本日16時、某学会投稿論文の投函完了です。
まぁ、いろいろありましたが、なんとかできあがりました。私にしてはめずらしく図表がありません(笑)。今後はひたすら勉強する予定です。Y先生に書いてくるように言い渡されている課題をやりながら。ともかく明日は、フィンランドの教育に関する講演会に出なくてはいけないけど。
さて、昨日、いままでの私が否定されたので、不安定な状態に陥ってしまいました。そこで、今までの私とこれからあるべき私を再構築してみる必要があると感じます。ということで、私が将来実現したい「夢」から、私が教育会研究そして日本教育学史研究をする意味を再確認してみます。これから私自身が、よりよく生きていくために、考えざるをえないことだと思います。公表する必要はないのですけど、表現したいので私はここに書きます。
私は、よりよい教員を養成する仕事に携わりたい、という夢を抱いているが故に、論文を書いています。教員養成に携わるには大学教員にならないといけないし、そのためには論文を書いて業績が必要とされます。私が論文を書く理由は、就職のためだ、ともいえます。しかし、それならば何を書いてもいいわけで、教育会の研究をする必要はありません。私が教育会研究の論文を書く理由は他にあります。またその理由は、就職活動のための論文執筆という理由には収まらないものです。
私が教育会研究の論文を書く理由は、つきつめれば、普段様々な教育問題に直面する学校教員たちをサポートする体制を作りたいと考えているからです。私が考えるよりよい教員とは、普段起こる各種問題を的確に解決できる教員です。教員は万能ではありませんし、教育問題は学校だけで収まる問題は存在しませんから、教員たちが直面する問題の解決をサポートする体制が必要です。その体制づくりのヒント(利点・問題点ともに)になるのが、戦前の教育会だと私は思っています。
教育会は、一つの学校の団体でなく、一つの職業の団体でなく、教育学会でもなく、学校教員だけの団体でもなく、行政の外郭団体でもなく、雑多な一般人の寄り合いでもなく、「教育」という仕事に関わるという意味で共通する、多様な教育関係者を組織化した団体です。教育問題は、学校だけ、社会だけ、家庭だけの問題ではなく、政治・経済・社会・文化等の様々な要因があって成立してくる問題です。このような土台の下に成立する教育問題は、単なる職員団体や行政当局だけでは解決できないし、期限付きの「○○会議」を突然政府内に作っても解決できるものではありません。肝心の教員を始めとする教育関係者たちが、その教育問題に向き合わなくては、どんなすばらしい解決策を練っても意味はないのです。教育会が万能だったというつもりはありませんが、教員たちが自ら教育問題に向き合い、かつ多様な教育関係者が会員という同じ立場で教育問題の解決策を練る団体組織こそ、多様な要因・結果を生む教育問題の解決には重要なんだ、と考えています。それこそ教育会に学ぶべきことなんだと思っています。だから、私は教育会の研究を続けてきたし、これからも続けたいのです。
でも、よく考えてみると、教育行政官と教育学者と学校教員は、同じ立場で教育問題に向き合うことができるのでしょうか。最近はそういう実践が現れてきたと思いますが、それでも、今の教育行政官と教育学者と学校教員は、「役割は違っていても同じ教育に携わる者である」という同業者意識を持ち得るのでしょうか? 長い時間をかけて専門分化してしまったこの三つの職業は、本当の意味で同じテーブルにつき、意見を交わし、教育問題の解決策を練り上げることができるのでしょうか? 私も教育学者になりたいと思う人間ですから、とくに教育学者側から見て、教員や教育行政官と同業者意識を持つことができるか、という問題に非常に興味があります。
教育学者を一つの職業にするのは、教育学の存在がある故です。そのため、上述の問題意識に到達した私は、日本教育学史へ興味を持っているのかもしれません。明治期、今の目で見て教育学者と目される人々(たとえば伊沢修二や能勢栄など)は、当然のように、教育会に入って教員や行政官と意見を交わし合っていました。彼等をそうさせたのは何だったのだろう。それを考えるために、ひとつ日本教育学史を本格的に研究してみよう、と思うわけです。
