教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「大日本教育会・帝国教育会の群像」と情報提供

2008年12月30日 10時43分07秒 | Weblog
 年末はいかがおすごしですか?
 私はしばらく来年頭の発表等の準備をして、年末年始は実家に帰ることにします。
 で、すでにお気づきの方もいると思います。この数日、「大日本教育会・帝国教育会の群像」を連続して更新してきました。久しぶりに広島県会員の更新です。この三日間で、井上贇馨(よしか)(明治期におけるたたき上げの小学校教員)、高木幹吾(教育普及・改良に熱心であった村長)、三好清九郎(明治末から大正期における野心に燃える小学校教員)の記事をアップしました。別にヒマだったわけではありませんが、せっかく資料を集めてきた広島県会員の記事も今の内に書いておこうと思い立ったわけです。
 実は、資料を中途半端にしか集められなかったので、これまで記事を書くのを躊躇していました。しかし、いつまでもそうやっていてはいけないなと、一念発起して書きました。生駒恭人の記事についていた唐橋在宣さんのコメントに触発されたという理由もあります。最新コメントの確認の仕方がわからず(今は解決済みです)、1ヶ月近く放置してしまったという大変失礼なことをやらかしたわけですが、思いがけず唐橋信言の情報をいただくことができました。唐橋については、生駒恭人の記事に名前だけ出していただけです。唐橋は大日本教育会の前身・東京教育協会の関係者ですが、学習院退出後の履歴を調べるあてすらなかった人のひとりでした。そういう人の情報をいただけたことは大変貴重な出来事だと思います。
 唐橋の一件から、わからない人をそのまま放置しておくよりも、少しでもわかっている情報を提示しておくことによって、運良くご存知の方から情報を提供していただく機会を増やすのも悪くないなと考えるようになりました。かつて、庵地保の記事も、公表したからこそ情報提供者が現れ、その内容を充実させることができたわけですし。せっかく公表して情報提供を募っているわけですから、最大限活用するにはまずは行動が大事だなと思っています。かといって、いい加減な記事を書いてはむしろ世の害になります。そこのところは、資料に基づいて書く、という方針を確守することで、少しでも実証性を確保していきたいと思います。
 私は、研究とは一人でするものではない、と考えています。もちろん自分で努力もせず他人を頼るばかりなのは言語道断ですが、一人の人間の能力には限界があります。ましてや、「群像」のプロジェクトは研究者一人でがんばってもどうにもならない性質のものです。情報提供をいただいてすぐに動けないのが、何とも申し訳ない限りですが、ほんのちょっとした情報でもよいので、ぜひ提供していただければ幸甚の限りです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年はどんな年だっただろうか?

2008年12月26日 19時31分08秒 | Weblog
 本日で仕事納め。何とか納められたのではないかと思います。
 クリスマスはどころではありませんでしたが(笑)。

 さて、今年はどんな年だったかな、と思い返してみましょう。
 まず、突然の就職に驚きました。私が一番驚きましたよ。同僚にも上司にも恵まれて、失敗も成功もしつつ、快適な仕事ができました。
 そして、何とか研究でも結果を挙げられました。それに、博論計画に具体的なイメージができてきました。自分の研究には不満だらけですが、やって満足する研究はないような気がするので、これでひとまずよいのだと思います。
 写真や距離感から明治時代を実感する、という活動は、自分でいい感じに実感できたので、自己満足しています(笑)。
 こうして見ると、結果的に良かった年なのかなぁ。
 あ、腰痛の再発だけは勘弁して欲しかったな…

 皆さんには、今年やり残したことはありますか?
 私にはあります。ひとつは、授業づくり。仕事と研究の板挟みで、結局新しく形にできた授業案は何一つないという有様。教育者養成に携わりたい自分としては、ふがいない結果でした。来年は待ったなしですぜ。
 それから、ブログの更新。「群像」の方は比較的更新できましたが、こちらの「生活」の方がほとんど更新できませんでした。それは、勉強は比較的順調にやっていても、「まとめる」ところまで体力的・物理的に行きつかなかったから。研究をまとめるのは論文になるのでいいのですが、勉強の成果をまとめるのを若干あきらめ気味だったのは反省すべき。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルビンジャー(川村肇訳)『日本人のリテラシー』を読み始め

