教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育カウンセリングと教育相談

2008年04月29日 01時25分14秒 | 教育研究メモ
 仕事上必要があって調べたのでメモ。あくまで、今の私の理解です。ご注意を。
 間違いや足りない点などありましたら、コメントください。勉強になりますので。

 教育カウンセリングとは、教育上の見識・技能をそなえたカウンセラーの考え方や方法のことであり、教育カウンセラーという資格によって保証されることが目指されています。教育カウンセラーの資格は、教育カウンセリング協会(会長:國分康孝氏、2005年11月現在の会員10,000人以上)が出しています。教育カウンセリング協会は、教育カウンセリングの考え方や方法を普及し、青少年の健やかな成長と国民の教育・福祉の向上に寄与することを目的にしています。キャリア教育学会・日本教育心理学会・日本カウンセリング学会の有志が創立した協会です(内部に教育カウンセリング学会もあります)。國分会長は、臨床心理士としてのスクールカウンセラーのあり方を批判し、教育者としてのカウンセラーの養成を目指して協会を牽引しています。
 似た概念に、教育相談というものがあります。教育相談とは、教師が児童生徒優先の姿勢に徹して、児童生徒の健全な成長・発達を目指し、学校生活における学習相談・生活相談・進路相談などについて的確に指導・支援することです。大学における教育相談に関する科目は、教職に関する科目のひとつとして、教員免許取得の必修単位(2単位)となっています。
 教育カウンセリングと教育相談との違いは、3つあると思います。第1に、カウンセリング技術の位置づけです。カウンセリング技術は、教育カウンセリングではその方法の根底に位置づいて無くては成り立たないものですが、教育相談では有用な技術ではありますが必ずしも必要ではありません。
 第2に、担い手です。教育カウンセリングの担い手は、教育カウンセラーという資格者です。協会の規定によると、一条校(教育基本法第1条にある学校)の教員の履歴をもつ者や、心の教室などの相談員が教育カウンセラーの資格認定に有利であり、このような人々によって教育カウンセリングが担われると考えられます。教育相談の担い手は、学校教員です。教育相談は、教員の職務の一部です。
 第3に、スクールカウンセラーの職務との関係です。スクールカウンセラーは、臨床心理士、精神科医、大学教員、または学校心理士(教育心理学会認定)とそれに準ずる者が就く職であり、児童・生徒・保護者との相談や、教職員・保護者への助言・援助、専門機関との調整・連繋を職務とします。スクールカウンセラーは、生徒指導等の教育に関わりますが、生徒指導など教育上の経験や教職の理解について不十分です。教育カウンセリングは、この現状に対する不満を成立背景の一つとしています。スクールカウンセラーの問題の克服を目指すものと考えられます。教育相談は、教員の職務の一部であり、スクールカウンセラーの協力こそあれども競合・対立するものではありません。
 教育カウンセリングは、生徒指導と重複するものと考えられています。教育相談は、生徒指導のバリエーションの一つです。教育カウンセリングを生徒指導と心理療法の中間点に置くならば、下記のように、教育相談とスクールカウンセリングは両極に位置するのではないでしょうか。従来の教育を改良する観点から見ると、教育カウンセリングは、教育相談とスクールカウンセリングの両者の問題を明らかにし、生徒指導を改良することにつながる分野だと思われます。

   生徒指導←―――――――――――→心理療法
   教育相談  教育カウンセリング  スクールカウンセリング
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クラクラしました

2008年04月25日 21時22分37秒 | Weblog
 今週半ばから突然忙しくなったので、まったく勉強できませんでした。
 やらないといけない仕事が本日駆け込みで舞い込んできました。
 急いで処理をしていたのですが、その最中、めまいをハッキリと感じてしまいました。
 「あぁ、今クラクラしてるな」という感覚を感じましたよ(笑)。
 徹夜で作った高校非常勤の授業をした帰りに、駅で感じた以来だなぁ。
 この土日からGWにかけての時期には、しっかり息抜きをしないとなぁ。
 さて、明日と明後日は、講座の行事(泊まりがけ)です。

 そういえば、こんなふうにまるまる日記に記事を使ったのは久しぶりですね(笑)。
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『日本教員社会史研究』その2―リアルな明治後期教員史像

