教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

大風呂敷と小風呂敷

2006年06月29日 20時09分27秒 | Weblog
 今日は昼前に起き。元気であります。
 登校後、7月末自己決定〆切の論文を書く。昼飯を食べて帰ってくると、Y先生が紀要論文の件で呼んでいるとのこと。
 14時すぎぐらいから、私とY先生とI先輩の3人で、再び紀要論文の審議。Y先生いわく、とりあえず今回の論文ではできることは限られているから、「大風呂敷」を拡げず、「小風呂敷」を拡げよ、とのこと。私なりに理解したところでは、「大風呂敷」とは教育学や日本教育史といった我々にとって上位の研究領域の全体像を変えてしまうような論のことで、「小風呂敷」とは研究対象を認識するための理論的枠組みのこと。先日の書き直し指導では、教育学の像を変えようとしていた「超大風呂敷」をたたんで、小さくまとめろとの指導があったので、今回は日本教育史の歴史像を変えようとする「大風呂敷」に書き直したのです。ですが、これでもまだ大きかったようで。まあ、そりゃそうだ。たった2万字足らずの論文だけで、そこまで言えるわけがないし。指導後、暗くなるまで「小風呂敷」を考えながら論文修正。なんとか「小風呂敷」のメドはついてきたかな…?
 この論文修正の過程を追ってくると、ずいぶん回り道してきたように見えます。今回の紀要論文だけではなくて、もっと長い目で過去をみると、大学院博士課程前期1年から博士課程後期2年前半までは、ひたすら細かい実証の指導を受けて、後期2年7月ごろから大きな問題把握を求められるようになり、今ようやくかなり大きなところにまで目が行くようになりました。やっぱりそうとう回り道してきたような気がします。実際ずいぶん回り道しているのは事実なのですが、無駄な回り道ではありません。今は細々した実証を繰り返す論文しかまだ書けないのですが、その先に見えているかなり大きな問題まで見えてきました。まあ、数年程度では到達できないくらい遠いですがね。 
 ところで、鏡を見るたび、「誰だこれは!?…あ、俺かぁ」と思う。
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あえて休む

2006年06月27日 15時13分52秒 | Weblog
 今の私。
1,おかれた現状に対する苦しみ
 論文ができない。書いても書いても実績にならない。
 書いても書いても目的に達することのできない論文しか書けない。
2,来年4月以降の自分に対する不安
 3月までに博士論文が書けるか(文字数やページ数の問題ではない)どうかわからない。
 D4やるにも、研究生するにも、就職するにも、アテがない。
3,周りの期待に対するプレッシャーと申し訳なさ
 期待に応えたい。けど、期待される境地に達することができない。

 たまらなくつらい。
 すぐにでも学校へいって論文を直したい。けど、ここはあえて休むことにする。
 あえて休むことにより、次第に直したくて直したくて我慢ができなくなる。さらに休んでる最中に、考えが整理されてきて、いいアイデアが生まれることがある。気力も体力も回復してるから、それを文章にすることもできるようになる。
 空回りしない頑張りの秘訣は、ちゃんと休むこと。
 なお、浮かんだアイデアはちゃんと書きとめること。忘れるから。
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凹む

2006年06月26日 20時18分01秒 | Weblog
 今日は17時から例の討論会。
 それまでは7月末〆切(自己設定)の論文を書いてました。
 討論会では、先生の言われた通りに書き直したら、やっぱりここまでは言えないよな、ということになり、今回の論文で言える範囲で小さくまとめよ、という指示が出る。私も実は、先生に言われたようなことは、この論文の範囲では言えないし、一冊の本になる程度の分量でも(当然、博論の分量でも)足りないだろう、とはなっから思っていたので、結果的には落ち着くところに落ち着いた、ということになる。ただ、正直、見捨てられたような気分がしてかなり凹む(苦笑)。さらに、少し見えてきていた博論がさらに遠ざかって見えなくなったような気がして、めまいがする(苦笑)。
 まあ、仕方ないか。
 とりあえず、目の前にあることをしなくてはならない。課題は、「大日本教育会・帝国教育会像の再構築によって、日本教育史の何が変わるか」を明らかにすること。これを書かないと、研究科紀要の投稿すらOKが出ないので。従来は、「教育運動団体」「職能団体」「翼賛団体」として捉えられてきた大日本教育会・帝国教育会。教育運動団体としての両会像は、教員たちの政治的自立の歴史を描くのに役だった(多くは逆説的な意味で、だけど)。職能団体としての両会像は、教員の専門職化につながる職業的自律の歴史を描いていた。では、私は何を描くか。私が問題としたいのは、政治運動じゃないんだ。教員だけの話じゃないんだ。
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戦後日本音楽史における杵屋正邦

