今回ご紹介するのは「たった、それだけ」(著:宮下奈都)です。
-----内容-----
贈賄の罪が明るみに出る前に失踪した男と、その妻、姉、娘、浮気相手。
考え抜いたそれぞれの胸の内からこぼれでた“たった、それだけ”のこと。
本屋大賞ノミネート作『誰かが足りない』の感動ふたたび。
人の弱さを見つめ、強さを信じる、著者の新たなる傑作!
-----感想-----
宮下奈都さんの最新作は、少しミステリータッチな作品でした。
物語は第一話から第六話まであり、それぞれの話ごとに語り手が変わります。
第一話は「人を傷つけたことのない人なんていないと思うけど」という、蒼井さんという人の謎の言葉から始まります。
会社の空いた会議室で女性社員達がお昼を食べていた時のことです。
突然何を言い出すのかと、みんな訝しがります。
読んでいくと「私」が蒼井さんに恨まれていることが分かります。
はっきりとこちらを見て「もうのうのうとは生きていられなくなるだろうから」とまで言われていました。
一体何があったのか気になりました。
蒼井さんは海外営業部の望月部長のことを話し出します。
会社に大がかりな贈賄の容疑がかかっていて、その実行者が望月さんということになっています。
蒼井さんの話はどんどん広がっていきます。
「あたしがゆるせないのは」
「密告者よ。望月さんの人生を台無しにした」
そしてその目はまっすぐと「私」のほうを見据えています。
「私」の名字は夏目といい、密告者として蒼井さんから糾弾されています。
夏目と望月は愛人として付き合っていましたが、蒼井さんと望月も愛人として付き合っていました。
ある時、望月の油断から、夏目は望月のタブレット端末のパスワードを知ってしまいます。
そこには極秘の贈賄のデータがありました。
そして夏目は望月の贈賄のことを告発してしまいます。
極秘の贈賄データを見てしまった時、夏目の脳裏には中学二年の時に自殺した加納君のことが思い浮かんでいました。
「どうしたの」
たった、それだけ。それだけのことが、どうして言えなかったんだろう。
加納君に声をかけて助けてあげられなかったことを夏目は後悔していました。
この時の後悔が、望月の贈賄の告発へとつながったようです。
自分で告発しておいて望月に「逃げて」「逃げ切って」と言う心理状態は興味深かったです。
夏目は望月のことを
「汚い仕事をやらされて、断り切れずに引き受けてしまう」
と分析していました。
私の役目は、望月さんに生き延びてもらうこと。そして、望月さんを追い詰めたものを探ること。蒼井さんにはそのやり方がわからなかっただけだ。
夏目は望月を助けるために告発という行動に出ましたが、それが助けたことになったのかは本人にもよく分かっていません。
第二話の語り手は望月可南子。
望月の妻です。
ある時可南子の前に突然自分自身が現れて可南子は戸惑います。
現れた分身は姿形も考え方も可南子そのもので、可南子は分身と話しながら、自分自身を見つめていくことになります。
望月夫婦は当初、娘の名前を片仮名の「ルイ」にしようとしていました。
しかし夫が娘の名前を勝手に漢字の涙(るい)にして出生届を出してしまいます。
涙などという名前を勝手に付けられたことで、可南子は騙されていた、裏切られていたと感じます。
変わらないということがどんなに残酷なことか。近づくことも、遠ざかることもなく、ただずっと変わらないということ。
この言葉を見て、「幻想日記店」の不老不死のことを思い出しました。
たしかに全く変わらないというのは辛いことかも知れません。
それと可南子の出身地について「ふるさとの鳥海山」とあったので、山形県か秋田県の出身のようです。
一瞬宮下奈都さんの出身地である福井県の山かと思いましたが、調べてみたら山形県と秋田県に跨る山とありました。
可南子の夫に対する心境は印象的でした。
ずっと変わらずに穏やかな笑顔を保っていられるというのは、周囲の変化に鈍感だということなんじゃないか。何があっても変わらず、ただ笑っていられる。それは、やさしく見えて、途轍もなく冷たいということだ。
可南子は夫の望月が常に穏やかに笑っていることにこういった印象を持っていました。
ただ、この後に自身の分身と話す中でこの印象が変わっていくことになります。
第三話の語り手は望月正幸の姉、有希子。
姉から見た望月のことが描かれています。
辞めてもよかった。辞めるのは逃げることじゃない。
この言葉は印象的でした。