2008年04月21日 22時55分56秒 | 教育研究メモ
 忙しいです。今週から5月にかけての時期は、もっと忙しそうですよ。しかし、忙しいうちが華。成長する機会を与えられたと思ってがんばっていきます。

 さて、石戸谷・門脇編『日本教員社会史研究』の続きです。
 第4章の陣内靖彦「明治後期における師範教育の制度化と師範学校入学生の特質」は、明治後期における師範学校の変遷に注目することで、教員の地位低下の原因を究明しようとした論文です。明治後期において師範学校は、師範学校入学年齢の引き下げ(明治19年の17~19歳→明治40年の15歳以上(予備科は14歳以上))、学校の増設(明治19年の46校→大正初年の90校)、生徒数の増加(明治19年の約5,000人→明治末期の28,000人、女子生徒は男子生徒の約3倍の増加率)、短期課程の併設(簡易科・二部など)、小学校教育内容・方法へ適合的な方向への教育内容の画一化・定型化(同時に精緻化)といった変化を経て、国家統制を強化し、組織的整備を推進したとともに、その地位を低下させ(明治前期における府県の最高学府としての地位から職業訓練機関としての地位へ)、形式主義的な「“錬成”」の場となっていったとされています。このような師範学校は、短期的な経済の契機に進路選択を左右されるほど、浮動的かつ広範囲な青少年層から成る入学予備軍をかかえ、明治後期に入って急速に増加した未進学の高等小学校卒業生を吸収していきました。師範学校生徒は、明治30年代に士族から平民へ移行したとされていますが、陣内論文では中学校生徒と比較し、士族層が入学してこなくなったのではなく、もともと多数を占める平民層が中等教育の機会拡大の分だけ進出してきたのだと指摘しています。平民層が増加していった明治30年代後半以降の師範学校生徒は、中学校生徒と比べて農業出身者の占める割合が圧倒的に高く、中程度の自作農を中心に高額所得者から貧困層にまで幅広い農業出身者で構成されていました。東京府青山師範学校の入学者は、①高等小学校卒業後、私塾などで普通学の勉強をして入学した者、②高小卒業後、教育の実際に踏み込んだ経歴(師範学校や郡市立教育会などにおける講習の修了、准教員・代用教員の経験、検定による准教員免許状取得など)をもって入学した者、③他の中等教育機関の修学途中で入学した者で主に構成されており、とくに②の修学歴の者が目立っていたようです。彼らが師範学校入学を選んだのは、彼らが高小卒業まで成績優秀の土地の模範的少年であり、立身出世や自己向上を願いつつも、家郷との絆を断つほど「親不孝的」で「脱土着的メンタリティを持った」少年ではなかったためだといいます。彼らは、家業の手伝いや村役場で働きながら、向学心と教育の実際に踏み込む経歴を契機として、師範学校入学志望をつのらせていったということです。