2006年06月24日 20時08分01秒 | 純邦楽
 今日は結局午前1時半ごろに起きあがりました。登校中に少し眠くなってきたので、一度帰りました。で、カフェインを摂って寝ると短い時間の睡眠で眠気が吹っ飛ぶと聞いたことがあり、何度もうまくいっているので、コーラを飲んで一寝入り。15分ぐらいで再び起きました。眠気はだいぶ飛びました。
 それから、7月9日のコンサートの準備(リハや当日のタイム・スケジュール作成や、プログラム原稿の作成など)をしました。予定では3時間ぐらいでできあがる予定だったのですが、思った以上に時間がかかり、結局朝までかかってしまいました。まあ、とりあえず一段落したので良かったなぁ。
 9時すぎ、7月のコンサートで使う道具を借りに広島大学邦楽部(文化系サークル棟和室)へ。そのついでに総合科学部周辺の掲示板にコンサートのチラシ・ポスターを貼る。それから、運動へ。運動後、昼食を買って帰り、洗濯をしながら食す。13時半から三味線の練習のため、近所に住む相方のTさんのところへ。
  
 練習後、疲れたので少し自宅待機。自宅待機中、吉崎清富『杵屋正邦における邦楽の解体と再構築』(出版芸術社、2001年)を読む。この本は、大阪大学大学院文学研究科の学位論文で、杵屋正邦(きねやせいほう、1914~1996)という戦後の邦楽(日本音楽)作曲の巨匠の人物研究です。戦後日本音楽史における杵屋正邦の位置づけに成功しており、日本における音楽学の立派な研究であろうと思います。私はそちらの専門ではないので専門的な位置づけはできませんが、個人的には次の二つのことが興味をひきました。
 第一に、杵屋正邦は、伝統音楽の解体と再構築による「現代邦楽」を形成した人物であったことを、正邦の履歴や言説等によって実証したこと。なお、正邦が属する現代邦楽の流れとは別に、西洋音楽理論・技法を土台として現代邦楽を形成する流れがある。正邦も西洋音楽の理論・技法を応用したが、それは伝統音楽の解体と再構築によっては得られない部分を補うためであった。正邦の作曲活動には、あくまで伝統音楽が土台にあったのである。
 第二に、杵屋正邦の膨大な作品を整理し、作品一覧表を作成したこと。吉崎氏は正邦宅にて作品の整理を行い、全部で1,354点の作品の存在を明らかにした。その中には、初演されていない曲も多く、一般に知られていない多くの曲の存在を明らかにした功績は大きい。
 以上2件が個人的に興味をひいた点です。ただ、不満な点が一点。この本は、西洋音楽学者である吉崎氏(東京学芸大学)の手による学位論文がもとになっているので、作品の理論的分析が中心かと思いきや、杵屋正邦の履歴と20世紀の日本音楽をとりまいた直接・関節の社会状況とを重ね合わせて分析した歴史的研究が中心の本です。作品の理論的分析も本書の6分の1程度ありますが、杵屋正邦が一千曲以上もの作品を残したことを考えると、これだけの分析では物足りません。すべての曲を分析することはできないのは当たり前なので、吉崎氏がやったようにエポックメーキング的作品10点を選び出して事例研究を行ったのも仕方ないのですが、その分析の仕方が不満なのです。というのも、吉崎氏は、形式的な種類別(舞踊曲とか三絃曲とか)に機械的に分け、音楽技法の分析をするにとどまっています。せっかく正邦の履歴・思想・社会的役割等の分析をたくさんやったのだから、もっとそれらの結果と作品の傾向をリンクさせて分析してほしかったなぁ。そうでなければ、作曲家・杵屋正邦の本当の歴史的意義(本書に合わせれば音楽学的意義)はわからないんじゃないかと思うのですが。
 まあ、膨大な作品数があるわけですから、吉崎氏一人の仕事ではないでしょうし、その辺は今後の課題でしょう。その課題に取り組むとき、吉崎氏の仕事は貴重な先行研究となると思います。ただ、杵屋正邦の作品に触れる機会がもっと増えないと、課題は課題のままで終わってしまいそうで心配ですが。楽譜は出版されていないものがほとんどなので実際普及していないし、入手・閲覧手段も限られていますしね。どうにかならんのでしょうか。
  
