ブログページの目立つところに先日からずっと出ておりますように、gooブログのサービス終了が決まってしまいました。
この知らせは正直衝撃でした。どうするか悩みましたが、21年続けてきたブログですので愛着もあり、実際ブログがなくなると私のインターネット上での表現媒体がなくなることが思いのほか寂しいので、結局、はてなブログに引っ越すことにしました。
以後は次のリンク先で適宜更新してまいります。
ブログもこの際やめようか、しかしデータが全部消えてなくなるのはもったいないと思ってホームページを作りかけましたが、少し作業を進めるうちに、21年間にため込んだ内容を短時間でまとめていく作業を完遂することは今の私には出来ないことを悟りました。gooブログも勧めてくるので引っ越すことにしました。
できるときにしか更新できませんが、はてなブログでもよろしくお願いします。

うちの子の新作。
世界中に知らせてくれ(ブログに上げてくれ)と頼んでくるようになりました。世界中に知らせていいか?!という表現は、私がうちの子の絵で感動してブログに上げるために本人に許可をとるときに使ってきた表現です。その表現をついに自分のものにしましたね。
絵は、ユニコーンがお花畑で歩いているところ。間違えた絵(ユニコーンの左隣のやつ)を風車にするという工夫が光ります。画面下が青くなっているのは湖だそうです。
ユニコーンがとても楽しそうに描けています。今までのうちの子の絵と比べると、色がバランスよく選択・配置されているのがすごいなと思いました。
お絵描き教室に通わせれば、もっといろんな表現方法を身につけて、もっといろんな絵が描けるようになるだろうな、と思いつつ、この子がのびのび絵を描ける時間を大事にしてくれる教室や指導者が見つかるだろうか、と不安もあります。今の本人の希望は、上手になりたいというより、楽しく描きたい、というあたりにありそうだから、それを大事にしてあげたい。

写真はうちの子が時々つくるミカンのお店です。一生懸命並べたあと、「いらっしゃいませ〜みかんやさんですよ〜」と始まります。
3が日終了直後から、一気に40度をこえる高熱が出まして、丸2日間、身動きがほとんどできなくなってダウンしておりました。ここまでの高熱は30年ぶりくらいかも。熱が出てからはプチ隔離されていましたが、インフルエンザだと思われます。しかし、妻子はなぜか元気… 不思議ですが苦しい思いをさせなくてよかった。
昨日から完全に解熱しましたが、まだ頭がぼんやりとしています。
さて、2025年が始まりました。皆さんはどんな1年にしたいですか?
私は、研究について、すでに入っている仕事ややりたいこと、約束していることを並べてみたところ、ずっと忙しい状態になることが判明しました。指導ゼミ生やチューター業務も増えますし、広大日東(広島大学日本東洋教育史)研究室出身の先輩後輩たちとの研究会も企画していきます。気合を入れてやらなければ!という気持ちですが、空回りしないように、気持ちも場も常に出入り自由の状態にしていこうと思います。
とりあえず、いま抱えている論文1、某原稿1、某史料整理の仕事を仕上げます。次に、これから編集の始まる科研仲間との編著1冊の構想、研究会(2つになるか3つになるか…)の準備、専門講義のテキスト1冊の仕上げに取り組まなければなりません。単著の専門書の編集も始めていきたいし、来年度の学会発表の準備も始めていきたい。大学史・自治体史の仕事も確実に進めていきたいし、研究室紀要も復活させたい…
直接求められてくる仕事とともに、自分の立場から見て進めるべきだと考える仕事がたくさんあります。常に走り続けなければやり遂げられない。
よたよたしながらですが年始のスタートを切れたので、健康第一で頑張っていこうと思います。
2024年が暮れようとしております。皆さんの2024年はいかがだったでしょうか?
私の2024年は変化の年になりました。昨年の年末に新しい職場が決まり、大慌てで引っ越しや娘の保育園探しを進め始めた年始でした。ゼミ生や担当科目の引継ぎも苦労しました。何より、関係者には本当にご迷惑をおかけしました。特に、ゼミ生たちは様々に葛藤したはずです。しかし、最後は、「先生が長年の夢をかなえるんだから」と前向きにとらえて追い出してくれました。本当にありがとう。(写真はこの時ゼミ生からいただいたカップです)