 第5章の寺昌男「明治後期の教員社会と教師論―沢柳政太郎と加藤末吉」は、明治20年代末以降のほぼ日清戦争後の時期を「明治後期」と設定し、「教師論」すなわち教師に対する社会的期待の倫理構造を、沢柳・加藤の教師論から探った論文です。明治後期の教員は、その社会的地位を相対的に低下させながらも、教職の専門性を制度上で確立しました(ただし、平民に対する士族の相対的後退による「士太夫ノ気概」の喚起基盤の喪失、教授の定型化の進行による教育実践の創造的余地の縮小を伴っています)。沢柳は、『教育者の精神』(明治28(1895)年)において、教職者集団の本質的精神(教育者の精神)を一人一人の教師の内面に求め、その精神および教師自身と社会的制度や世俗的規範とを混合せずに相対化しました。また、教職者の資格を、哲学や教育目的論などの「学識」と人物を養成するに足る「徳義」、そして教育への「誠実」「熱心」に求めました。沢柳は、『教師論』(明治38(1905)年)において、教師の生活を重視し、その学識を強調して「教育社会」に着目し、教師のあり方を教育実践の構造的把握(教師の「教授者」性への認識)の上に捉え、大量化した教職者集団の自己回復の道を認識しようとしています。沢柳『教師論』にみられるように、明治30年代の教師論には「教授者としての教師」観が現実(中等教育段階における学校紛争など)へ対応する重要な論点として挙げられました。東京高等師範学校付属小訓導であった加藤末吉は、『教壇上の教師』(明治41(1908)年)や『教師たらんとする人のために』(明治44(1911)年)などにおいて、大量化する教職者集団の共有すべき技術を問題とし、子どもに対する態度(「対他的態度」)にもとにある教師のしごとの専門性を追求しました。加藤は、教師-教材-子どもの三者交渉の場として授業を捉え、教材を生かし教科書を生かす「伝達」の仕事に教職の専門性を求め、それを「教順」(教授活動の形式・手順)と「教式」(教師-児童間の体裁、講演式・問答式・対話式など)を実行する際に教師が注意すべき「教様」という概念を用いて研究しようとしました。「教様」とは、教師に内在的な技術であり、主に言語・動作の技術として追求されたものです。明治30年代の教師論は、その論点を教職の倫理から教授の技術へ移行させ、教師の本質観を教育者から教師・教授者へ変化させていました。なお、寺氏は、本論文の結論から、この変化を明治30年代の小学校教職者集団の変貌と関連づけられるのではないか、沢柳・加藤の教師論を明治国家の要求した聖職教師論の一展開としてみなしてよいか、という仮説・問題を導いています。
 陣内・寺両論文は、通説を問い直し、日本教員史像を従来以上にリアルに描き出した論文でした。陣内論文では、師範学校の出身族籍の傾向など、今まで資料分析を経て論じられなかった通説が強化されていきます。東京府青山師範学校予備科入学生の手記「我が経歴」を用いて、明治後期の師範学校生徒がどのような思いで入学したか分析した結果は、当時の師範学校入学生の姿をリアルに理解できる興味深いものでした。寺論文では、明治30年代の教師論を丁寧に分析し、「教授者としての教師」像を見出して、士族的教師像→師範タイプ(聖職的教師像)という明治教員史像を描き直す可能性をひらきました。両論文は、唐澤氏以来の日本教員史像を問い直すような、研究史上重要な論文だったのではないか、と感じています。
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某大学学生による私の授業の評価