さて、新しいスタートを切ってみるか。
まぁ、いろいろありましたが、なんとかできあがりました。私にしてはめずらしく図表がありません(笑)。今後はひたすら勉強する予定です。Y先生に書いてくるように言い渡されている課題をやりながら。ともかく明日は、フィンランドの教育に関する講演会に出なくてはいけないけど。
さて、昨日、いままでの私が否定されたので、不安定な状態に陥ってしまいました。そこで、今までの私とこれからあるべき私を再構築してみる必要があると感じます。ということで、私が将来実現したい「夢」から、私が教育会研究そして日本教育学史研究をする意味を再確認してみます。これから私自身が、よりよく生きていくために、考えざるをえないことだと思います。公表する必要はないのですけど、表現したいので私はここに書きます。
私は、よりよい教員を養成する仕事に携わりたい、という夢を抱いているが故に、論文を書いています。教員養成に携わるには大学教員にならないといけないし、そのためには論文を書いて業績が必要とされます。私が論文を書く理由は、就職のためだ、ともいえます。しかし、それならば何を書いてもいいわけで、教育会の研究をする必要はありません。私が教育会研究の論文を書く理由は他にあります。またその理由は、就職活動のための論文執筆という理由には収まらないものです。
私が教育会研究の論文を書く理由は、つきつめれば、普段様々な教育問題に直面する学校教員たちをサポートする体制を作りたいと考えているからです。私が考えるよりよい教員とは、普段起こる各種問題を的確に解決できる教員です。教員は万能ではありませんし、教育問題は学校だけで収まる問題は存在しませんから、教員たちが直面する問題の解決をサポートする体制が必要です。その体制づくりのヒント(利点・問題点ともに)になるのが、戦前の教育会だと私は思っています。
教育会は、一つの学校の団体でなく、一つの職業の団体でなく、教育学会でもなく、学校教員だけの団体でもなく、行政の外郭団体でもなく、雑多な一般人の寄り合いでもなく、「教育」という仕事に関わるという意味で共通する、多様な教育関係者を組織化した団体です。教育問題は、学校だけ、社会だけ、家庭だけの問題ではなく、政治・経済・社会・文化等の様々な要因があって成立してくる問題です。このような土台の下に成立する教育問題は、単なる職員団体や行政当局だけでは解決できないし、期限付きの「○○会議」を突然政府内に作っても解決できるものではありません。肝心の教員を始めとする教育関係者たちが、その教育問題に向き合わなくては、どんなすばらしい解決策を練っても意味はないのです。教育会が万能だったというつもりはありませんが、教員たちが自ら教育問題に向き合い、かつ多様な教育関係者が会員という同じ立場で教育問題の解決策を練る団体組織こそ、多様な要因・結果を生む教育問題の解決には重要なんだ、と考えています。それこそ教育会に学ぶべきことなんだと思っています。だから、私は教育会の研究を続けてきたし、これからも続けたいのです。
でも、よく考えてみると、教育行政官と教育学者と学校教員は、同じ立場で教育問題に向き合うことができるのでしょうか。最近はそういう実践が現れてきたと思いますが、それでも、今の教育行政官と教育学者と学校教員は、「役割は違っていても同じ教育に携わる者である」という同業者意識を持ち得るのでしょうか? 長い時間をかけて専門分化してしまったこの三つの職業は、本当の意味で同じテーブルにつき、意見を交わし、教育問題の解決策を練り上げることができるのでしょうか? 私も教育学者になりたいと思う人間ですから、とくに教育学者側から見て、教員や教育行政官と同業者意識を持つことができるか、という問題に非常に興味があります。
教育学者を一つの職業にするのは、教育学の存在がある故です。そのため、上述の問題意識に到達した私は、日本教育学史へ興味を持っているのかもしれません。明治期、今の目で見て教育学者と目される人々(たとえば伊沢修二や能勢栄など)は、当然のように、教育会に入って教員や行政官と意見を交わし合っていました。彼等をそうさせたのは何だったのだろう。それを考えるために、ひとつ日本教育学史を本格的に研究してみよう、と思うわけです。
さて、新しいスタートを切ってみるか。