2008年12月18日 21時02分02秒 | 教育研究メモ
 来年初頭の授業における発表のため、手習所(寺子屋)に興味をもって近世日本教育史の勉強をしてます。その過程で、リチャード・ルビンジャー(川村肇訳)『日本人のリテラシー―1600-1900年』(柏書房、2008年)を読み始めました。
 本書は、江戸時代の一般民衆に焦点をあてて、彼らがいつ、なぜ読み書き能力を獲得していったのかを明らかにしたものです。ルビンジャーは、人々の読み書き能力の獲得過程は、地域・性別・職業・階層により異なっており、その格差を克服するのに20世紀初頭までかかったとしています。読み書き能力は、その獲得に有利な地域(大都市近郊・交通機関発達地など)に住んでいる人々には生活改善・権力強化の助けになり、獲得に不利な地域(大都市遠郊・山間部など)に住んでいる人々には指導層と一般民との間の文化的差異を深めたことを指摘しています。本書は、花押・入札などの比較的新しい資料を使って、読み書き能力という視点から近世日本教育史を描いて見せています。
 まだ読み切っていません。しかし、ちょっと目を通そうかな程度で手に取ったのですが、気がつくと「まだ読みたい!」という気持ちがわき上がってきます。また、史料や先行研究(日本の!)の渉猟具合を見て、外国の日本教育史研究者がここまでやれるのか、と素直に驚いています。裏返して、同じ日本語を母語とする者なのに自分はなんと近世日本教育史研究に暗いのか、と反省せざるを得ません。
 また、訳者の川村氏の翻訳姿勢も興味深いものがありました。訳者のはしがきやあとがきによると、多くの読者に読んでもらうため翻訳調を避け、原著に忠実に大胆な意訳を控えつつできるかぎり平易に心がけ、外来カタカナ語をできるだけ日本語に置き換えたといいます。訳者あとがきでは、「翻訳というのは英語を日本語に置き直していく作業かと思っていたが、むしろ全体をつかんだ上で言葉を紡ぎだしていく創造の作業であることを知ることができた」と述べています。原著に忠実であるが故に原著の言いたいことを読者に伝えられない、という学術書翻訳の功罪論がありますが(鈴木直『輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか?』ちくま新書、筑摩書房、2007年)、ついそれを思い出しました。
 川村氏の翻訳姿勢には、感謝の念に堪えません。私は翻訳ものの本はとても苦手なのですが、この本はとても読みやすいのです。いや、読みやすいのは、翻訳姿勢だけでなく、ルビンジャー氏・川村氏の文章力があるからこそですか。それにしても、読めば読むほど、どんどんアイデアがわいて出てきます。こんな刺激的な本に出会わせてくれたのですから、「翻訳して出版してくれて、ありがとうございます!」ですね。
 ちょっと紹介記事を書くだけのつもりだったのに、こんなに書いてしまった(笑)。おもしろい本に出会うと、筆も(キーボードを打つ指も?)踊るなぁ。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やらなきゃいけないこと

2008年12月14日 18時47分32秒 | Weblog
 おちついてきたと思ったのですが、先週は相変わらず仕事三昧でした。朝出校して仕事を始め、気がついたら暗くなっているという日が続いております。来週は、少し落ち着いてくれればいいけど。いや、担当のイベントがひとつあるので、落ち着くのは無理か…
 さて、S先生(研究室の新しい上司)の大学院の授業に、10月から無理を言って参加させてもらっています。来年頭に発表をすることになっています。だいぶ資料は集めましたが、そろそろ仕上げにかからないといけません。
 メンバーに入れてもらっている科研の論文についても、追加の資料収集の計画を考えないといけません。5月に研究会で発表したものですが、だいぶ手直しをする予定。
 それから、教育学および現代の教育問題の勉強をもっとしておきたい。これまでもちょっと空いた時間には読書をしてきましたが、続けていきます。いつどこで何をするか、まったく未定だけども、いずれ教壇に立つために。
 最後に、博論も少しずつでも準備していきたいな。たまに構想を立てていますが、やらなきゃいけない課題が残りまくっています。計画的にやっていかないと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は知っていることしか言えない。

2008年12月06日 18時23分46秒 | Weblog
 バタバタした日々がようやく落ち着きそうです。
 12月1週目では仕事をしていて気づくと夕方になっていた、という日ばかりでした。今日は、学部3年生の卒業論文構想発表会でしたので、朝から夕方までずっと会場にいました。
 所属講座は教育学講座ですので、発表会では、教育学全般にわたって様々なテーマの発表があります。自分なりにいろいろ勉強してきた結果、卒論構想であれば、だいたいのテーマについて、何か言えるほどの知的レベルには達したようです。もちろん、すべてがうまく問えたと思っているわけではないので、まだまだ精進しなければなりません。
 当たり前のことですけれども、あるテーマについて何か言えるようになるには、やはり本・テキストを読んで勉強することが一番大事だなと実感しました。
 人は知っていることしか言えない。これは多分真理なんだろうと思います。
 あらためて昔の私を思い返すと、とても知識の幅も視野も狭い人間だったなぁとつくづく思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員養成における問題解決的態度・能力の育成

2008年12月03日 21時44分09秒 | 教育研究メモ
 日本では、今も昔も、教員の資質能力に教育諸問題の原因を求めがちです。2009年度から開始される教員免許更新制もまた、教員の不祥事や児童生徒の学力低下問題などにより、その資質能力が問題視される社会状況のなかで成立しました。同更新制は、大学などにおける講習によって現職教員等の資質能力を高めようという制度です。しかし、教員の資質能力は、他律的な講習によってのみ向上するものではありません。教員は、毎日のしごとのなかで問題を発見し、解決策を検討し、実行していくうちに、必要な知識・技術を身につけます。教員の資質能力は、問題解決過程のなかでも向上していきます。
 私は、教員養成において最も重要なのは、問題解決的態度・能力の育成だと考えています。教員は、直面した問題に自主的に取り組み、精確な分析結果に基づいて解決策を導こうとして、同僚上司や教育学者とともに科学的分析や解決策の立案を行うなかで、その資質能力を高めていくと考えます。教員が問題解決的態度・能力を身につけていなければ、講習によって最新の知識・技術を提供しても、資質向上の実効性は薄いでしょう。なお、このような態度・能力は、生涯学習社会に生きる社会人にとっても重要です。
 常識を歴史から問い直すことができる歴史的研究は、問題解決過程において有効な方法の一つです。私は、自分の専門とする日本教育史研究の知識・方法を駆使し、以上のような教員養成・社会人育成に寄与したいと考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする