教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育学の存在

2005年12月31日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日もなかなか起きられず。昼前に起きて、仏壇の掃除。ほかの家族は神さんにお供えする供物とおかざりを作ってました。供えて掃除して昼食。
 その後、さらに手伝わされそうでしたが、なんか無理矢理考えてくれているみたいなので(笑)、「考えなくていいよ~」とやんわりと拒否(笑)。そして、勉強のような研究に取りかかる。今日は、中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)のまとめです。年内に仕上げたかったので、やりはじめました。しかし、まとめ残した部分は第三章~六章までの200頁以上。一日で全部はやっぱり無理でした(笑)。結局、第四章の途中まで。第三章「紙・印刷と学問的伝統」は全部まとめ終わりました。中国とヨーロッパの学問的伝統の違いを、学問伝達メディアである紙や印刷の視点から説明した部分です。
 とりあえず写真は、晩飯の猪(しし)鍋でーす。ちょっと味が濃かったけど、めちゃめちゃうまかったっす。
 
 そもそもこの中山著を読み出したのは、先日自分の中で勉強を完了したつもりの橋本鉱市論文を読んで、「学問の制度化」の理論を書いた本であることを知ったのが始まり。この本を読んで、そもそも「学問の制度化」というのは、学問が創造的性格を失って、あるパラダイムにのっとった通常科学的研究(端的に言えば、先行研究に何らかの新知識を加えていく研究)を続ける研究者の再生産の制度を形成することをいうみたい。とくに学問の制度化を達成するために、教育は重要な意味を持っているという意味で、教育は取り上げられています。教育は、学問的伝統(学問の歴史)を形成する決定的で重要な役割を果たすわけ。橋本鉱市氏は、そこのところに関心をもって、「学問の制度化」をテーマにいくつかの論文を書いていたのでした。
 でもまてよ、これでは教育史は学問史(科学史)に従属するテーマになるわけで。そうであれば、教育史研究者は、例えば英語教育史研究者は英語学者、数学教育史研究者は数学者でないといけなくなる。教育学者などという職業は、実はありえないものになってはしまわないか。そもそも教育学という学問は、実は独立して存在しえない学問になってはしまわないか。
 学問分野というのは、歴史を経て形成された人為的な制度です。教育学の存在は、自明ではないのです。
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モチつき

2005年12月30日 23時55分55秒 | Weblog
 今朝は理想的な時間に起き上がりました。しかし、昨晩の夜更かしが効いたのか、「このまま活動するのは無理」と判断し、再び寝る。そのまま、意識はあったのだが、昼まで起きあがれなかった…
 昼食は、生ノリと太刀魚。めちゃくちゃうまいー
 昼食後、毎年恒例のモチつき。母は本当は午前中にしたかったようですが、私も兄も起き上がってこなかったので、午後の開始となってしまいました。写真はつき始める前の杵(キネ)と石臼(ウス)。この石臼がむちゃくちゃ重いんだ… 筋肉の衰えた私も、まだかろうじて持ち上げられるのでちょっと安心しましたが。ウスの周りには、稲穂(米はついてませんが)を、穂先を東および南に向けて四方に並べています。いわれは知らないのですが、今年の収穫の感謝と来年の豊作の祈願、といったところでしょうか。そう。うちは兼業農家なのです。 モチつきは母・兄・私で、父は別に正月のしめ飾りを作ってました。
 餅つきを最初から最後までやろうと思うと、ものすごい大変です。餅米の準備は母がやって、その間に餅米を蒸すためのお湯をかまどで沸かします。数年前ぐらいまではマキを使ってやっていたのですが、最近はさすがにガスを使ってます。餅米を蒸している間に、一年間使っていなかった石臼を洗って移動。稲穂を並べて餅米がむせるまで待つ。餅米が蒸せたら、石臼に移して、杵でこねる。餅米の粒がなくなってきたら、ようやく杵をつくのです。杵で餅をこねる・つく、この作業が非常に力がいる。運動不足の私には非常にきつかった… 紅白の餅をつきましたよ。
 餅がつき終わったら、適当な大きさに切って、まるめる。神さんに供える大小の餅をつくって、それから正月三日朝食として食べるお雑煮用のアンコ餅をつくる。終わったら片づけ。いつしか夕方になってました。
 その後、もう時間切れが迫る年賀状の作製にようやく取りかかる(遅い!)。晩飯(大根の煮付けと川ガニが出た)をはさんで、26時ごろようやく完成。明日投函しなくては…
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帰路

2005年12月29日 23時55分55秒 | Weblog
 今日はなかなか起きられず、昼近くまで寝ていました。しかも、目が覚めてもなかなか立ち上がる気になれず、結局昼過ぎまでぐずぐずしていました。
 今日は愛媛・松山の実家へ帰る日。途中のコンビニで立ち読みなどをしながら、ぼちぼち帰る。今回は実家から大きな荷物を持って帰る予定なので、車で帰る。東広島から松山へ車で帰る実用的な帰路は二つ。

 1,しまなみ海道
 2,呉(呉港)からフェリー(呉港→松山観光港)
 3,呉(阿賀港)からフェリー(呉・阿賀港→堀江港)