4月からは広島大学教育学部で15年ぶりに働くことになりました。それまでの地方小規模私立大の教職課程担当教員としての働き方とはまったく違う働き方になったので、慣れるまでにちょっと時間がかかりました。しかし、これまで私が一番やりたかった仕事に集中できるようになったので、生活はとても充実していました。今年のゼミ生は学部3年生3名だけですが、皆優秀で、とても指導しがいのあるゼミ生たちです。後期からは外国人研究生1名を迎え、博士論文執筆を目指す本大学院卒業生もお1人、私のゼミに出入りするようになりました。来年度は、ゼミ生をはじめ指導学生が徐々に増えていく見込みです。
私が指導する学生たちは、教員になる人もいますが、それがゴールの人たちばかりではありません。特に広島大学教育学コースで大学院まで行く人は、教育学の研究者を目指し、多くは教職課程担当教員すなわち「先生の先生」になっていきます。私の仕事は、教育学の研究者として一人前に論文が書けるようにするのはもちろん、「先生の先生」として立派な働きのできる人を育てることです。最近、教育学コースで設けている教職課程担当教員養成プログラムの修了予定者が履修する最後の科目の初回がありました。私が科目担当になっているので、最初に話をする機会があったのですが、そこで「形式的作業に終えず、自分のために、将来出会う学生たちのために、そしてその将来の教師たちが出会う子どもたちのために、しっかり取り組んで下さい」と声をかけさせてもらいました。「『先生の先生』の先生」としての仕事。頑張ろうと思います。
さて、研究については、3月までに前年度の成果を出し切りました。『History of Education』誌掲載の英語論文は、6月にようやく紙媒体に掲載されたようです(実物を手にできていないので伝聞ですが)。これでいったん、鳥取短大・広島文教大での研究成果は形にし終えたと思います。これからは、広大の教員としての研究活動です。
6月からは学部1年生対象の「日本東洋教育史」の講義が始まり、自分なりの通史教育を始めました。テキストは講義開始に間に合わなかったので、形にするのは来年度になります。また基本的にKindle版で販売すると思いますが、今度はいずれ紙版も販売できるように画策中です(Kindle版の発売を先行させて、紙版の発売はタイミングをずらずかもしれません)。
4月から、研究が主要な業務の一つになったので、めいっぱい研究に取り組みました。結果として口頭発表を7つも形にしました。年頭からの発表も足すと、口頭発表9つです。これは間違いなく自己ベスト新記録。研究ではまだまだやりたいことがたくさんあるので、時間はいくらあっても足りないくらいです。今年の発表は久しぶりに史料にじっくり取り組んで準備しましたが、試論的な取り組みが多かったので、論文化できているものはまだありません。しかし、すでにいくつかは活字化が決まっており、3月までにはいくつか公表できそうです。
史料保存の取り組みも進展しました。まずは沼田家文書の保存活動が結了しました。故沼田實氏の実子の方々がお持ちだった分も含めて、ご遺族の御意向を受けて、すべて広島県立文書館に寄贈することができました。文書館に寄贈する前に、一部の史料を広島大学内で公開できたこともよかったと思います。院生・学生・教職員に日本教育史の仕事の一端を、実物展示で示すことができました。また、一部三原市内に残っていた沼田家文書の史料(三原小に寄贈したものを除く)も、最終確認して収集し、これも文書館に寄贈することができました。さらに、8月には、長野県飯山市で廃校予定三校の史料目録作りのお手伝いもできました。十分な戦力には、なれたと思いませんが、私自身にとっては史料保存活動の貴重な経験になりました。さらに、12月には、新たな史料群の整理にお声がけいただき、膨大な量の史料に圧倒されながら鋭意作業中です。
史料保存の活動に携わった経験は、後期の学部2年生対象科目「日本東洋教育史演習」の授業に活かすこともできました。史料に出会う機会は突然にやってきます。そのときに少しでも確実な手立てを講じることのできる人材を育てるために、出来ることを考えています。
来年度の仕事は今年度とはちょっと変わってくる見込みなので、今年のようにはいかないと思いますが、それでも研究と教育が一番の仕事であることには変わりありません。研究でも新しい取り組みをしていきたいと思っておりますし、これまでの仕事をとりまとめて新しい研究書も出していきたいです。
今年お世話になった方々に感謝しながら、2024年を締めくくりたいと思います。また来年もよろしくお願いします。