 この本を買ったのは数年前で、杵屋正邦の作品にハマっていた時に買いました(ちなみに、私の作品は杵屋正邦に影響されている、と知り合いに批評されたこともあります。自分でも正邦の影響は大きいと思います)。この本を買ったときは、単なるオタク的な興味関心しかなくて、上記の第二点の作品一覧表にしか興味がありませんでした。ですが、今はむしろ、歴史的な興味や学問的興味が先行して、第一点に非常に強く興味がひかれました。どうやら長々と述べた不満点は、従来の作品そのものに対する興味と、歴史的興味が合わさって現れたもののようです。自分のことながら、時と経験と現状によって視点がはっきり変化し、そのために新しい興味が湧いたというところにおもしろさを感じます(笑)。
  
 とまあ、このブログの大半の読者が興味のないであろうことを、つらつらと書いてしまいました(笑)。吉崎著を読んだ後、再登校。辻哲夫『日本の科学思想』の続きを読む。
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いつもの異常寝起き

2006年06月23日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は再び異常寝起き。昨日、眠かったので22時前に寝たのですが、24時すぎに目が覚めました。もう少し頑張って寝たのですが、寝付けないので、午前1時ごろ一端起きました。佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心理学』(北大路書房、1997年)を一時間ぐらい読み、もう一度就寝にトライ。結局午前3時までねばりましたが、横になるのに疲れてしまったので、あきらめて起きました。
 午前3時半ごろ登校。7月下旬〆切の某原稿を書く。60%程度できました。よしよし。朝食を摂った後、眠くなる。椅子や机に突っ伏してうとうとしていると、I先生の授業時間になる。授業に出た後研究室に戻ると、C大から日東研究室にあるはずの資料が見たいとやってこられた方(Fさん)が来ていました。わざわざ遠いところから来られていたので、来て良かったと思ってもらえればいいなあと思い、一緒になって資料を探しました。目当ての資料そのものは見つからなかったのですが、それに近いものが見つかり、先方も喜んでくれたのでホッとしました。ちなみに実はFさんもこのブログを読んでくれているとのこと(ありがとうございます!)。初めてお会いした(はず)のですが、自分の研究関心で調べていたところたまたま見つけてくださったとか。本名でブログを運営しているとうれしくないことも多々ありますが、こういうのはやっぱりうれしい。ウェブによる人的ネットワークの拡がりはやっぱり驚くべきものがあります。
 しばらく論文をいじったりしていたのですが、眠くて限界。14時半ごろ帰宅して、仮眠のつもりで寝る。
 んで、寝起き最悪。仮眠のつもりが本格的に寝る。24時ごろ目が覚め、眠れなくなる。ああ、おかしな生活リズムになってきたぞ~
 寝てしまったので運動はなし。目が覚めたとき鏡を見ると…うーん、なんかボリュームアップ?(むくんでいるだけだと思いたい…)
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7月9日和楽器コンサート

