教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

元に戻った執筆方針

2006年02月28日 17時39分30秒 | Weblog
 今日は特研(ゼミ)。昨日のできかけの論文を諮ってみました。大いに興味を持ってもらえたのですが、「教育学理論」をテーマとするつもりなのか、「教育学の研究体制」をテーマとするつもりなのか、という問いかけが先輩からありました。
 今日のできそこないの論文は、かなり理論解説に偏っており、しかも理論分析としては研究方法からして中途半端なものになっていました。そもそも、私の研究は教育会を研究対象としているところが第一の独自性であって、これを活かしていかないとこれまでの研究の意味がなくなってしまいます。今日の論文も研究体制として教育会を想定していましたが、西村貞の理論紹介に集中していて、全体的に見ればやはり教育理論の研究にしか見えません。これではおそらく評価もまずくなるだろうし、研究の全体的な戦略からしても問題ありなので、方向性を変更することにしました。変更といっても、大分はすでに文章化したこともある方向性なので、どちらかといえば元に戻ったというべきかもしれません。もともと西村を取り上げた理由は、大日本教育会やその前身団体の東京教育学会における彼の活動を、明治日本の教育学史上において意義付けたかったからでした。やはり「教育学の研究体制」をテーマにします。もう二週間しかないけど、やれるだけやってみよう!
 特研後、最低限やるべき作業(読むべき史料の整理)と、おおまかな論文の要旨を書きました。とりあえず、今日は目イボができて目が痛いので、そろそろ帰ろうと思います。健康上、運動もしておきたいし。
 この後、東広島市体育館へいって運動。
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じっけん

2006年02月25日 23時55分55秒 | Weblog
 ここのところ頭痛やめまいがひどいので、ちょっと実験。
 仮説としては、睡眠時無呼吸の機械が悪いのでは?
 結論。関係なかった(笑)。
 むしろ、使わずに寝たところ、めちゃくちゃきつかった(^_^;)。機械の有難さが身に染みました(苦笑)。
 久しぶりに苦しい夢を見てしまいましたよ。しかも初めての夢。やたら高いところ(2・3メートル?)にサドルがある自転車に乗って(降りられない)、誰かの後をついていかなくてはいけないと思いながら、急な山道を上って行きました。下りに変わる直前に目が覚めました。
 意味ありげな夢。何だろう?

 今日は入学試験日。入構規制の連絡は受けていなかったので、別に登校してもよかったのですが、念のため家にひきこもることにしました。今日は来月15日〆切の論文を書く。西村貞(西邨貞)という明治期の教育理論家についての論文です。西村さんの主著『小学教育新編』(明治14年刊)をひたすら読み、彼の教育学の理論構造を分析しておりました。西村さんは大日本教育会幹部を長年務め、前身団体の東京教育学会の初代会長を務め、後身団体の帝国教育会の創立時の幹部も務めた人です。明治11年に師範教育取調を文部省に命じられ、イギリス・スコットランドへ留学した人です(同時にフランスへ中川元、ドイツに村岡範為馳が留学)。この人は、その経歴のわりにほとんど研究が進んでいないのです。
 夕方からはアル・パチーノとラッセル・クロウ主演の映画『インサイダー』を鑑賞。「タバコが中毒性を持つ」という当たり前のことが、タバコ会社の利益を守るために隠蔽されようとした、アメリカの事実を元にした映画です。この秘密ともいえない秘密をあばくために、家族を失った告発者、仕事を失ったTVプロデューサー、信頼を失った業界トップの情報番組。得たものは国民の健康。社会派映画として、非常に見応えありましたよ。
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日常(めまいのみジャマ)

2006年02月23日 23時55分55秒 | Weblog
 昨晩、映画『キャッチミー・イフユーキャン』を見ました。実在の人物をモデルとした作品で、小切手偽造犯とFBI捜査官の逃走劇。スマートでとぼけた感じの音楽と、スピード感のあるストーリーであきませんでした。しかも、スピード感といいましたが、ありがちなカーチェイスのシーンは一切無し。テンポのよいストーリーで、スピードを感じさせてくれました。犯罪なんだけどスマートさがかっこいい。この元犯人は現実に生きていて大金を得ているそうで、さらに複雑な気分(笑)。
 そんなに寝るのは遅くなかったのですが、今日も起きられず。めまいがする。思い切って一日休もうかと思っていたのですが、ほんのすこしやっておきたいことがあったのですぐ帰る予定で登校。というのは、来月〆切の論文の基礎データの整理。すぐ終わると思っていたけど、なんやかんやしていたら思っていたより二倍時間がかかってしまいました。さて、そろそろ帰ろうかと思っていたら、先輩から先生と一緒に食事に行かないかと誘われる。今日は研究室でちょっと特別のことがあったからかな、と思い、誘われました。居酒屋へ行けども、帰りは車なので酒無しで食事。
 帰って柳田国男『明治大正史-世相編』を70頁ほど読んで寝る。
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うーん柳田とか

