読書日和

お気に入りの小説やマンガをご紹介。
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「春、戻る」瀬尾まいこ

2018-02-26 23:53:58 | 小説


今回ご紹介するのは「春、戻る」(著:瀬尾まいこ)です。

-----内容-----
正体不明、明らかに年下。
なのに「お兄ちゃん」!?
結婚を控えた私の前に現れた謎の青年。
その正体と目的は?
すべての謎が解けた時、本当の幸せが待っている。
人生で一番大切なことを教えてくれる、ウェディング・ストーリー。

-----感想-----
3月のある日、36歳の望月さくらは料理教室の帰りに受付のお姉さんに「お兄様がお待ちですよ」と声をかけられます。
しかしさくらに兄はいないため戸惑います。
教室を出ると「うわ、さくら。久しぶりじゃん」と言って20歳くらいの男が声をかけてきます。
全く誰だか知らないので「どういうことなのか分からない」と不審がるさくらに男は「本当に懐かしい」「また会えたなんて嬉しいよ」と一人で喜びます。

話してみると兄と名乗っている人は24歳でさくらより12歳も年下です。
自身のことを全く覚えていなくてがっかりする男の顔を見て、さくらは記憶の中に引っ掛かるものを感じます。
このかすかに寂しさを帯びた顔。ものすごく遠いところで、ひっかかるものがある気もする。どこかで会った人なのだろうか。しかし、記憶をひもといて過去にさかのぼろうとすると、あるところでどしりと重い扉が閉まってしまう。この開かない扉の向こうに彼がいるのだろうか。
さくらがその扉に手を掛けそうになった時、軽く頭を振って記憶を振り払おうとしていたのが印象的でした。
過去にどんなことがあったのか気になりました。
男に名前を聞くと教えてはくれず、代わりにさくらのことを語っていました。

さくらは6月に山田哲生という人と結婚を控えていて、男はさくらが結婚のことを何も言ってくれなかったことに文句を言います。
さらに結婚式に来ると言いさくらを驚かせます。
「あなたのこと全く覚えがなくて、すごく困ってるんです」と言うと男は「大丈夫。そのうち、あ、お兄ちゃん!って呼ぶ日がやってくるから」と自信満々に言います。
さくらが困惑しても構わず話し続けていて、話の通じない人だなと思いました。

実家に行って母親に「生き別れのお兄ちゃんとか血がつながらないお兄ちゃんとかが私にいたりしない?」と聞くと怪訝な顔をされます。
突然現れた男のことを話すと「年下のお兄さんなんているわけないでしょう?何かの勧誘で声かけられたんじゃないの?」と言っていて、これが自然な反応だと思いました。
いきなり目の前に12歳も年下の兄を名乗る男が現れてもなかなか信じる気にはならないです。

さくらは12年間小さな卸売会社の事務員として働いていました。
仕事を辞めた今は和菓子屋をしている山田の店を毎週日曜日と木曜日に手伝っています。
日曜日、山田の家に行くためにアパートを出ると男が待っていて驚きます。
住所まで知っていることにさくらが驚くと男は「そんなの当然だろ。世の中のたいていの兄妹はお互いの住まいくらい知ってるよ」と言っていました。
男は結婚相手のチェックをすると言いますがさくらは迷惑がります。

山田は38歳で、お店は春日庵(かすがあん)という名前で両親と家族経営しています。
男はお客のふりをして山田の母と仲良く話しながら、作業場で大福を作る山田の様子を見ていました。

さくらの妹のすみれは33歳で、結婚してさやかという5歳の子供がいます。
4月の初め、さやかの幼稚園の入園祝いで実家に集まり、妹と話していて子供の話題になった時、さくらが少しだけ過去のことを胸中で語ります。
十三年前、一年だけ小学校の教師として働いたのですがまるで上手く行かなかったとありました。
閉ざされている記憶の扉はこのことだと思いました。

さくらが結婚式はしないと言うと男は驚きます。
結婚式は挙げず、婚姻届を出してお互いの親戚どうしの顔合わせの食事会をして終わりと言っていました。
「お互いにもういい歳だし、あんまり大げさなのもどうかと思って」と言っていて、私はお互いに納得しているならそれでも良いのではと思いました。

さくらは母親の通う太極拳教室の先生に紹介されて山田と知り合いました。
「山田さんといても、どきどきもしなければわくわくもしなかった。でも、嫌ではなかった。取り立てて惹かれるところがない代わりに、苦手なところもない人だった。山田さんも同じようなことを私に感じているはずだ。」とあり、これはとても冷めているなと思いました。
惰性で結婚しようとしているのが分かり、果たしてこのまま結婚して大丈夫なのか心配になりました。
男もこの話を聞いて「さくら、幸せになれるのかな?」と言っていました。

山田と親戚を集めた食事会の場所を話し合っている時、さくらが男が押し掛けてきて人数が一人増えるかも知れないことを言うと、男が山田の店に何度も来ていたことが明らかになります。
店に来るたびにさくらの働きぶりや愛想を絶賛し、大事にすべきだと言っていたと聞きさくらは恥ずかしくなります。

ある日男がさくらのアパートに現れた時、お腹を減らしている男のために夕飯を食べさせてあげます。
それまでは素っ気なく接していましたが初めて気を許していました。

男はさくらに料理を教えてあげると言い、後日食材を持って現れます。
鰯の煮付けを作ろうとして、「お茶で鰯を煮ると臭みも取れて骨が柔らかくなる」と言っていてこれは知りませんでした。
男はかなり料理の腕が高くて驚きました。
また男はさくらのことは何でも知っていてたくさん話しますが自身のことはあまり語らないです。

5月の連休の真ん中、男の身勝手な提案でさくらと山田、そして男の三人で遊園地に出掛けます。
ここからさくらが男のことを語る時に「おにいさん」と言うようになり、これまでよりも男のことを兄のような存在と考えるようになったのが分かりました。
今まで遊園地に行ったことがなかった兄は張り切ってガイドブックを見ながら二人を案内していました。
山田は兄のことを「お兄さんはサービス精神旺盛ですね」と言い、よく分からない人物の兄を自然に「さくらのお兄さんのような人」と認識していました。

遊園地から帰った後再び兄の料理教室が開催されます。
一度も遊園地に行ったことがないように、ところどころ何も知らないことについて兄は「一時鎖国してたからな」と言います。
部屋にこもって勉強ばかりしていたとも言っていて、どんな日々だったのか気になりました。
兄はさくらが妹になった時わくわくしたと言います。
さくらは兄の言葉を聞き自身が途中から兄の妹になったことに思い至り何かを思い出しそうになりますが、また頭の奥の扉を閉ざしてしまいます。

ある日さくらは惰性で結婚しようとしていることに漠然とした不安を覚えます。
こんな緩い決意で舟を出して大丈夫なのだろうか。これは漕ぎ出してもいい舟なのだろうか。海に出てから自分では漕げないと気づくことにはならないだろうか。もう途中で櫂(かい)を放すようなことを、するわけにはいかない。
「もう途中で櫂を放すようなことを、するわけにはいかない。」が印象的で、これは一年だけ働いた小学校の教師の仕事のことだと思いました。
兄が現れたことで閉ざしていた記憶が呼び起こされようとしていました。

兄がついに自身のことを語ります。
兄の父親は凄く立派な人で地域でも有名な人格者として知られていて、周りも兄のことを「あの人の息子だから同じように素晴らしいに違いない」と見ていたとのことです。
父親の理想の子供でいたいと思い苦悩したとありました。
小学校からほとんど不登校で高校は通信制とあり、今の陽気な雰囲気とは全く違っていて驚きました。
大学進学で家を離れてから今の雰囲気になったとありました。
そして兄は自身の内側を話したのだからさくらも応えてほしいと言います。
しかしさくらは拒んでしまいます。
ただこれはさくらの気持ちがよく分かりました。
扉を閉めている記憶をわざわざ呼び起こしたくはないです。

そしてさくらは気持ちを落ち着けようとします。
昔よくやったように、私は目を閉じて深く息を吸った。そうやって気持ちを落ち着かせていくうちに、重ねた月日が開きかけた扉の上にのせられていく。大丈夫。あの日々は扉の向こうにしかない。
心が苦しい時は知らないうちに呼吸が浅くなりやすいので、深く息を吸う深呼吸は心を落ち着けるのに有効です。
私はこれを見て、さくらにとって扉の向こうにある記憶は自身の人格を破壊してしまうような恐ろしい記憶のような気がしました。
そんなものを無理に思い出さなくても良いと思いましたが、物語の後半で記憶が呼び起こされるのは明らかでした。
ただ小説の帯には「人生で一番大切なことを教えてくれる、ウェディング・ストーリー」とあり、辛い展開にはならなそうなのが救いでした。

しかしさくらが拒んだことで兄と気まずくなり、兄はしばらく来なくなります。
春日庵の手伝いが終わった後さくらは山田に兄と気まずくなっていることを話します。
すると山田は自身の家が昔養子を取ろうとしたことを話してくれます。
弟は美容師になると言って美容学校に行き、山田も最初は違う道に行こうとしていたため、春日庵を継ぐ人間がいなくて養子を取ろうとしていました。
私は春日庵の山田さんしか知らない。けれど、山田さんだってすんなりと和菓子屋になったわけじゃないのだ。誰だって、今日までをただそのまま歩いてきたわけじゃない。いろんなものに折り合いをつけて、何かを手放したり何かに苦悩したりしながら、生きていく方法を見出だしてきたのだ。
山田が家のことを話したことでさくらは再び扉の向こうの記憶のことが頭をよぎります。
また山田は兄のことを「さくらさんを大事にしている人は、僕にとっても大事な人」と言っていて、山田がさくらを好いてくれているのが分かるとともに、よく分からない存在の兄をそんな風に言ってくれるところに包容力の大きさを感じました。

6月になります。
兄が姿を見せなくなって三週間経ち、山田に相談すると兄を探しに行こうと言います。
山田はさくらと共に知らない場所に向かってくれ、名前も知らない兄を一緒に探してくれていて、さくらは心が動きます。

ついに兄が現れます。
久しぶりに現れた兄にさくらが料理を作ってあげることにします。
水饅頭を作ろうとしますが、作り方をよく知らず「饅頭だから葛粉を水で溶かして練って、餡を包んで丸めたら良いはず」と言っていました。
ところが水で溶かした葛粉はいくら混ぜても全く固まらず、餡の上にどろりとした葛粉をかけたものが出来上がり、兄が「これはあんかけ小豆丼だ」と言っていたのが面白かったです。
なぜ葛粉が固まらなかったのかネットで調べてみたら、饅頭の型に溶かした葛粉と餡を入れ、しばらく冷凍庫に入れないと固まらないようです。

兄は律義なところもあり、さくらが不味すぎて食べるのを諦めたあんかけ小豆丼を一人で全部食べてくれます。
食べている時に兄の父親もさくらのことを知りたがっていることが明らかになります。
兄は父親に頼まれて、大学進学でこちらに来てから六年間もさくらのことを見ていました。
小学校の教師時代のことで父親はさくらを心配しているのだと思いました。
またさくらは岡山の小学校で働いていたことが明らかになります。
外から来た人。岡山の小学校で働いていた私は、そこでよくそう言われた。田畑と山と川に囲まれ、親切で面倒見のいい人たちばかりの場所だった。外から来た私を、みんな温かく迎えてくれた。それなのに、私はたった一年でその地を逃げるように去ってしまった。ここへ戻ると同時に固くしまいこんだそこでの日々の中に、きっとおにいさんはいるのだ。私のことを気にかけてくれるお父さんと一緒に。答えはもう目の前に近づいている。

梅雨入りし、山田の家への引っ越しまで一週間になります。
すみれと兄がいらないものを片付ける手伝いに来て、すみれは独身最後の一週間は結婚を後戻りしたくなったと言います。
これはブログ友達の弟さんが結婚直前に「やっぱり無理」と言って混乱したのを聞いたことがあるので、そういうこともあるのだろうと思いました。
これからの結婚生活について兄が「ま、予想どおりに行かなくたって、さくらが幸せに思えるんならそれでいいじゃん」と言うと、さくらはずっと前に同じ言葉を聞いたことがあるのを思い出します。
ずっと前、私は「思い描いたとおりに生きなくたって、自分が幸せだと感じられることが一番だ」と教えられた。そして、その言葉に救われた。
「思い描いたとおりに生きなくたって」は、教師の道に挫折してしまったことだと思いました。

兄との料理が最終回になり、兄は特製のきんぴらを作ります。
ごぼうの他に人参、こんにゃく、蓮根も入った具沢山のきんぴらで、さくらはそのきんぴらを食べたことがあるのを思い出します。
そしてついに「小森いぶき」という兄の名前を思い出します。

私は子どものころから、小学校の教師になりたかった。何より子どもが好きだったし、学校も好きだった。みんなで何かを吸収して成長していく場所。そんなところで働けるのはすばらしいことだ。そう思っていた。
熱い思いを持った新任教師のさくらは二年生の担任をすることになりますが、呼び起こされた記憶は辛いものでした。

いぶきには教師を辞める前に一度だけ会っていました。
なぜいぶきがさくらの兄なのかも分かりました。
思い出してみるとその記憶は無駄にさくらを苦しめたりはしなかったとあったのがとても良かったです。
何年か振りに光を当てられた日々は、とても静かによみがえった。取り出せば進めなくなる。そう思っていた時間は、ただゆっくりと広がるだけで、無駄に私を苦しめたりはしなかった。
さくらは記憶を自身が歩んだ道として受け止めてあげることができました。

いぶきの身勝手に見えて一生懸命な姿は山田の考えも変えていました。
二人納得して行かないことにしていた新婚旅行に行こうと言います。
惰性で結婚しようとしていたのが、結婚にも明るい光が当たるようになったのが分かりました


思い出したくもない記憶を思い出すのはとても辛いことです。
私は記憶を自身が歩んだ道として受け止めてあげることはできますが、「無駄に私を苦しめたりはしなかった」とまではならず、思い出すと苦しくなるので極力思い出さないようにしています。
さくらは最後に扉を開けましたが、開けたくない場合は無理に開けずにおくのも記憶との付き合い方だと思います。


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感想と書評

2018-02-24 13:53:16 | ウェブ日記
読んだ小説などの本をブログで紹介する時、代表的なものに「感想」という書き方と「書評」という書き方があります。
分かりやすい例では、ある文章に対し「この表現が面白い。読んでいてワクワクする」とするのが感想、「この面白さはこの作家の他の作品にもよく見られ、⚪⚪という作家の表現にも通じるものがあり~」などとするのが書評です。
読んだ時の率直な思いを重視するのが感想、その作家の他の作品や他の作家との比較をしたりしながら本を評価するような形を取るのが書評という違いがあります。

ブログやツイッターなどを見ているとたまに「感想」よりも「書評」のほうが上だと主張する人を見て驚くことがあります。
私は感想と書評を「同格」に扱っています。
どちらの方が優れているというものではなく、書き手による書き方の違いだと思います。

ネットには感想寄りな記事もあれば書評寄りな記事もあり、どちらも一つの記事として同格の存在で、ネットでその本のことを調べたい人の好みによってどちらかを選べば良いことです。
これを書き手が「感想」よりも「書評」のほうが上だ、などと言うのは驕り高ぶりが甚だしいと思います。
私はこのような発言をするようになると年齢に関係なく「老害」の始まりだと思います。
他の人が書いている記事を見下さなければ自身が書いている記事をネットに公開できないようでは老害ここに極まれりな状態です。

私は読んだ小説の紹介記事を書く時は感想と書評両方の要素が入ることがほとんどです。
読んでいる時にある部分を面白いと感じれば「面白い」と書き、その表現がその作家の他の作品にもよく見られたり、他の作家の表現にも通じるものがあると感じればそのように書きます。
これが小説を読んだ時にその小説に対して持つ印象の自然な姿だと思います。
商業用に「お金を払うからどちらかの要素だけで書いてくれ」と指定されたのでもない限り、無理にどちらかの要素を排除する必要はないです。
なので普段記事を書く時の書き出しに置いている「-----感想-----」を「-----書評-----」にしても良いのかも知れないですが、私は語感の好みで「書評」より「感想」のほうが格式張っていなくて良いかなと感じているため、一貫して「-----感想-----」にしています。

感想と書評のどちらを名乗るか迷う時は言葉から感じる印象が自身に合う方を選ぶと良いかも知れないです
そして感想を名乗る記事に書評の要素が一文字もあってはいけないという決まりはなく、書評を名乗る記事に感想の要素が一文字もあってはいけないという決まりもないです。
書きたいように書き、ブログを楽しむのが一番だと思います。

加筆と減筆

2018-02-22 20:40:27 | ウェブ日記
ブログを書いていて、書いた記事の加筆修正をすることは比較的ありますが、減筆修正をすることはあまりないです。
加筆修正は書きたいことを付け足すのでそれほど難しくないですが減筆修正は意外と難しいです。
一度は書き終えた中からどの文章をなくすかで迷います。

私は小説の感想記事を書くことがよくあり、最近書いた感想記事が三つ続けて減筆修正になりました。
三つとも百田尚樹さんの作品で、壮大な物語なため詳しく書こうとしたら感想記事も大規模になりました。
そして三つとも書き終えた時に長いと感じたため減筆を試みました。
それぞれ最初に書き終わった時の文字数から、次のように減筆修正しました。

「海賊とよばれた男(上)」約16000→約14000
「海賊とよばれた男(下)」約19000→約16000
「永遠の0(ゼロ)」約20000→約18000

この文字数はgooブログの編集画面に表示される文字数で、文字の色やサイズの変更時の設定なども文字数としてカウントされるため、実際の文字数はもう少し少なくなります。
私は感想記事は3000文字台~5000文字台くらいになることが多く、長くても7000文字以内に収まることがほとんどのため、最近書いた三つの記事はとんでもない長さです。
減筆した文字数の合計だけで約7000文字になり、普段書く感想記事が一つは書けてしまう量です。
書くのにも普段より時間がかかったので、これだけの文字数を無くすのは寂しくもあります。

ただ減筆修正にも良いところがあり、読み返しながらどの文章を無くすか目をこらしていると、必要な文章の中にも無くせる表現があることに気づき、文字数を減らすことができます。
そして一つ一つの文章の流れを滑らかにすることができます。
凄く長い記事になる時はできるだけ読みやすく滑らかな文章にしたいと思います。

「永遠の0」百田尚樹

2018-02-20 21:43:58 | 小説


今回ご紹介するのは「永遠の0(ゼロ)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。
そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。
終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。
天才だが臆病者。
想像と違う人物像に戸惑いつつも、一つの謎が浮かんでくる—。
記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。
涙を流さずにはいられない、男の絆、家族の絆。

-----感想-----
26歳の佐伯健太郎は司法試験を四年連続で不合格になり、現在は自信もやる気も失せてしまい毎日ぶらぶらしています。
母の清子は会計事務所を経営していて、父は10年前に病気で亡くなっています。
姉の慶子は30歳でフリーのライターをしていて、夏のある日健太郎に電話をしてきて、祖父のことを調べたいので手伝ってくれないかと言います。
祖母は最初の夫の宮部久蔵(きゅうぞう)を戦争で失っていて、二人の間に生れたのが清子です。
そして戦後に再婚しその相手が今の祖父、大石賢一郎で、健太郎・慶子と血がつながっているのは宮部久蔵です。

宮部は26歳で神風特攻隊で戦死した海軍航空兵でした。
6年前に亡くなった祖母の松乃も宮部のことは賢一郎にほとんど話しませんでした。
健太郎は暇な身なので慶子の頼みを引き受けることにします。

さっそく翌日、慶子と渋谷で会って昼御飯を食べながら話をします。
そこで慶子が「神風特攻隊ってテロリストらしいわよ」と言います。
「これは私の仕事の関係の新聞社の人が言ってた言葉だけど、神風特攻隊の人たちは今で言えば立派なテロリストだって。彼らのしたことはニューヨークの貿易センタービルに突っ込んだ人たちと同じということよ」
これはその新聞社の人が間違っていて、酷い決めつけをしています。
貿易センタービルにテロをしたイスラム原理主義の人達は平時に何の罪もない一般の人達を襲いましたが、神風特攻隊の人達は太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本を壊滅させようとするアメリカの艦隊と戦ったという大きな違いがあります。
主張内容から見てこの新聞社は朝日新聞がモデルだと思います。

健太郎が厚生労働省に問い合わせると、宮部の軍歴が分かります。
昭和9年に海軍に入隊し、最初は兵器員となり、次に飛行操縦練習生となってパイロットになり、昭和12年に支那事変に参加、昭和16年に空母に乗り真珠湾攻撃に参加、その後は南方の島々を転戦し、20年に内地に戻り、終戦の数日前に神風特別攻撃隊員として戦死とありました。
健太郎は厚生労働省から旧海軍の集まりである「水交会」の存在を教えてもらい、そこに問い合わせていくつか戦友会を教えてもらいます。
そして戦友会について「60年前のことをどれだけ覚えていられるだろう」と胸中で疑問を語っていました。
私は子供の頃、徴兵で兵隊になり太平洋戦争(大東亜戦争)を経験した祖父が戦争のことを語るのを何度も聞いていたので、60年前であっても鮮明に覚えているのではと思いました。


健太郎と慶子は埼玉県にある元海軍少尉、長谷川梅男の家を訪ねます。
長谷川は宮部のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と言い二人を戸惑わせます。
「わしはいつでも死ねる覚悟が出来ていた。どんな戦場にあっても、命が惜しいと思ったことはない。しかし宮部久蔵という男はそうではなかった。奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」
「わしが宮部を臆病者と言うのは、奴が飛行機乗りだったからだ。奴が赤紙で召集された兵隊なら、命が惜しいと言ったところで何も言わん。だが奴は志願兵だった。自ら軍人になりたいと望んでなった航空兵だ。それゆえわしは奴が許せん。」