今日はクリスマスイブです。子どもがいると特別な日になりますね。
今日のうちの子は、黙々とオリジナルの絵本を作っておりました。鉛筆がちびて描けなくなって、クーピーで続きを一生懸命に描いております。
ユニコーンのお姫様がにこにこ過ごすお話のようです。
手前の2枚は間違ったらしいです。表紙も描き始めました。
以前にもオリジナル絵本を作っていたことがありましたが、今日のは枚数が多い。大作です。

5歳●か月のうちの子ですが、日に日に成長しております。
上の作品は昨日保育園で作ったもので、工夫があってすてきです。妻いわく、保育園から帰ってきてすぐに出窓のところに自分で飾ったとのこと。
本日、「わたし」という一人称を使っているところに初めて出会いました。妻も初めて出会ったとのこと。
これまでは「〇〇ちゃん」と自分の名前で自分のことをを呼んでいたうちの子でした。「“わたし”って使えるようになったのね!」と言いますと、「わからないけど、いろんなひとがいるから」(?)という返事。「すごいね!」とほめておりますと、「あたし、あたい、」と言いながらトイレへ行ってしまいました。(たぶん照れたと思われる)
ついに抽象的な一人称を使うようになりました。このくらいの頃に使うようになると知っていましたが、実際に子どもが一人称を使うようになった瞬間に出会うことができて、感動です。
保育園のクラスでは、仲のいい友達のうち1人だけ他に使っているそうで、他のみんなは自分の名前呼び。友達やメディアの影響で、「なるほど自分のことは“わたし”と呼べるんだな」とわかってきたのでしょうね。
そういえば、私たち両親が、自分のことを何と呼ぶか(名前、父母、夫妻)や、祖父祖母、親戚との関係性で何と呼ぶかについても、少し前から興味を持って話を聞いていました。よくわかりませんが、そういう言葉と人間関係との関係性を理解するなかで、「わたし」という言葉が便利だなと思って使うようになったなら、すごいことだと思います。
「わたし」という言葉を使うようになるということは、自我の概念内容が変わってきたということ。また、人間関係のなかで自分を一般的に表す言葉を発見したこと。
子どもの成長の瞬間として、とても興味深い場面だと思いました。

今日のうちの子の絵です。
今日は久しぶりの休日なのでみんなでゆっくりしています。
妻が年始に飲むつもりの日本酒の包装に少しくっついていた稲穂に対して、興味深々のうちの子ちゃん。妻からもらってさっそくお絵描きの題材に。
出来上がった絵が上のものです。
お米が一つ一つよく観察されて描かれていて、すごいなあと思います。左下に黄色い粒が描かれていますが、これは「おこめのいろになるかなーってためしてみてた」とのこと。
周りにあるカラフルな模様は「プレゼントのもよう」だそうです。我が子の心象風景の表現には舌を巻くばかりです。

今日のうちの子ですが、どんぐりなどでマラカスを作って帰ってきました。
今日はマラカスを研究していたそうで、「こっちのほうがおとがいいかんじ。こっちはおとがごつい。」などと比べながら、マラカスを作っていったとか。おともだちにも「ほしい!ほしい!」と言われたので、いくつも作ってあげて、手がいたくなったそうです。
妻が「じゃあ、マラカス屋さんをしたんだねー」というと、「いや、けんきゅうしてただけ」とのこと。とはいえ、先生も、欲しそうにしていたので、作ってあげたそうです。
家に帰ってからはマラカスで演奏会をしていました。「こっちはかるい。いいかんじ。こっちはごつい。」などと言いながら。
5歳もずいぶん過ぎて、やることも考えることも高度になってきたためでしょう。子どもの話はこれまでも面白かったのですが、最近それ以上に面白くなってきました。

はなび。
今日のうちの子ちゃん(5歳)の作品。
今日は私一人で広島県郷土史研究協議会の東広島大会に出席して帰ってきましたら、私とは別に妻と出かけていたうちの子が、おもむろに制作を始めまして。制作に使うからと、買ってもらったばかりのポンポンを紙の上にのせて、蝶やら花やらを見立てて作ったあと、これが出来上がりました。
本人いわく、いつのシーンという訳ではなく、想像で作ったものらしいのですが、素敵な作品だったので、世界に発信します。
下の部分には見物人が並んで、花火を見ています。
ちなみに、この作品を作ったあとに、「絵を描こうっと」といって描いたのがこちら。

