教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

小学校3年生対象・道徳科教材「大切なものは何ですか」の授業について

2020年10月17日 18時29分32秒 | 教育研究メモ
 小学校道徳科の有名教材「大切なものは何ですか」(茶圓克己作)を使った授業について、学生と一緒に考えたことがおもしろかったので紹介します。

 本教材は、土から出て脱皮したばかりのセミが、様々な虫に「いちばん大切なものは何ですか。」と問いかけていく、3年生対象のお話教材です。虫たちはお金や食べ物、健康、家、勉強などと答えるのですが、最後にアゲハチョウが「もっと大切なものがあるよ」といって友人だったモンシロチョウが死んだときの話をします。そして、セミがみんなの話を思い出しながら、一番大切なものについて考え込んでいるところでお話は終わり、その後、命を大切にすることについて考えようという授業につなげていくことが想定されています。本教材はモラルジレンマ教材と言ってもよい教材だと思います。子ども達は、この教材を通して命の大切さについて自然に考えることになるでしょう。授業の導入はあまり迷うことなく、「自分にとって大切なものは?」とストレートに問いかけ、思い思いの考えを聞かせてもらうことになるはずです。
 この授業のおもしろいところは展開以降だと思います。光村図書の検定教科書『どうとく3―きみがいちばんひかるとき』では、平成30年発行版以降、お話の後に記載された問いの最初に、「セミは、みんなの話を聞いて、どんなことを考えたのでしょう。」が挙げられています。セミが主人公ですから、当然の問いですが、これはかなり深い問いです。この問いには2つの意味があります。第1に、子どもが登場人物・主人公(セミ)の立場になってみて、最後のシーンで虫たちの話を踏まえて「いちばん大切なものは何か」と考え込むセミの思考・悩みを自分事にしています。道徳授業では、道徳的問題を自分事として考えることがまず必要ですので、この発問は重要です。第2に、「セミ」の立場になることそのものの意味です。このセミは、土から出てきて脱皮したばかりですので、このひと夏の命です。セミの残された命が限られているということに子ども達が気づいた時、このセミがアゲハチョウの話(モンシロチョウの突然の死)を聞いてどんなことを考えるか、とより真剣に、より深く考えざるを得なくなります。実は、以前の光村図書の教科用教材集にはこの問いはなかったので、この問いが加わったことは我が国の道徳授業の研究成果と言えるでしょう。
 さて、私は、ここからさらに授業を展開しなければならないのではないかと思いました。ここまでで子ども達の考えは確実に深まるので、これで十分だとも言えるのですが、これでは導入で出してもらった子ども達の「いちばん大切なもの」はすべて吹き飛んでしまうと思ったからです。子ども達は何を大切だと思っていたとしても、すべて「命が一番大切だ」「命がなければ意味がない」という結論に至ってしまうからです。もちろんそういう結論でもかまわないのですが、それはあくまで結論の一つであって欲しいのです。そうでないと、子ども達の個性的な考えは「命が一番大切」の結論の前にすべて無意味化され、議論の余地もなくなってしまいます。これでは、「考え議論する道徳」は成立しませんし、命という道徳的価値の理解も表面的なものに留まってしまいます。子どもによっては、自分の「大切なもの」はそれはそれとして、命の大切さとつながらないまま、別々に維持され続けるかもしれません。また、「命が大切なんて、そんなことはとうの昔にわかっている」という子どもは、道徳授業とはわかりきったことを繰り返すだけの退屈な時間なのだなと理解してしまうかもしれません。
 そこで、ここでもうひと展開、子ども達の個性的な「大切なもの」と、命との関係を問う仕組みが必要だと思いました。せっかくなので教材に沿って問いたいところです。たとえば、食べ物が大切だと言ったアリに注目させ、「アリはアゲハチョウの話を聞いてどんなことを考えたでしょう。」と発問したらどうでしょうか。アリは1年以上生きますので、セミとはちょっと違う立場で考えることができます。また、大切なのは食べ物なので、より身近に子ども達が考えることのできるテーマに変わります。セミの場合より、自分事として考えることができるようになるでしょう。やはりアリも、アゲハチョウの命の話を聞いて「命が一番大切」と考えるかもしれませんが、食べ物と命をつなげて「命が大切だからこそ、食べ物も大切」と考えるかもしれません。ここでは、むしろ後者の考えが子ども達から出てくることを期待したいところです。子ども達から出て来なければ、教師が発言してゆさぶってもよいと思います。そして、どうしてそう考えるかその理由を子ども達みんなで考えるのです。こうすることでやっと、導入で出した個性的な「大切なもの」を命の大切さとつなげて考える準備ができます。
 最後の問いは、光村図書の場合、「あなたは、命を大切にするために、何ができるでしょう。また、これからどんなことに気をつけたいと思いますか。」です。これは、この授業を通して考えたことを自分事として道徳的実践意欲・態度につなげていくための問いであり、このままで良いのではないかと思います。ただ、セミに関する発問から直接この問いにつなぐと、考えるための材料がおそらく不足します。「命は大切」という結論以上のことを学んでいないし、導入で答えた自分の「大切なもの」は浅はかな考えであったとして思考の外に追いやってしまっているので、困った子ども達は思いつきで回答することになるでしょう。これでは授業数十分の意味はなくなり、授業を受けなくても考えられたようなことしか出てきません。ところが、アリなどの他の虫に関する問いを経由すると、最初の導入で答えた自分の「大切なもの」を踏まえて回答できるようになるのではないでしょうか。
 私は、子ども達にこの教材の授業を通して、「命を大切にすること」とはどういうことか、その意味を深めて欲しいと思います。お金よりも、食べ物よりも、家よりも、命が大切だ、という考え方ももちろんよいと思いますが、同時に、命を大切にするためには、お金が必要だ、食べ物が必要だ、家が必要だという考え方も認めていってほしいのです。もっと欲を言えば、ただどんな食べ物でもよいという訳でなく、おいしい食べ物がよい、親が作ってくれた食べ物がよい、などの「大切なもの」の質に注目して、よりよく生きることについて考えて欲しいところです。そうすれば、導入での子ども達の回答のなかで、例えばいまはまっているゲームとか、自転車とか、友達とか、お母さんとかが挙がってきたときも、それらと命とをつなぐこともできるのではないでしょうか。つまり、ゲームを楽しんだり、自転車をうまく乗りこなしたり、友達とおしゃべりしたり、お母さんと遊びに行ったりすることなどが、命の豊かさや生きることの豊かさにつながっているということに気づいて欲しいのです。そういうことまで考えることができて、はじめて「命を大切にすること」の意味を深く考えることになるのではないかと思っています。