2006年06月19日 20時52分37秒 | Weblog
 写真は、ぐるーぷ樹の演奏会のチラシです。2006年7月9日、14時から東区民文化センター大ホールにて開演されます。入場料は一般1000円・学生500円(高校生以下無料)です。私も出ます。このところ「ぐるーぷ樹の練習」とブログで言っているのは、このコンサートの練習のことです。内容は、箏(いわゆるお琴)、三絃(いわゆる三味線)、尺八、篠笛、太鼓といった和楽器による、近年の作品の演奏会です。昨年の私の作品である「唐牡丹」が初演されます。近郊にお住みでお時間のある方は、ぜひぜひお越し下さい。

 とくに書くことがないので宣伝をしてみました(笑)。今日は体育館の休館日なので、運動はなし。ちなみに先日からひどかった疲れは、土日休んだおかげか、よくなりました。
 昼前に登校。以後、20時半まで研究科紀要用論文の修正。ようやく修正完了です。ずいぶんよくなったと思います。明日もう一度見直しをして、Y先生の所へ持って行くぞ!
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半徹夜、そして原因概念?

2006年06月09日 18時35分45秒 | 教育研究メモ
 最近朝起きられないことはくどいほどお伝えしておりますが、同時に夜眠れなくなっております(苦笑)。運動と研究で体も頭も疲れ切っているはずですし、きちんと眠くなるのですが、眠れません。午前4時少し前に寝るのを諦めて(熟睡ではないにしても4時間ぐらいは横になったので)、登校。
 まだ暗い中、教育史学会発表申込のための研究を開始。結局昨日考えていたことは資料が少ないようなので、まったく違うことをすることにしました。ちょっと教育史学会には「ふさわしくない」研究になりそうだけど… まあ、投稿を前提として考えているのはいつものことですが、今年度中に博士論文を書くなら投稿・掲載は間に合わないし、書けないなら掲載可否にこだわりはない。それに、私としては、大日本教育会・帝国教育会研究の極めて重要な研究だと思うので、これで掲載されないならまあいろんな意味で「そこまでだろう」、と思っています。これまで手を着けていた論文(未発表)を土台にしているので、朝方には半分ぐらいできました。これ以上はさらなる調査が必要なので、今日はおしまい。
 10時半から授業。それから特研(ゼミ)。今日はI先生とIW先輩の発表でした。S先生が退職された後、単位とは関係ないけど、こうして特研が開けるとは思いもよりませんでした。これも、二人でもやろうとIW先輩に強く迫った結果受け入れてくださったから、そしてI先生が加わってくだっているからです。感謝。
 寝たんだかどうだかわからない状態から早朝起床で、ほとんど徹夜状態の私は、すでに夜が明けたぐらいから猛烈に眠い状態。がんばって起きていようとしているから、目が痛い。でももう一がんばり。
   
 今日もクーンを読みました。今日は、T・クーン「物理学の発達における原因の諸概念」(我孫子誠也・佐野正博訳『科学革命における本質的緊張』第二章、みすず書房、1998年)。先日のに比べると遙かに論文分量が少ないので、眠い中がんばって読む。でも、抽象的すぎてわけがわからない。したがって、いつもの要約も不十分きわまりないものになりました。ちなみに、この論文は、"Etudes d'épistémologie génétigue 25"(1971年)に載せた論文だそうです。
 変化の原因は、アリストテレスによると、どのような変化も四つの原因(質料因 material cause 、作用因 effcient cause 、形相因 formal cause 、目的因 final cause )のそれぞれの型の原因をもっています。「彫像がなぜ存在するか」についての例によると、質量因は大理石、作用因は彫刻家の工具によって大理石に及ぼされた力、形相因は彫刻家が心の中に抱いていた理想化された完成品の姿、目的因はギリシア社会の構成員が鑑賞することができる美術品数の増加、であるといいます。17世紀の間にこの種の説明は言葉遊びや同語反復として避けられるようになったけれども、自然現象を説明するという意味においては何の論理的欠陥もありませんでした。実際、以後の物理学は、形相因や作用因によって数学的に説明してきたのです。そして、従来のままでは説明できない現象を説明するために、特定の原因を分離して考えるようになり、説明のための基本的に異なる形相の個数はどんどん増大していきました。科学の発達は、つねにより精密な現象の説明を可能にしてきたが、説明の観点からは科学の簡潔さは時代とともに失われてきました。原因(説明)の観念だけを取り上げて研究した場合には、原因(説明)の観念は、科学的知性の進歩について何も証拠を示さないのです。
 本文の内容は、かなり飛ばして要約してマス。言いたいことは、科学の原因概念をめぐる歴史的展開からは科学の進歩は見いだせない、ということでしょうか…。う~ん、わかったような、わからないような、、、
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私の夢、それとは別に科学史と科学哲学