 ずっと車で走るなら、1。でも、しまなみ海道は寸断された高速道路がいくつもあるので、何度も金を払わされる。時間も金も非常にロス。2はフェリーに乗っている間は、休めるメリットあり。ただし、東広島から呉港のアクセスはあまりよくないし、3より割高になるのが欠点。3が、体力・金額ともに一番おすすめ。ちなみに、車でないときは2の経路をおすすめ。阿賀港はJR阿賀駅から徒歩20分以上かかるが(ホントに遠い)、呉港はJR呉駅に比較的近いので。
 ということで、今回の経路は3。写真は呉・阿賀港。普段は輸送用のトラックがよく利用するみたいだけど、年末はさすがに一般人の利用が多いみたい。
 帰ると兄の友人がたくさん来ていた。晩飯は、今日父が釣ってきた太刀魚! これが旨かったー! また、親父と兄の友人たちの会話を聞きながら、ビールを比較的多めに飲む。私と同年代の人たちもいたので、深夜までつきあう。帰ってから年賀状を書こうかと思っていたけど、無理だったなあ…
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2005年という一年

2005年12月28日 18時48分39秒 | Weblog
 今日は、昼起き。調子は中くらい。
 今日は例の中山茂著をまとめるぞ、と意気込んで登校したのですが、別の仕事が予想以上に手間取り、まったくできませんでした。んで、夕方から修士課程から博士課程まで同期生の友人たちと、忘年会&そのうち一人の誕生会。中途半端にあまった時間は、先日(10日以上前(汗))の教育史研究会例会報告を書いて、メールで送信。
 研究らしいことは何もできなかった一日でした。明日から実家の松山へ帰ります。帰ってからも勉強(読書)をするつもりだけど…手伝いばかりで何もできんのだろうなー…
 とまあ、無味乾燥なブログを書いていては面白くないので、ちょっと趣向を凝らしてみましょう。昨日車の運転中にラジオを聴いていると、やたらと「今年一年をふりかえったら…?」という質問が多かったので、そんな感じで。

「2005年はどんな一年でしたか?」
 私の2005年は端的に言うと、基本的に苦しかったけれども、次第にその苦しみが解消されていった一年でした。
 【研究】1月だったか2月だったか、激しい討論をすることもありましたが私の尊敬する師匠が退職を宣言し、研究の先が見えなくなりました。昨年11月・今年1・3・5月に投稿した論文はすべて落選しました。7月の博士論文第一次審査会以降は、来年の主任指導教員の指導方針と従来の研究方針のギャップに苦しみました。でも、投稿論文の落選と第一次審査会をバネにして、なかなかやる気の出ない自分に叱咤激励し、読書・考察に努め、11月には教育史学会論文の投稿、12月には「新」博士論文のスタートを切ることができました。共同研究もまだ具体的にはスタートしていませんが、頼まれることも増えてきました。
 【邦楽】上記のような状態だったので、7月の演奏会の準備は時間上・精神上ともに大変厳しいものでした。また7月に来年の演奏会の企画委員を務めることになり、企画を練ること、メンバーの意見をまとめることに非常に苦労しました。12月になって、とりあえず形の見える企画になってきたのでホッとしてます。また、人脈も広がり、意味のあるお手伝いを頼まれたりしています。
 【私生活】精神的に強くなりました。人を許すことがスムーズにできるようになりました。人間関係もスムーズになってきました。それもこれも、たくさん苦しんで、たくさんの人に迷惑をかけ、自分が成長させていただけた結果だと思います。
 基本的にこれからが大変。頑張らなくては。
 それにしても、結果的に見て、7月6日に紹介したおみくじの通りになったみたいです。うーん、すごいような、こわいような

 皆さんの2005年はどうでしたか? ぜひ聴いてみたいです。
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「体制史」としての科学史観

2005年12月26日 23時09分58秒 | 教育研究メモ
 本日はちょっと満足できた一日でした。
 今日の寝起きもあまり良くありませんでした。午前中のうちに温泉(ホットカモ)に行き、いつもより長く風呂とサウナに入っていたことがよかったのでしょうか(普段は30分ぐらいだが今日は1時間ぐらいいた)。その後、気分が好転。やる気がみなぎってきました(笑)。温泉に行こうと思ったのは、とくに体調を良くしようとかといったような理由ではなくて、昨日行こうと思ったがいかなかったので、という単純な考えでした。温泉の熱が体に染み入る感じで、こんなに冷え切っていたのか、と感心してしまいました。
 その後、年賀状を買ったり(1月1日には差し上げられません…m(_ _)m)、事務仕事を片づけたりした後、久しぶりに勉強(読書)に取りかかりました。取りかかられただけでもうれしい~…とりあえず今日は、中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)の第五章「専門職業化の世紀」と第六章「パラダイムの移植」、「あとがき」を読み切る。これで、この本は読了! 読んだだけなので、近いうちにまとめなくては完了したことにはならないですが。細かいことはまた今度書きますが、とりあえず非常に共感したことがあるので少し。以下、同書の「あとがき」から。
  