 道徳授業は、道徳的価値の理解を深めることを目指します。それは、「命は大切」というある意味わかりきったことを確認することでは実現しません。「命は大切」という意味を、その質を問い、自分の「大切なもの」を命とつなげたとき、やっと「生命」という価値の理解を深める入り口に立てるのではないでしょうか。
 (なお、この教材をジレンマ教材と捉えると、「生命」と葛藤する価値(例えば「友情」「家族愛」とか)を設定して授業をつくることになります。そういう風に授業づくりを進めるのも良いかもしれません。)
 実習での研究授業をひかえた3年生がこの教材とともに(うちのゼミ生と一緒に)突然やってきたので、一緒に考えていたら以上のようなことに気づきました。考える機会を与えてくれた学生たちに感謝。
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戦前期における「いじめ」問題と教師の対応についての論文

2020年10月09日 18時33分20秒 | 教育研究メモ
 後輩の鈴木和正氏から論文「戦前期における「いじめ」問題と教師の対応―「いじめ」問題を語ってこなかった教育史研究」(『子どもの文化』2020年7+8月号、子どもの文化研究所、2020年、148~156頁)が送られてきたのですが、面白かったので紹介します。
 鈴木氏は、先般の神戸市立東須磨小の教員間の「いじめ」行為をきっかけに、教員養成に携わる大学教員がどのように「いじめ」問題に向き合ってきたのか、今後どう向き合えるかを考え直す必要があるとして、「いじめ」問題の歴史的研究の可能性を示しています。そして、新潟県高田師範学校附属小学校の『新時代に即せる修身訓練の設営』(1933年)を史料にして、昭和初期の同校尋常第3学年で起きた「いじめ」問題の詳細と、そこに見られる保護者・教師・児童・学級の具体的かかわりについて分析しています。そこから、「「いじめ」に苦しむ被害児童に対して、教師や保護者が日々どのように寄り添い、問題の解決に奔走したのかという歴史的営為」を明らかにし、しかもそれが「児童の「考え」や「議論」を重視した教育実践」であったことを確認しています。鈴木論文は、現代的な課題意識に基づきながらも、史料に即した教育史研究を進め、わかりやすく記述している論考であり、とても興味深く読ませてもらいました。
 また、鈴木論文では教育史研究のこれからについても言及しています。これまでの教育史研究が「いじめ」問題に言及してこなかった理由は、史料不足と、学校・教師・教育制度を主な研究対象として「子どもたちの日常生活に潜む複雑な人間関係を歴史的に描きだす」ことをしてこなかったからだと指摘しています。しかし、「いじめ」問題は昭和戦前期にもあったし、学級の「いじめ」について子ども達が考え、議論する実践もありました。戦前の「いじめ」研究が可能なのにもかかわらず、これからも問題に十分向き合っていかない場合、歴史学のように「陰謀論」や「トンデモ説」を生き残らせたり、「特異な凶悪事件」ばかりを強調したりすることにつながってしまうと警鐘を鳴らしています。
 鈴木氏は、教職教養としての教育史教育・研究に関する2016年2019年の拙稿にも言及してくださっています(それで送ってきてくださったのだと思いますが)。私の主張が私より若い世代に響いたということは、ありがたいことです。教育史は実践に無関係な学問ではなく、実践的指導力、そしてその背景にある実践に関する思考力・判断力などの育成に直接・間接に関われる可能性が大いにあります。また、現代的課題に取り組むにも教育史の知識・実践は極めて重要な役割を果たします。鈴木氏は、教育史がその役割を果たすためにも、現代的課題を踏まえた丁寧な研究が必要だと主張されています。私もその通りだと思います。