2006年06月07日 22時02分45秒 | 教育研究メモ
 今日も期待通りの起床ができず、昼起き。起きるのに難儀していたとき、挨拶回りにフトン屋さんが来る。彼等は、私の住んでいるアパートには、出稼ぎと思われる労働者の方々が多く入っており、その方々を対象に挨拶回りをしているようです。当然私は対象外であり、中には学生とわかったとたんに興味を失って足早に去る人もいるのですが、今日の人は少し会話をしました。私は大学院生で教育学を専攻しているんです、と説明したところ、先生になるんですか?(教育学=学校教員という図式が彼等の頭のなかにはあるみたい)と彼に問われ、先生の先生になりたいんです、と私は答えた。それに対して彼は、狭き門でも夢を追っているなんてかっこいいですね、とコメントをくれた。
 まあ、社交儀礼だと思うのでまともに喜んでいても仕方ないのだけど、この言葉は私に次のことを気づかせてくれた。そうだった、先生の先生になりたいっていう願望は、私の夢だったんだ、ということ。現場で多発する多様な課題に取り組むため、レベルの高い問題解決の能力を身に付けた教師を育てたい、そういう夢。だから、小手先の技術や知識ではなく確固とした教師像を明らかにしたいと思い、卒論では沢柳の教師論をテーマにしたのだし、集団による教育問題の解決システムを明らかにしたいと思い、修士課程以降は大日本教育会・帝国教育会における研究活動をテーマにしたのです。目の前の論文業績に振り回されて、そんなことまで忘れてたとは。ちょっと目が覚めた思いがしました。
 その後、運動。それから、先日Y先生に渡した論文を手直し。来週月曜日にその論文を使って討論会をするらしいので、内容には手を着けず、めちゃくちゃだった註書きを訂正。その後、科学史の論文を読む。
  
 今日は、T・クーン「科学史と科学哲学との関係」(我孫子誠也・佐野正博訳『科学革命における本質的緊張』みすず書房、1998年所収)を読みました。これは、1968年3月にミシガン州立大学で行われた講義録です。科学史家の仕事の性格と科学哲学に対する意義を論じたものです。この講義においてクーンは、科学史家と科学哲学者の目的・分析方法は互いに別物であり、科学史と科学哲学を一つにすることはできないとする一方で、両者の連携は重要な意味を持っているため、活発な対話を展開すべきだと主張しました。なお、クーンがここで使った「科学史」とは、科学的概念・方法・技法の発展に関する部分を指し、科学の社会的装置(科学教育、科学の制度化、精神的・財政的援助パターンの変化)に関する部分ではありませんので注意。
 この講義においてクーンは、科学史家の目的は過去についての詳細な叙述・物語であり、科学哲学者の目的は普遍的視野に基づく一般命題であるとし、両者を同時に行うことはできないのですが、両者を交替して行うことはできるとします。また、自分のゼミの学生がある過去のテキストを研究した時の事例を用いて、科学史家はそのテキストの著者の思想を再構築しようとする傾向(原資料すなわち自分が研究するデータによって自分の仕事を鍛え上げる)し、科学哲学者はそのテキストが書かれた以降の時代に生み出された一般命題・弁明を用いて自らの論証を構築しようとする傾向(相手の著作や先輩の仕事を注意深く批判することによって、すなわち過去との分析的対決によって自分の見解を鍛え上げる)を指摘しました。
 上記のように科学史家と科学哲学者は根本的に異なる存在であるのですが、科学史家にとって研究対象時期・領域の哲学思想がなくては科学史の中心問題へ取り組むことはできないし、科学哲学者にとって科学史の知識・経験がなくては自分たちのものとは違う今まで棄てられてきた思考様式・体系の完全性を探究することはできないとします。科学哲学者は、過去における理論は、存在した時期において(正確でないことが多いが)あらゆる自然現象の全範囲をつねにカバーしているのであるが、その発達・評価過程は正しく再構築するまでそれ以上知ることはできない点において、科学史から学ぶことがあるといいます。そのため、科学史の科学哲学に対する意義は、事実の提示と編成による歴史叙述にあるというのです。クーンは、極めて慎重に論理を限定しているので、この講義録の論理をそのまま教育史と教育哲学の関係に適用することはできませんが、もし適用できるとすればかなり有用な指摘になりそうです(誰か言っているかもしれませんが)。
 なお、今日読んだクーンの講義録の中で、一番共感を得たのは以下の言葉です。2段目の文章は、「カバーされているからではなくて、」を「カバーされているからではない。」とすると読みやすいかな。ちょっと紹介。