2008年04月17日 21時36分01秒 | 教育研究メモ
 本日で29歳になりました。20代最後の1年が始まります。
 先日、2007年度後期に非常勤講師をつとめた科目の授業評価について、コメントを書く機会がありました。コメントは大学に提出しました(冊子にして学生に公表する予定だそうです)。他の先生方の結果がわからないので、どれほどのものかよくわからないのですが、学生から集めた授業評価は、私としてはうれしい結果でした。受け持った2つの授業について、8割以上の学生がまがりなりにも満足してくれたのはビックリし(もっと悪いと思っていたので)、それと同時にホッとしました。具体的には、「この授業には総合的に満足している」という設問に対し、「そう思う」と「ややそう思う」と答えた学生の割合の合計が、「教育学基礎論A」(アンケートを回収できた学生22名)では100%(!)、「教材研究・社会」(アンケートを回収できた学生120名)では87.0%でした。
 なお、この授業評価の結果を見て一番うれしかったのは、「教材研究・社会」を受講した学生の一人が、自由記述欄に以下のように書いていたことです。

 「一つ一つの授業にテーマをかかげ、きちんと終了するようにきちんと計算された指導だった。内容もそうだが、授業自体がとてもよい学びになった。」

いろんな学生がいて、自分の力量不足を感じたり、がっかりしたこともありました。しかし、実際好意的に接してくれた学生もいました。そして、この自由記述によれば、私がねらったところをきちんとくみ取ってくれて、しっかり学んでくれた学生もいたようです。だから、とてもうれしく感じました。しかも、おそらく教員志望であろうと思われる学生(教職必修の授業なので)からそんな言葉が聞けたので、なおさらです。とりあえず、頑張った甲斐はあったかなと自己満足したいと思います。それと同時に、よいと評価されたところをさらにのばし、評価が低かったところを改善して、今後実践していく将来の授業をよりよくしていきたいなと思います。
 今年は本務の関係でこの大学の教壇に立つことはできませんし、今後そのような機会をいただけるかどうかわかりません。しかし、どこで教壇に立つにしても、この授業評価の結果はとても有意義なものだと思いました。ありがとう、みなさん。
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『日本教員社会史研究』その1―明治前期教員史研究の深化