私は最初、長谷川は宮部に恨みでもあるのかなというくらい酷すぎる言葉だと思いましたが、「自ら軍人になった」というのを見て一応主張の筋は通っていると思いました。

長谷川は昭和11年の春に海軍に入り、三年目に航空兵の操縦練習生になります。
昭和17年の秋、ニューギニアのニューブリテン島のラバウルに配属になり、そこに宮部がいました。
ラバウルからは「ガダルカナル島の戦い」に連日出撃していて、激しい戦場で出撃のたびに多くの未帰還機が出ました。
しかしそんな戦場でも宮部はいつも無傷で帰ってきました。
ある日長谷川はガダルカナル上空の戦場で、戦場から遥か離れた場所にいる宮部の零戦(零式艦上戦闘機)を見て「臆病者め」と憤ります。
また宮部は「生きて帰りたい」と言っていたとのことです。
長谷川はもしその言葉を直接聞いたら宮部のほうが上官ですがその場で殴っていただろうと言います。
話を聞いた帰り道、二人は宮部が臆病者だったと知りがっかりします。


翌週、健太郎一人で四国の松山にある元海軍中尉、伊藤寛次(かんじ)の家を訪ねます。
伊藤は宮部のことを「優秀なパイロットだった」と言います。
長谷川とは違った評価になっていて、これは宮部の簡単には撃墜されない慎重な飛び方が勇猛で命知らずな長谷川が見ると臆病に見え、長谷川ほど命知らずではない伊藤が見ると優秀に見えるのではと思います。

伊藤と宮部は真珠湾からミッドウェー海戦まで半年以上同じ戦場で戦い続け、二人とも空母「赤城」の搭乗員で階級は一飛曹でした。
伊藤は零戦は素晴らしい飛行機だったと言います。
スピードがある上に小回りも利き、格闘性能がずば抜けていたとのことです。
また当時の単座戦闘機の航続距離が数百キロだったのに対し零戦の航続距離は桁外れで三千キロを楽々飛んだとありました。
戦闘機の空母への着艦はとても難しく失敗して海に落ちる人もいるのですが、宮部の着艦は物凄く上手でした。
伊藤が「見事ですね」と声を掛けると宮部はとても控え目に答え、それを見て宮部の人柄を好きになったとありました。
宮部は空戦もかなりの腕前で、赤城に来る前にいた中国大陸では敵機を十機以上も撃墜していました。
健太郎や慶子が話を聞きに行った人達の回想によって段々宮部のことが分かっていきます。

真珠湾攻撃で宮部は第一次攻撃隊の制空隊、伊藤は艦隊の直衛(敵の攻撃機から母艦を守るために艦隊上空で護衛)になります。
真珠湾攻撃は戦果を挙げ、母艦の護衛で参加できなかった伊藤が「俺も死ぬ時は、十分な戦果を挙げて、満足して死にたいな」と言うと、宮部は「私は死にたくありません」と言います。
「私には妻がいます。妻のために死にたくないのです。自分にとって、命は何よりも大事です」
当時伊藤は軍人として宮部の言葉を肯定することはできなかったとありました。

司令長官の南雲忠一(ちゅういち)中将率いる機動部隊(空母部隊)は太平洋を席巻します。
制海権についての次の言葉は印象的でした。
今や制海権を取ることが出来るのは、最強の戦艦を持っている国ではなく、最強の空母を持っている国でした。これはそれまでの軍事常識を打ち破るものでした。
これを世界に証明したのが、開戦劈頭(へきとう)の真珠湾攻撃です。航空機の攻撃だけで戦艦を一挙に五隻も沈めてしまったのです。この瞬間、何百年もの間、制海権を巡る戦いの主役であった戦艦は、その座を空母に譲ったのです。

海の主役が戦艦ではなく飛行機だという象徴的な戦いがもう一つありました。
それは真珠湾の二日後、マレー半島東沖で英国の誇る東洋艦隊の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を航空機攻撃で沈めた戦いです。チャーチルが後に「第二次大戦でもっともショッキングな事件だった」と言った海戦です。

イギリスの戦艦を航空機攻撃で沈めたのは以前ネットで読んだことがあります。
私は戦艦の時代に引導を渡した真珠湾とマレー半島沖の戦いが両方とも日本の戦いだというのがとても印象的です。
これは当時の世界を白人至上主義が支配し、白人以外はゴミ同然の存在で植民地にして奴隷にして問題ないと考えられていた中で、アジアで唯一白人の支配に対抗できる力のあった日本の姿を象徴しているような気がします。
ただし対抗できる力があったため邪魔な存在として様々な圧力を掛けられ、最後は戦争になり潰されてしまいました。

昭和17年5月、ミッドウェー海戦が起こります。
世界海戦史上初の空母同士の戦いで、そこから今日まで空母対空母の戦いは日米以外にはないとのことです。
ミッドウェー海戦で日本海軍は「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の空母四隻を一挙に沈められてしまいます。
あの日のことは、六十年以上たった今もよく覚えています。まさに海軍にとって、いや日本にとって最悪の日でした。もちろん、それ以上にひどい敗北はその後何度も繰り返しました。しかしすべてはあのミッドウェーから始まったのです。
ミッドウェー海戦は指揮官の司令のまずさで負けた戦いで、南雲長官の司令が酷過ぎでした。

敵の空母艦隊が目の前にいるのに南雲長官は飛行甲板上の攻撃機の爆弾を「陸上用爆弾」から「魚雷」への換装を命じます。
これは陸上用爆弾では敵空母に損傷を与えても沈めることは出来ないから命じました。
ところがその少し前、まだ敵の空母艦隊が見つからなかった時に南雲長官は「魚雷」から「陸上用爆弾」への換装を命じています。
その換装が終わってすぐに敵の空母艦隊を見つけたため慌てて「魚雷」に戻そうとしたのですが、この時宮部が珍しく苛立ちます。
「一番の目的が空戦なら雷装のまま敵空母発見の報を待つべき」「こうしている間に敵が来るかも知れない」と言っていました。

宮部の予感は的中し、雷装が終わる前に敵の空母艦隊にもこちらの存在を発見され、先手を取られて襲撃され空母四隻を沈められる大打撃を受けます。
ポンコツな司令長官がポンコツな司令を出すと、軍は上官の命令が絶対なため従わなくてはならず、それは負けるだろうと思います。
読んでいて司令を出す人の重要さを凄く感じました。


伊藤から話を聞いた後、慶子が仕事先の新聞社の記者と一緒に食事をしないかと言ってきます。
冒頭で慶子が言っていた新聞記者のことで、高山隆司という38歳の男でその人が二人の調査に関心を持っているとのことでした。

高山は来年は戦後60年の節目の年で、新聞社として戦後を振り返る特集をいくつも企画していて、特にカミカゼアタックは是非総括しなければならないテーマだと言います。
そして神風特攻隊とイラスム原理主義の自爆テロは同じだと言います。
「戦前の日本は、狂信的な国家でした。国民の多くが軍部に洗脳され、天皇陛下のために死ぬことを何の苦しみとも思わず、むしろ喜びとさえ感じてきました」とあり、イスラム原理主義のテロリストがイスラムの教えのために喜んで自爆するのと同じだという主張です。
私はこの主張は違うと思います。
特攻を喜びと感じるようなことはなく、死ぬのは恐ろしいですが、アメリカが一般の国民へ空爆するのを前に、自身の家族などを危機に晒すアメリカ軍を少しでも食い止められるならと、どうにか気持ちを整えて特攻していったのだと思います。
高山は宮部の海軍時代を訪ねる健太郎のことを記事にしたいと言いますが健太郎は少し考えさせてくれと言います。

高山に会った週末、二人は都内の大学病院に入院している元海軍飛行兵曹長、井崎源次郎を訪ねます。
井崎は海軍の航空兵になり昭和17年の春にラバウルに行きます。
ラバウルが南太平洋の最前線の基地でした。

井崎の次の言葉は印象的でした。
空の上では、階級は何の意味も持ちません。経験と能力、それだけがものを言う世界です。
しかし海軍では海軍兵学校出身(エリート)の士官(少尉以上の階級のこと)ばかりが重んじられ、中隊以上の編隊を組む分隊長には必ず海軍兵学校出身の士官がつきます。
実際には士官より経験も豊富な下士官(兵曹)の搭乗員の方が腕も判断力もあるのに、いくら腕があっても下士官は絶対に中隊以上の分隊長にはなれないです。
分隊長のまずい判断で危機になったことは枚挙にいとまがないとあり、海軍兵学校出身の士官の重用は海軍のまずい部分だと思います。

太平洋戦争初期の零戦の力は圧倒的で、敵戦闘機には「ゼロとは空戦をしてはならない」という命令が出ていました。
連合国軍が零戦に苦戦したことについて井崎は次のように語ります。
多分に日本という国を侮っていたということもあるでしょう。航空機というものはその国の工業技術の粋を集めたものです。三流国のイエローモンキーたちに優秀な戦闘機が作れるわけがないと思っていたのでしょう。
「三流国のイエローモンキーたち」という言葉に当時の「白人至上主義」が現れていて、白人達はアジア人を黄色い猿呼ばわりして馬鹿にしていました。
この白人至上主義のもとにインド、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、シンガポール、フィリピン、マレーシアなどのアジア諸国を植民地支配し、非道の限りを尽くしていました。
ところが黄色い猿と馬鹿にしていたはずの日本が当時のアメリカやイギリスの最新鋭戦闘機を上回る戦闘機を作ったことで苦戦することになりました。
真珠湾とマレー半島沖の戦いで戦艦の時代に引導を渡したのが日本であるのとともに、白人達にアジアの意地を見せたのもまた日本だったのだと思います。

昭和17年7月、宮部がラバウルにやってきます。
同じ小隊でニューギニア南部のポートモレスビーに出撃して敵戦闘機との戦いになった時、井崎は宮部の圧倒的な強さに驚きます。
ただし宮部の慎重過ぎる飛び方は臆病者だと隊で話題になっていました。

宮部が井崎に生き延びることの重要さを言う場面があります。
「たとえ敵機を討ち漏らしても、生き残ることができれば、また敵機を撃墜する機会はある。しかし一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」
「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」

この言葉を見て、勇猛さだけが重要なのではないと思いました。
井崎がこの後の空戦でも生き延びることができたのはこの時の宮部の言葉のおかげとありました。

ある日宮部が井崎に家族の写真を見せてくれます。
そこには妻の松乃とともに、生れたばかりでまだ会っていない娘の清子の姿もあり、宮部は「娘に会うためには、何としても死ねない」と強く決意します。

ガダルカナル島の戦いが始まります。
ガナルカナルこそ搭乗員にとって本当の地獄の幕開けだったのです。とあり、いよいよ日本軍が苦しくなっていきます。
当時日本軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を断つためにガダルカナル島に飛行場を作り、不沈空母として南太平洋に睨みを利かそうとしていました。
ところが未開のジャングルを切り開きようやく滑走路を作った途端、アメリカ軍の猛攻撃を受け完成したばかりの飛行場を奪われてしまいます。
アメリカ軍は滑走路が出来るまでずっと待っていて、ずる賢いですが労せず飛行場を手に入れられるこのやり方は戦いで勝つには有効なのだと思います。