 中山茂氏は、東京大学理学部天文学科卒業後、ハーバード大学でパラダイム転換で有名なト(ー)マス・クーンに師事。科学史Ph.D.を取得して帰国後、1971年にクーンの主著『科学革命の構造』を翻訳した科学史学者です。中山氏は、戦後の唯物史観科学史の影響を受けつつ、アメリカのアレクサンドル・コイレの思想史に強く興味を惹かれたしたといいます。コイレの思想史とは、唯物史観科学史の下部構造史(「『生産様式』と科学との直接的対応」)を「科学の外部史」と呼ぶのに対して、「科学の内部史」と呼ぶそうです。中山氏は、コイレの思想史的科学史(といってよいものかわかりませんが)と唯物史観科学史との狭間にあって、「科学と社会的基盤との結びつけを、公式としてでなく、リアルなものとして捉えたかった」といいます。そして中山氏と同様の問題意識を持ったクーンに師事し(1959年Ph.D.取得)、クーンはその後『科学革命の構造』を著しました(1962年出版)。しかし、クーンはパラダイム概念に関する論争にあけくれ、なかなか「科学と社会的基盤との結びつけ」(文面では「科学者集団の構造分析の問題」)には進まない。そこで、中山氏自身が、クーンのパラダイム概念を軸として科学の外部史・社会史に歩み寄ろうとしたのが、この『歴史としての学問』だそうです。
 中山氏の『歴史としての学問』のねらいは二点あり、この本の中で私が共感を抱いた点でもあります。
 第一は、「思想が現実の制度や社会にコミットし、それらの間の相互作用の歴史を描くことによって、はじめて思想史は地に降り、リアリティをもつものとなる。」という点。すなわち、中山氏の科学史観は、社会が思想を直接基底するものではなく、思想が社会と独自に遊離しているものでもない。思想と社会が相互に作用していく歴史観なのです。その歴史観を提示するための方法が、学説・思想と社会史との中間に位置するものとしての、科学者集団の「体制史」を分析する方法でした。思想と社会的基盤は直接関係するものなのか?という疑問は、私もちょっと前から考えていたことなのですが、30年以上前にすでにその問題にとりかかっていた人(クーン、中山氏)がいたということは興味深いことです。
 第二は、「学問の発展の複線ラインを設定しようとした」という点。これは、「東洋人である私には、やはりどうも西洋の科学の発展のコースが唯一必然の論理的な筋道であるとは思えない。」という直観が問題意識となって、科学史は同時代人の選択の連続によって得られた結果だ、という認識に至って表れた問題設定です。過去のパラダイム形成時点に出発点を求めれば、絶対的真理や予定調和的な目標は存在しない。「あくまでその(科学史の:注白石)路線・目標の決定は現在の人間の責任であって、はじめから神によって与えられているものではない。」のです。その選択の際に集団的・社会的要因が効いてくるのであり、学問の歴史は集団・社会という視点から捉えざるを得ないというわけです。
 中山氏のこれらの問題提起は、自身も認識しているように「いろいろなところに問題を撒き散らしただけ」で、必ずしも歴史研究として実証が行き届いているわけではありません。しかし、歴史研究は膨大な過去の出来事の中から、一定の歴史観によって歴史的事実を選択し、現在をより明確にする歴史像を描いていく行為です(この定義は、カーの影響です(笑))。歴史観には絶対的なものはないでしょうから、基本的には既存のものを選択する(あるいは自ら築き上げる)しかないと思います。ですから、中山氏の問題意識、というより学問の歴史観は、教育学という学問の歴史観として考えてみる余地はあると思います。ただ、中山氏の科学史観・学問史観はいわゆる自然科学系のものです。自然科学に収まらない学問である(と思ってます)教育学に対して、そのまま適用することはできないと思いますが。
 おっと、「少し」のつもりが…
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明治大正期の帝大文学部教授集団

2005年12月20日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日も寝起き悪し。久しぶりに「起きたくなーい…」と思いました。でも、今日は特研(ゼミ)の日ですから、時間ギリギリですが無理矢理起床。
 特研は早めに終了。今日は19時から研究室の忘年会。なのに財布を家に忘れて来たので特研終了後すぐに取りに帰りました。昼食を食べていなかったので、ふたたび登校する際にファミリーマートでおでん(ダイコン、タマゴ、シラタキ、チクワ)を買って行きました。なぜファミマかというと、たまたま店の敷地に「おでん祭」と書いていたのに惹かれて。でも、安くもなんともなかった(泣)。十分味はしみていたのでよしとします。戻って、早い夕飯といってもいいぐらいの時間に遅すぎる昼食をとりました。理由は頭がボーっとして、次にとりかかろうと思っていた読書に集中できそうになかったから。
 今日は中山茂『歴史としての学問』の第四章「近代科学の成立と雑誌・学会」を読みました。全部で50頁ぐらい。あと数頁ぐらいで読み終わる頃に、忘年会の時間になってしまう。あぁ、早起きしないと一日の勉強が中途半端に終わってしまうなぁ。
 忘年会は近所の「コットンクラブ」というお店。大学のすぐ側にある店なので、研究室の飲み会などではよく利用されます。1,100円という安価で、それなりの2時間食べ放題のバイキングが食べられました。この店は数ヶ月単位ぐらいでサービスが変わっています。この値段で採算がとれるのでしょうか?

 あと、日をまたいで、橋本鉱市「わが国における『文学部』の機能と構造(1)-帝大文学部の教授集団の分析を中心として-」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第35巻、1995年、129~147頁)を読みました。東京・京都帝大文学部の教授集団の世代交代を実証することを通じて、明治期の帝大文学部教授集団の性格(エートスのいい訳語ありませんか?ここでは全部「性格」と訳してます←意味のごたごたしたカタカナ語嫌い)の変遷を明らかにしています。すなわち、儒教の素養からくる修養主義と、漢学(漢詩文等)の素養からくる「文人」的性格であるとか。また、第一世代(1857年以前出生者)、第二世代(1858年~1876年出生者)、第三世代(1877年以降出生者)は、それぞれ帝大教授として担っていた責任も期待も違い、そこに学問的性格の違いも表れているとされています。簡単に言うなら、儒学・漢学の碩学として旧態依然たる教育内容を教授すれば事足りた第一世代(それ以上の責任も期待もなかったとか)、旧教育の素養を受けつつ欧米の最先端の学問の日本への移植と文学部の制度化を担う責任を負った第二世代(ただし、後年儒教的なものに回帰していったとか)、旧世代の敷いたレールに沿った当該分野の深化・専門化という任務を担った第三世代、といったところだといいます。その学問的性格の喪失は、大正生まれの教授集団が生まれる戦後以降だろうとされています。
 この橋本氏の研究は私の研究とは直接関係しませんが、帝大における教育学は文学部内部に位置づけられるので、文学部全体の性格の勉強は非常に重要だと思います。今回の論文は、橋本氏の学問の制度化の研究や帝大学部に関する一連の研究のなかで、私としては一番面白かったというのが正直な感想です。集団における世代交代に関する分析方法の勉強にもなったし、何より旧教育の素養と帝国大学の学問との連続性がよく見えてきた点が一番興味深かったなあ。ちなみに題名には「(1)」とありますが、「(2)」と題した論文は見あたりません。時期的に、1996年に相次いで『教育社会学研究』と『大学史研究』に掲載された論文が、この続きのようです。これらの論文は12/6と12/9に読了済み(6日のは解説なし(笑))。
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明治14年教員観の転換