辞めなかった結果潰れてしまって深刻なダメージを受けるより、辞めて新たな道に行くのもひとつの選択だということです。
この話にも「たった、それだけ」という言葉が出てきます。
そしてどの話にもどこかでこの言葉が出てきて、それで小説のタイトルになっているのだということが分かりました。
「狐の嫁入り」という言葉も印象的でした。
空は晴れているのに雨が降っていることを「狐の嫁入り」と言います。
晴れているのに雨が降っている。弟そのままだった。涙を封印するようになって、顔はにこにこしていても、心の中に雨を降らせていた。
これは何だかよく分かる心境でした。
顔が笑っていたとしても心が笑っているとは限らないということです。
第四話の語り手は望月ルイの担任の先生。
ルイは小学三年生になりました。
担任の名前は須藤先生と言います。
この話ではルイの同級生の意地の悪さが際立っています。
川原乃愛(のあ)という子はどうしてルイに父親がいないかも知っているし、父親の贈賄のことも知っています。
そしてそれをもとに意地悪く攻撃してくる最低ぶりを発揮していました。
また、この話では「そもそも」という言葉が印象に残りました。
そもそも、と言われると、現在だけでなく、自分には手に負えないところまで遡って非難されている気がしてしまう。
これは全くの同感です。
私はそもそもという物言いが好きではないです。
それ故にここ何年も一度たりとも使っていない言葉でもあります。
俺は俺だ。たった、それだけ。その簡単な言葉が言えなかった。
俺は俺、私は私、言葉にするのは簡単でも、実際に周りに流されずに自分自身を保つのは難しいと思います。
大事なのは流され続けていってしまわないように、踏みとどまれるように、適度に俺は俺、私は私の意識を持つことかなと思います。
第五話の語り手は望月ルイ。
ルイは高校生になりました。
ルイは母親の病的な引っ越し癖に呆れ、既にあきらめています。
母親は夫の望月正幸の痕跡が少しでも見つかればすぐにその地に引っ越すようになっていました。
損ばかりしていると感じるということは、自分にはほんとうはそれ以上の価値があると言っているようなものだ。それほど恥知らずではないつもりだった。
これはかなり印象的な言葉でした。
嫌なことや不運なことが続くと卑屈になって「損ばかりしている」と思ってしまいがちなので私も気をつけたいと思います。
この話でルイは黒田トータという同級生に惚れられてしまいます。
しかしルイのほうはにべもない態度です。
もう少し向こうで話して。わざわざ聞こえる辺りで話さないで。めんどうくさい。
詳しくは知らない。知りたくもない。こちらがそう思っていることに限って、周りは耳に入れたがる。
知らせてやろう、知るべきだ、と押しつけるように。
父親のことが耳に入ってくることへのルイの心境です。
「こちらがそう思っていることに限って周りは耳に入れたがる」というのは本当にそう思います。
この話で望月とは満月のこと、すべてが満たされているということとありました
これは知りませんでした。
やはり言葉の意味を知っていくのは面白いなと思います。
黒田トータのトータという漢字も明らかになります。
親に変な名前を付けられると子供が苦労することになります。
私は「キラキラネーム」が思い浮かびました。
第六話の語り手は特養施設で働く大橋。
よく面倒を見てくれる先輩に益田という人がいます。
この益田という人の正体が興味深かったです。
大橋はルイと黒田トータの同級生で、半年前に高校を辞めて働き始めていました。
高校では辛い立場に立たされていたのですが、黒田トータのおかげで心境に変化が訪れます。
どうしてつらいと思い込んでいたのだろう。ほんとうにつらいのは、そんなことじゃない。駄目になっていく自分をみすみす見逃すほうがずっとつらい。
この作品は章ごとに印象的な言葉があるなと思いました。
心理描写も見事だし、流石宮下奈都さんだと思いました。
繊細な心理描写は芥川賞向きだと思うので、いつか受賞してほしい作家さんです
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-----内容-----
贈賄の罪が明るみに出る前に失踪した男と、その妻、姉、娘、浮気相手。
考え抜いたそれぞれの胸の内からこぼれでた“たった、それだけ”のこと。
本屋大賞ノミネート作『誰かが足りない』の感動ふたたび。
人の弱さを見つめ、強さを信じる、著者の新たなる傑作!
