読書日和

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「この世界の片隅に」原作:こうの史代 著:蒔田陽平

2018-09-16 16:19:38 | 小説


今回ご紹介するのは「この世界の片隅に」(原作:こうの史代 著:蒔田陽平)です。

-----内容-----
すずは広島の江波で生まれた絵が得意な少女。
昭和19年、18歳で呉に嫁いだすずは、戦争が世の中の空気を変えていく中、ひとりの主婦として前を向いて生きていく。
だが、戦争は進み、呉はたびたび空襲に見舞われる。
そして昭和20年の夏がやってきた――。
数々の漫画賞を受賞した原作コミック、待望の劇場アニメ化。
戦時下の広島・呉を生きるすずの日常と軌跡を描く物語、ノベライズ版。

-----感想-----
冒頭は昭和8年で、7歳の浦野すずが広島の中島本町(ほんまち)におつかいに行き、妹のすみへのお土産を食べ物とおもちゃのどちらにするかで迷います。
この頃はまだ太平洋戦争(大東亜戦争)が始まっておらずおもちゃと迷えたのだなと思いました。
戦争末期になると食べ物もろくに無くなりおもちゃと迷う余裕もなくなると思います。

この時すずは産業奨励館という建物を目にしていて、後の原爆ドームだとすぐに気づきました。
すずは人さらいの大男にさらわれます。
大きなかごの中に押し込められるとそこには同じようにさらわれた男の子がいました。
しかしすずの機転で二人とも大男から逃げることができます。

すずの家は広島の江波(えば)にあり、父の十郎、母のキセノ、兄の要一、妹のすみと暮らしています。
兄はすぐに怒り出す人ですずは心の中で「鬼いちゃん」と呼んでいます。
大潮の朝、遠浅の広島湾はすずの家のある江波から叔父、叔母のマリナ、祖母のイトが暮らす草津まで陸続きとなり徒歩で訪ねて行けるとあり、そんな場所があるとは知らず驚きました。

叔父、叔母、祖母が暮らす家で昼食を食べた時「わけぎのぬた」というメニューがありました。
どんな料理なのか調べてみたらわけぎ(分葱)はねぎに似た野菜で「ぬた」は酢味噌和えのことです。
料理名は知りませんでしたが食べたことはあると思います。
子供達三人が昼寝をしている時、すずは天井から女の子が降りてきてすず達が食べたスイカの皮をかじっているのに気づきます。
すずは思い切って女の子に声をかけ、切ったスイカを新しくもらってきてあげます。
しかしすずが戻って来ると女の子の姿はなくなっていて、誰なのか気になりました。

昭和13年2月、小学6年生のすずは教室で水原哲という活発な子が暴れて大事な鉛筆を教室の壁際にある削りカスを捨てる穴に落とされてしまいます。
すずは「水原を見たら全速力で逃げえいう女子の掟を忘れとったわい」と言います。
帰宅したすずが江波山に行って焚きつけの松葉を拾っていると崖に哲がいます。
すずは母の「哲くんに親切にせんといけんよ(家庭環境が悪く不憫に思っているため)」という言葉を守って態度の大きい哲に話しかけていて、とてもまじめで優しい子だと思いました。
そして哲がどんな子なのかも気になりました。
哲はすずに新品の鉛筆を渡していて心の優しい面もあるのかも知れないと思いました。
哲が「浦野の兄ちゃん見たら全力で逃げえいう男子の掟があるけえの」と言う場面がありすずの言葉と対になっていて面白かったです。
哲は松葉を集めてすずに渡してもくれ、そこには椿の花が1輪挿してありすずのことが好きなのだと思いました。



昭和18年12月、すずは18歳になりこの年の春に要一が軍に召集されました。
太平洋戦争(大東亜戦争)が始まっていて、すず達一般国民には知らされていませんがこの時既に戦況は大きく悪化しています。
昭和17年5月のミッドウェー海戦と昭和17年8月~18年2月のガダルカナル島の戦いで日本軍は陸軍、海軍ともに壊滅的な打撃を受けています。
※百田尚樹さんの「永遠の0」で詳しく描かれているので感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。
すず達の食べ物が雑炊になったのを見ても戦況の悪化が分かりました。