昭和17年8月7日、ガダルカナル島への出撃命令が出ます。
宮部は井崎に「今度の戦いはこれまでとは全く違ったものになる。零戦が戦える距離ではない」と言います。
ガダルカナル島までは片道560浬(かいり)あり、行くのに三時間以上かかり、帰りの燃料を考えるとガダルカナル上空で戦闘できる時間は十分少々しかないです。
最初の出撃メンバーには宮部も井崎も選ばれず、出撃していった味方の帰還を待つのですが、未帰還機が多数出る大惨事になります。
次の日は二人とも出撃しますがガダルカナル島には空母三隻をはじめ無数の艦艇と戦闘機が待ち構えていて、ラバウルからの出撃だけで勝つのは絶望的な状況でした。
ガダルカナル島の戦いはわずか二日で150人も搭乗員を失ってしまい、特に一流の腕を持った人達が多数失われたのが深刻でした。

ラバウル航空隊がガダルカナル島でアメリカ軍と戦った翌月、大本営は飛行場奪還のために、ろくに敵情偵察もせずに銃剣以外に大した装備も持たない9百人余りの陸軍兵士を送り込みます。
ところがアメリカ軍海兵隊の兵士は1万3千人もいて大砲や機関銃などの重装備で待ち構えていたため、日本軍はあっという間に全滅してしまいます。

全滅の報を受けた大本営はそれならと送り込む兵隊を5千人にしますが、日本軍が送り込む兵力を増やしてくると予想したアメリカは兵士を1万8千人に増やして待ち構えていて、またしても壊滅させられてしまいます。
この兵力を小出しにする作戦について井崎の言っていた言葉が印象的です。
これは兵力の逐次投入と言ってもっとも避けなくてはいけない戦い方です。大本営のエリート参謀はこんなイロハも知らなかったのです。

アメリカが重装備をした大部隊で待ち構えているため、兵力を小出しに逐次投入したのでは投入するたびに壊滅させられ、アメリカ軍には大した打撃を与えられずに日本軍の兵士だけがどんどん減っていってしまいます。
採るべき戦術は総力を挙げた大部隊を送り込むことです。
アメリカ軍の司令を出す人はこのことを知っていて、宮部と井崎が出撃した時も空母三隻(この時使用可能だった全ての空母)をはじめ総力を挙げた大部隊で待ち構えていました。
大本営のエリート参謀はミッドウェー海戦での南雲長官と同じで、やはり司令を出す人がポンコツなのは非常にまずいです。

飛行場奪還には敵航空部隊の撃滅が必要でラバウル航空隊がその任務を負います。
この頃、アメリカは無傷の零戦を手に入れることに成功し、徹底的にテストして弱点を見つけ出します。
そして弱点を徹底的に突く戦法を編み出しラバウル航空隊は苦戦を強いられます。
さらにガダルカナル島まで片道三時間以上の距離を移動して、戦い、また三時間以上かけて戻るのが連日繰り返され、戦いは過酷を極めます。
やがて半年間の激戦の末、大本営はガダルカナル島の飛行場奪還を諦め、島に残る兵士を駆逐艦で収容し撤退します。
戦いの犠牲は陸軍、海軍ともに甚大で、海軍航空部隊の熟練搭乗員も大半が失われてしまいます。

井崎から話を聞いた帰り道、慶子が宮部のことを「おじいさん」と言っていたのが印象的でした。
最初は「おばあちゃんの最初の夫」と言っていてよそよそしかったのが、次第に宮部のことを「もう一人の祖父」と見るようになったのが感じられました。


井崎から話を聞いた3日後、健太郎と慶子は高山が言っていた「神風特攻隊は喜びを感じていた」について話します。
この時慶子が「私は違うと思う。おじいさんは特攻に行く時も決して喜びなんか感じなかったと思う。高山さんは間違っていると思う」と言っていました。
最初は高山の言葉のままに「神風特攻隊はテロリストと同じ」と言っていた慶子が、宮部のことを調べ当時を知る人の話を聞いていくうちに気持ちが変わり始めているのが分かりました。

健太郎と慶子は和歌山に住む元海軍整備兵曹長、永井清孝の家に行きます。
永井はラバウルで零戦の整備兵をしていました。
出撃した搭乗員が全員帰ってくることは滅多にありません。朝、元気で笑っとった人が夕方にはもうこの世におらんということは普通のことでした。
これは淡々と書かれていましたがその場面を想像したら辛くなりました。
出撃前、最後に見せた表情が心の中に思い出されるのではと思います。

宮部は飛行機の整備状態に敏感で、特に発動機に神経質でした。
わずかでも違和感を覚えるとすぐに整備兵のところにやって来るため、整備兵の中には露骨に宮部を嫌っている人もいました。
永井も宮部が他の搭乗員から臆病者と言われているのを知っていましたが、宮部の人間性は好きでした。

昭和17年の秋、兵舎の前で整備兵が碁を打っていると、艦隊司令部参謀の月野少佐が碁を見にきます。
月野少佐は碁を見ながら次のように言います。
「山本長官は将棋がたいそう好きらしいが、碁は知らんらしいな。もし碁を知っていたら、今度の戦争も、違った戦い方になったと思うな」
山本長官とは山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官のことで、月野少佐の言葉は山本長官の戦術を批判しているように聞こえるため整備兵達は戸惑います。
さらに月野少佐は次のように言います。
「将棋は敵の大将の首を討ち取れば終わりだ。たとえ兵力が劣っていても、どんなに負けていても、敵の総大将の首をはねれば、それで終わりというものだ」
「しかし今度の戦争は、敵の王将を取れば終わりという戦ではない」

空母(王将)以外の大規模艦隊や武器輸送船団などにも目を向けなければならないのを言っているのではと思います。

宮部が永井に自身の身の上を語ります。
父が商売が上手くいかなくなり自殺し、母は病気で亡くなりたった半年で天涯孤独の身になり、金もなく身よりもなく頼る親戚もない身の上で何をしていいのかわからず、海軍に志願したとありました。
宮部は今の一番の夢を「生きて家族の元に帰ることです」と言います。
永井はこの言葉に凄く失望します。
小説を読む私は望んで海軍に入ったのではないなら「生きて家族の元に帰りたい」と言うのもやむ無しではと思いますが、永井は実際に軍にいる者として、他の隊員の士気に影響するこの発言はさすがに慎むべきと見るのだと思います。

昭和18年の終わり、ラバウルに「グラマンF6F」と「シコルスキー」という零戦の性能を上回る非常に強力な敵戦闘機が現れます。
零戦は次第に追いつめられていきます。

永井は健太郎と慶子に話を終えた後、宮部は何よりも命を大切にする人だったのに、そんな人がなぜ特攻に志願したのかと言います。
これはとても気になる謎でした。


健太郎と慶子は岡山の老人ホームを訪ね元海軍中尉、谷川正夫の話を聞きます。
岡山に行く途中、健太郎は高山が言っていた宮部調べを記事にしたいという話は断ると言い、これは良かったと思いました。
自身の「神風特攻隊はテロリストと同じ」の主張を織り混ぜて妙な書き方をされるより断ったほうが良いです。
また慶子が高山にプロポーズされたと言います。
返事は少し待ってくれと言ったとあり、どうするのか気になりました。

谷川は宮部と中国の上海の第12航空隊で一緒でした。
谷川は宮部を「非常に勇敢な恐れを知らない戦闘機乗りだった」と言っていてこれは意外でした。
昭和16年の春、二人とも内地に呼び戻され、宮部は空母「赤城」、谷川は空母「蒼龍」の乗員になります。

ミッドウェー海戦の後、谷川は改造空母「飛鷹(ひよう)」に乗りガダルカナル奪回作戦に従事します。
しかしガダルカナルを奪回することはできず、谷川は次のように語ります。
半年にわたる戦いで、ミッドウェーの生き残りの搭乗員の大半はソロモン(ソロモン諸島)の空に散った。貴重な熟練搭乗員の八割方はそこで失われたと思う。
帝国海軍は取り返しのつかないことをやってしまったのだ。

読んでいてしんみりしました。
熟練搭乗員になるには何年もかかり、その貴重な人達の八割方が失われるのは致命的です。

苦しくなったラバウルを語っている時に名前の出た西澤廣義という人は印象的でした。
実在した人物で零戦に乗る凄腕のエースパイロットで、アメリカ軍からも非常に高い評価を受け現在も国防総省に西澤廣義の写真が飾られているとのことです。
敵であっても尊敬されるのは凄いことです。

西澤らの奮戦でラバウルは持ちこたえますが多勢に無勢でさらに制海権も取られていて補給が上手くいかず、これ以上無理にラバウルを攻略する必要はないと見たアメリカ軍は一気に北上してサイパンに攻め込みます。

昭和19年の初め、谷川は比島(フィリピン)に配属になり、空母「瑞鶴(ずいかく)」の搭乗員になりそこで宮部と再会します。
二人はアメリカ軍の戦闘機が強靭な防弾板を貼り搭乗員の命を大事にしていることに関心します。
日本の零戦は格闘能力は非常に高いですが防弾板がなくたった一発の流れ弾で搭乗員が命を失うこともあります。
さらにアメリカ軍は空襲に来る時は必ず道中に潜水艦を配備し、帰還できずに海に不時着した搭乗員を救出しています。
これは熟練搭乗員の重要さを知っていたアメリカの司令を出す人と、知らなかった日本の司令を出す人の差だと思います。

昭和19年6月、アメリカ軍がサイパンを猛攻します。
ここは戦前から日本の統治領で、日本人町があり、多くの民間人も住んでいた。それにサイパンを取られたら、新型爆撃機B29の攻撃に本土がさらされる危険もある。だからこそ日本軍はここを絶対国防圏としていたのだ。
ついにB29の名前が登場し、どんどん追い詰められているのが分かります。

海軍の空母から攻撃隊が出撃しますが待ち構えていたアメリカ軍の大部隊の前にほとんどがやられてしまいます。
谷川と宮部は何とか難を逃れ二人とも空母「瑞鶴」に着艦します。
しかしこの時空母「大鳳(たいほう)」と「翔鶴」が魚雷攻撃で沈められていました。
海軍はこのマリアナ沖海戦で戦力の大半を失い、敵のサイパン上陸部隊を止めることはできませんでした。

アメリカ軍は次にフィリピンのレイテ島を攻撃します。
フィリピンがアメリカ軍の占領下に入れば石油などの資源の輸送経路が絶たれてしまいます。

この戦いを前に、アメリカ軍に「特別攻撃」を行うことが伝えられます。
最初に上官が「志願する者は一歩前へ出ろ!」と言った時は誰も動かず、これはやはり十死零生(必ず死ぬという意味)の特別攻撃と聞かされては死への恐怖で簡単には動けないと思います。
関行男大尉率いる「敷島隊」五機による特攻は成功し、護衛空母を三隻大破させる大戦果を挙げます。
また関行男大尉について、「戦後の民主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いにして、墓を建てることさえ許さなかった」とあり、これは酷いと思いました。
大本営やミッドウェー海戦の南雲長官のまずさなどを批判するなら分かりますが、日本を守るために命を捨ててまで戦った人達に対しこれはあまりに酷すぎる仕打ちです。

レイテ沖海戦で海軍は陽動作戦が成功し、アメリカ艦隊が全滅を覚悟するほどの千載一遇の勝機を得ます。
しかし艦隊の指揮を取っていた人のまずい判断でこの勝機を逃してしまいます。
陽動作戦で海軍の艦隊にも被害が出ていて、またしてもあまり戦果を上げられずに戦力を失ってしまいます。

数日後、谷川は発動機の不調で着陸したフィリピンのニコルス基地で宮部に再会します。
その翌日、ニコルス基地でも上官が「特別攻撃に志願する者は前へ」と言います。
これは事実上の命令で、上官からこのように言われれば前に出るしかなく、谷川も前に踏み出します。
するとただ一人宮部だけがその場から動かずにいて谷川は驚きます。
上官が激怒しても宮部は頑として動きませんでした。
翌朝、宮部は谷川に決意を語ります。
「俺は絶対に特攻に志願しない。妻に生きて帰ると約束したからだ」

その後谷川は山口県の岩国で終戦を迎えます。
「宮部が特攻で死んだと知ったのは、かなり経ってからだった」とありました。
健太郎と慶子に話を終えた後、谷川も宮部はなぜ特攻したのかを気にしていました。


次に健太郎と慶子は千葉県に住む元特攻隊員で元海軍少尉、岡部昌男に話を聞きに行きます。
その道中、慶子は高山からのプロポーズを受けると言います。

岡部は宮部は素晴らしい教官だったと言います。
宮部は昭和20年の初め、筑波の練習航空隊に教官としてやってきます。
階級は少尉になっていました。
岡部は飛行課予備学生(大学出身の士官)でした。
恐ろしいことに岡部達は本人には知らされず特攻用の搭乗員として教育されていました。

宮部は言葉遣いは丁寧ですが岡部達になかなか合格点をくれない教官として有名でした。
ある時岡部が不満を言うと宮部は戦場の恐ろしさを語り、「岡部は今戦場に行けば確実に撃墜される」と言います。
しかし上官からは「とにかく今は搭乗員が足りず、一人でも多くの搭乗員が欲しいから、余程のことがなければ合格点をつけるように」と言われています。
また宮部は岡部に次のようにも言います。
「わたくしは出来ることなら、皆さんには死んで欲しくありません」

昭和20年2月の終わり、岡部達は全ての教育課程を終えます。
すると一枚の紙を渡され、そこには「特攻隊に志願するか」という質問が書かれていて、翌日に提出するように言われます。
岡部は悩んだ末に「志願します」に丸印を書きます。
この時何人かは「志願しない」にしたのですが、上官に個別に呼ばれ説得を受け「志願します」にさせられます。

昭和20年3月、沖縄特攻作戦が始まります。
4月、岡部の同期の予備士官の中から16名の名前が特攻隊員として発表され、その中に親友の高橋芳雄の名前がありました。
5月の初め、沖縄出撃のために宮部の誘導で九州の国分基地に飛び立ちます。
高橋の「行ってくるよ」という言葉に岡部は言葉が出ません。
必ず死んでしまうため「気をつけて」とは言えないです。
凄く辛い見送りになると思います。
宮部はそのまま国分基地に残り、特攻機の直掩機(ちょくえんき、護衛のこと)として何度も出撃し、終戦間際に特攻で亡くなったとありました。

慶子が「特攻に際して、どのように自分の死を納得させたのか」と聞くと、岡部は「自分が死ぬことで家族を守れるなら、喜んで命を捧げようと思った」と言います。
さらに次のようにも言っていました。

「たとえ自分が死んでも、祖国と家族を守れるなら、その死は無意味ではない、そう信じて戦ったのです。戦後の平和な日本に育ったあなた方には理解出来ないことはわかっています。でも、私たちはそう信じて戦ったのです。そう思うことが出来なければ、どうして特攻で死ねますか。自分の死は無意味で無価値と思って死んでいけますか。死んでいった友に、お前の死は犬死にだったとは死んでも言えません」
時折テレビや新聞などで「神風特攻隊は犬死にだった。何の役にも立たなかった」といった主張をする人がいますが、私にはそうは思えないです。
神風特攻隊の命と引き換えの攻撃は、家族を殺そうとするアメリカ軍を少しでも食い止めたいという思いとともに、日本を守れる可能性を少しでも上げたいという思いもあります。
日本のために命と引き換えに戦ってくれた人達に、どうして「お前は犬死にだ」などと言うことができるのでしょうか。
批判をするなら特攻を考えた人や命じた人にするべきだと思います。
白人至上主義が世界を支配していた当時にあって、日本の戦いは列強の植民地にされていたアジア諸国を勇気づけ、白人による植民地支配の終わりへとつながりました。
これは日本が戦後植民地にされずに済んだことにもつながります。
ゆえに私は「日本のために戦って下さりありがとうございました」と感謝の気持ちを持っています。
それが今の時代を生きる日本人として、日本のために戦ってくれた先人達への、最低限の礼儀だと思います。


次に健太郎は元特攻隊員で元海軍中尉の武田貴則の話を聞きに白金のホテルに行きます。
ラウンジでお茶を飲んでいると、遅れると言っていた慶子が何と高山を連れて現れます。
高山は取材ではなくあくまで個人的なお話に同席させてもらうと言いますが、どんどん武田を不快にさせることを言います。
私は高山の狙いは怒らせて話を引き出すことだと思いました。

そして「特攻隊員はテロリストだ」と言い武田を激怒させます。
高山が「特攻隊員の遺書を読めば殉教的精神は明らか」と言った時の武田の言葉は印象的でした。
「当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。それは読む者が読めば読みとれるものだ。報国だとか忠国だとかいう言葉にだまされるな。喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで死んだと思っているのか。それでも新聞記者か。あんたには想像力、いや人間の心というものがあるのか」
高山の新聞社のモデルは朝日新聞と思われ、そして朝日新聞の記者なら人間の心はないと思います。
朝日新聞の記者は日本を貶めるためなら捏造記事を書くこともいとわない人達です。
神風特攻隊をイスラム原理主義のテロリストと同じにしたい高山にとって、遺書の行間を読む気など最初からないのだと思います。

高山が帰った後、武田が新聞社の姿勢について印象的なことを言います。
自分こそが正義と信じ、民衆を見下す態度は吐き気がする。

特攻に反対した人物として海軍の美濃部正少佐のことが語られていました。
昭和20年2月の連合艦隊の沖縄方面作戦会議の席上、主席参謀から告げられた「全力特攻」の方針に真っ向から反対しました。
当時、上官の命令に逆らえば死刑もあり得た中でこれは凄いと思います。

武田も岡部と同じく予備学生として筑波の練習航空隊にいました。
そして武田も「宮部は素晴らしい教官だった」と言います。

ある日、武田の親友の伊藤が急降下訓練で地面に激突して亡くなります。
すると上官が「死んだ予備士官は精神が足りなかった。そんなことで戦場で戦えるか!」と罵倒します。
この時宮部が殴られながらも抗議し伊藤の名誉を守ってくれます。
武田は感激し、自分が特攻に行くことでこの人を守れるならそれでも良いと思ったとありました。
そして九州に向かう零戦に乗り込む宮部に「どうかご無事で」と声をかけると、宮部は「わたくしは絶対に死にません」と言っていました。


次に健太郎一人で元海軍上等飛行兵曹、景浦介山の話を聞きに東京の中野の家を訪ねます。
景浦は宮部のことを「俺は奴を憎んでいた」と言います。
宮部が特攻出撃した時、景浦は直掩機として飛んでいました。

景浦は宮部の存在自体が無性に嫌いでした。
景浦は非常に勇猛だったため、宮部が生きるか死ぬかの戦いのただ中にあって家族のことを何より考えているのが気に入らず、それでいて抜群の腕を持った戦闘機乗りだというのも気に入りませんでした。

ある日景浦が宮部に突っかかると次のように諭されます。
「景浦一飛は宮本武蔵を気取っているようだが、武蔵は生涯に何度か逃げている。それに、もう一つーー武蔵は勝てない相手とは決して戦わなかった。それこそ剣の極意じゃないか」
これは勇猛に突進するだけが戦いではないということで、大事なことだと思います。

昭和20年6月の末に沖縄はアメリカ軍に完全占領されます。
その前から日本の都市部にはサイパンから連日ようにB29爆撃機が飛来し空襲されていましたが、3月に硫黄島が取られてからは零戦を遥かに上回る高性能戦闘機のP51も護衛としてやってくるようになり、この爆撃機と戦闘機を合わせた大編隊を前に日本になすすべはありませんでした。
俺たちは必死で戦ったが、毎回、邀撃(ようげき、迎え撃つこと)に飛び立った我が軍の戦闘機は無惨に墜とされた。
P51もグラマンも平気で低空に舞い降りて、地上のあらゆるものを銃撃した。建物、汽車、車、そして人間。奴らは逃げまどう民間人を平気で撃った。おそらく日本人など人間と思っていなかったのだろう。動物でもハンティングする気分で撃っていたに違いない。


景浦は終戦の少し前、鹿児島の鹿屋(かのや)基地に行けと命じられます。
鹿屋から出る特攻機の直掩が任務で、そこで宮部と一年半ぶりに再会します。
宮部は少尉になっていましたが、頬はこけ、無精髭が生え、様子が変わっていました。

次の日の朝、出撃する特攻隊の直掩隊になった景浦は特攻隊の中に宮部の姿があるのを見て驚きます。
景浦が声をかけると宮部は「景浦が援護してくれるなら、安心だ」と言ってにっこり微笑み、零戦に向かって歩いていきました。


8月の終わりに健太郎は慶子に飲みに誘われ、高山が間違いを認めて反省していると教えてもらいます。
人間の心を取り戻してくれたのなら良かったと思います。
また健太郎は来年もう一度司法試験に挑戦することを決意します。

二人は鹿屋基地で通信員をしていた元海軍一等兵曹、大西保彦(旧姓村田)の話を聞きに鹿児島に行きます。
特攻機は特攻の瞬間を自身でモールス信号で伝えさせられていました。
「敵戦闘機見ユ」の場合は「ト」を連続して打ち、いよいよ突入の際は「ツー」を長く伸ばして打つと「我、タダイマ突入ス」の意味になります。
通信員はこの音を聞きながら戦果確認をしないといけませんでした。
音が消えた時は特攻隊員の命が消えた時で、その時の胸中を次のように語っていました。
心に釘か何かを打ち込まれるみたいな感じでした。
これはゾッとしました。
毎日のように音が消えるのを聴くのはとても辛かったと思います。

大西は宮部の人間性が好きでした。
しかし特攻隊の直掩任務を続けるうちに宮部の心は苛まれていきます。
沖縄戦の後半から宮部は雰囲気がはっきり変わったとありました。

ついに宮部にも特攻の出撃命令が出ます。
この時、宮部が一人の予備士官に「飛行機を代えて下さい」と頼みます。
宮部の飛行機は零戦五二(ごうにい)型、予備士官の零戦は旧式の二一(にいいち)型で、昔ラバウルで乗っていた二一型に乗って行きたいと言っていました。
そして飛行機を交換して出撃しますが、何と最初に宮部が乗るはずだった飛行機がエンジントラブルで喜界島に不時着します。
もし宮部が飛行機を代えてくれと言わなければ助かっていたのは宮部かも知れませんでした。