-----感想-----
宮下奈都さんの最新作は、少しミステリータッチな作品でした。
物語は第一話から第六話まであり、それぞれの話ごとに語り手が変わります。
第一話は「人を傷つけたことのない人なんていないと思うけど」という、蒼井さんという人の謎の言葉から始まります。
会社の空いた会議室で女性社員達がお昼を食べていた時のことです。
突然何を言い出すのかと、みんな訝しがります。
読んでいくと「私」が蒼井さんに恨まれていることが分かります。
はっきりとこちらを見て「もうのうのうとは生きていられなくなるだろうから」とまで言われていました。
一体何があったのか気になりました。
蒼井さんは海外営業部の望月部長のことを話し出します。
会社に大がかりな贈賄の容疑がかかっていて、その実行者が望月さんということになっています。
蒼井さんの話はどんどん広がっていきます。
「あたしがゆるせないのは」
「密告者よ。望月さんの人生を台無しにした」
そしてその目はまっすぐと「私」のほうを見据えています。
「私」の名字は夏目といい、密告者として蒼井さんから糾弾されています。
夏目と望月は愛人として付き合っていましたが、蒼井さんと望月も愛人として付き合っていました。
ある時、望月の油断から、夏目は望月のタブレット端末のパスワードを知ってしまいます。
そこには極秘の贈賄のデータがありました。
そして夏目は望月の贈賄のことを告発してしまいます。
極秘の贈賄データを見てしまった時、夏目の脳裏には中学二年の時に自殺した加納君のことが思い浮かんでいました。
「どうしたの」
たった、それだけ。それだけのことが、どうして言えなかったんだろう。
加納君に声をかけて助けてあげられなかったことを夏目は後悔していました。
この時の後悔が、望月の贈賄の告発へとつながったようです。
自分で告発しておいて望月に「逃げて」「逃げ切って」と言う心理状態は興味深かったです。
夏目は望月のことを
「汚い仕事をやらされて、断り切れずに引き受けてしまう」
と分析していました。
私の役目は、望月さんに生き延びてもらうこと。そして、望月さんを追い詰めたものを探ること。蒼井さんにはそのやり方がわからなかっただけだ。
夏目は望月を助けるために告発という行動に出ましたが、それが助けたことになったのかは本人にもよく分かっていません。
第二話の語り手は望月可南子。
望月の妻です。
ある時可南子の前に突然自分自身が現れて可南子は戸惑います。
現れた分身は姿形も考え方も可南子そのもので、可南子は分身と話しながら、自分自身を見つめていくことになります。
望月夫婦は当初、娘の名前を片仮名の「ルイ」にしようとしていました。
しかし夫が娘の名前を勝手に漢字の涙(るい)にして出生届を出してしまいます。
涙などという名前を勝手に付けられたことで、可南子は騙されていた、裏切られていたと感じます。
変わらないということがどんなに残酷なことか。近づくことも、遠ざかることもなく、ただずっと変わらないということ。
この言葉を見て、「幻想日記店」の不老不死のことを思い出しました。
たしかに全く変わらないというのは辛いことかも知れません。
それと可南子の出身地について「ふるさとの鳥海山」とあったので、山形県か秋田県の出身のようです。
一瞬宮下奈都さんの出身地である福井県の山かと思いましたが、調べてみたら山形県と秋田県に跨る山とありました。
可南子の夫に対する心境は印象的でした。
ずっと変わらずに穏やかな笑顔を保っていられるというのは、周囲の変化に鈍感だということなんじゃないか。何があっても変わらず、ただ笑っていられる。それは、やさしく見えて、途轍もなく冷たいということだ。
可南子は夫の望月が常に穏やかに笑っていることにこういった印象を持っていました。
ただ、この後に自身の分身と話す中でこの印象が変わっていくことになります。
第三話の語り手は望月正幸の姉、有希子。
姉から見た望月のことが描かれています。
辞めてもよかった。辞めるのは逃げることじゃない。
この言葉は印象的でした。