2008年04月15日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 いつも「難しいものを難しいままに」説明してしまってます。どうも余裕がなくて、「難しいものをわかりやすく」説明することができないんですよね。わかりやすく説明するには、ひとつの研究成果に依拠するよりも、多くの研究成果をもともとの研究意図や資料の性質に注意しながら自分でまとめた方がはるかにいいので、今は先に進むことを優先します。申し訳ないのですが、今回も「難しいものを難しいままに」説明してます。

 今回から何回かでは、石戸谷哲夫・門脇厚司編『日本教員社会史研究』(亜紀書房、1981年)をまとめます。この編著は、東京教育大学で石戸谷哲夫氏を師事した人々を中心とした執筆者12名により、「日本社会における教員社会の社会学的分析」を目指して構成され、石戸谷氏の退官記念事業として編まれた論文集です。収録された12本の論文すべてが一貫した研究視角をもっているわけではないとされていますが、いずれも石戸谷氏の『日本教員史研究』を多分に意識して書かれたものと思われます。
 第1章の大坪嘉昭「近代日本の臣民創制過程における国民像と教員像」は、明治維新から森有礼の教育政策直前までの時期における国民像・教員像の課題と模索過程を分析したものです。維新後、明治政府は、外圧に対抗するため、富国強兵のための資本蓄積や軍事増強を推進しなくてはなりませんでした。しかし、農民は重い税負担などの負担増大に対する不満をもって、士族は治者としての存在意義と特権を否定された不満をもって、それぞれ集団的な抵抗を続けていました。明治政府の課題は、これら反抗しがちな民衆を、国家や諸集団へ統合する原理を模索することでした。明治政府内での国家統合原理の方向性は、それを村落共同体秩序と国家体制とを接合する素朴なイデオロギー体系に求める元田永孚(保守的旧特権層)と、反政府的政談にはしらず学問や職業に堅実にいそしむ態度に求める伊藤博文(開明派官僚グループ)との間でおこなわれた教育議論争にみられるように、決して一つではありませんでした。明治10年代前半の教育政策は、伊藤よりも元田の路線に沿った形で形成されていきます。明治14(1881)年の小学校教則綱領などによって、神聖化された天皇の伝統性を教科内容とし、「臣民」としての国民像を制度化を進められました。小学校教員は、明治14年の小学校教員心得などによって、児童の模範となり、国民教化イデオロギー(「徳」)を国民に内面化する役割を課されていきます。この時期の国民像の追求はまだ不十分でしたが、制度化過程における国民像や教員像の模索は、民衆を国家や諸集団へ統合する原理の模索として行われました。
 第2章の大橋昌平「小学校創設期における教員社会―五日市勧能学校と教師たち」は、神奈川県西多摩郡五日市地区に創立した勧能学校の創設背景・就学状況や、その教員の属性・動向、同校に関わった人々の公教育観を明らかにした論文です。明治10年代前半ころまでの勧能学校の教員は、政治問題に関心の強い学校世話役・学務委員(戸長や豪農たち)によって招致された各地を転々としてきた士族青年たちであり、村の豪農たちによって生活全般にわたって厚く援助されていました。当時、彼らの給料は学校へ奇遇していた民権運動の壮士へ寄附されていたそうです。教員のなかには、『五日市憲法草案』を起草した千葉卓三郎などの民権運動家がいました。彼らの公教育観は、教育内容・方法などをすべて自由とし、子弟に小学校教育を受けさせることは父母の責任であるとするものでした。このような教員・教育観を背景とした勧能学校の教育方針は、明治17年ころまで確認できるようです。
 第3章の溝口繁美「自由民権運動の抑圧と教員社会」は、自由民権運動の指導的役割すら果たしていた教員たちが、なぜ政府の教員統制政策に対して抵抗せず沈黙してしまったか、という問題を検討した論文です。明治14年から16年にかけて打ち出された教員施策は、絶対主義的天皇制の精神原理を貫徹させるべく、無批判な尊皇愛国思想の注入者として日夜努力する教師像を前提としたものでした。そこで要求されるのは、教員の自律性や専門性ではなく、教化の効率化のための教育技術であったとされています。このような教師像に対して当時の教員たちが抵抗しなかったのは、勤務年数の地域格差の温存(九州・四国・東北では若く経験浅い教員が多く、近畿・東海では比較的経験ある教員が多い)、出身身分による二重構造(上層に士族・下層に平民)、めまぐるしい人員の交替によって、固有の価値・教職倫理・専門性を確立することが難しかったからだといいます。また、教員社会の指導者層(師範学校教員)は、西洋から輸入した学問的識見によってエリート性を有し、政治的自由と権力を獲得するための組織的運動を指導するのではなく、教員層内部から遊離して多くの無資格教員を蔑視・支配したとしています。
 以上の大坪・大橋・溝口論文では、国民像と教員像の関係、小学校教員の実態、教員と自由民権運動の分離、といった明治前期教員史研究の専門的テーマを設定し、その研究の深化が図られています。実証面ではあやしいところも少々ありますが、いずれも興味深い研究成果を示していると思います。
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海原徹の明治教員史研究―日本教員史研究の実証性の向上を目指して