呉からすずを嫁に欲しいという人が来ます。
草津の叔父の家に手伝いに来ていたすずは実家に戻る時に海軍上等水兵になった哲に再会します。
すずが妹のすみのほうが綺麗なのですずを嫁に欲しいという人はすみと間違っているのではと言うと、哲は「……ほうでもないと思うがの」と言い、やはりすずのことが好きなのだと思いました。

昭和19年2月、すずは嫁に欲しいと言ってきた呉の北條周作の家に嫁ぎます。
かつて大男にさらわれそうになった時の男の子です。
浦野家一行が江波から呉に向かう時に山陽本線が登場し、私もよく乗るのでこんなに昔から走っていたのかと思いました。

周作の伯母の小林が仲人をしてくれますがすずには結婚の実感がまるで湧かず、「うちはぼーっとしとるけえ、こうなってしもうたんじゃろうか……。」と胸中で語っていました。
北條家で周作、父の円太郎、母のサンと一緒に暮らしていくことになります。
周作には黒村径子という結婚している姉がいて、すずはサンに見せてもらった径子の洋服を見て「モガ」と評していました。
どんな意味なのか調べてみたら「モダンガール」の略で、西洋文化の影響を受けたファッションの女性とありました。

「空の彼方から零戦(ぜろせん)の爆音が響いてくる。」という描写があり零戦(零式艦上戦闘機)の名前が登場しました。
この時は昭和19年3月で海軍が防空演習を行っていました。
また配給所に行く径子にすずが配給切符を渡す場面があり、既に米などが配給になっているのが分かりました。

径子は婚家と上手く行っていないようで娘の晴美とともに北條家に居続けます。
ちまちまと台所で作業するすずを見かねた径子が私がやると言っててきぱきと料理を作ります。
径子はさつまいものかて飯を作り、これは米に他の穀物や野菜・海藻などの食品を混ぜて炊いたご飯のことです。
食卓の場で径子がすずに里帰りを勧めると円太郎、サン、周作も「それはいい」と賛成します。
ただし径子は実は本気で実家に帰そうとしていたので、ただの里帰りとして話が進んで気まずそうにしていました。
里帰りしたすずは広島の繁華街で丸いドームを載せた産業奨励館、市電が走る紙屋町の交差点、塗装工事中の福屋百貨店新館をスケッチブックに描きます。
広島によく行く私はどれも知っているので印象的でした。
すずは絵が上手く作中で何度も描いています。

4月、呉の軍港に航空母艦(空母)が二隻停泊している場面がありました。
既に大半の空母が沈められた時期でまだ生きている空母がいたのかと思いました。
戦艦大和(やまと)も居ました。
「呉の軍港で生れた世界一の軍艦」とあり呉が日本軍の重要な場所なのが分かる場面でした。

「誰も口にはしないが、戦況がかんばしくないことは配給の減り具合からも察せられた。」とありました。
すずは頭にはげができ、すずのことを邪険にしがちな径子との暮らしが影響している気がしました。
しかし径子は突然晴美を連れて婚家に戻ります。

6月15日、初めて空襲警報が発令されます。
円太郎は「まあ、敵の予想航続力からすりゃあ、初回は九州がええとこげな」と言っていました。
この時点では爆撃機B-29は中国成都から飛び立っていて距離的に九州までしか爆撃できませんでした。
しかし6月はサイパンの戦いが始まった月でもあり、サイパンが奪われやがてサイパンから飛び立つB-29が呉を爆撃しに来るのが予想されました。
この頃から建物疎開と言って防火のために密集した地域や重要施設周辺の建物を間引いて空き地を作ることが行われます。
径子の家も取り壊しになり、晴美を連れて北條家に戻ってきた径子が良い機会だから離縁してきたと言います。

