教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

用水路の子犬、近世日本における「科学」

2007年02月28日 19時19分08秒 | 教育研究メモ
 タイトルが2つのテーマで構成されていますが、今日起こったことという以外に関係はありません(笑)。
 今朝、妙な鳴き声で目が覚める。ウチのベランダ側にある用水路に、子犬が「また」落ちて、上がれなくなったらしい。様子を見にいくと、以前の子犬より結構大きいかな。以前の事件の顛末はこちら救出編事後編)に書いたのですが、もうあれから1年半前になるのですね。今回は、目が合うと吠えられたので(助けてやろうかなと思って見たのに…)、素手で助けなければならない私では、以前とは違って、ヘタをすれば噛まれるかもしれないなと感じました。もう午前7時を過ぎて明るくなっていたし、それほど寒くはないし、結構走り回っていたので、誰かが気づくか自力で上がれる場所を見つけるだろうと思い、助けるのはやめました。いつの間にか鳴き声が聞こえなくなったので、何とかなったのだろうと思います。しかしまぁ、用水路に落ちた子犬に二度も起こされるとは(苦笑)。
 今日は、中村邦光・板倉聖宣『日本における近代科学の形成過程』(多賀出版、2001年)を読み切り。内容は、近世日本における科学的概念の形成過程を明らかにしたものです。論じていない通史的内容に多分に依拠した結論や、仮説的な結論がちょっと多くて、読後感はいまいち納得いかない感じです。現代における科学の概念や数値にどれだけ近いかという観点から、近世日本の概念や数値を分析している部分には、ちょっと違和感を感じました。ただ、「近世日本における科学的数値の精度が時を経るに従って改善されていったとはいえない」という結論や、「西洋近代科学における自然認識と近世日本に在来した自然認識との間には類似点・共通点があったが、明治以降の日本における近代科学の形成は、両者の「折衷・融合」ではなく「徹底的な模倣」の形をとったからこそ可能となった」という結論や、「科学的概念・数値の発展・停滞と和算家の流派や出自などとの関係性の追求」といった問題意識などは、興味深く読ませてもらいました。
 また、小林傅司・中山伸樹・中島秀人編『科学とは何だろうか-科学観の転換』(科学見直し叢書4、木鐸社、1991年)もざっと読みました。教育学史研究を本格的にやるようになったら参考になる内容だろうけど、今はまだその時期ではないかな。ただ、内容が理解できないわけではなく、むしろスイスイ読めるようになっていることに少し驚く。科学史や科学哲学について、昨年から今まで勉強してきたことが、そこそこ身に付いているようでうれしい。わかりやすい本なので、また時間があるときに読みたい。
 あと、読書しながら、某学会への再投稿論文について考えました。
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ざっと

2007年02月27日 18時50分10秒 | Weblog
 今日は小林傳司編『公共のための科学技術』(玉川大学出版部、2002年)を読み切り。熟読する時間はないので速読調での読み切りですが、興味深い主張・説明・問題意識など、けっこうひっかかりました。科学技術社会論の一つの柱は、科学政策におけるガバナンスgovernance(協治)の問題だそうですよ。専門家・政府・市民の相互関係に基づく、問題解決にとりくむ場(公共空間)をつくることも、ガバナンスだそうです(小林信一「解題に代えて-なぜSTSなのか、なぜ政治論的転回なのか」小林編、279~281頁)。
 あと、某学会投稿論文の審査票に対する申し立て書が完成。投函しました。
 掲載可の結果がでるといいなぁ。結果は5月中旬だそうです。
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科学技術社会論(あいまい)

2007年02月26日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は早起き成功。登校後、某学会投稿論文の審査票に対する申し立て書を書く。先日作った内容がくどくどしかったので、簡潔な文章と構成に直す。先日のよりはよくなった気がします。
 その前後に、読書。今日は、小林傳司(ただし)編『公共のための科学技術』(玉川大学出版部、2002年)を読む。先日読んだ藤垣著は専門用語満載でわかりにくかったのですが、小林編は比較的、よみやすいかもしれない。ただ、小林編の大筋の内容は藤垣著と変わらないし、内容として藤垣著の方がまとまっているので、どちらがいいかは判断が難しいところ。なお、藤垣裕子編『科学技術社会論の技法』(東京大学出版会、2005年)もあるらしい。科学技術社会論は、専門家(科学者なのか技術者も含むのかは不明)が答えることができないが、今現在、解決しなくてはならない科学技術問題(環境問題の出現が決定的な契機らしい)をいかに解決するか、を問う論議のこと。とくに「公共空間」での利害関係者の合意形成に注目しているらしく、ハバーマスの「公共圏」概念が重要な概念のようです。科学技術はそのまま公共的価値として認められてきた歴史があるので、科学技術の硬直性や限界性を強調するのが、この論議の主流らしい。
 らしいらしいを連発して、申し訳ない(笑)。間違っているとは思っていないけど、時間がない時はざっくばらんなまとめしかできないので、勉強してみようと思う人はちゃんと自分で読んでくださいね。
 H大邦楽部の卒業生を送る会があるので、行ってきます。
 あと、数日ぶりに教育基本法のお勉強。

  【第13条】
○旧教育基本法
 (該当条文なし)
○新教育基本法第13条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

 新法第13条では、学校・家庭・地域住民などの相互連携・協力を奨励している。ただ、この連携・協力に対する国・地方公共団体の立場や奨励策については定めていない。また、「それぞれの役割と責任」とは何か、不明である。とくに、「地域住民その他の関係者」については規定がない。なお、家庭の教育における役割と責任は、新法第10条(家庭教育)の規程を指していると思われる。
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これからの研究方針

2007年02月25日 23時55分55秒 | Weblog
 今日も家。大学入試前期日程当日のため、登校できません。
 藤垣裕子『専門知と公共性-科学技術社会論の構築へ向けて』(東京大学出版会、2003年)を、速読調でとりあえず読み切り。この本をきっかけとして、博論構想およびいくつかの宙に浮いている論文の問題意識・分析視点などが、少しずつ整理されてきました。私が博論構想にむけてこれからすべき研究は、「合意形成」概念と「教育研究」概念の批判的検討のようです。
 教育会の歴史的役割とされる「合意形成」とは何か、そして大日本教育会・帝国教育会での「合意形成」とはどのような歴史的意義があるか。大日本教育会・帝国教育会で行われていた「教育研究」とは何か、そしてどういう歴史的意義があるか。大日本教育会・帝国教育会における「合意形成」と「教育研究」と関係はどうか。云々。
 今まで細かく研究し、たくさんの資料にあたってきたので、わかることがある。
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家にいました

2007年02月24日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は大学入試前期日程のため、登校しちゃいけない日。
 博論構想を少し練りました。
 あと家でDVD『新撰組』(NHK大河)を見ておりました。銀英伝の次はこれにはまってます(笑)。
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「いい本」とは

2007年02月23日 21時01分48秒 | 教育研究メモ
 今日は、某学会への再投稿に向けて勉強するため、図書館からいろいろ本を借りてきました。そして今日は、藤垣裕子『専門知と公共性-科学技術社会論の構築へ向けて』(東京大学出版会、2003年)を少し読みました。科学技術の問題の中には、不確定要素が多くて科学者にも答えられない問題であるが、今現在、社会的合意が必要な問題があります。そのような性質の問題を解決する際に専門家(科学者・技術者)が果たすべき役割を、科学技術社会論(知識社会学も?)の視点から考える本です。博論構想を考えるのに参考にできそうな知識・概念・問題意識が満載で、興味深く読みました。
 「いい本」というのは、自分の考えを整理してくれたり、前進させてくれたりする本だと思います。藤垣著は、最初は、今日たまたま手にとって「ん~…直接関係はないように思うけど、借りてみようか」と思った程度の本でした。ですから、この本と私の出会いはまったくの偶然だし、消極的な出会いでした。しかし、今の私にとってこの本は、とても「いい本」のように思います。科学技術と教育の問題は性質が違うと思いますが、この本を読むことで、悩んでいた点(主に博論の問題意識)についていろいろな考えが湧いてきたからです。とりあえず、思いついたことをメモしておきました。
 また、今日はTG大のH先生(研究室OG)が研究室に来られたので、お話しをしました。今の研究室の状況を心配してくださり、私の研究についても相談に乗ってくださいました。また、私は論文を通して先生の研究に興味を持っていたので、専門の内容についてもいろいろお話を聞きました。資料の所蔵状況や資料調査のコツなども話題に上り、たいへんタメになりました。数年前に一度ご挨拶をした以来、なかなかお話しする時間はとれず、いつも挨拶だけや遠くから見かけるだけで年月が過ぎていたのですが、ようやくたっぷりお話ができました。
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某学会の投稿論文審査票申し立て

2007年02月22日 18時32分10秒 | Weblog
 今日は、某学会の審査票に対する申し立て書を書いていました(昨日のとは別物)。他の学会では、審査票なしで掲載不可・可を通達してくる学会や、審査票を参考にして書き直したものを再審査する学会があります。しかし、この学会はそれとは違う順序で論文の審査をします。結果が出るまでの流れを投稿者(私)の視点から書くと、以下のようになります。

論文を投稿する(11月ごろ) → 編集委員会での受理結果が送られてくる(12月ごろ) → 審査者2名の審査票が送られてくる(1月末ごろ) → 審査票に対する申し立て書を編集委員会に送付する(2月ごろ) → (論文・論文要旨・審査票・申し立て書を参考に編集委員会で最終審査) → 掲載不可・可等の結果が送られてくる(5月ごろ)

最終的な審査の参考資料になるので、審査者側の視点で論文を評価した審査票の内容が不服な場合、申し立て書を書くことが大事なのです。夕方、いちおう申し立て書を書き上げましたが、〆切はもう少しあるので、もう少し検討してみます。
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某学会の審査基準

2007年02月21日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は全休。
 どうも力がでない。最大の原因は、次向かうべき目標が定まらないからだろうと思います。今日は全休して気力を回復させ、考えることをしようと思いました。昨日不在通知が来ていたので、朝から郵便局へ行って郵便物を引き取る。来年度の県市民税・保険料について相談するため、市役所へ寄ってから帰宅。帰宅後は、DVD『ナルニア国物語』を見るなどしました。
 引き取った郵便物は、某学会からのもので、8月に投稿していた論文の審査結果と審査票でした。結果は、なんと「大幅な改稿の上再審査」でした。この学会の審査結果は、以下のような構成をしています。

 1.先行研究
  (1)十分に踏まえている (2)触れているが偏っている (3)簡単すぎて不十分
 2.全体の構成
  (1)適切である (2)明確化の余地あり (3)不適当
 3.文章表現について
  (1)問題なし (2)問題あり
 4.総合判定
  (1)このまま掲載可 (2)若干改稿の上掲載可 (3)大幅な改稿の上再審査 
  (4)類別を……に変更し改稿して再審査 (5)掲載不可
 5.欧文要約
  (6-1)チェックしていない (6-2)チェックした
   (1)適切である (2)適切であるが誤植がある (3)改善の余地がある

この1~5までの項目のうち、(1)~のいずれかをチェックしたのが審査結果です。この審査結果に加えて、詳しい審査内容について書かれた審査票が附されています。審査票もまた、以下の細目にわけて、それぞれ評価を下しています。

 1.積極的に評価すべき事項
 2.問題点
  (1)先行研究の扱いについて
  (2)研究方法について
  (3)文章表現について
  (4)全体としてのオリジナリティーについて

 私の審査結果・審査票を見る限り、先行研究と論文構成(章節項・段落に至るまで)について、かなりの改稿+勉強が必要とのこと。ですが、「積極的に評価すべき事項」については、テーマや私がやろうとしたことについて評価していただきました。審査結果をみると、審査者は2人だったようですが、2人とも「大幅な改稿の上再審査」にチェックしてくださったようです。与えられたチャンスを活かすためにも、もう一度がんばろう。
 今回の審査結果を見て最も感じたことは、投稿論文の評価基準が極めて明確である、ということです。今までいくつかの学会に投稿しましたが、今回のものが最も評価基準が明確でした。そのおかげで、どういうところで評価されているのかはっきりわかるし、これから何をしたらいいのかもはっきりわかりました。この数日、具体的な目標(とくに短期目標)を失って若干抜け殻のようになっていましたが、これでやる気が出ました!
 よーしやるぞ!
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詳しくは推して知るべし

2007年02月20日 18時11分10秒 | 教育研究メモ
 今日の天気は晴天でした。青い空を見てると、なんだか涙が出てきます(笑)。目的は達したけれど、素直によろこべない。それが今の正直な気持ち。軽く脱力感。ちょっと休んで肩の力を抜いて、気持ちを平らかにした方がいいかなぁ。
 でも今日は病院(無呼吸治療の定期検診)へ行ってから登校。今日は最新型の機械を使い始めてから、はじめての定期検診。機械が記憶しているデータを、パソコンで説明しながらの検診は、なかなか楽しかったです。機械から送り込む空気圧が下がってくると呼吸が止まり、圧が上がると再び呼吸する様がグラフにはっきり出ていて、機械の効能が理解できて面白い。治療に対する安心感が出てきました。登校後は、某学会投稿論文の審査評に対する申し立て書に、手を着けました(書く量はB52枚分、2月末〆切)。中途半端に書いてから、基本法のお勉強。さらに、新しい博士論文構想を考える。うーん、もうちょっと考えてから書くかなぁ。
 今日はボーっとしてて、全てが中途半端な感じでした。でも、お医者いわく、昨晩は比較的無呼吸状態が長かったらしく、原因の一つはそれかも(笑)。
 下はいつもの。あともうちょっとで終わる。