最後、その人物に話を聞きに行き、宮部が何を考えていたのかが分かります。
宮部は飛行機の整備に敏感なので、乗る予定の零戦が発動機の不調で不時着になり特攻せずに済むであろうことを見抜きます。
しかし宮部はかつて筑波で教官をしていた時、飛行機を交換した人物に敵機の奇襲から命を救われたことがありました。
あれほど「家族のためにも死ぬわけにはいかない」と言っていた宮部が助かるかも知れない飛行機を他の人に譲るのはかなり辛かったのではと思います。
しかし命を助けられた人物に恩を返したのは宮部らしい最後だったと思います。


沖縄戦の後半は志願の形も取らなくなり、通常の命令として特攻が行われました。
上官の命令には従わなくてはならず、必ず死ぬと分かっている中で特攻隊員達は最後までよく戦ったと思います。
ほんの少しでも日本の戦いについて「よく戦った」といったことを言うと「軍国主義」「戦争賛美」と言い出す人がいますが、私は特攻隊員達はよく戦ったと思います。
「日本のために戦って下さりありがとうございました」と感謝するのは日本人として先人達への最低限の礼儀だと思います。


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イカのパワー

2018-02-17 15:15:55 | ウェブ日記


写真はうどんのお店のイカの天ぷらです。
最近、イカが健康に良い優れた食材だと知りました。

まずイカは低カロリーで高たんぱく質なため、カロリーの摂りすぎにならずにパワーを付けられます。
さらにイカが持つタウリンは肝機能向上効果と疲労回復効果があります。
肝機能向上効果があるためお酒のおつまみに最適とのことです。
疲労回復効果があるのは嬉しく、タウリンは栄養ドリンクの「リポビタンD」などにも入っています。

健康に良い優れた食材だと知ったので、最近はうどんのお店に行くとよくイカの天ぷらを食べるようになりました。
イカの天ぷらは高たんぱく質なのにあっさりとした食べ心地で美味しいです。
特に揚げたてだとかなり柔らかみもあります。
豚肉が豊富に持つビタミンB1も疲労回復効果があり、肉と海産物それぞれに疲労回復効果の高い食材があるのは嬉しいです。
疲れを感じている時はどちらを食べて疲労回復したいです

「海賊とよばれた男 (下)」百田尚樹

2018-02-12 22:32:18 | 小説


今回ご紹介するのは「海賊とよばれた男 (下)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
当代一のストーリーテラーが放つ歴史ドキュメント小説の傑作!
敵は七人の魔女(セブン・シスターズ)、待ち構えるのは、英国海軍。
ホルムズ海峡封鎖を突破せよ!
2013年第10回本屋大賞受賞作。

-----感想-----
※「海賊とよばれた男 (上)」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。
※「出光興産徳山事業所 「海賊と呼ばれた男」ゆかりの地」のフォトギャラリーをご覧になる方はこちらをどうぞ。

「第三章 白秋 昭和二十二年~昭和二十八年」
昭和22年11月、国岡商店はついに石油販売業務を再開します。
この年、生死不明だった末弟の正明が満州から帰国します。
満州に攻め込んだソ連軍に捕まって二年近く収容所に入っていて、哀れなほど痩せすっかり弱り切っていたとありました。
ソ連に捕まると「シベリア抑留」のような恐ろしい仕打ちもあるので、よく生きて帰ってこられたと思います。
正明は帰国後は国岡商店の社員になります。

昭和23年8月、アメリカの石油会社「カルテックス」日本支社が国岡商店と提携したいと言ってきます。
石油配給公団からわずかな石油しか配給されず、売る油が足りない国岡商店にとって「我が社と提携すれば石油はいくらでも入れる」という提携の誘いはとても魅力的でした。
そしてカルテックスにとっても国岡商店の圧倒的な販売力は魅力でした。
しかしカルテックスは業務提携ではなく株式の譲渡を要求し、国岡商店の役員にカルテックスの人間を送り込んで子会社化しようとしたため、鐡造が激怒して交渉は決裂します。
カルテックスは代わりに最大手の日邦石油と提携します。
鐡造はその提携の条件を見て呆れた。何と、日邦石油は株式の50パーセントをカルテックスに委ねていたからだ。これほど屈辱的な提携があるだろうか。おそらく経営陣には多数のアメリカ人が乗り込んでくることだろう。
そして鐡造は国岡商店創業以来長く親会社だった日邦石油が外油に乗っ取られてしまったことを悲しみます。

9月、GHQが「石油配給公団を翌年3月末までに解散し、4月から民間の石油元売会社が石油製品の輸入および販売を行うように」と指示を出し、民間の石油元売会社が石油製品を輸入して販売できるようになります。
ただし元売会社の条件に「石油タンクを持っていること」とありました。
今の国岡商店には石油タンクがなく、公団の解散から逆算するとあと三ヶ月のうちにタンクを手に入れる必要がありました。
この時鐡造が「三ヶ月でタンクを手に入れることは、不可能だ」と初めて弱気な姿を見せ、重役達は驚きます。
重役になった東雲が「店主、希望は捨ててはいけません」と言うと鐡造は弱々しい笑みを浮かべ「いや、今度ばかりは無理だ」と言います。
すると東雲が凄く印象的なことを言います。
「店主がそんな弱気なことを言えば、長谷川さんに怒られますよ」
鐡造はかつて長谷川を後継者にしようと思っていましたが太平洋戦争(大東亜戦争)で帰らぬ人となりました。
私は東雲の言葉を見て、東雲は第一章で鐡造が「国岡商店の次代を担う男にしたい」と言っていたとおりの存在になったと思いました。
鐡造は東雲の言葉で目を覚まし何としてもタンクを手に入れようと決意を新たにします。

やがて旧三井物産のタンクが公開入札になるチャンスを見つけます。
しかし確実に競り落とすには資金が4千万円は必要で、鐡造はふと東京銀行に行ってみようと思います。
旧知の仲の営業部長の太田に「大江清常務に会ってみてはどうか」と勧められ、大江に会い4千万円の融資の相談をすると、何と大江はあっさり承諾してくれてこれには鐡造も驚きます。
大江は二年前、門司支店に出張に行った時に佐世保の旧海軍のタンク底で働く国岡商店の社員達の姿を見て衝撃を受けてました。
このような若者たちがいるかぎり、日本は必ず立ち直れると確信した。
銀行はこういう男たちがいる会社こそ援助しなくてはならないのではないかー。

その時のことがあり、鐡造が融資の相談に来たと知った瞬間に額がどれだけになろうと融資をしようと決めたとありました。
第二章では銀行の融資担当者や重役が鐡造の人間性に感銘を受けて助けてくれることが何度もあったのですが、今回は国岡商店の社員達の働きぶりが大江の心を動かしていました。
圧倒的な人間性を持つ鐡造の元に集う社員達の働きぶりもまた素晴らしいです。
融資を得て参加した入札で、国岡商店は14基のタンクを手に入れます。

昭和24年、石油配給公団の解散準備委員会が開かれますが、GHQがスタンバック、カルテックス、シェルの外油三社の代表を参加させろと要請してきます。
外油三社の代表は「元売会社の資格要件」を出してきて、その要件の一つに「将来、輸入販売について外油社と提携を有するもの」とありました。
外油との提携は日邦石油が会社を乗っ取られたように、ただの業務提携ではなく株式を譲渡して子会社になるということです。
また「元売会社の資格要件」には明らかに国岡商店を除外するために作った項目もあり、東雲は日本のために懸命に戦っている国岡商店を外油と手を結んだ同胞達が寄ってたかって潰そうとしていることに憤ります。
国岡商店以外の日本の石油会社は自分達の会社が儲かるためなら日本の石油産業が外油に支配されても構わないと言っているのと同じで酷いと思います。

しかし3月の初めに再び開かれた解散準備委員会にて、商工省石油課長の人見孝が反対してくれます。
人見は、外油の出した「資格要件」は外油が日本の石油業界を支配しようという意図を持っていることを見抜いていた。そしてこれは何としても阻止しなければならないと考えていた。石油は日本の復興になくてはならないものである。そのもっとも重要な物資を外国資本に握られてしまえば、日本に真の復興はない。
人見も鐡造と同じように日本全体のことを考えていました。
人見の反対によって外国三社が出してきた「元売会社の資格要件」は取り下げられます。
鐡造は人見のことを次のように言います。
「たとえ九十九人の馬鹿がいても、正義を貫く男がひとりいれば、けっして間違った世の中にはならない。そういう男がひとりもいなくなったときこそ、日本は終わる」
これを見て、もし商工省に人見がいなければ腐敗した人達によって石油業界は完全に外国資本に支配されていたと思いました。

ついに国岡商店が元売会社の一つに指定されます。
翌日、国岡商店と同じく元売会社に指定されたスタンバックの重役のダニエル・コッドが国岡館を訪ねて祝福してくれます。
コッドは第一章、第二章にも登場していて、最初は鐡造を敵視していましたが途中から人間性を認めていました。
「これからは同じリングで相見(あいまみ)える者同士となったが、互いにベストを尽くして戦おう」と言っていて、この人も立派だと思いました。

昭和24年3月31日、石油配給公団が解散します。
国岡商店は圧倒的な販売力を見せ、焦った外油は日本の石油会社との提携を急ぎ、日本の大手石油会社は子会社にされるのと同然の提携を結びました。
そして日本の石油会社を呑み込んだ外油は国岡商店に対して総攻撃を仕掛けてくるに違いなく、鐡造は外油の包囲網をいかにして打ち破るかを考えます。
外油の中でも巨大な石油会社は「メジャー」と呼ばれ、特に次の七つのメジャーは「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれ戦後長きに渡り世界の石油を支配します。

スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー
ロイヤル・ダッチ・シェル
アングロ・ペルシャ(アングロ・イラニアン)
スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク
スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア
ガルフ
テキサコ

鐡造が外油の包囲網を打ち破るために求めた力はタンカーを造ることでした。
しかしタンカーの建造計画を握る経済安定本部(後の経済企画庁)がタンカー建造を認めてくれず鐡造は焦ります。

この頃、長男の昭一が大学受験に続けて失敗して浪人生活を送っていました。
鐡造は半分は国岡商店を立て直すために奔走し家族に目を向ける余裕のなかった自分のせいだと思います。
鐡造は思い切って昭一をアメリカに留学させます。
アメリカは憎い敵ではあるが、すぐれたところもある。
昭一に「アメリカの素晴らしいところを学んできてもらいたい」と言っていて、憎くても優れたところがあるのを認められるのも鐡造の器の大きいところです。

資源庁が鐡造の主張を支持し、運輸省海運局と経済安定本部長官に宛ててタンカーを追加造船する要望書を出してくれます。
これにより二隻のタンカーが建造されることが決定しますが、一つはタンカー業界大手の飯野海運に決まります。
残り一隻のタンカーを何としても手にしたい鐡造は正明とともに経済安定本部金融局の財政金融局長、内田常雄を訪ねます。
そして鐡造は国際石油カルテルによる日本経済支配と戦う決意を語ります。
鐡造の思いが通じ、国岡商店がタンカーを持つことに決まります。