辞めなかった結果潰れてしまって深刻なダメージを受けるより、辞めて新たな道に行くのもひとつの選択だということです。
この話にも「たった、それだけ」という言葉が出てきます。
そしてどの話にもどこかでこの言葉が出てきて、それで小説のタイトルになっているのだということが分かりました。
「狐の嫁入り」という言葉も印象的でした。
空は晴れているのに雨が降っていることを「狐の嫁入り」と言います。
晴れているのに雨が降っている。弟そのままだった。涙を封印するようになって、顔はにこにこしていても、心の中に雨を降らせていた。
これは何だかよく分かる心境でした。
顔が笑っていたとしても心が笑っているとは限らないということです。
第四話の語り手は望月ルイの担任の先生。
ルイは小学三年生になりました。
担任の名前は須藤先生と言います。
この話ではルイの同級生の意地の悪さが際立っています。
川原乃愛(のあ)という子はどうしてルイに父親がいないかも知っているし、父親の贈賄のことも知っています。
そしてそれをもとに意地悪く攻撃してくる最低ぶりを発揮していました。
また、この話では「そもそも」という言葉が印象に残りました。
そもそも、と言われると、現在だけでなく、自分には手に負えないところまで遡って非難されている気がしてしまう。
これは全くの同感です。
私はそもそもという物言いが好きではないです。
それ故にここ何年も一度たりとも使っていない言葉でもあります。
俺は俺だ。たった、それだけ。その簡単な言葉が言えなかった。
俺は俺、私は私、言葉にするのは簡単でも、実際に周りに流されずに自分自身を保つのは難しいと思います。
大事なのは流され続けていってしまわないように、踏みとどまれるように、適度に俺は俺、私は私の意識を持つことかなと思います。
第五話の語り手は望月ルイ。
ルイは高校生になりました。
ルイは母親の病的な引っ越し癖に呆れ、既にあきらめています。
母親は夫の望月正幸の痕跡が少しでも見つかればすぐにその地に引っ越すようになっていました。
損ばかりしていると感じるということは、自分にはほんとうはそれ以上の価値があると言っているようなものだ。それほど恥知らずではないつもりだった。
これはかなり印象的な言葉でした。
嫌なことや不運なことが続くと卑屈になって「損ばかりしている」と思ってしまいがちなので私も気をつけたいと思います。
この話でルイは黒田トータという同級生に惚れられてしまいます。
しかしルイのほうはにべもない態度です。
もう少し向こうで話して。わざわざ聞こえる辺りで話さないで。めんどうくさい。
詳しくは知らない。知りたくもない。こちらがそう思っていることに限って、周りは耳に入れたがる。
知らせてやろう、知るべきだ、と押しつけるように。
父親のことが耳に入ってくることへのルイの心境です。
「こちらがそう思っていることに限って周りは耳に入れたがる」というのは本当にそう思います。
この話で望月とは満月のこと、すべてが満たされているということとありました
これは知りませんでした。
やはり言葉の意味を知っていくのは面白いなと思います。
黒田トータのトータという漢字も明らかになります。
親に変な名前を付けられると子供が苦労することになります。
私は「キラキラネーム」が思い浮かびました。
第六話の語り手は特養施設で働く大橋。
よく面倒を見てくれる先輩に益田という人がいます。
この益田という人の正体が興味深かったです。
大橋はルイと黒田トータの同級生で、半年前に高校を辞めて働き始めていました。
高校では辛い立場に立たされていたのですが、黒田トータのおかげで心境に変化が訪れます。
どうしてつらいと思い込んでいたのだろう。ほんとうにつらいのは、そんなことじゃない。駄目になっていく自分をみすみす見逃すほうがずっとつらい。
この作品は章ごとに印象的な言葉があるなと思いました。
心理描写も見事だし、流石宮下奈都さんだと思いました。
繊細な心理描写は芥川賞向きだと思うので、いつか受賞してほしい作家さんです
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