2008年04月10日 22時41分52秒 | 教育研究メモ
 今回は、海原徹『明治教員史の研究』(ミネルヴァ書房、1973年)をまとめようと思います。
 海原著は、教員史研究が理想的教員像の探求とつながることを前提として、明治期の教員の傾向を検討しようとしたものです。その時代区分は、学制期・自由民権期・教育令期・学校令期・国立教育運動期・日清戦中戦後期・日露戦中戦後期にわけられ、それほど目新しいものではありませんでした。ただ、各章ともに、各時期に関する日本教員史の通説を疑い、同時代の感覚を再現しようと努めながら、歴史的事実をなるべく多面的に検討する、という研究姿勢に貫かれており、独特の雰囲気を作り出しています。
 海原著は、まず、教員の政府権力の末端としての機能と低い社会的地位の叙述を基調とする教員史像について、学制期や自由民権期の教員を適切に説明できる歴史像ではないとしています。政府権力の末端機能については、教員の自主的活動や反政府的活動をどう捉えるかで評価がかわってくると思われますが、海原氏の場合は学制期の教員の社会的地位の高さや自由民権思想のひろがりなどを強調して、当時の教員に「自由闊達」さを見出そうとしています。また、教育令期においても、教員に対する統制政策が政府で強く打ち出される一方で、地方府県では必ずしも円滑に浸透しなかったとし、教員に対する国家統制が中央から地方へ一直線に実施されたわけではないことも指摘しています。社会的地位については、同時代における教職のよりどころ、俸給の多少をはかる規準としての米価の位置づけ、報酬のあり方などを丁寧に検討し、当時の教員は貧困にあえいでいたというイメージは間違いであることを明らかにしました。つまり、全時期を一貫した教員像として認識するのではなく、各時期の教員像をその時期に限定されたものとする認識がなされていると思われます。
 学校令期については、森有礼の師範学校令や三気質(順良・親愛・威重)をもって師範タイプや軍隊式師範教育の確立とする通説に疑問を呈し、史実の再検討を行っています。とくに師範タイプは、「師範タイプ流」の教員の性質を現在にも世界的にも平均的に見られるものと位置づけ、理想の教員像と現実の有り様の乖離に見いだされるものだとして、森式の師範教育のみの結果ではないとしています。師範タイプは、師範学校制度を大きな理由として造出されたかもしれないが、明治40年代に、教職の専門化と教員の転職などが同時進行したことにも理由がある、としています。ここでは、明治19年の師範学校令と明治40年代頃に顕著になった師範タイプとを直結して考えることを戒めていると見られます。
 明治20年代の国立教育運動については、運動の主体変遷(国家教育社→国立教育期成同盟会→学政研究会(学制研究会))と主導権の変遷(教育家→政治家)を丹念に追っています。日清戦中・戦後期および日露戦中・戦後期については、戦時教育に対する教員の積極性、教員の待遇改善の不十分さ、聖職的教員像における金銭的報酬の位置づけの変化について検討しています。聖職的教員像とは、金銭的報酬や名利名欲を問題とせず、精神的報酬の多寡を問題とし、個人的にも社会的にもリーダーとして深い尊敬を払うことを社会一般に求めるものであり、国立教育運動のなかで教育費国庫補助(その多くは教員人件費)の論拠として機能しました。このような聖職-天職的教師観は、日清戦後の物価高騰のなかで、精神的報酬に加えて金銭的報酬を必要とするものに変化していったとしています。ここでは、戦前の聖職的教員像について、戦前を通して最初から最後まで同じ意味を持ったわけではないことを指摘しているように思われます。
 海原著は、日本教員史の通説を資料に戻って再検討しました。例えば、学制期の教員像や師範タイプの形成要因について、同時代の感覚をなるべく再現しようと試み、時代毎に限定されたものとして慎重に評価しようとしたところにオリジナリティがあったように感じます。なお、1960年代以降の教員論において注目された「教職の専門職性」についての関心を各所で見出すことも可能です。ただ、著書全体を貫く姿勢としては、教職の専門職性の源流を追求しているというより、同時代的感覚からできるだけ多面的に教員の歴史的事実を実証しようとする姿勢の方が一貫していると思われます。その点から見ると、海原著は、日本教員史研究の実証性を高めようとした試みとして、位置づけられるのではないかと思います。
 海原著の冒頭では、明治維新に関する深い認識が示されています。さすが『明治維新と教育』(ミネルヴァ書房、1972年)の著者だなと感じました。本論においても、本論と日本史研究の最新成果とを積極的に関連づけようという姿勢も見られます。それだけに、冒頭の日本史認識が著書全体に反映されていないように見えるのは、とても残念でした。「半開」国から「文明」国へという明治維新の構想が著書冒頭では示されています。この維新の構想が、教員にどのような役割を与え、明治期を通してどのように実現されていったのか。私の読解力のなさ故かも知れませんが、気になるままに最終頁を迎えてしまいました。
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『中・高教師のあゆみ』その2―大正・昭和期における中等教員の意識変遷