2006年02月22日 19時15分07秒 | Weblog
 昨日の晩は、ブログに帰ろうと言いながら、2時間ぐらい学校に居ました。それから帰ってDVDの視聴。昨日はDVDレンタル全品半額だったので、何本か借りて帰りました。今日は『ドラゴンボールZ』を。なつかしかったし、何も考えずに見られるので(笑)。思った以上に人(?)の動きがしっかり表現されていて、新たな発見もありました。その後、これまた深く考えずに読める本を選んで読書。柳田國男『明治大正史-世相篇』(講談社学術文庫、もともと1928年出版)を少し読みました。柳田國男はいわずと知れた日本民俗学の大家。『蝸牛考』(1943年出版)なんかは、学部の時の人文地理学の講義でよく取り上げられていたなあと、思い出してしまいました。
 
 昨晩寝る前にそんなことをしていると、結局今日の目覚めは遅くなってしまいました。 前日早起きしても、午前1時くらいにならないと眠ろうと思わないので(眠いのに我慢している)、悪循環だなあ。早寝早起きを徹底しなくては。学校へはいったのですが、結局何もやる気が起こらず、教育史学会の申し立てをちょっと直した後、楽譜を書いていました。とりあえず、7月につかう楽譜は完成させたけど、思ったより時間がかかってしまいました。うーん。今日は何もしてない気がするのに、一日が終わってしまいました。
 
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メディア論、それから村上陽一郎

2006年02月21日 18時17分47秒 | Weblog
 今日は早起き。前日、食費不足から晩飯を抜いたのが原因と見られる(笑)。やっぱり18時・19時ぐらいに食べ損ねたら、やや肥満体の私なんかは抜くのがいいのかも(朝食・昼食は抜いたらダメでしょうが)。
 登校後、昨日形にした教育史学会の審査票申し立てに手を入れる。かつ稲垣著を読んだり、北田暁大『<意味>への抗い-メディエーションの文化政治学』(せりか書房、2004年)を読んだりしました。後者の題名について、同級生がこの本を私が図書館で借りてきた直後に見とがめて、「お前、どうしたん?」と心配してくれるぐらい(笑)、すごいものがありますが、中身はまともな研究書です。べつにアナーキーなもんではなく。ちょっと、いや、かなり装飾語やら比喩が多いので読みにくいですが(笑)。「メディアの受容する際の形式・様相が、意味内容の解釈にも作用する」というメディア論を、いろんな角度から読み直し、批判している本です。メディアとは「媒介者」だとか「媒介作用」だとかいう意味の概念ですが、人間社会にはなくてはならないものなのです。私の専門とする教育会をメディアと考えると、非常に興味深いことが次々とわかってきます。最初に教育会=メディアを提唱したのは、東北大学の梶山雅史先生なので、とりあえず論文では私がでしゃばるまでもないなと(もちろんその能力も知識もないですし)。その理論化をまだかまだかと待っております。
 そして、特研(ゼミ)。教育史学会審査票申し立てを提出。御意見をもらう。うーん、やっぱり他人の意見って大事だなあ、としみじみ。
 実は今日は科学哲学・科学史学者の村上陽一郎先生が、広島大学教育学部に来て講演会を開きました。いつも書いていることなのですが、私の博士論文の構想は、多少科学史の洗礼(笑)を受けているので、聴かざるを得んだろうということで、うちの先生に無理を言って特研を中座させてもらいました。テーマは「現代における教養の意義」(村上先生のレジュメでは「現代における教養とは」になってましたが)でした。なんでも、教科系の先生が教職教養について共同研究をするらしく、その関係で村上先生の講演を頼んだようです。内容は…村上先生の著作に照らして考えると目新しい話はありませんでしたが、中世から近現代における欧米の教養観の変遷と日本の教養教育の過去現在未来の話が、無理なくわかりやすく述べられ、よく理解できました。
 村上先生の講演が終わってすぐに特研へ戻り、それから40分くらいで特研は終了。さて、何をするか。いつも思うのですが、特研発表後の時間は、やらなくてはならないことがあるのにやる気がでない、どうも気持ちの悪い時間。要領の得ないことをしているよりは、むしろ思い切って休む!のがいいのではないかと。
 と、自己の行動を正当化して帰ろうと思います。
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申し立て