下の並んでいる人の右から4番目が自分だそうです。吹き出しもついています。「きれいだねー」と言っているそうです。(その左が妻、その左が私)
右上の黄色部分は月と星だそうです。
制作好きのうちの子。いい育ち方してくれていて良いなあ。
来週末、9月28日・29日に教育史学会第68回大会が東京学芸大学であります。(大会HP)
私は二つも発表を予定してしまいまして、先ほど何とか形になりました。(まだ資料を整えなければなりませんが)
私の発表はどちらも9月29日(日)です。
10:00~10:30 「1910年代前半東京高等師範学校の教育学教育―沼田實作成波多野貞之助講義ノートの分析」
※沼田家文書と日本教員養成史・教育学史の横断的研究です
16:20~17:50 「1947年度信濃教育会役職員会議の教員団体一本・二本化論争―戦後長野県の教育会存続を再考する―」
※須田将司氏企画のコロキウム「戦後改革と向き合った信州の教員群像に迫る―教育会・教員の在り方論議に着目して」(教育情報回路としての教育会に関する総合的研究会第20回)の一部
教育史学会の対面のみ開催はなんと5年ぶり!
あと、この週末の9月22日にも発表が1つあり。
こちらは、参加している科研費グループの「20 世紀初頭における教育学とその周辺領域の形成過程に対する社会的要請の影響分析」研究会で、
「20世紀初頭における教育学に対する社会的要請とその対応に関する分析の構想―日本教育史の立場から」と題して発表します。
私は二つも発表を予定してしまいまして、先ほど何とか形になりました。(まだ資料を整えなければなりませんが)
私の発表はどちらも9月29日(日)です。
10:00~10:30 「1910年代前半東京高等師範学校の教育学教育―沼田實作成波多野貞之助講義ノートの分析」
※沼田家文書と日本教員養成史・教育学史の横断的研究です
16:20~17:50 「1947年度信濃教育会役職員会議の教員団体一本・二本化論争―戦後長野県の教育会存続を再考する―」
※須田将司氏企画のコロキウム「戦後改革と向き合った信州の教員群像に迫る―教育会・教員の在り方論議に着目して」(教育情報回路としての教育会に関する総合的研究会第20回)の一部
教育史学会の対面のみ開催はなんと5年ぶり!
あと、この週末の9月22日にも発表が1つあり。
こちらは、参加している科研費グループの「20 世紀初頭における教育学とその周辺領域の形成過程に対する社会的要請の影響分析」研究会で、
「20世紀初頭における教育学に対する社会的要請とその対応に関する分析の構想―日本教育史の立場から」と題して発表します。
備忘録です。今日は日本東洋教育史研究室出身の後輩たちに声をかけての研究会でした。初めて広大に呼んでの会合でした。
昨年度くらいからやり始めて4回目。教育史教育の課題についての発表と意見交換を続けています。学外者のwifiの設定など、まだまだ気づかなかったこともあって手間取りましたが、重要な意見交換ができて、いい研究会になりました。みんな頼もしい先生方です。共同研究の方向性も入り口も見えてきました。今後が楽しみです。
後輩たちの研究を促進し、学界をにぎわせ、後に続く院生たちの研究環境を豊かにしていくことが、私の立場の役割だと認識しています。気の置けない同窓の後輩たちと、その土台を作っていきたいです。その意味ではまずはスタート地点を作ることができたかな。
昨年度くらいからやり始めて4回目。教育史教育の課題についての発表と意見交換を続けています。学外者のwifiの設定など、まだまだ気づかなかったこともあって手間取りましたが、重要な意見交換ができて、いい研究会になりました。みんな頼もしい先生方です。共同研究の方向性も入り口も見えてきました。今後が楽しみです。
後輩たちの研究を促進し、学界をにぎわせ、後に続く院生たちの研究環境を豊かにしていくことが、私の立場の役割だと認識しています。気の置けない同窓の後輩たちと、その土台を作っていきたいです。その意味ではまずはスタート地点を作ることができたかな。

