教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学校選択制のマイナス面

2007年02月12日 18時05分10秒 | 教育研究メモ
 今日は振替休日なので、ゆっくり登校。
 広田照幸『教育』(思考のフロンティア、岩波書店、2004年)を半分ぐらい読む。同著の内容は、社会化と配分の側面、および個人化とグローバル化の側面から、学校選択制と新自由主義的教育改革を読み解こうというものです。今日は、学校選択制に関する部分を読みました。同著で言いたいことは、学校選択制導入による公立小中学校の多様化は、将来の進学・職業選択(ひいては将来の収入や地位)を義務教育段階から固定化し、学校空間における「異質な他者との共在」を困難にしてしまうということです。これは、学校選択制導入が、個人の権利や自由の保障につながるよりも、最も望ましい進学や就職の機会を学校に入学した段階から断念しないといけない事態を生み、社会意識の分断と生活世界の局所化、および異質な他者への無関心や不寛容を生みかねないことを意味しています。学校選択制を有効に利用するには、その機会を利用することができなくてはなりません。すなわち、親または子どもが、どの学校が良い学校か情報を得ることができ、その情報の中から学校を選択でき、良い学校に行くために地域を移動することができなくてはならないのです。学校が選択できます、という制度だけでは、結局お金も教育もある富裕階層のみが学校選択制を有効に利用することができるだけで、お金も余裕もない下層の人々にとっては縁のないことなのです。これでは、有利な進学・職業選択を行える人々は限られ、富裕階層は富裕階層の、下層は下層の社会がより凝り固まっていき、社会の格差はより深刻なものになるのです。
 深刻な問題を抱える生徒が学校を容易に変わることが可能になり、家族が主体的に教育を選べるという意味では、学校選択制に意味がないとは思いません。ただ、地域の共同性を高め教育力を高めようだとか、貧富の格差を縮めようだとか、異質な出自・国籍・性別・地位の間に相互理解を生み出そうだとか、そういったことが必要な時に、それらにマイナスな働きをしてしまう学校選択制は、そのままの形で取り入れる必然性はないように思います。また、教育の存在意義の一つでもあると思われる、教育を受ければ将来にはよい生活を送ることができるという希望すら奪うのは、とても許されることではないでしょう。今のところ、学校選択制の全国的な採用は見送りの状態のようですが、強引に採用しようとしている人たちは、プラス面だけではなくマイナス面も踏まえて考え直してほしいところです。
コメント
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