2006年02月20日 23時42分34秒 | Weblog
 今日は、昨日までの疲れが効いたのか、体調不良。かるく風邪をひいて、フラフラします。咳はまったくないので、とりあえず学校へは行きました。
 学校へ行って何をしたかというと、お金の振り込みと教育史学会への投稿論文の審査票に対する申し立てを書きました。教育史学会では受理された投稿論文に、すべて審査票を送付し、申し立てができる制度になっています。申し立ては、明日の特研(ゼミ)に出すつもりで、書いてはいないものの頭の中でずっと考えてきました。体調不良のため、あんまり頭はまわらないのですが、明日の特研に出さなくてはならないので、がんばってひとまず書き切りました。一部メディア論について触れていますが、専門家がいないので誰も評価できないだろうと不安を抱きつつ、自分のなかでOKを出しました。出来は頭がボーっとしていて、よくわかりませんし(笑)。また明日確認しよう…
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学習塾について

2006年02月17日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日車で登校中、FMを聞いていたのですが、その中のある子どもの投稿で、母親に「どうして僕は塾へ行かないの?」と聞いたというものがありました。「塾」の意味するところは明確ではないですが、おそらく学習塾のことでしょう。ちょっと思うところがあったので少し。この発言の意味は、「みんな塾へ行っているけど、僕は行かなくていいの?」ということだと思います。つまり、この子の周りの子どもの世界では、「塾へ行くこと」が当然視されており、一方でこの子は塾へ行っておらず「塾へ行っていないこと」に不安を感じているわけです。そこでは塾へ行って何をするかということは問題になっておらず、「塾へ行くこと」だけに関心があるといえるでしょう。では、なぜ「塾へ行くこと」がこんなに当然視されるようになったのでしょうか。その要因にはいろいろあるでしょうが、やはり「塾へ行くこと」を大勢の人(子どもか親かはわかりませんが)が求めているんだと思います。学習塾で教育するものというのは、たいてい点数によってはかる学科試験において必要な知識や能力なんだと思います。一方の公教育では、点数ではかれないモラルだとかコミュニケーション能力だとかいったものを身に付けさせるんだ、とがんばっている。ある意味、目的上では棲み分けができているとも言えるかもしれませんが、大衆が求めている知識や能力は結局両方なんではないかと。しかも、学習塾で教育される知識や能力のほうが重要視されている。その背景には、やはり進学のための入学試験に求められている知識や能力が、公教育で提供されているものではなく、学習塾で提供されているものである、ということがあるのでは。こないだ、深夜のNHKの番組で、教育指導要領の改訂の議論の中で様々なアイデアが出されるが、結局、試験で求められるものが変わらないと意味がないというような趣旨のことが話されていました。一般に求められている知識・能力観をしっかり捉え、対策をしっかり練ることが、指導要領の改訂においてしなければならないことなのではないかと。公教育の役割は、塾の存在との関係で考えなおす必要性があるのかもしれません。果たして公教育が全てを担う必要があるのか、それとも全てを担うことなんて現実的ではないから棲み分けてしまうのがいいのか。
 などと、とりとめのない話をしてみたり。論理も何もない読みづらい文章ですみません。
 今日は夕方から教育学教室の行事としての卒業生・修了生を送る会でした。始まるまでは、来月〆切の論文の目的・課題意識・研究方法を考えておりました。ワープロで打ちながら、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら。で、なんとか形は見えてきました。送る会の後は、参加していたドクター生4人(D2:3人、D1:1人)で居酒屋へ。ざっとだべった後、私はD1生の後輩と学校へ。後輩が研究のことで悩んでいるようなので、話し相手になってやりました。まあ、ブレーンストーミングのようなもので、思ったことをしゃべっていただけですけどね(笑)。
 気がついたら午前1時。日付変わってんじゃん!
 明日(今日?)は午前5時起きの予定。午前中までに、松山の実家に戻らないといけないのです。起きられるかな… 大変じゃ!
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特殊教育・各種学校

