二日前の夜、芥川賞受賞のニュースがありました。
今回ご紹介するのは「火花」(著:又吉直樹)です。
-----内容-----
「漫才は……本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
お笑い芸人二人。
奇想の天才である一方で人間味溢れる神谷、彼を師と慕う後輩徳永。
笑いの真髄について議論しながら、それぞれの道を歩んでいる。
神谷は徳永に「俺の伝記を書け」と命令した。
彼らの人生はどう変転していくのか。
人間存在の根本を見つめた真摯な筆致が感動を呼ぶ!
第153回芥川賞受賞作。
-----感想-----
先週の日曜日、「火花」を一気に読みました。
元々は今年の春に書店で平積みされ大々的に売られているのを見かけたのですが、「お笑い芸人の書いた本では大したことないのではないか」と思い読まずにいました。
しかしブログ友達のレビューを読むとかなりハイレベルな文章なのではという気がしてきました。
そして先日書店に行ったら「第153回芥川賞候補作」として売られていて、芥川賞の候補になっていることを知りました。
40万部突破のベストセラーとなったのは『お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹』の名前によるところが大きいと思うのですが、名前だけでは純文学の高い文章表現力が求められる芥川賞の候補にはなれません。
これは面白い作品だという予感が一層強まりました。
ここでついに小説を購入し、どんな内容なのか読んでみることにしました。
物語の語り手は徳永。
冒頭、語り手の徳永と山下による漫才コンビが熱海湾に面した場所で祭りの夜に漫才を披露していますがほとんどの人が聞いていません。
そして二人の声をかき消すように打ち上がる花火。
祭りの夜に花火で、季節は夏
まさに夏の今読むのに適しているなと思いました
ちなみにこの冒頭で小説タイトルにもなっている「火花」という言葉が初めて登場しました。
細かい無数の火花が捻じれながら夜を灯し海に落ちて行くと、一際大きな歓声が上がった。
この夏祭りの夜、徳永は神谷という男と出会います。
神谷もお笑い芸人でこの祭りに呼ばれていたのですが、暴言を連発して主催者を激怒させていました。
ただ神谷には純粋無垢なところがあり、その姿を見て徳永はこの人こそが真実なのだと悟ります。
そして徳永は神谷に声をかけられ、二人で飲みに出掛けます。
お互いに自己紹介し、スパークスというコンビの徳永、あほんだらというコンビの神谷だということが分かりました。
年は徳永が20歳で神谷が24歳です。
芸人の世界では先輩が後輩に奢るのが当然とのことで、神谷は徳永に「俺が奢る」と言って譲りませんでした。
これは後輩の方が売れている場合はお互いに気まずいのではないかなと思います。
徳永が神谷に「弟子にしてくれ」と頼むと神谷は一つだけ条件を出してきました。
それは「俺のことを忘れずに覚えといて欲しい」というもの。
何となく物語が進むにつれて神谷は消えていき、徳永は上り調子になっていくのかなという予感がしました。
この飲みでは神谷が漫才について熱く語っていました。
「漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
これは本当にそうなのかなと思いました。
漫才のネタを考えるには頭を使わないといけなくて、賢さが求められるのではと思っていたからです。
「漫才」というものをどう考えるかによって変わってくるのだと思います。
神谷の場合は事前にネタを考えて準備するよりも、超自然体であることこそ真の漫才師と考えているようです。
熱海の花火大会から一年が経過。
神谷は大阪での活動に限界を感じたらしく、拠点を東京に移すことにしました。
徳永のスパークスは、徐々にではありますが出番が増えていました。
神谷が吉祥寺に住むということで、二人で街を歩いて井の頭公園に行ったりしていました。
神谷が語った「なぜ秋は憂鬱な気配を孕んでいるのか」は興味を惹きました。
神谷の見解は「昔は人間も動物と同様に冬を越えるのは命懸けで多くの生物が冬の間に死んだ。その名残で冬の入口に対する恐怖がある」というものです。
私の場合は夏は蝉が鳴き虫達も鳴き、緑は力強く非常に躍動感があるのですが、それが秋になると蝉がいなくなりやがて虫達もいなくなり、緑は紅葉しやがて葉を落とし日も短くなり、どんどん静かになっていくからだと思います。