2005年12月19日 20時13分04秒 | 教育研究メモ
 今日も調子悪し。雪は、一番手前に見える壁の上のやつがきれいに無くなっているくらいで、日の当たる道路は解けているものの、全体的にまだ残っている感じ。昨日の写真と見比べてもらえば、もっと面白いかと。車に5cmぐらい積もっていて、払いのけるのに一苦労でした。でも、雪が降った後は空気もきれいになった感じがして、少しうれしいです。
 今日は、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年(初版1966年)の第二章「教授実践をめぐる制度的規制および条件」を読みました。本章は、明治十年代前半の教授実践と不可分の関連をもつ、教授内容・学級学校の実態・教師像の分析を目的にしたものです。第一節「『小学校教則綱領』の分析」、第二節「学級・学校の実態」、第三節「教師に関する政策」で構成されています。
 第一節では、明治5年学制以後の教則(教科・教育内容)の性格とそれによる教授実践に対する規制の変化の概略と、明治14年「小学校教則綱領」の成立背景と内容の性格を明らかにしてます。小学校教則綱領は、教科において「道徳」(修身と歴史)と「実用」(3R's)という二軸的構造を有し、とくに「実用」軸の教科では「開発主義」の目的や方法的考慮をみとめることができるとしています。第二節では、明治十年代前半における一学校あたりの学級数等の実態と東京師範学校等における教授法研究とのギャップと、合級教授法研究の要請とを因果付けています。第三節では、明治14年「小学校教員心得」における体制の求めた教師像の性格と、明治16年以降の教師再教育の体制化を指摘しています。小学校教員心得は、知育・体育に対する徳育の重視が特徴的に見られ、その延長として教師の品行が重視されたことが指摘されました。ともかく、第一章で認められた政府における政府側の教授実践への認識の転換が、制度上にも認められることを明らかにし、第三章で東京師範学校における開発主義教授法研究と政府における教授実践の定型化の連続性へとつなげた章といえるでしょう。この章を読んで、明治14年前後、教育政策上において、教員は教授実践の担い手(その代わり規制をはめられたが)であると確定したと理解しました。
 一番興味を持ったのは、明治16年8月の教員講習所に関する文部省達の指摘です。本文中ではあまり考察されてはいないのですが、なにしろこの月に、文部省幹部の辻新次を加えて、東京教育学会内部で大日本教育会結成の会議が開かれていたのです。大日本教育会は教育関係者(教員を含む)の団結を企図し、文部省古参の官僚・辻新次がリーダーとなって結成されました。今のところ、確実に関連性を実証できそうな材料は持ち合わせていない(たぶん見つけるのは難しい)のですが、文部省の教員政策と大日本教育会結成、関連ありそうであまり関連づけられていないんですよね。私の博士論文で考えている構想にも重要な示唆を与える仮説なので、今後とも考えていきたいなと思います。
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現代的意義の歴史性・社会性

2005年12月16日 20時52分18秒 | 教育研究メモ
 今日の寝起き(笑)は、ぼちぼちでした。昨日やりのこしたことをざざっとやってしまって、昼前に学校へ。比較的早い方なのですが、今日は博士課程前期(修士)1年生による博士論文前期論文(修士論文)の構想発表会なので、そちらへ顔をだしました。
 全部は聞いてませんが、発表者16人中7人(うち2人は途中から)の構想発表を聞きました。日本教育史研究室には修士1年生はいないので、私とは異なった専門分野の論文構想発表を聴いたわけです。感想をば少し。同じ専門分野であっても、当然各人それぞれ問題意識も違い、研究志向も違います。大きく把握すると、発表を聴いた人たちは、政策・思想・学説などを対象にしています。政策・思想・学説などいずれも人間が作り上げるものであって、必ず歴史性(時間軸)・社会性(空間軸)をもちます。ですから、その政策・思想・学説が作りだされた当時の歴史的・社会的背景から、切り離して考えることはできません。発表の中には、現代的意義を求めるがあまり、この問題を置き去りにしようとしたものもありました。私もそのようなことを言っていた時期もあったので、その気持ちは私にも痛いほどわかります(苦笑)。でも、現代も、連綿と続く歴史と複雑に絡み合う社会の上に成り立っているわけですから、現代的意義ですら歴史的・社会的なものであるともいえると思います。政策だけ・思想だけ・学説だけの分析では研究者の「好み」の問題にしかなりえないと思います。現代的意義を見いだすには、歴史的・社会的な分析が必要なのではないでしょうか。
 今日の論文は2本。まず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年(初版1966年))の第一章「明治十年代における教授実践の状況」を読みました。明治14(1881)年の小学校教則綱領の公布を境に文部省官僚の教則(教科・教育内容)観が一転したこと、明治十年代には地方における教育実態の巡視を通して教授法や学校・学級形態の改良に文部省官僚たちが関心を示したことが明らかにされています。
 二本目。中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)の第三章「紙・印刷と学問的伝統」を読みました。西洋の学問と中国の学問の発展過程を比較し、紙・印刷技術の有無と学問の形態が密接に関係していることを論じています。ちょっと問題を単純化しすぎているんじゃないかとは感じましたが、メディアの発達と学問の発達を関連づけているところは、興味深く読みました。