2006年02月16日 19時24分23秒 | 教育研究メモ
 今日の寝起きは、昨日に比べてよかったような気がします。でも昼間際まで寝てしまった… 登校後、書類づくりやら、事務仕事やらを処理。その後、明後日身だしなみにうるさい人に会いに行かなくてはいかないので、散髪へ。次に、稲垣著を読んでいたのですが、その内容に刺激されて、来月〆切の論文に使う資料を読み始めました。さらに、その資料の整理のために、ラベルを作り始めました。そうこうしていると17時になり、日本教育史読書会が始まってしまいました。読書会が終わるともうこんな時間。うーん、ほとんど中途半端に終わってしまった~
 読書会は、いつもの通り『日本近代教育史事典』を読みますが、今日は「特殊教育」と「各種学校」の項。正直言って、私にはまったく接触のなかった分野でした。その分、ほとんどみな新しい知識であったので、興味深かったです。「特殊教育」の分では、この分野のキーパーソンである古河太四郎・小西信八・石川倉次・町田則文・川本宇之介は、ことごとく大日本教育会・帝国教育会の幹部クラスの人物であり、そういえば特殊教育に関する論説や活動もところどころ見られたなあと思いました。欧米諸国に追いつくという国是に照らして日本でも特殊教育を実施すべきだという論説があったな~とか、学齢児童の就学を徹底するために特殊教育も整備すべきだという論説もあったな~とか思い出しました。
 「各種学校」の分では、いままで漠然としすぎて実態がまったくつかめなかった各種学校が、具体的にイメージできるようになりました。今で言うと、自動車学校、英語学校(イーオンとか?)、調理学校、アクターズスクール、予備校、看護学校、といったところ。学習塾はどうなんでしょうね? 各種学校と言って良いのかな? 各種学校のイメージが捉えられるようになると、小学校・中学校・高等学校・大学教育=学校教育とだけ単純に考えることは、そうとう間違った学校教育観なんじゃないか、と思うようになりました。なお、戦前日本では、夜間小学・中学、裁縫学校、宗教系学校、などが各種学校に区分されるため、これまた尋常高等小学校・中学校・高等女学校・師範学校・実業学校・高等学校・専門学校・大学といった学校だけで捉える学校観というのもだいぶ間違ったものじゃないかと思ってきました。近代日本教育史において、学校教育史はかなり重要で大きな分野だと思いますが、各種学校にまで目配りできている通史はなかなかないように思います。必要ないのでしょうか?
 ちなみに、『日本近代教育史事典』の全体の傾向でもあると思いますが、「特殊教育」「各種学校」の項は法律の変遷の紹介に偏っています。わかったような、わからないような。そもそも公教育からは阻害されてきた分野ですから、こういう書き方では歴史像が描けないような気がします。
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比較・科学史的視点で面白く

2006年02月04日 22時29分18秒 | Weblog
 稲垣著の残りを一気に読んでしまう。昨日今日で第二部第三章「公教育教育内容の整備と特質」を読みました。内容は、明治二十年代~三十年代ごろの小学校教則の性格・内容と教科課程観・教科観を明らかにするもので、教科書の内容分析をもしております。あまりにさっぱり言い切ってやしないか、と心配も少々ありつつ、鮮やかな教科書分析の手法は参考になりました。不満は、何度も同じような意味の文章が繰り返し使われていて、ちょっとくどいなあと思う程度です。それよりも、当時の修身科の徳目主義的内容観、歴史科の修身への還元、理科の事典的概括的知識と心情・実用との関連、という問題点の指摘は興味深かったです。当時の道徳・歴史・理科教育の目的・内容・方法は、自分としては従来まったく疑問もなかったのですが、比較教育史・科学史的な視点で見るだけでこんなに特殊なものに見えるようになるんだ、と感心してしまいました。今日はまとめる気力がないので、詳しくは本文でどうぞ~。なんだか教育史・教育学に興味が湧いてきました(いまさらかよ!笑)。
 おとといに続いて今日も長い一日。おとといは1時に起きて22時就寝。今日は5時に起きて今22時半也。ある程度差し引いて、今日の研究・勉強時間は12時間ぐらいかな。うーん、意外と少ない。
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「理論がない」ってどういう意味?