 なお、先行研究のいう通り、今に引き続く問題という意味での「いじめ」問題は、やはり1980年代以降の研究でなければ解けないと思います。とはいえ、1970年代以前の「いじめ」的事実がなかったわけではなく、1980年代以降の「いじめ」問題は1970年代以前の事実に基づいて議論していく必要があるでしょう。そうすることで、「いじめ」問題の歴史性を明らかにすることが可能になります。「いじめ」問題の歴史性の解明は、多様な側面をもつ「いじめ」問題の解決・対処を図るために必要なことだと思われます。そういう意味では鈴木氏の論文は貴重な挑戦です。
 1970年代以前、戦前期の「いじめ」的事実を研究するにあたっては、現在の「いじめ」問題研究の概念や方法をそのまま適用することには慎重でなければなりません。そうでないと、戦前期の実践のいたらなさを強調して当事者を断罪したり、実践の意図や背景にあった事情などを無視したりするなど、当事者の名誉毀損につながったり、当時の事実や実践がもっていた教育史的な意義や問題の本質を見失ったりする可能性があります。例えば、現代の「いじめの四層構造」モデルによって戦前期の「いじめ」的事実を分析したところで、研究上それほどの意味があるとは今の私には思えません(もしかしたらあるかもしれませんが)。戦前期の「いじめ」的事象を研究するにあたっては、その方法を慎重に模索する必要があるでしょう。おそらく、基本的な研究姿勢として、史料を尊重して丁寧に解読することや、同時代性への配慮を忘れないようにしなければなりません。そのあたりは鈴木論文はさすがきちんとしています。
 それから、歴史の「陰謀論」や「トンデモ説」については、いろいろ思うところがあるのですが、私が解釈するところでは人々の思考法や歴史認識のゆがみを表しているように思います。そのため、これらの論説に向き合うためには、研究者が史料の発見と解釈を積み重ねることも大事なのですが、同時に、「常に教育史の真実を求めようとする思考」を人々が身に付けるような教育史教育が大事なのではないかと思っています。
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歌う歓びと教師―大正新教育実践家・北村久雄から

2020年10月06日 18時50分23秒 | 教育者・保育者のための名言
 芸術教育・音楽教育については素人ですが、塚原健太「北村久雄の「音楽的美的直観」概念―音楽教師としての音楽と生命の理解」(橋本美保・田中智志編『大正新教育の思想―生命の躍動』東信堂、2015年、467~485頁)を読んでいて、北村久雄(1888~1945)の以下の言葉に感じるものがあったのでここにメモとして残しておきます。
 これだけ抜き出すと何気ない文章なのですが、塚原論文によるベルクソンの自由・内的持続論の解説と合わせて読むと、新教育実践家とはここまで深く考えながら実践していたのだな…と感銘を受けることができました。

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 歌ふと云ふことは、対象たる歌曲に、唱歌者自身の芸術的直観を充すことに依って、その直観の必然的発展として歌謡を産み出すことである。尚これを言い換へて見ると、歌はうとする歌曲を美的に直観してその直観の結果どうしても歌はずには居られなくなって来るのである。若し彼れの直観が歌曲の中に余すところなく充されるならば、彼れは歌はずには居られなくなって来るのである。何故なれば芸術的直観と云ふものは、その立場が深くなればなるほど表現的になって来るのがその特徴であるからである。
 (北村久雄『音楽教育の新研究』モナス、1926年、14頁より)

 私が止み難い感謝に充されたことは、斯うした外面的に実証された効果[表現衝動の満足による歓喜を味わわせられたことや、独唱の時間を放課後に設けることによって唱歌の授業時における斉唱練習の時間を多くとることができたことなど]よりは、児童が最も自由な姿に、自分をうたってゆくことに依って、彼等自身――の生命――が、伸び伸びて行くと云ふ、児童等の歓びに報いられたことである。実際彼等は、野に囀[さえ]づる小鳥の如[よう]な、自由な楽しさをうたって居るのである。
 (北村、同上、606頁より)
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