 さて、鏡をみると、とんでもないクマができていました。クマができるのはいつものことなのですが、顔色も悪い。足下もフラフラするので、自分の体がちょっと心配になりました(笑)。今日は早めに今から帰って、寝ることにします。
 写真は昨日の写真です(24時ごろ)。昨日帰りに大学構内のライトに照らされながら粉雪が降っていたのを見て、感動したので取りました。雪はすぐに止みましたけど。でも、そりゃあ、こんな中40分もかけて歩いて帰ったら、調子も悪くならぁね(笑)。
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まとめて片づけた

2005年12月15日 23時21分29秒 | Weblog
 今日も早起きばっちりです。4時に起床したのですが(笑)。
 家に居たら寝たくなるので、早速学校へ向けて出発。研究・勉強以外にもやらなくちゃならないことが山積みなので、今日はそれらを片づけようと思いました。
 まず一つ目。I大学のKさんから、私の作った曲を送ってくれと依頼されていたので、7イレブンでひたすら楽譜をコピーしました。Kさんは、以前から私の曲を気に入ってくださっていて、演奏もしてくださいました。毎度ありがとうございます。楽譜の送付は、実費だけもらっておりますが(さらに料金の一部は災害支援のNPOに寄付しています)、演奏にかかる著作権料は今のところとっておりません。多くの人に演奏してもらいたいので、そういう方策をとってます。まあ、プロの作曲家じゃないからこそ、できることなんですが。
 二つ目。私の今の主任指導教員である佐藤先生退官の記念行事に関する、企画書らしきものを書きました。これをたたき台にしてもらう予定。
 三つ目。昨日中途半端に終わってしまった、中山茂論文のまとめをしました。意外と時間がかかってしまいました。ちなみに、中山茂氏は、トーマス・クーンの『科学革命の構造』を訳し、アメリカでクーンに直接師事された方です。当時の日本の科学史の権威者の一人だと思っていいと思うのですが、現在の科学史研究の最前線はどのようになっているのでしょうかねぇ。
 四つ目。中国四国教育学会の『教育学研究紀要』(CD-ROM版)の投稿原稿を提出すること。これは大会で発表して金さえ払えば載せてくれます。しかし、その料金は10,500円也…イタい。所属の書き方が違うと言われて一度再提出になりましたが、無事受け取ってもらえました。
 五つ目。広島大学邦楽部にIさんプロデュースのコンサートを宣伝すること。昨日の定期演奏会に気づかないぐらい、足が遠のいていた邦楽部の練習場所であるサークル棟和室に、半年ぐらいぶりに行きました。ついでなんで、一つ目の用事の時に一部余分に自分の曲の楽譜をコピーして、無料で押しつけてきました(笑)。普通、練習している時間は17時以降がピークなのですが、演奏会直後だというのに15時ごろには一年生(たぶん)が何人も現れました。6・7年前は閑散としていて、そんなことはありえなかったなあ。時代は変わったね。広大が広島市から東広島市へ移転してから、邦楽部はなかなか波に乗れなかったのですが、ここ数年で活発になってきた印象があります。一年生も相当数入部してきているみたいだし、これからは流れにのってうまくやっていってくれるでしょう。
 六つ目。『日本近代教育史事典』読書会。今日は「初等教育」の欄。所要時間2時間也。
 七つ目。中国四国教育学会のバイト。中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)への論文提出は、デジタルデータでないといけないんです。どうしてもワープロ打ちができないという先生がおり、その論文をワープロ打ち。時間がないので延ばし延ばししてきましたが、明日〆切なので覚悟を決めてやりきる。これも意外と時間がかかってしまいました。
 八つ目。来年1月に開催されるIさんプロデュースの演奏会に関すること。そのプログラムの一つにトークセッションがあるのですが、それについて私もちょっとお手伝いをすることになりました。その関係でトークの構成案について意見を求められていたので、意見メールの作成。「楽しいトーク」として要求されているにも関わらず、ものすごいカタい論文みたいな意見ができあがる。提示されている問題について真剣に考えてしまい、つい本気で書いている自分が。しかし、実感するのは、カタい文章しかかけなくなってる… まあ、もともとカタいことしか言えない性分だったから、仕方ないか
 気づいたらこんな時間。今日は、新しい論文、何も読めなかった… ただ、どうせやらなくちゃいけないことをまとめて処理できたので、まあよし。
 明日は博士課程前期(修士)論文構想発表会。少しは顔を出さなくてはならないなあ。読書の時間が足りない… 来年の主任指導教員と闘うための、博士論文を書くための時間が足りない… 
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来年の指導教員との闘い