賑わいからの静寂は切ない気分になります。
「聞いたことあるから、自分は知ってるからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろな?これは、あくまで否定されるのが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけどな」
ここから始まるP31~P33にかけての神谷の言葉はかなり哲学的でした。
そしてこれは作者の又吉直樹さん自身が考えている哲学だと思います。
ブログ友達がレビューで「又吉ってこんなに哲学的なのか」と驚いていたのがよく分かる、物凄く論理立てた哲学文章になっていました。
「笑われたらあかん、笑わさなあかん。って凄く格好良い言葉やけど、あれ楽屋から洩れたらあかん言葉やったな」
「あの言葉のせいで、笑われるふりが出来にくくなったやろ?あの人は阿呆なふりしてはるけど、ほんまは賢いんや。なんて、本来は、お客さんが知らんでいいことやん」
これはお笑い芸人が書く文学小説だからこそ出てくる言葉だなと思いました。
私は芸人を見る側なのでまさに「あの人は阿呆に見えるけどほんとは賢い」と思うことがあります。
それが芸人の側から見るとこう考えたりもするんだなと思いました。
徳永と神谷はそれぞれコンビなので相方がいます。
徳永の相方は山下、神谷の相方は大林です。
どちらも頻繁には登場しませんが、それぞれ徳永と神谷の相方が務まるのはこの人だと思えるものがありました。
神谷は真樹さんという人の家に居候しているのですが、そこに徳永が行った時の「ベージュのコーデュロイパンツのセンス」についての話はちょっとぞっとしました。
こういうことはたしかに起こり得るかも知れないなと思います。
意識せずに致命傷を与えてしまっていました。
やがて徳永の所属する事務所に大手の事務所から数組の後輩が移籍してきます。
彼らは優秀ですぐにライブを成功させてみせ、まだライブを企画したことすらない徳永は焦ります。
そして物語は佳境へ。
徳永は段々と活躍の場が増えていき、神谷はどんどん落ちぶれていきます。
「他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん」
ネットで誹謗中傷する人に対する神谷の意見。
これは的を得ていると思います。
ただし、自分が悪いことをしているから批判されているのに、それを「誹謗中傷」と言って被害者のポジションに立つことを確信犯的にする人もいるため、そこを見極める目が重要になります。
徳永は神谷のお笑いへの純粋無垢さに怖れを抱いてもいますが、信頼してもいます。
神谷が相手なら芸人なのに喋るのが苦手な徳永でも普段よりよく喋れると胸中で言っていました。
徳永は神谷に恐れを抱いたり称賛したりしながらも、神谷の語る哲学の全てに感銘を受けているわけではないです。
自分の考えと照らし合わせ、決定的に相容れないものについては疑問を投げ掛けたり胸中で批判したりもしています。
つまり徳永には徳永の考えがあり、自分を持っているということが分かりました。
この頃、鹿谷というピン芸人が大ブレイクし、時代の寵児となります。
それを見て、神谷の相方の大林が言ったのが以下の言葉です。
「俺達がやってきた百本近い漫才を鹿谷は生まれた瞬間に越えてたんかもな」
鹿谷の天性のお笑いの才能に対するこの言葉は自分達との才能の差を悟ったものでした。
その場にいるだけで回りを笑わせられる驚異の才能です。
そしてこの鹿谷の天性の才能こそ、かつて神谷が言っていた「超自然体であることこそ真の漫才師」を体現しているような気がしました。
スパークスも鹿谷には及ばないまでも、テレビの番組に出たのがきっかけになって少しブレイクしていました。
ただその昇り調子にも終わりの時は来ます。
「火花(ひばな)」。
このタイトルに込められた意味は「一瞬の煌めき」のことだと思います。
夜の中で一瞬だけ火花が弾けるように、芸人として輝く一瞬。
漫才に懸けた徳永の青春の物語、売れる漫才師としては純粋無垢すぎた神谷の破滅の物語、この両方の物語になっていたと思います。
そこにスパイスとして加わる、神谷が漫才について語る時の凄い哲学的文章。
第153回芥川賞受賞に相応しい純文学小説だと思います。
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