7月、北條家は防空壕を作ります。
晴美とすずが段々畑から港を見る場面で晴美が「戦艦はようけおってのに航空母艦はおらんねえ」と言います。
6月のサイパンの戦いと同じ時期に海ではマリアナ沖海戦があり、4月に晴美が見た二隻の空母のうち飛鷹(ひよう)は沈没、隼鷹(じゅんよう)は損傷して修理中でした。

周作は海軍軍法会議所で録事(ろくじ)をし円太郎は海軍工廠(こうしょう)で働いています。
すずが周作は6時に帰るから録事だと思っていたというのが面白かったです。

8月、来月から砂糖の配給が隔月になるとありました。
さらにスイカが畑で禁止になっているとあり、これは食糧が足りないからもっと栄養価のある穀物を作れということだと思います。

闇市で砂糖を買ったすずは朝日町の朝日遊郭に迷い込みます。
道が分からなくて困っているすずを二葉館という遊郭の白木リンという若い女が助けてくれます。
すずは気づいていませんでしたがリンはかつてすず達が食べ終わったスイカの皮をかじっていた子です。
リンの「この世界に居場所はそうそうなくなりゃせんのよ」という言葉は印象的でした。
言動から親に売られて遊女になりそんな境遇でも何とか居場所を見つけて生きようとしているのが分かりました。

9月、すずは国防訓練で使う竹槍を作ります。
竹槍訓練が始まるのを見て日本軍が追い詰められているのが分かりました。

すずは周作とリンそれぞれの言動と、周作が持っていたりんどう柄の茶碗とリンが着ているりんどう柄の着物をきっかけに周作とリンのつながりに気づきます。
周作はすずと結婚する前は遊郭でリンと知り会い遊郭から救い出そうとしていました。

12月、重巡洋艦「青葉」の乗組員をしている哲が入湯上陸という名の自由時間を得て北條家を訪れます。
哲がすずが普通の日常を過ごしているのを羨ましがっているのが印象的でした。
「お前だけは最後までこの世界で普通でまともでおってくれ……」とすずに言い、心が疲れているのが分かりました。

昭和20年2月、要一が戦死しついに身内に犠牲者が出ます。
3月、呉に空襲が来ます。
3月は硫黄島が奪われた月でもあり、ここからはB-29だけでなく零戦を遥かに上回る高性能戦闘機のP51も護衛としてやってくるようになり、爆撃機と戦闘機の大編隊を前に日本はなすすべがなくなります。

4月、北條家は二河(にこう)公園に花見に行きすずはリンに会います。
りんはB29が夜ごと熱心に機雷をまき、呉の港も広島の海も身動きできない海になってしまったと海軍のお客から聞いたと言います。

5月、円太郎が働く広(ひろ)工廠にもB29の爆撃が来ます。
周作は法務の一等兵曹になり、軍人として海兵団で訓練されるため三ヶ月は戻って来られないとすずに言います。
広工廠の爆撃から1ヶ月半後、円太郎が海軍病院に入院している知らせが届きます。
すずは晴美と一緒に海軍病院を訪れ円太郎から大和が沈んだことを知らされます。
その帰り道、爆弾が爆発して晴美が亡くなりすずは右手の先がちぎれます。

7月、一発の焼夷弾が北條家の板の間に落ちて燃え、すずは叫びながら掛け布団を持って炎に覆いかぶさり消そうとします。
普段はおっとりとしてマイペースなすずの家を守る執念を感じました。
焼夷弾による市街地攻撃で呉市の大部分が焼け野原になります。
久しぶりに周作が北條家に戻ってきますが頭に包帯を巻き右手は吊っていて、すずは右手の先が吹き飛び円太郎も入院の重傷を負い晴美は亡くなり、どんどん犠牲が広がっているのが痛ましいです。