2005年12月14日 18時39分48秒 | Weblog
 今日は早起き!二度寝しませんでした! ←なんという喜び方だろう(笑)
 今日は早起きできたので、徒歩で登校。昨晩少し雪が降っていたのですが、そのままうっすら積もったまま残っていました。写真は、途中で朝日が雪に反射してすごく奇麗だったので撮りました。直射日光のため焦点が合わなかったみたいですが。途中、納豆朝食を食べて、クリーニング屋に衣類を頼んで、コンビニでおでんの大根を二つ買い、9時前に研究室に到着。しばらく一時間ぐらいぼやぼやしていました(この時間もったいない…)。
 今日は、中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)の第二章「パラダイムの形成」を読みました。当時の科学史観というか理論というかそういったものを、わかりやすく説明した部分でした。今日は読んだだけで、まとめはできませんでした。なぜかというと、以下の通り。

 先程(17時ごろ)、来年の主任指導教員(専門は日本教育史ではない)との一時間にわたる面談が終わりました。
 ふひ~
 とりあえず、博士論文の件で「君はこの研究で何を言いたいんだ?」とひたすら詰め寄られました。あれこれ言った後、「戦前日本の教育学の特質を明らかにし、その歴史像を形成したいのです」と言ったところ、ようやく納得されました。正確に言えば、「大日本教育会・帝国教育会における教育研究活動の特質を明らかにし、かつ他の教育団体や研究者の教育研究と比較することで、戦前日本における教育に関する学問としての教育学の特質の一端を明らかにし、学説史ではなく社会史としての歴史像を形成したい」、といったところでしょうか。博士論文題目は、「大日本教育会および帝国教育会における教育研究活動の展開」です。まあ、私の説明の仕方が悪かったのでしょうが、一時間も何度も何度も同じことを言ってたよ… 
 とても息が苦しかったです(笑)。
 でも、この先生(仮にA先生としましょう)には納得していただけなかった日本東洋教育史の先輩もいるので、上出来といえましょう… とりあえず、学問とは何ぞや、研究とは何ぞや、という理論的部分を勉強して来いとのお達し。とりあえず、研究にとりかかっていい、というお許しが出たものとし、先行研究をまとめてよい、という許可が出たというように理解します。すでに研究にはとりかかっているわけで、あべこべな状態ですが。とりあえず、一歩前に進んだということですね。
 面談が終わった後、何とか今日の読書のまとめの続きをしようと思ったのですが、今日はもう何もしたくないッス。気力をすべて使い果たしました… てなわけで、もう帰りマス。
 …歩いて帰るのが面倒くさいッス…
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慣れたワープロソフト

2005年12月13日 22時33分13秒 | Weblog
 二度寝の際に無呼吸の症状が… 一度目が覚めたときには平気だったのに…
 二度寝はしない!とかたく誓わねば…(これが難しいんですよねー)
 
 そんなわけで、今日も昼間出勤。勤労者に顔向けできない…(恥)
 今日は特研(ゼミ)。今日は終了が早くて、15時過ぎに解放。先輩・後輩とよもやま話をし、16時すぎから勉強を始めました。でも今日はノってこない。ぼちぼち始めました。
 今日は稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』(評論社、1995年・初版1966年)の「序」「はしがき」、緒論「研究の主題と方法」を読みました。稲垣著の目的は、教授実践の実態・公教育教授実践の定型化過程・大衆教育における教育の制度化(教授実践の合理化の志向)という視点から、明治公教育教授の特質を、歴史的に形成されてきた教育価・理論、明治国家の性格との関連において明らかにし、それによって明治公教育の質的検討の一つのてがかりとすることです。どういう興味からこれを読み始めたかというと、戦前教育学の一翼を担った教授法の歴史を勉強しようというねらいがあるからです。まー、以前あるところへ投稿したものの落選した論文を、よりよいものに書き直すためという実際的な目的がその裏にあるのですが。
 とりあえず論文一本(短いですが)を読んだ後、今週末〆切の中国四国教育学会編『教育学研究紀要』(CD-ROM版)第51巻への投稿論文を仕上げました。仕上げたといっても、先日発表したレジュメを投稿形式に変換していただけですが。しかし、やたら手間取ってしまいました。私が普段使っているワープロソフトは『一太郎』(ジャストシステム)なのですが、この紀要はなるべくMicrosoft Wordで書けとされています。そのため、慣れないWordを使って、えっちらおっちらと投稿要領の指定する形式に変換していました。が、脚注がうまくいかない。さらに図表がうまくいかない。勝手に拡大・縮小するわ、しかも思うような大きさになってくれないわ。ようやく完成したと思ったら、図表の印刷がうまくいかない。
 もー! 書き直すこともまったくないのに、完成までに3時間以上かかりました。なんじゃこりゃ。慣れないワープロソフトじゃあ、なにかとダメですねぇ。この作業をした後、上述の稲垣論文をまとめていたら、気がついたらこんな時間になっていた。また晩飯を食い損なったい。で、結局こんな時間になっても食べるんだよね…太るわん。
  一ヶ月前に比べると、ちょっとやせたけどね(笑)。
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水滸伝のち学問史

2005年12月12日 20時43分14秒 | 教育研究メモ
 広島大学邦楽部の定期演奏会(学部時代入ってたサークル)、昨日だった!
 白黒コピーのポスターで、気づかなかった…
 今日気づいたよ…すまぬ、後輩たち…