  【第12条】
○旧教育基本法第7条(社会教育)
 1 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
 2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
○新教育基本法第12条(社会教育)
 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
 2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。

 旧法第7条の1では、家庭教育・勤労の場所などにおける教育を、社会教育として奨励した。新法第12条では、社会教育を家庭・勤労の場所における教育と限ることをやめ、社会において行われる教育を社会教育として奨励した。なお、新法において、国・地方公共団体が奨励する社会教育は、「個人の要望」と「社会の要請」にこたえる社会教育に限られている。
 国・地方公共団体が設置すべき社会教育施設は、旧法第7条の2では図書館・博物館・公民館がとくに挙げられたが、新法第12条の2ではそれらとその他の施設を「社会教育施設」としてまとめて挙げられた。また、国・地方公共団体がとるべき社会教育奨励の方法は、旧法では「学校の施設の利用」がとくに挙げられたが、新法では「学校の施設の利用」とともに「学習の機会及び情報の提供」が挙げられた。さらに、旧法での国・地方公共団体が社会教育を奨励するのは、「教育の目的の実現」に努めるためであったが、新法では「社会教育の振興」に努めるためとなっている。
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博士課程後期在学期間延長に関する審査会

2007年02月19日 18時30分30秒 | Weblog
 本日13時半、私の博士課程後期在学期間延長を認めるかどうかを決める審査会が開かれました。審査会中・審査会後ともいろいろありましたが、指導グループの先生方は、私のレジュメに対して誠実で明敏な意見を下さいました。
 結果は「在学期間延長を認める」とのことです。
 もしかしたら、友人や諸先輩方に、ご心配をおかけしたかもしれません。いちおう、平成20年度中は、大学院生でいられることになりました。ただし、1年後は保証しないそうです。この条件は、博士課程後期在学期間延長の趣旨が、来年度1年間で博士論文を書くことができる者に1年延長を認める、という趣旨なので、当然のことです。
 また、1年間で博士論文を書く現実的な方針を採用する必要があるので、審査の過程で研究テーマが変わりました。教育学史に位置づけるというテーマは、とても私の手に負えるテーマではなく、現実的でないので、もう一遍再考することになりました。テーマがまた変わった原因は、いろいろありますが、根本的には私がこれまで細かく調べてきた内容と、問題意識や予想される結論とがズレているためです。大日本教育会・帝国教育会における教育研究活動を研究するというテーマが、どういう意味があるのか、というところから考え直さなくてはなりません。また「ふりだし」に戻りました。
 とはいえ、これまで研究してきた両教育会の研究体制・研究活動の特質、それからこれまで勉強してきた教育学史・学問史・教育研究概念は、ムダになったのではありません。残り1年間で博士論文を書き上げる現実的な計画・構想を練り上げる基礎になるからです。うっとおしがられてもいいので、しつこいくらいどんどんY先生の指導を受けながら、練り上げていこうと思います。

 本日は早起きしました。午前中、眠気と審査会に対する不安で何も手に着きませんでした。13時半から審査会。14時半ごろ私は会場を退出し、指導グループで審査。15時すぎに、審査が終わったようなのでY先生のところへ。1時間と少々、Y先生と話していました。16時15分ごろ、研究室へ戻る。以後、博士論文の問題意識について、ひとまずまとまるまで考えました。