2008年04月07日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 中内・川合編『中・高教師のあゆみ』(明治図書、1970年)のまとめの続きです。
 稲葉宏雄「大正デモクラシーと中等教員の増大」(Ⅲ章)は、大正期における中等教員の特徴を明らかにした論文です。稲葉論文は、大正デモクラシーにおける教育を民主主義的傾向(教育方法・内容における資本主義発展に応ずる科学的精神と独創的精神の育成)とその限界(教育理念における天皇制イデオロギーに基づく皇国臣民の育成)という視点から、中等教員における自由主義・社会主義・教養主義の可能性をさぐっていきます。大正期の中等教員は、整備される教員養成制度によって皇国主義イデオロギーに基づく聖職者意識や、「思想的盲目性と体制への従属意識」を形成していったとされます。また、大正期を「民本主義からコミュニズムへという時代の流れ」として捉える視点によれば、政策・学校からの圧力に抗しようとしていた「教育的世界でのインテリゲンチャのさまざまな生き方」を見出せることも示されています。
 Ⅳ章「昭和期の中等教育教師の歩み」は、3人の執筆者が書いています。まず、木下春雄「中等教師像の転換―戦前から戦後へ」(Ⅳ章一)は、昭和期の中等教員の特徴を昭和初期・昭和10年代・戦後の3つの時期ごとに説明したものです。昭和初期の中等教員(中学校)は、俸給格差に基づく差別意識や、自主的・創意的研究の低調さ、授業や学校生活の形式化・固定化をまねく権威主義・事大主義という特徴を持っていました。昭和10年代の中等教員は、中等教員・学校におけるつめこみ・暗記・画一・形式主義に対する批判に基づいて、教科内容の改革や授業案創作などの個人研究を進め、中等教育を革新に導くきざしを見せたとしています。なお、この時期の中等教員にみられる国家のための創造性・自発性への収斂は、我が国の中等教育の「空白」「断絶」「大きいマイナスの作用があった」と評価されています。戦後の高校教員は、教育労働運動(教育研究活動)のなかで、労働者としての統一行動と団結に対する自覚の深まり、教育観・生徒観の変革、教育実践への創意的取り組みに見出す枠組みを提示したとしました。本論文は、昭和期の中等教員の組織的な自主的・創意的研究活動に着目し、昭和10年代に限界つきでその活動が個人的・非組織的に見られるようになり、戦後に教育労働者としての自覚とともに活発に行われるようになった、と見ていると思われます。
 Ⅳ章-二「新しい中等学校教師像の探求」は、2人の現役高校教員(戦後採用者)の来歴をつづったもので構成されています。畑巌「子どもの現実と典型実践に学びながら」(Ⅳ章二-1)は、自分の教師生活を、主として生徒とのかかわりと生活指導観の変遷にしぼってつづったものです。畑氏は、就職時の自分を「デモ教師」(「教師でもなるか」で教師となった者)であったと位置づけ、現実の子どもとのふれあいのなかで学生運動や労働運動を通して身につけた民主主義思想の無力さを感じ、教員組合運動への挫折感や生徒会との衝突、同和問題のなかで自らの教育観を再検討し、新しい教育実践の検討していく姿がつづっています。田代三良「私の教師体験と教育実践の課題」(Ⅳ章二-2)は、教科指導や生活指導を通した、田代氏自身の生徒観の変遷をつづっています。
 Ⅳ章の一・二の文によると、意識変容の転換点として畑・田代両氏に共通したのは、次の3つがみられます。第1に、旭丘中学事件(昭和28(1953)年)と勤評闘争(1956~を経て生じた反体制運動への挫折感でした。第2に、教員と生徒・父母との対立でした(例えば、生徒会が教師にあびせた批判「さっぱりわからん授業。アホは放っておく授業。悪い奴は出ていけというやり方をやっていて、何が民主教育か」(207頁)など) 第3に、子どもの現実(同和問題や政治的問題に対する生徒の実感など)でした。これらを通して、畑・田代両氏は、自らの理想とする教師像や生徒観を変革しています。畑・田代両氏の事例によると、戦後の高校教員には、教育労働運動の挫折感と子ども・保護者に関する現実認識の深まりとを経て、教育労働者としての教師像を自ら変革した者がいた、といえそうです。そのように見ると、大正期の中等教員において芽生えたコミュニズムと、戦後の高校教員における教育労働者意識とは、挫折して意味あるものとなったようにも思われます。
 叢書「日本の教師」には、教育労働者としての教員像を教員史の到達点のように扱う論文が見られますが、同時にそれを批判するような現職教員の実感が含まれていたことは興味深いところです。この事実は、叢書「日本の教師」が編まれた1970年前後には、「教育労働者」がいまだ理想の教師像として語られるなかで、現実にはすでにその反省と変革が始まっていたようにも読めます。叢書「日本の教師」が編まれた1970年前後という時期は、教育労働運動の中核論理が「教育労働者」から「教職の専門性」へと移行しつつあった時期だと以前述べました。このような時代背景を加味すると、叢書「日本の教師」は、日本教員史における「教育労働者」としての教員像の意義を明らかにして、新たな教員像を模索する基礎研究となる可能性を持っていたとはいえないでしょうか。ただ、『小学校教師の歩み』(第1巻)と『中・高教師のあゆみ』(第2巻)を通して読んだ限りでは、「教育労働者」としての教員像を批判的に検討する傾向は低調であったように感じます。日本教職員組合が90%近くの組織率をもっていた昭和30年代(1965~1974)に編纂されたことを考えると、それまで掲げていた「教育労働者」という運動論理を自由に批判することは難しかったのかもしれません。
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ひとまず就職しました

2008年04月02日 20時52分35秒 | Weblog
 突然ですが、近況報告です。
 4月1日付で、H大学の教員に着任しました。
 1年間だけですが、夢にひとまず一歩近づけたものと思います。
 仕事をしながら、いつか博論をまとめられるよう努力していくつもりです。
 皆さんには、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。
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