 今日は昼過ぎ起床です。というのも、久しぶりについ徹夜(朝7時まで)でゲームをしてしまいましたm(_ _)m。やってたのは、発売は何年前だったか忘れましたが、コーエー(旧光栄)の『水滸伝-天導108星』です。なんでこんなことをやってしまったのかというと、最近『水滸伝』の小説にハマってまして… その追体験がしたくて、数年前のゲームを持ち出して徹夜までしてしまいました…(苦笑) もう十分満足したので、もうやりませんがね。
 私がはまっているのは、森下翠『絵巻水滸伝』(株式会社キノトロープ所有)というネット上で連載しているデジタルノベルなんですが、正子公也さんの挿絵が、人間の息吹、筋肉の動き、力強い魂というようなものまで感じさせるすばらしい絵なのです。『水滸伝』という物語は、、『三国志演義』『紅楼夢』とならぶ名著で、12世紀の中国宋時代を舞台にし、108人の英雄豪傑の活躍を中心に描かれた中国古典文学です。まあ、この108人は「教育上よくないこと」(笑)もたくさんしていますし、基本的に「荒々しい」(笑)話なので、好き嫌いはわかれるとは思いますが、『三国志演義』に魅せられたことのある人には、絶対おすすめです。
 http://www.suikoden.com/index.html

 とまあそういうわけで徹夜をしたのですが、意外とすんなり起床できました。登校して、いつものとおり、論文を読みました。今日は、中山茂『歴史としての学問』(中央公論社、1974年)です。学問の制度化に関する先行研究です。全部はさすがに一日では読めませんので、今日は「まえがき」と第一章「記録的学問と論争的学問」を読みました。
 「まえがき」では、学説形成と研究体制の関係に注目して社会史と学説・思想史をつなぐ研究を行い、かつ東洋・西洋の学問史を比較することによってア・プリオリ(先天的性質)な学問史を相対化し、動的で柔軟な「学問的伝統(Academic Tradition)」の姿を明らかにする、という課題設定が語られています。「学問的伝統」というのは、中山氏によると、「文字を誌す者と読む者の間のコミュニケーション(伝達)」と定義され、これを解明するのが科学史学の役割だということです。
 「記録的学問と論争的学問」では、西洋古典学と自然哲学・科学のような学問的伝統の定着について考察するための伏線として、バビロニアと古代中国、古典ギリシアと中国戦国時代の比較によって、記録(記録的学問)と口頭(論争的学問)による学問的伝統の性質の違いを明らかにしています。記録的学問とは、一言でいえば、記録資料の積み重ねによって経験的な法則を見いだそうという学問です。論争的学問とは、論敵との議論の積み重ねによって一般的・普遍的な法則を見いだそうという学問です。中山氏は、この二種の学問のうちどちらが優れているかではなくて、学問の歴史の中で、それぞれがどのように機能してきたかを吟味するために、比較したのだとしています。
 感想として、非常に興味深かったです。二論文をまとめた後、いろいろアイディアがわいてきたので、今日は結局予定の3分の1程度しかできませんでした。まあ、登校が遅かったのでそうでなくても3分の2程度しかできなかったとは思いますけどね。
 博士論文の構想がふくらんできて、自分一人で盛り上がってます(笑)。
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1970年代の音楽教育の問題点

2005年12月11日 21時15分41秒 | 純邦楽
 今日は、鼻づまりがひどく、昼過ぎまで寝た上に寝覚めの悪い日でした。無呼吸治療の機械は鼻から空気を送るので、鼻がつまると治療もうまくいかないのです。どうも寝ていると寝返りで布団がずれるようで、軽い風邪をひいてしまいます。さらに、息苦しいからさらに寝返りを打つのでタチが悪いし。
 寒い日がニクい(笑)
 昼過ぎに昼食を買って登校。今日は何となく自分の専門の勉強をするのが嫌で、自分の知識というか教養というか、そういったものを高めようと思いました。昨日の延長として、今日は小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読みました。これは、当時、東京芸術大学で教育と研究に従事していた小泉文夫氏(1927~1983)が、「これからの社会に私たちの伝統音楽がどう活き続けていくか」を問題意識として、現代と過去、日本とアジア・ヨーロッパ、音楽と他の芸術・文化などの軸によって日本音楽を比較分析した論文集です。

 今日はその中の3論文、「世界のなかの日本音楽」「日本音楽の今日と明日」「日本文化のなかの伝統音楽」を読みました。「世界のなかの日本音楽」では、従来言われてきた日本音楽の特殊性をアジア音楽を含めた国際的比較によって批判し、むしろヨーロッパ音楽の方が特殊だとしています。「日本音楽の今日と明日」では、日本音楽の国際化(外国人の中から優秀な研究者や演奏家が出てきたこと)、若い世代の伝統音楽離れ、が論じられました。「日本文化のなかの伝統音楽」は、建築・文学・演劇と音楽の相違点と共通点を浮かび上がらせた論文です。
 小泉論文中の興味深かった部分を取り出してみます。「日本音楽の今日と明日」の中で、若い世代が伝統音楽から離れる理由が論じられています。その理由は、「新しい芸術の価値体系を求めて」離れたのではない、「自国の伝統からシャット・アウトされた状況の中で、外国の価値体系を求めざるを得なかったためである」としています。そのような状況に陥った理由として、小泉氏は特に日本音楽に対する無知を形成した従来の教育の問題だとしました。
 「日本文化のなかの伝統音楽」では、音楽も歴史的にそれ自体で自律的な体系を持つのではなく、日本人の芸術的表現のあらゆる側面と極めて密接に結びついたものであるとしました。伝統的な建築・文学・演劇は、いずれもある一定の「型」を組み合わせて作り上げられ、音楽もまたそうであったといいます。しかし、音楽は、建築とは違って実生活との結びつきが弱く、実用性に欠けているため、伝統的要素は簡単に破棄され、文学・演劇とは違って日本語という言語や学期・音階・リズムを放棄し、西洋音楽の「型」や「素材」に転換してしまったとしました。そのため、「ひとり音楽だけが伝統とまったく切り離された形で教育の場で取り扱われ、いきなり何の社会的・身体的・言語的裏づけもないまま、西洋音楽の成果としての体系が日本の子ども達に押しつけられた」として、やはり音楽教育の問題として問題提起がなされています。
 小泉氏の論文の中には、無自覚に日本人が西洋音楽(欧米)を追い求める姿勢を問い直すこと、という問題意識が深く根付いていると思います。たびたびあらわれる、日本の音楽教育における西洋音楽教育の偏重に対する批判は、その証左ではないでしょうか。小泉氏は、『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で、次のように言っています。ちょっと長いですが、小泉氏の問題意識がよくわかるので引用します。