2006年02月03日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日の寝起きはあいかわらずの時間でしたが、久しぶりに「寝た!」って感じの満足感がありました。昨日徹夜越しに寝たので、熟睡したのかな? 昨夜いただいていた携帯メールにすら気づかなかった(笑)。とりあえず、11:45から例のノート・ジャパン代表のIさんがテレビ(NHK)に出るということなので、見てから登校。
 学校へ来て昼飯を食べようとすると、先生がやってきて一仕事を頼まれました。いきなり予定が狂った… まあこれもひとつの善行よ、と自分を納得させながら仕事を終わらせ、外に出たついでにサークル棟まで足をのばして三味線の練習をしました。今度、ぐるーぷ樹のメンバーが結婚するので、その結婚式で出席メンバー全員で演奏する曲・長沢勝俊作曲「子供のための組曲」第五章を練習しております。私は太棹三味線(琵琶の代わり)を弾きます。二年ぐらい前のコンサートですでに弾いておるのですが、自分の専門とする中棹三味線とは勝手が違う上、思った通り腕がさび付いており(笑)、一通り弾くのになかなか苦労しました。駒が高いし、ツボの距離も違うし、バチの重さも持ち方も違うし、同じ三味線でも持ち替えは簡単ではないのですよね。以前、ある方に、細棹→中棹の持ち替えはするのに太棹への持ち替えはしないと言うのでなぜかを聞いた時、「変な癖がつくから」とおっしゃっていた意味を体感しました(それまでは気づいてなかったのかい!)。予定より30分ぐらい練習時間をオーバーして研究室へ戻りました。
 
 寒いと思ったら時々吹雪き始めました。最近春になったみたいに暖かかったのに、急に冬に逆戻りですね。で、研究室に戻ったはいいけど、しばらく集中できず。今日は何もしてない気分なのに、気づいたら夕方に… 時間が経つのが早い…
 とりあえず稲垣著を少し読みました。キリのいいところまで読むまでに、まったく関係のない下記のようなことを考え初めてしまい、今日は時間切れです。今日一番集中したものがブログとは…(←何やってんの~)。

 最近、「理論」という言葉に違和感を覚えました。最近空間的に私の近くにいる某氏が、「A論文には理論がない」と言うのです。「おまえの論文には理論がない」とも言われたことがあります。これはどういう意味なんでしょうか。某氏も意味を含めて言った言葉だと思うので、簡単に調べてみました。
 『広辞苑』第三版では、「理論」の意義について次の三つの見解を示しています。第一に、「個々の事実や認識を統一的に説明することのできる或る程度の高い普遍性をもつ体系的知識」とあります。端的に言えば、「まとめ的知識」とでもいえましょうか。第二に、「実践を無視した純粋な知識。この場合、一方では高尚な知識の意を含むが、他方では無益なものという意味が含まれることもある。」とあります。要は「役に立たない」知識のことですか。役に立つ知識は卑俗だとされる価値観の下では、意味があります。第三に、「或る問題についての特定の学者の見解・学説」とあります。「○○理論」「××理論」とか言われるのがこれです。
 某氏が第一の意味で言っているのであれば、A論文の文中にまとめがないとか、普遍性のある文章がないとか、そういう意味でしょう。でも、私がA論文を読むと、一応まとめてあります。何でも説明できる普遍性はないかもしれませんが、用いた史資料を統一的に説明することができる文章はあります。とすれば、第一の意味ではないのでしょうか。
 第二の意味で言っているのであれば、役に立たない知識がない、という意味でしょう。現代人の発言としてはちょっとあまりに滑稽なので、そういう意味ではないでしょう。
 第三の意味で言っているのであれば、いろいろ考えられます。二つほど考えてみましょう。
(1)○○さんの学説に従って説明されていないとか、○○さんの学説を参照していないとか、そういった意味でしょうか。先行研究の問題ですね。でもA論文でも、ご不満かもしれませんが、こういう先行研究がありますというように、一応引用されています。もしこういうならば、○○さんの学説を引用しなさい、と主張すべきです。そう言わずに「理論がない」とだけ言うのは、評論者・批判者として不親切でしょう。
(2)それとも、「私はこういうふうに研究をします」という研究者自身の見解・学説がないぞ、という意味でしょうか。例えば歴史研究に限定してみましょう。歴史をある一定の見解(視点)・学説に則って歴史を見ることによって、初めて見えてくる歴史的事実・意味があります。と同時に、その見解・学説に適さない歴史的事実・意味を切って棄ててしまいます。切って棄ててしまった事実・意味も、別の視点で見ることで意味があるものになるかもしれません。ですから、「こういう視点から研究しますよ」というのは、「この視点から見た事実・意味は研究するのにふさわしいですよ」という意味と同時に、「この視点から見て価値のない事実・意味は知りませんよ。気をつけてくださいね。」という意味を含みます。A論文には「○○の過程を見ます」と書かれており、一応「理論」はあります。それに、その理論はこういう事実や意味を見いだす価値あるものだ、と説明しています。ところが、某氏はこれを理論として理解していないため、理論がないと言っているのでしょう。そうなると、A論文の執筆者は自分の理論をわかってもらえるように説明しないといけませんし、某氏はその説明を理解する努力(質問とか)をする必要があります。
 たぶん某氏は第三(2)の意味の「理論がない」と言っているのでしょう。ようやくわかってきました。ただ、その場合の理論は、研究そのものの意味を決定してしまう大事な価値観です。この意味では、(1)のような「××さんの理論に則っていない!」というのは、「××さんの理論は価値があるから使え!」という押しつけになります。この点は気をつけるべきでしょう。理論の押し付け合いは、価値観の押し付け合いと根っこは同じだと思いますので。