 はー…、精神的に疲れたなぁ…。
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明日で来年一年が決まる

2007年02月18日 19時24分00秒 | Weblog
 明日は、私が博士課程後期の年限延長してよいかどうかを判断する審査会があります。この審査会の結果で、来年度、大学院生でいられるか、その他の身分にならなくてはならないかが決まります。判断するのは主任・副指導教員から成る指導グループです。
 私は、明日13時半から20~30分くらい発表するよう言われています。今日はその発表原稿を作っておりました。「もう、必要ないか」と一時期思いましたが、やっぱり作ることにしました。細かいことを発表しても仕方ないので、かなりさっぱりした発表原稿にしました。早口だと15分くらいで終わってしまう原稿ですが…。レジュメはすでに先生方に渡っているのでだいたいの内容は読んでくださっているだろうし、質疑応答があれば20~30分になるだろうし、なるべく早く終わらせた方がよさそうな気がしますし、これでいいと思います。なるべくゆっくり読んで、意図を理解してもらうほうがいいでしょうし。
 明日の結果がダメでも、研究生させてもらって広大で研究を続けさせてもらうつもりです。しかし、できることなら具体的な目標を持って研究に臨みたいものです。具体的な目標とは、研究する目標であり、もちろん博士論文(課程)を書き上げること。そのためには大学院生の身分が必要なので、なんとかOKが出るといいのですが。
 まぁ、結果がどうなろうと私の覚悟はできている。
 どんとこい!

 あと、今日は久しぶりにS先輩が研究室を尋ねてきたので、楽しくお互いの研究の話をしました。
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華族―近代日本の貴族

2007年02月17日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は全休にしました。明日は、あさっての審査会に向けて、最後の準備をします。
 今日は、小田部雄次『華族―近代日本貴族の虚像と実像』(中公新書、中央公論社、2006年)を読んでました。小田部氏によると、華族史研究は明治期における草創期の研究は多いけれど、明治2(1869)年の公卿・諸侯の統一から昭和22(1947)年の日本国憲法施行にともなう家族制度の廃止までの約80年間の通史がないのだとか。巻末の華族一覧は便利な資料になりそうです。華族といえば、戦前の日本的貴族で、優雅な生活をしていたと思いがちです。しかし、その実像は、おどろくほど多様だったようですよ。
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表現される可能性のあった文章

2007年02月16日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日は、鈴木直『輸入学問の功罪-この翻訳わかりますか?』(ちくま新書、筑摩書房、2007年)を読み切り。第四章「ジャーナリズムとアカデミズムの乖離」の論証が他の章に比べて強引だなぁと思い違和感を感じた以外は、かなり興味深く読ませてもらいました。わかりにくい翻訳が存在する背景には、ドイツをモデルとした日本の近代化の問題と、身分社会から離脱した市民社会の問題を引き受けてしまった結果生じた、アカデミズムと一般読者の断絶があったという結論は「なるほど」と思わされます。また、原文と一語一句対応の翻訳スタイルを変えていく論理として、次のような論理が示されていたのには感銘を受けました。執筆者が文献の中で実際に書いた原文は、執筆者が言いたいことを説明するにあたって、たくさんあった(あり得た)文章の候補の中から選ばれた文章の一つにすぎない。したがって、執筆者が言いたいことを伝えるための文章は、文献に書かれた原文が唯一ではない。もちろん執筆者の意図を誤認・歪曲することは問題外であるが、翻訳者は、原文の一字一句に忠実である必要はないというのです。
 さて、今日は広島市内で教育学教室の卒業生・修了生を送る会。深く関わりを持てた後輩たちはあまり居ませんが、何にしても後輩たちの卒業・修了を祝いたいので参加しました。送る会は、「ここを卒業・修了するんだ/したんだ」ということを内面化する儀式であり、同窓の者の関係を深める大事な機会です。異論はあるでしょうが、私はこういう会は大事だと思っています。
 さて、最後に教育基本法のお勉強。

  【第10~11条】
○旧教育基本法
 (該当条文なし)
○新教育基本法第10条(家庭教育)
 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
 2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
○新教育基本法第11条(幼児期の教育)
 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、用事の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

 旧法では、家庭教育については第7条(社会教育)において、社会教育の一部に位置づけられていた。新法では幼児教育とともに家庭教育について独立した条文が定められ、新法第10条では家庭教育について、新法第11条では幼児期の教育について定められた。旧法では家庭教育第10条では、父母・保護者の子の教育に対する責任、家庭教育の基本的な内容、国・地方公共団体の家庭教育に対する姿勢・支援が定められた。第11条では、幼児教育の基本的性格と、国・地方公共団体の幼児教育に対する姿勢・支援が定められた。
 ちなみに、子に対して父母・保護者が持つ「第一義的責任」とは何ぞや? 法律用語?
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わかりにくい翻訳の根源