見舞いに来たすみがすずに江波に帰って来いと言います。
「来月の六日は江波のお祭りじゃけえ。早う帰っておいでね」と言うのを見て、その日は原子爆弾が投下された日なのがとても印象的でした。

昭和20年8月6日、この日すずは江波の実家に帰ろうとしていました。
径子に手伝ってもらいながら支度をしていると庭のほうが明るく輝き、鳥のさえずりもセミの鳴き声も絶え辺りが静寂に包まれます。
そして突然物凄い地響きとともに家全体が揺れます。
外に出てみると広島市の方角で桃色がかった巨大な入道雲がみるみる盛り上がっていくのが見えました。
夕食の席で円太郎が「どうも広島に新型爆弾(原子爆弾のこと)が落とされたらしい」と言いすずは青ざめます。

昭和20年8月15日、北條家は玉音放送を聞いて敗戦を知ります。
9月、すずはすみが生きていることを知ります。
11月、すずは小林の伯父も近所に住む主婦の知多も広島から戻ってから体調が悪いと言っているのが気になります。
これは原爆投下後すぐに広島に救援活動に行った時に放射線を浴びたのだと思います。

昭和21年1月、すずは草津の祖母の家を訪れ、すみから母は原爆投下日にお祭りの支度で広島市街におつかいに行っていて父とすみで探したものの見つからず、父は10月に倒れてすぐに亡くなったと聞きます。
父が倒れたのは原爆投下のすぐ後に母を探して放射線を浴びたからだと思います。
さらにすみは青白い顔をして寝込んでいて左手首には黒い染みが二つあり、放射線の影響の深刻さを感じました。

すずは周作との待ち合わせのために産業奨励館の前に行きます。
産業奨励館は半壊し、特徴的だった帽子のようなドームは骨組みだけになっていた。周囲にはそれ以外の建物は一切ない。
これが後の世界文化遺産、原爆ドームです。


昭和20年8月15日の夜に「うちらの暮らしは続いていく。」とあり、さらに物語の一番最後に「この世界の片隅で、わたしたちの生活は続いていく――。」とあったのがとても印象的でした。
戦争が終わった後も気持ちを整理する間もないまま日々の生活は続いていきます。
生き残ったすずが北條家や草津の祖母の家の人達、近所の人達と助け合いながら生きていってくれていたら嬉しいです。


参考フォトギャラリー
「広島駅から平和記念公園へ」(すずがスケッチしていた百貨店の福屋、路面電車、産業奨励館(原爆ドーム)が登場
「平和記念公園を散策」
「オバマ大統領訪問翌日の平和記念公園」
「平和記念式典前日の平和記念公園」

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2 コメント

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この世界の片隅に (マリンカ)
2018-09-16 17:56:03
ずっと気になっていたのですが、原作も映画もドラマも結局観ずに今に至るので、はまかぜさんの感想とても糧になりました

知っている土地だと色々と想像ができますね。
原爆が落ちるまでの間の生活が、落ちたことを知っている読者側としてはじわじわと怖い思いをしながら読んでしまう作品ですね😢

山陽本線、日清戦争と日露戦争の物資を運ぶ為に作られたみたいなのでその頃からあるようです!
古いですね~😲
戦争物資を運ぶのに役立った路線を今移動手段として利用しているのが何だか不思議な感じです。
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マリンカさんへ (はまかぜ)
2018-09-17 09:11:32
こんにちは。
私も原作も映画もドラマも観ずにいました。
お盆休みに実家に帰省した時家族がドラマを見ていて、私も一緒に見ていたら興味を持ち、小説を読んでみました。
私は広島市街によく行き、まだフォトギャラリーにはしていないですが呉にも行っているので、読んでいて想像がしやすかったです。
原爆が投下される日に広島でお祭りがあるなどの描写を見ると胸が痛みます。

山陽本線の由来は知らなかったです。
そんなに昔からあり元は戦争物資の運搬用とは驚きました。
今は日々の暮らしに役立っていて良かったです
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