七夕まではまだ日がありますが、保育園では準備が始まったようです。
5歳になったうちの子は、「パパとママとずうっといられますように」と短冊に書きました。「パパ」だけ自分で書けるので自筆です。「ママ」も下書きしてあげるのでなぞったら?と提案しましたが、それでも書かないと拒否。まだ「ママ」は練習してないので、失敗しないように書きたくない様子。なぞることすら拒否するとは、短冊がよほど大事なのだな、と思いました。
子どものこだわりを考察することって、楽しいですよね。
本日、このブログを開設してからちょうど7000日になりました。ここまで続くなんて、想像もしなかったな。もう一つ作っていた研究用のブログは運営会社が事業を辞めちゃったので、これだけの期間、ブログが現役で残っているのはすごいことですね。gooは頑張ってくださっています。長い間、本当にありがとうございます。

一番古い記事は2005年4月9日の記事。19年前! 当時は広島大学の大学院生でした。指導教員に指導はしてもらっていましたが、そもそも研究の仕方がわからなくて、もがいていました。本を読むのも本当に苦手(目線が一定しなかった)だったので、まったく効果の上がらない研究生活をしていました。この頃は学部1年生の頃からの鬱状態がまだ抜けきれなくて、つらそうにしている様子もうかがえます。鬱状態から抜けるのはまだもう少し時間がかかりました。
ブログは、抱えていた苦しい想いを思う存分吐き出す場所でした。リアルで話を聞いてくれる頼りがいのある友人も先輩後輩もいましたが、いくら聞いてもらっても、ずっと吐き出し足りない気持ちが残って、困っていました。そこで出会ったのがブログでした。ブログは、思う存分想いを吐き出せて、それでいて誰かが見ていてくれる気もする。自己満足を得る上に孤独感を埋められるツールだったと思います。当初は毎日書いていました(今ではその多くは削除済み)。
しかし、次第にリアルで忙しくなり、自分なりの仕事や研究の仕方が分かってくると、毎日書くことがなくなりました。徐々に、ブログに書くことも、吐き出したいことというよりも、書き残したいことを書くようになっていきました。
元K大のS先生に勧められて始めて、今日で7000日です。たくさんの人が読んでくれました。妻も、結婚前はよく読んでくれていたそうです。今も、たくさんの人が読んでくれています。19年もの間に蓄積した1200を超える記事があるので、そのつど何か検索にかかるものがあるようです。毎日2〜300回以上どこかの記事が開かれているなんで、すごいことだなと思います。
昔から読者でいてくださった方々と、最近いらした方々、このブログを続けさせてくれているgooに感謝いたします。
いつまで続けられるか、自分でも楽しみです。今後ともよろしくお願いします。

一番古い記事は2005年4月9日の記事。19年前! 当時は広島大学の大学院生でした。指導教員に指導はしてもらっていましたが、そもそも研究の仕方がわからなくて、もがいていました。本を読むのも本当に苦手(目線が一定しなかった)だったので、まったく効果の上がらない研究生活をしていました。この頃は学部1年生の頃からの鬱状態がまだ抜けきれなくて、つらそうにしている様子もうかがえます。鬱状態から抜けるのはまだもう少し時間がかかりました。
ブログは、抱えていた苦しい想いを思う存分吐き出す場所でした。リアルで話を聞いてくれる頼りがいのある友人も先輩後輩もいましたが、いくら聞いてもらっても、ずっと吐き出し足りない気持ちが残って、困っていました。そこで出会ったのがブログでした。ブログは、思う存分想いを吐き出せて、それでいて誰かが見ていてくれる気もする。自己満足を得る上に孤独感を埋められるツールだったと思います。当初は毎日書いていました(今ではその多くは削除済み)。
しかし、次第にリアルで忙しくなり、自分なりの仕事や研究の仕方が分かってくると、毎日書くことがなくなりました。徐々に、ブログに書くことも、吐き出したいことというよりも、書き残したいことを書くようになっていきました。
元K大のS先生に勧められて始めて、今日で7000日です。たくさんの人が読んでくれました。妻も、結婚前はよく読んでくれていたそうです。今も、たくさんの人が読んでくれています。19年もの間に蓄積した1200を超える記事があるので、そのつど何か検索にかかるものがあるようです。毎日2〜300回以上どこかの記事が開かれているなんで、すごいことだなと思います。
昔から読者でいてくださった方々と、最近いらした方々、このブログを続けさせてくれているgooに感謝いたします。
いつまで続けられるか、自分でも楽しみです。今後ともよろしくお願いします。