2007年02月15日 18時51分28秒 | 教育研究メモ
 昨日、夕方ごろから「もー休みたい!」という気持ちが盛り上がり、晩早くから強烈な眠気が襲ってきました。そのため、今日は全休してやろうと思って目覚ましを無視して寝ていたのですが、結局正午過ぎには起きあがりたくなってしまいました。登校後、鈴木直『輸入学問の功罪-この翻訳わかりますか?』(ちくま新書、筑摩書房、2007年)を半分くらい読む。
 翻訳書を読んで、「わかりにくい! こんなの読めるか!」と思ったことはないでしょうか。私は何度もそういう経験をしたので、翻訳書というだけで拒否感がわきおこってきます。鈴木氏によると、そのような翻訳書のわかりにくさは、原文の構造の一字一句変えない翻訳のスタイルによって出現するものだといいます。「原文の構造を忠実に再現することは訳者の任務であり、それを解読するのは読者の責任だ」(同書、58頁)という翻訳スタイルは、日本のアカデミズムの権威主義的態度の現れであるそうです。この権威主義的態度は、大正期から第二次世界大戦集結の間に強化され、今もなお続いています。わかりにくい翻訳をしておいて「理解できないのは読者のせいだ」とつっぱねるのは、翻訳書(外国文化)から読者を引き離す行為であり、外国文化を紹介・普及・受容させるという翻訳本来の役割を果たしていないというわけです。このような翻訳スタイルがはこびるのは、翻訳者個人の問題というより、学問世界全体の制度的問題のようです。そこには、日本の近代化の特質、日本がモデルとしたドイツの学問の特質が関わっているとか。
 同書は、翻訳者側からの自己反省の書と言えます。外国研究をしている人/しようと思っている人にはお勧めしたい本かも。
 以下、教育基本法のお勉強。

  【第9条】
○旧教育基本法第6条(学校教育)
 1 (省略)
 2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
○新教育基本法第9条(教員)
 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
 2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

 新法第9条は「法律に定める学校の教員」を規定するので、大学(新法第7条に規定)と私立学校(新法第8条に規定)の教員も明確に教育基本法に拘束される。旧法において教員は「全体の奉仕者」として位置づけられていたが、新法ではその位置づけが削除された。また、教員が自覚すべき使命は、「崇高」であることとされた。なお、新法では新たに、教員養成・教員研修の充実が「図られなければならない」こととされた。
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教育改革の言説に必要な視点

2007年02月14日 19時15分51秒 | 教育研究メモ
 今日は久しぶりに早起き。登校後、速読のトレーニングと、基本法の勉強をする。今日こそは運動しようと思って体育館へ行くと、休館日だった(月曜でも祝日の翌日でもないのに…)。仕方ないので、一度家へ帰って再び登校。再登校後は、「群像」の記事を書いた後、昼飯を食べる。
 今日は、広田照幸『教育』(思考のフロンティア、岩波書店、2004年、¥1300+税)を読み切り。同著は、個人化とグローバル化が進む今、教育改革の言説は、3種類の「異質な他者」との間における富と機会の配分に注目しなければならないとします。第1に、同じ社会(日本とか広島県とか…?)における他者です。つまり、富裕層の人々から見た貧困層の人々やその逆、日本国籍を持った人々から見た外国籍の人々やその逆のこと。第2に、別の国に住む他者です。つまり、先進国の人々から見た発展途上国の人々のこと。第3に、未来に生きる他者です。つまり、現在を生きる我々から見た未来に生きる我々の子孫のこと。要は、教育の改革を主張する際には、その改革によって想定している者とは違う、「他者」の機会や将来を奪っていないか注意しなくてはならない、ということだと思います。
 広田著では、階層間(同世代間)・世界間・世代間の富と機会の再配分を実現させる教育システムをいかに形成するか、という問題を読者に考えさせようとしているようです。内容はちょっとむずかしいですが、今進行中の教育改革の動きに違和感を感じる人も感じない人も、一度は読んで欲しい本です。
 あと、教育基本法の新旧比較による相対的把握のための、お勉強をば。

  【第7~8条】
○旧教育基本法
 (該当条文なし) 
○新教育基本法第7条(大学)
 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
 2 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。
○新教育基本法第8条(私立学校)
 私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

 新法第7条・第8条により、従来「学校教育」として一律に法律に規制されていた大学教育・私立学校教育は、個別にその性格を規制されることとなった。また、同時に、国家・政府・地方公共団体は、これらの教育について、その役割・特性を尊重しながら助成・支援・管理等を行うことを課せられることになった。
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