再び東雲が鐡造の後継者だと感じる場面がありました。
国際石油カルテルの国岡商店を潰すための策謀に鐡造よりも先に気づきます。
策謀によってアメリカから重油を輸入すると赤字になるのが確実なため、東雲は鐡造に輸入を中止しましょうと言います。
すると鐡造が凄いことを言います。
「戦後、国岡商店は廃油を浚うためにタンク底に潜った。この過酷なる事業で国岡商店は多大なる赤字を出したが、これによりGHQから日本政府に石油が供給された。つまりわれわれは日本のために役立ったのだ」
「われわれはもう一度タンク底に戻るべきではないかと思う。日本は今、重油を必要としている。そのために国岡商店は立つ。利益は考える必要はない」

東雲は鐡造の器の大きさに胸が熱くなります。
国際石油カルテルの策謀で赤字になるのが分かっていても、日本が重油が足りなくて困っているのだから輸入するというのは凄い決断だと思います。
ただの商売人には絶対できない決断です。
しかしこの輸入で赤字が出て、国岡商店は国内外合わせて13社もの敵に斬りかかられながら何とか耐えています。
日本のために尽くしている会社がそうではない会社達に寄ってたかって斬りかかられるのは酷いです。

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本の主権が承認されます。
そして12月22日、ついにタンカー「日章丸」二代目が完成します。

昭和27年1月、常務になった武知は部下の宇佐美課長とともに日章丸に積み込む重油と軽油を買い付けにアメリカに行きます。
サンフランシスコ港に到着した日章丸の船上では航海の成功を祝うパーティーが開かれ、当時世界最大の銀行だったバンク・オブ・アメリカ(BOA)の極東担当部長のハリー・クィネルと、国岡商店の代表者として出席していた正明が出会います。
クィネルは国岡商店に好意を持っていて融資の相談にも乗ると言っていました。
石油業界では国内外の会社が寄ってたかって国岡商店を潰そうとしていますが銀行の人からは好意を持たれることが多いのがとても印象的です。
石油利権に染まっていない人は国岡商店の行いをきちんと見てくれているのだと思います。

昭和27年5月、日章丸がロスアンジェルスに着き、武知と宇佐美が用意していたガソリンを持ち帰ります。
武知は日本に進出しているメジャーの目を逃れ、現地で独立系のサンオイルという小さな石油会社との契約に成功していました。
日章丸が持ち帰ったガソリンを鐡造は「アポロ」と名付けて全国の国岡商店の営業所で驚くほどの低価格で販売します。
アポロガソリンは日本国内で売られていたガソリンとは性能がまるで違い消費者を驚かせ、飛ぶように売れて国岡商店は飛ぶ鳥を落とす勢いになります。
しかしメジャーがサンオイルに圧力をかけ、突然「商談を取り止めたい」という電報がきます。
「アメリカでメジャーに逆らって生き延びる道はない。」とあり恐ろしいなと思いました。
武知と宇佐美はすぐにヒューストンにある小さな石油会社と新たに契約を結びます。
しかしヒューストンにもメジャーの手が回り、鐡造はメジャーの包囲網を突破するには尋常の手段では無理だと悟ります。

昭和27年3月、正明はブリヂストンタイヤの社長、石橋正二郎(しょうじろう)から家に来てくれないかと電話を受けます。
正明が石橋の家に行くとモルテザ・ホスロブシャヒというイラン人がいて、イランの石油を買わないかと言ってきます。
イランの油田は1900年代初めにイギリスが開発し、長年に渡ってイギリスの国策会社アングロ・イラニアン(現ブリティッシュ・ペトロリウム=BP)のものでした。
しかし1951年、イランは石油国有化法案を国民議会で通過させ、アングロ・イラニアンの全施設を接収します。
イギリスはこれを認めず、軍艦をペルシャ湾に出動させ威嚇します。
イギリス政府は「イランの石油はイギリスのものである」と宣言し、国際司法裁判所に提訴し、さらに世界の国に対して「イランの石油を買わないように」と警告を発していました。

正明は一度鐡造にイランの石油を買うかどうか相談しますが当初はイランがイギリスの油田を盗んだと考えていたため買わないことにしました。
ただし昭和27年4月にアメリカがイランと技術援助協定を結び、これはアメリカがイランの石油国有化を認めたのと同じことで、状況が変わります。
アメリカはこの機を利用して新たな原油資本を得ようとしていて、やることがせこいなと思います。
正明は鐡造に「ぼくらが知らされている情報は全部、イギリスからのもので、実情はかなり違うらしい」と言います。
鐡造は常務になった東雲にイランの国情と石油国有化の事件を調べさせます。

その結果、イギリスは石油1トン当たりの支払額がイランには他の中東諸国の三分の一前後しか払っていないことが明らかになります。
さらに第二次世界対戦で戦後の経済開発を約束してイランを連合国として参戦させましたがその約束も反故にしていました。
鐡造の「大英帝国のやりそうなことだな」は印象的でした。
「鬼畜米英」の「英」は伊達ではなかったのだなと思いました。

鐡造は日章丸が誕生しようとしていたまさにそのとき、はるか海のかなたでイランがアングロ・イラニアンの接収を開始したのは偶然ではないと思います。
ふと思い立って東京銀行に行ったら巨額の融資をしてもらえたことのように、鐡造の人生には運命の導きのようなことがよく起きます。
イギリスは世界各国に「イランと石油を取引する者に対しては、必要と思われるあらゆる措置をとる」と警告を発していて、民間船を武力で制圧するとも受け取れるため、どの国もイランから石油を買えずにいます。
この経済封鎖によってイランは危機的な状況になっています。

7月、鐡造の元をウィリウス・マホニーというアメリカ人が訪ねてきます。
マホニーはコンサルタント会社のメンバーで弁護士でもあり、一時はGHQの法務局員も務めていました。
マホニーは国際司法裁判所が「イランの石油はイギリスのものではない」とイランに有利な判決を下したと教えてくれます。
これを聞いて鐡造はこの機を逃してはならないと思います。
鐡造はマホニーのボスであるスタンダード・リサーチ・コンサルタントの社長、ポール・B・コフマンとも会い、イランの石油を買う決意を固めます。
イギリスが何をするか分からず危険ではないかと言う重役達に鐡造は言います。
「君たちはイランとの取引で、国岡商店の未来を心配しているようだが、これは未来を切り拓くための取引である。国岡商店は今、国際石油カルテルの包囲網の中でもがいている。彼らは配下におさめた日本の石油会社と手を結び、国岡商店をつぶそうとしている。このわれわれの状況はまさに、国際社会におけるイランと同じ状況である」
「イランの苦しみは、わが国岡商店の苦しみでもある。イラン国民は今、塗炭の苦しみに耐えながら、タンカーが来るのを一日千秋の思いで、祈るように待っている。これをおこなうのが日本人である。そして、わが国岡商店に課せられた使命である」


9月の終わり、鐡造は正明と武知をイランの首都テヘランに送り込むことを決めます。
これは一部の重役だけが知る超極秘事項です。

鐡造はイランから石油を運ぶために日章丸は使わず飯野海運からタンカーを借ります。
日章丸には莫大なお金がかかっていて、もしイギリスに拿捕されれば国岡商店は倒産してしまうからです。

11月、正明と武知が羽田空港から出発します。
テヘランに着いた二人は首相官邸でモサデク首相と会談します。
しかし石油購入を巡っての話し合いはなかなかまとまらず、次にハシビイという石油販売に関しての権限を持つ国会議員との交渉になります。
ハシビイは値段について無理難題を言っていて、さらに国岡商店のことを嘘をついたり誤魔化したりする会社という発言をしたため武知が激怒します。
「国岡商店は七年前、戦争に負けてすべてを失った。日本中に失業者が一千万人も出た中、店主は千人の店員をひとりも首を切らなかった。利益の追求を第一に考える会社がそんなことができるか!」
12月30日、ついに契約の草案ができます。
そして2月、正式に契約書に調印します。

その頃、飯野海運が突如タンカー「日南丸」のチャーターを断ってきます。
まさかの事態に鐡造は日章丸をイランのアバダン港に送ることを決断します。
日章丸が拿捕されれば国岡商店は倒産することになるが、日本人が信義を果たす国民であることをイランの国民は知るであろう。そして、このことは必ず両国の今後の友好関係にとって大きな力となる。
国岡商店が倒産した時の社員達の身の振り方も考えていて、国岡商店の社員の販売力は圧倒的なので、鐡造が石油業界に頭を下げて回れば新たな職を得ることができるとありました。
ただし国内外の石油会社から敵視されている鐡造に再就職の道はないため、東雲に「乞食になる」と言っていました。
すると東雲は真面目な顔で「そのときはお供いたします」と言っていて、私はこれを見て鐡造は良い後継者を持ったと思いました。

鐡造が日章丸船長の新田に「イランのアバダンに行ってもらいたい」と言うと新田は快諾してくれます。
新田は肝が据わっていて、鐡造が「今回の航海は今までの航海とは違い、万が一の時には船が沈むかも知れない」と言うと不敵に笑っていました。

3月23日、日章丸の出発の日を迎えます。
イランに行くのは極秘のため、新田と機関長の竹中幹次郎(みきじろう)以外の船員はサウジアラビアに行くと思っています。
見送りにきた船員の家族もそう思っているため、鐡造はそのことを心苦しく思っていました。

4月5日、日章丸がセイロン(現・スリランカ)の南、コロンボ沖に差し掛かった時、国岡商店から「アバダンに行け」の暗号文の無電が入ります。
この暗号が届いたらただちに行き先をイランに変えることになっていました。
新田が全員をキャビンに集め鐡造からあずかっていた手紙を読むと、緊張とともに船員達の士気が一気に上がります。

4月9日の昼過ぎ、日章丸はシャット・アル・アラブ河口に着きます。
河口を約三時間航行していくとアバダン港があり、新田達はアバダン製油所の物凄い光景を目にします。
タンクの数は無数とも言えるほどの数だった。これほど巨大な製油所はアメリカでも見たことがない。岸一面、まさしく見渡すかぎり、地平線のかなたまで製油所の施設が立ち並んでいる。世界一の製油所というのは嘘ではなかった。
私はここを読んでいて胸が高鳴りました。
河口を進んでいて目の前にこんな光景が見えてきたら圧倒されてワクワクした気持ちになると思います。

日章丸がアバダンに着いたというニュースは世界に衝撃を与えます。
鐡造は国岡館で記者会見を開きます。
記者達の多くは国岡商店に対して好意を抱いてくれていました。
鐡造の語った次の言葉は印象的でした。
「私は国岡商店のためにおこなったのではない。そんな小さなことのために、日章丸の五十五名の生命を賭けることはできない。このことが、必ずや日本の将来のためになると信じたからこそ、彼らをアバダンへ送ったのです」
鐡造は必ず目の前の損得よりも日本の将来を考えていて、一貫したこの信念は素晴らしいと思います。

