追い求めていくべきか。その答えを出すのは難しいところです。

 私は、五線譜の作曲法をさらに邦楽器に合った形で洗練していくことが大事だと思っています。明治以来100年以上も追い求めてきた五線譜による作曲法ですから、今更すべてを否定してもよいものはできないと思われます。また、音楽は人々の心や生活を表現するものです。今の日本人の心や生活は、邦楽器だけで表現できなくなっていることも確かでしょう。今後は、現在多くの人々が行っているように、さまざまな楽器とコラボレーションしてよい音楽を生み出していくことが必要なのではないでしょうか。そのためには、様々な楽器と共有できる五線譜による作曲法が不可欠です。

 ただ、先述の通り、邦楽器でなくてもかまわないような音楽を作っても意味がありません(私自身の自戒も含めてですが、実際にそういう曲が多いこと…)。そのあたりを乗り越えるには、作曲家がどの程度まで邦楽・邦楽器のことを理解できるかにかかってきます。いかにすれば邦楽・邦楽器について理解できるのでしょうか。理解するには、多くの名曲を演奏または聴き続けることしかありません。教育制度、教員養成、マスメディア等々、変わるべき分野は多いですが、今邦楽に関わっている人々ができることはなんでしょうか。それは、新曲や既存の名曲を、聴き継ぎ、演奏していくことだと思います。

 以上のように、邦楽界の閉塞感を払拭するには、作曲法のさらなる洗練と、新曲や既存の名曲の発表機会を確保することが必要だと思っています。そのためには、作曲家・演奏家の日々の努力と成長、演奏会の普及、そしてCD製作企業やマスメディアの協力が必要です。たとえば、既存の名曲の資料集として、邦楽CDは重要です。とくに、かつて出版された名演奏家が作ってきたレコードの復刻を是非実現してほしいと思います。私が知る限り、ビクターエンタテインメントはよくがんばっている様子ですが(『箏―沢井忠夫作品集』全5巻、『山本邦山作品集成』全8巻、『響―和楽器による現代日本の音楽』、『復刻・現代の箏曲ベスト30』などの復刻を近年実行している)、かつて邦楽レコードの出版をしていた企業には、日本の現代芸術をさらに洗練させるためにも、もっともっとがんばってもらいたいところです。

 なお、特定の企業名を挙げて批判するのは申し訳ないのですが、NHKには一言もの申したいことがあります。NHKは、数十年前から「現代の日本音楽」や「邦楽のひととき」などの番組で大量の邦楽曲を放送しているにもかかわらず、その成果のほとんどを死蔵しております(たまにほんの数曲をアーカイブス放送しているようですが…)。京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターは、長廣比登志氏の調査をもとに「現代邦楽放送年表」なるものを作り、1964年~1972年のNHK番組「現代の日本音楽」で放送された作品をデータベース化しているのですが、これを見るとNHKの「死蔵ぶり」がよくわかります。NHKは、これだけの曲を委嘱・発表させてきたのですから(これは「偉業」といっても良いと思うのですが…)、国民に対して再発表していく方法を模索して欲しいものです。埼玉のNHKアーカイブス(施設)で公開しているのも、ほんの一部にすぎないようです。著作権の手続きや、邦楽CDは売れないなど、いろいろ難しいこともあるでしょうが、ぜひともがんばってほしいです。高額になってもいいから、せめて、学術資料として発行してもらえないでしょうか。


 ちょっとだけメモがてら書こうと思っていたら、こんなになってしまいました。最近はまったく作曲してない(できない)ので、いいっぱなしで居心地悪いですが、今思っていることはこんなところです。

 先週から激務が続きます。さらに、来週からはしばらく休みがとれない… 落ち着いたらマジで有休もらおう。それまでがんばる!

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「愛」とは何か、「教育愛」とは何か

2011年05月04日 23時55分55秒 | 教育研究メモ

 4月の怒濤の反動か、いまいち力が出てこない状態。来週以降、4月を超える毎日が6月まで続きます。この状態で来週に突入するとマズイので、がんばって回復中です。

 さて、気分直しにマンガの話と、そこから脱線して教育の話を。

 以前話したことのある、とよ田みのる『友達100人できるかな』(講談社、アフタヌーンKC)ですが、最近、最終刊の第5巻が出ました。この作品は、36才の小学校教師が宇宙人の侵略から地球を守るために小学3年生になって、1980年代を舞台に友達を100人つくる、というもの。あらすじだけを述べるとトンデモない話ですね(笑)。とよ田さんの作品らしく、毎話毎話、感動させてくれました。私には涙を流さずにいられた話はなかったです。5巻では、ついに友達100人を作って大団円(かなり強引でしたが笑)。終わって欲しくない、と思った作品は久しぶりでした。
 この作品のテーマは、おそらく「愛」「友情とは何か」だと思います。相手を思いやり、相手のために尽くすこと、それが「愛」「友情」なんだと、まっすぐに伝えてくれました。

 私の実践上の課題はたくさんありますが、最近の一つは「教育愛とは何か」です。私自身、「人を愛する」とか「愛される」とかいった感覚が今ひとつ実感ないので、昔はまったく興味関心のないテーマでした。しかし、実際に教壇に立つようになって、子どもたち(学生たち)との間に教育関係を結ぶには何が必要なのか、そして現に子どもたち(学生たち)に対して感じている自分の気持ちは何なのだろうか、と考えるようになりました。とよ田さんの作品は「たかが」マンガですが、人間関係における「愛」について、感覚的に感じるきっかけを私につくってくれました。
 教育愛?そんなうさんくさい、そんなもん必要ない、と思った人は、教師・教育とは何か少し考えた方がいいと思います。「愛」という言葉が受け入れにくければ、「思いやり」でもいいでしょう。教育愛とは、教育関係における愛であり、異性愛とも、母性(父性)愛とも、宗教的愛とも違うものです(それぞれが重なり合うことはあるでしょう、たとえば教育愛と母性愛など)。教師が被教育者へ自主的・積極的にかかわろうとする気持ち。被教育者の幸福のために、能力を引き出し、引き上げようとする気持ち。先人と我々が積み上げてきた文化を伝え、我々の社会へと導こうとする気持ち。被教育者が愛を知り、他へ愛を抱くように導いていく教育方法。教師をして、様々な困難を乗り越えて教育へと向かわせる動力源、エネルギーの源。教師を教職に永く就かせ、教職の専門性を高める原動力。
 教育は、教育対象に対する深い理解を基礎としながら、現在と将来との利益・幸福を目指して行う、人間と人間とのコミュニケーションです。相手を思いやらなければ、教育は成立しない。被教育者を思いやらなければ、教師は務まりません。知識や技術だけでは、権威だけでは、教師は務まりません。現在、保育者養成にかかわっているため、余計にこう思うのかもしれません。
 教育原理教科書にあった「エロース」論だとか、ペスタロッチ-だとかを読みかじってきましたが、私にとっては、今のところシュプランガーの「教育愛」論が一番かちっと入ってきました。倉橋惣三の「育ての心」も、なるほどと思いました。まだまだうまく語れませんが、教師のあり方を語る概念として、間違いなく重要なものだと確信しています。

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