 「ある民族の音楽文化は音楽だけでなりたっているものではなく、言葉だとか、身体的運動だとか、さらには自然環境、歴史的風土、社会的慣習など、要するに、その民族の文化全体と密接な関係のなかでそだってきているはずなのに、そういうことをほとんど考慮せずに、明治以来西洋音楽を基本とする音楽教育が、国家的な規模で行われてきました。
 音楽だけ純粋に取り出して、西洋音楽を基本とした教育体系を作り、国家的な規模で熱心に行っているというのは、どう考えてもわれわれの常識を越えていて、黙ってはいられない問題です。
 こういう大胆な実験を行っている民族は、私の知る範囲では、世界に日本人だけです。まともな音楽教育を受けた日本人は、インテリであればあるほど自分たちの国の音楽について無知であり、また無関心です。欧米の音楽については大きな関心と愛着をもっているのに、自分の国の文化になると、とたんに背を向ける。これがかりに、自分の国の文化がよくわかっていて、しかも、その文化のもついろいろな歴史的弊害を克服していこうというばあいには、外国の音楽を調べることは非常に大切かもしれません。ところが自国の文化に対する基礎的な知識すらもたないで、無関心でいたり、それを否定するというのは、特異な現象です。こういう状況を作りだした音楽教育について、われわれの発言を促す理由はたくさんあります。」(『日本音楽の再発見』、8~9頁より)

 小泉氏がこの論文を書いた1960年代~70年代における日本音楽の状況と、現代における状況とでは違います。現代では、学習指導要領への日本音楽の導入や、音楽科教員養成課程における邦楽実習の導入などが進んできています。しかし、それらは何か付け足しのようになってはいないでしょうか。小泉氏のいう日本の音楽教育の問題は、まだ十分に解決されていないような気がします。小泉氏も問題提起してますが、教員養成の見直し、教材の開発、カリキュラムの見直しなどによって、「日本の音楽教育」を再構築する必要性があると思います。そのためにも、戦前戦後を通した、音楽教育の歴史(カリキュラム、教員養成、実践など)を研究し、小泉氏の把握した問題の実証が必要な気がします。
 結局印象論ですみません…
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日本音楽

2005年12月10日 22時28分16秒 | Weblog
 今日は昼過ぎに登校。学部3年の卒論構想発表会に行くつもりが、時間を確認してなかったので、一番聞きたかった発表が終わった後に着いてしまいました。発表する研究室の後輩もいないし、特にやる気にならないので、帰ることにしました。
 来年頭に邦楽関係の仕事があるので、帰宅して読書。まずは肩慣らしにと、團伊玖磨・小泉文夫『日本音楽の再発見』、講談社現代新書、1976年を読み切る。西欧音楽を日本人が無自覚に勉強・演奏することの問題提起と、生活と音楽の密接性、日本人による日本音楽の再発見の提唱などを対談した本です。この本の内容で、一番興味深く読んだのは、近代日本の音楽教育の西洋化について、と演奏会形式の音楽発表形式の問題性についてでした。
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大事なのは不満よりも感謝すること

2005年12月09日 20時30分11秒 | Weblog
 今日は早起き。7時に起きて、部屋の模様替えの続きをする。だいたい20分の2(笑)完了。11時ごろ家を出ました。DVD(結局疲れて見なかった(笑))を返さなくちゃいけなかったので、車で出発。
 登校後、メールを返信。さらに、来年の主任指導教員のところへ行って、来年のことに関する面談のアポを取る。来週火曜以降に面談の予定。昼食を取った後、先行研究の論文を読む。今日の論文は、橋本鉱市「近代日本における『文学部』の機能と構造-帝国大学文学部を中心として-」、日本教育社会学会編『教育社会学研究』第59集、1996年、91~107頁。従来の高等教育研究において少なかった文学部の歴史を教育社会学(知識・科学社会学)的に分析したもので、学問の制度化に関する研究。ご自分で別の研究論文に書かれた文章がまるまる書かれていたり、歴史的内容は人の論文の引用を多様したり、資料の大半が学校の年史だったりする点には、ちょっと閉口してしまうが、近代日本における文学部の歴史について非常に興味深く学ばせてもらった。しかし、ちょっと自分の研究とはずれてきたかな、と感じる。来年の主任指導教員の言にしたがって、橋本論文を5本読んできたが、もうここらでよいような気がしてきた。ただ、おかげで学問の制度化に関する理論の触りは理解できたし、調べなくてはならないことが明確になってきたので、勉強した甲斐はあったというものだ。橋本鉱市氏と、橋本論文を勧めてくれた主任指導教員に感謝したい。
 今日はさらに、上記論文を読んでいる途中で、いつかしようと思ってやっていなかった、収集してきた資料の製本を突然思いつき、作業をした。その作業に必要な材料を生協に買いに行ったついでに、本棚に並んでいる本を30分から1時間ぐらい物色。お金がないので買うのはあきらめた。そんなこんなで、今日は早起きだったが論文は一本しか読めなかった。
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