 「時間的な展開に対する歴史家の関心と、過去を研究することによって得られる新たなパースペクティヴとは、歴史に特別の有利さを与える」(18頁より)
 
 「歴史がもし説明的なものだとすれば、それは叙述が一般法則にカバーされているからではなくて、『いまや私は何が起ったかわかった』と読者が言うときには、それは同時に『いまやそれは意味をなす。私は了解した。以前私にとってたんなる事実の羅列であったものが認識可能なパターンとなった』と言っていることにもなるからである。」(25頁より)
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研究のオリジナリティ

2006年06月01日 20時34分44秒 | Weblog
 今朝は、昨日に引き続いて徹夜明け。一心不乱に、主任指導教員から以前出されていた課題に取り組んでいました。課題とは、大日本教育会・帝国教育会の事業全体における教育研究活動の位置づけ。細かい内容はさておき、「大日本教育会規則」「帝国教育会規則」を使って位置づけてみました。まあ、私の仕事は両会の通史を書くことではないですから、こんなもんではないかと。午前7時半ごろ書き終わり、一段落。
 すき屋で納豆朝食を食べた後、再び研究室へ戻る。その後何をしたかは思い出せないや(笑)。10時半くらいに市体育館へ運動へ。12時少し前に帰宅し、洗濯をしながらすこし仮眠。14時ごろ再び研究室へ。その後、博論の構想を練り直し始める。
 教育研究に教員研修の意味がある、というのは周知の事実。各事典にも書いてあるし、戦前日本の教員研修史として教育会の教育研究活動に着目した研究もある(佐藤幹男『近代日本教員現職研修史研究』風間書房、1999年)。こういう教育会における研究活動のとらえ方は私もちょくちょく口にしていたので、そろそろちゃんと博論の研究目的に位置づけようと思い、教員研修史研究の一環として大日本教育会・帝国教育会における教育研究活動を分析します、という方向で研究目的を書いてみました。しかし、ひとしきり書いた後、ふと次のように思いました。
 「なんだか、佐藤幹男先生の後追いみたいだな…」
 そう。確かに大日本教育会・帝国教育会を教員研修史に位置づけて研究した人はいない(ただ、無理矢理解釈すれば、思い当たる研究論文もないでもない)。副次的な結論として教員研修上の意義を明らかにするのはもちろん問題ないけど、それを研究そのもののオリジナリティとするのはどうか。これは純粋なオリジナリティではなく、研究そのものの意義を薄れさせるもののように私は思うのです。
 では、何を私の博論のオリジナリティにするのか。私は、「研究活動」そのものの独自の意義に正面からぶつかっていくしかないんじゃないかと思います。でも、なかなか周囲の理解が得られないんだよなぁ~ とりあえず、その方向で修正してみた。
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