 ちょっと関係なくプイっと疑問に思ったことを書いていたら、こんな時間になってしまいました。あわわわ、豆もまいていないし、恵方も食べてませんよ~ 節分という行事を満喫するため、もう家に帰りたいと思います。
 …と思って帰りに買い物。豆は昼間に後輩がくれたのでそれで可としました。とりあえず無事、豆もまいたし、恵方に向かって巻きずしも食べられました(笑)。巻きずしは売り切れてるかとも思ったのですが、思った以上に残っていたのでGet!わーい、素朴にうれしい(^^)。
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なんだかピシッとしない一日

2006年02月01日 19時38分43秒 | Weblog
 うーん、ここのところまともに起きられていません。昼ごろごそごそ起きてくると、社会に対する背信行為のような気がして、良心の呵責にさいなまれます。体重は少しずつですが順調に減っているはずなのですが、今度は風邪ぎみで軽い鼻づまり・ノドの腫れのため、睡眠失敗に陥っているのではないかと。まあ、夜更かしが一番悪いのでしょうが(汗)。
 ということで、今日も昼出勤ならぬ昼登校。ただ、寝起きにボーっとしていると、博士論文の課題意識の部分がひらめき(といっても何日もずーっと考えてきていた結果、ようやくまとまりそうになったというだけですが)、考えている時間を含めると一時間ぐらい費やしました。登校後は、寝起きにまとめたものをさらに発展させてタイプ打ち。また、何を思ったか教育学図書室書架の地方教育史の棚をゴソゴソとチェックしていました。『島根県近代教育史』に私の関心と近い教育会研究があったので、コピーしようと思ったのですが、途中でコピーカードの度数がなくなってしまう。今日すぐに読むわけではないし、また今度やるかと軽い気持ちで放棄する。
 その後、一個上の先輩が学部四年生の卒論指導をしているのを横目で見ながら、「大日本教育会・帝国教育会の群像」を執筆。今日は大田義弼さんの先々代広島県師範学校長の峰是三郎さん。今日も写真付き。国会図書館に『峰青嵐遺稿』(大分県師範学校同窓会、1931年)があるそうで、見てみたいなあ~。昭和期の本なのでネット上ではみれないんですよね。ちなみに「峰青嵐」とは峰是三郎の俳人としての号(俳人の号ってなんて言うんでしたっけ?「雅号」でよかったかな?)だそうです。
 思った以上に手間取って、暗くなってしまいました。今日は修士論文から解放されたM2生(昨日提出〆切だった)がほとんど学校に来ておらず、先輩と学部四年生も帰ってしまったので、私も帰ることにしました。帰って、丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波書店、1998年)でも読むか~
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