日章丸にガソリンを積み終わると、船上でイラン国営石油会社の社長や重役、地元の有名人達を招いてパーティーが開かれます。
そして宴が終わり、イギリスが死に物狂いで追ってくることが予想される復路に向けて新田は気迫をみなぎらせます。

日章丸がアバダン港を出港して8日目の4月23日、新田と一等航海士の大塚が航路の話をしていて「イギリス領のシンガポール」とあったのは印象的でした。
この時点ではまだイギリスの植民地だったのかとしみじみとしました。
新田はイギリス軍の裏をかくために出口にシンガポールがあるマラッカ海峡は通らずに、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通ります。

イギリスのアングロ・イラニアン社は激怒して訴訟代理人を日本に送り込んできていて、裁判は避けられない様相となります。
イギリスの狙いは裁判所に申請して日章丸からガソリンを陸揚げできないように仮処分を出してもらうことで、正明と武知は国際弁護士として活躍している柳井恒夫に相談して仮処分阻止に動きます。

5月9日、川崎沖に日章丸が姿を現します。
そこにはたくさんの報道陣や見物客、国岡商店の重役達、乗組員の家族、イラン政府の代表団が詰め掛けていました。

その頃、東京地裁では日章丸の石油仮処分の口頭弁論が行われ、国岡商店が有利になります。
また国民の大多数は国岡商店を応援していました。

そして5月27日、「仮処分申請を却下する」という判決が出て国岡商店は勝訴します。
さらにイラン政府はイギリスの威嚇に屈せず日章丸をイランに出港させた国岡商店の勇気に敬意を表し、国岡商店と破格の好条件でガソリン取引することを世界に向けて発表します。
国岡商店は半世紀以上に渡って世界を支配してきた国際石油カルテルの一角を見事に突き崩しました。


「第四章 玄冬 昭和二十八年~昭和四十九年」
昭和28年8月19日、イランでクーデターが起きてモサデク首相が解任される大事件が起きます。
クーデターはアメリカのCIAが仕掛けたものでした。
イギリスが秘密裏にアメリカと交渉し、アメリカがモサデク政権を打倒する代償にイラン石油の40%の利権を譲渡するという密約をしていました。

鐡造はイラン国営石油会社との契約は大丈夫なのか確認するために正明と武知をイランに行かせます。
9月の終わり、正明と武知がイラン国営石油会社を訪れるとバヤット社長は国岡商店との契約は心配ないと言ってくれます。
ところがアメリカが国際コンソーシアム(出資者連合)を作ってイラン国営石油会社を支配しようとして動き出します。
「セブン・シスターズ(七人の魔女)」に戦後急速に力を伸ばした「フランス石油会社(CFP)」が加わり、八つの頭を持つ「やまたの大蛇」のような国際的大石油会社が生まれます。
そしてイラン国営石油会社はこのコンソーシアムの子会社にされてしまいます。
さらにイラン国営石油会社は今までの契約を反故にして国岡商店が圧倒的に不利になる取引条件を通告してきます。

コンソーシアムによってイランとの取引を不可能にされた鐡造は危機感を持ちます。
もし国岡商店がつぶれれば、日本の石油市場は完全にメジャーに乗っ取られるだろう。今や近代国家にとって最大のエネルギーとなった石油を支配されることは、日本の産業界すべてが支配されることを意味する。そうなれば、日本が欧米に対抗することは永遠に不可能となるだろう。
国岡商店よりも日本の行く末を案じているところが鐡造らしいです。
鐡造の目にはメジャーに喰いつかれて危機的な日本の石油市場の姿が常に映っているのだと思います。

それでもイラン国営石油会社との一年半の取引で国岡商店は完全に甦っていました。
また「今や押しも押されもせぬ大企業となった国岡商店」という言葉を見て、国岡商店がとても大きな会社になったのを実感しました。
第三章までの国岡商店は第二章で勢いのあった時期を除けば常に劣勢に立たされていましたが、第四章は国内外の大石油会社と対等に戦う力を得た国岡商店の話なのだと思いました。

鐡造はメジャーに対抗するには原産国から直接原油を仕入れ、自社で精製して石油製品にして販売するしかないと考え、製油所の建設を急ぎます。
昭和30年10月、70歳になった鐡造はBOAに融資のお願いをするために武知を連れてアメリカに行きます。
そして副社長のジョージ・カランと会って話をすると何と1千万ドルもの融資をしてもらえます。
この時武知は次のように胸中で語っていました。
イラン国営石油会社をあのような汚い手口で乗っ取ってしまうメジャーもアメリカ人なら、BOAのように国岡商店の経営理念に多額の融資をするのもアメリカ人ということに、アメリカという国の持つ底知れぬスケールを見たような気がした。店主はそんなアメリカ人の気質を自分よりももっと早くわかっていたのだろう。息子をアメリカに学ばせたのも、おそらくはそのためだ。
これはアメリカ人は良くも悪くも利益を第一にし、さらに素晴らしいものは素直に素晴らしいと評価するということではと思います。
アメリカのメジャーにとって国岡商店は敵と知ってはいても、カランは国岡商店の経営理念を評価して多額の融資をしていました。

次に二人はピッツバーグに行き、セブン・シスターズの一つ「ガルフ」を訪れます。
ガルフはアジアに進出していなかったため国岡商店とは一度も競合したことのない会社でした。
ガルフはクウェートに油田を持っていて、鐡造はガルフからクウェートの原油を輸入することを考えていて、アジアに進出していないガルフにとっても国岡商店とのビジネスは大歓迎でした。

次に二人はシカゴに行き、石油精製工場の開発会社である「ユニバーサル・オイル・プロダクト・コーポレーション(UOP)」を訪れて山口県の徳山に精製工場の建設を依頼します。
鐡造は精製工場にこだわりがあり、次のように言っていました。
「徳山は瀬戸内海に面した美しいところです。この美しい光景は住民たちのものであるべきです。いや、日本の国民の共通の財産です。ですから、この街に精製工場を作るときは、無味乾燥な冷たい工場ではなく、見た目も美しい工場にしたい」
このこだわりは素晴らしいと思いました。
UOPのベネマ社長も共感して「世界で最も美しい製油所を作る」と言ってくれます。

昭和31年3月、起工式を済ませると鐡造は東雲を建設本部長に任命します。
鐡造は何と通常は三年かかる工事を5月に着工してから10ヶ月で完成させろと言います。
なぜか工事を急ぐ鐡造を見て東雲は、鐡造が自身が亡き後のことを考えていて、製油所があれば国岡商店はやっていけると思っているのではと思い、工場の早期完成を決意します。

工事では山陽本線沿いに長い緑地帯を作り、樹木や花を植えて市民が散歩できるように遊歩道を作ったとありました。
私は山陽に住んでいたことがあるのでこの工場は見てみたかったと思いました。

そして昭和32年3月、何と本当に10ヶ月で製油所が完成します。
鐡造がなぜ工事を急いでいたのかの真の理由も明らかになります。
今や押しも押されもせぬ大企業になっても鐡造は常に挑戦者の気持ちを持っているのがよく分かりました。
鐡造は工事に携わった国岡商店の社員と下請けの労働者達の働きを労いながら東雲に次のように言います。
「これが日本人の力だ。こういう日本人がいるかぎり、日本は必ず復興する。いつの日か、もう一度、欧米と肩を並べる国になる日が来る。いや、その日はもう遠くない」

製油所を工事中の昭和31年8月、ガルフとの間に正式に契約を結びます。
これまでセブン・シスターズと提携した日本の石油会社が株式のかなりを譲渡させられたり経営陣に乗り込まれたりという屈辱的な契約だったのに対し、国岡商店は株式も経営権もいっさい口出しさせない対等な契約を結んでいてそこが大きな違いでした。

徳山製油所には徳山港の海が浅くて大型のタンカーが接岸できないという欠点があるため、鐡造は資材課長の重森俊雄に「大型のタンカーが入れるようにしろ」と命じます。
重森は沖に停泊しているタンカーの原油を海底パイプで製油所に送り込む「シー・バース方式」という方法を見出し、海底パイプを施設する工事を行います。
昭和33年は原油輸入、石油製品生産、そして販売の三部門を手にした国岡商店がいよいよ本格的に動き始めた年でもあったとありました。
ここから国岡商店はどんどん業績を伸ばします。

昭和36年、好景気に支えられ石油の需要が増え続け、徳山製油所をフル稼働しても需要を賄いきれないため、鐡造は東洋最大の製油所建設を計画し、千葉県の姉崎(あねがさき)海岸に徳山製油所の6倍以上の広大な土地を取得します。
また徳山に一大石油化学コンビナートを作る計画も立てていました。
次々と新しい構想とアイデアを生み出し、それを実行に移していく鐡造を、優秀な重役たちがサポートした。中でも、武知、正明、東雲の三人は、同業他社の者たちからその凄腕を怖れられた存在だった。いずれも他社にいれば素晴らしい経営トップになれたであろうと言われていた。
私はついに国岡商店がここまで凄い存在になったのかと嬉しくなりました。

昭和36年9月、国岡商店は東銀座から丸の内に本社を移転します。
会社があまりに大きくなったため、もはや国岡館では機能が果たせなくなっていました。

11月、国岡商店は50周年を迎え式典を開きます。
しかしその直後、日田重太郎の病が重いという知らせが届きます。
戦後、日田は自由が丘にある鐡造が用意した家で息子夫婦と暮らして87歳になっていました。
日田の生活費や彼の身の回りの世話をするお手伝いさんの給料も全て鐡造が払い、さらに日田のために軽井沢に別荘も作ったとあり、鐡造がいかに日田に大恩を感じているかが分かりました。
昭和37年2月、日田が亡くなります。
死の間際、故郷の淡路に帰りたいと言っていた日田のために鐡造は葬儀を淡路島で国岡商店の社葬として執り行います。
鐡造の弔辞は美しく悲しく、鐡造と日田が麗らかな春の日差しを受けて歩いている場面が浮かんできて、読んでいて涙が出ました。

日田の葬儀から間もなく、政府が「石油業法」という法律を成立させます。
この法律は自由貿易に歯止めをかけ、石油業界を統制して生産調整をしようというもので、明らかに国岡商店を抑え込むためのものでした。
鐡造はこの法律はいずれ「消費者不在」「官僚の統制」につながると見て反対を表明しますが他の多くの石油会社は国岡商店を抑え込めることから賛成します。
しかし鐡造は珍しくあっさり引き下がっていて、東雲はなぜ徹底抗戦しないのか気にしていました。
鐡造はこの頃、引退を考えていました。

昭和37年の暮れ、日本を異常寒波が襲い全国的に灯油が足りなくなり、さらに跳ね上がる電力需要に火力発電所の重油が不足する事態が起こります。
ところが「石油業法」があるために国岡商店の徳山製油所のタンクには有り余るほどの原油があるのにそれを製品にして販売することができませんでした。
石油業法による生産調整の失敗は誰の目にも明らかでしたが政府と石油連盟は生産調整を続けようとします。
この事態を見て鐡造は消費者のために立つことを決意します。
これが生涯最後の戦いになるだろうとありました。

石油連盟も通産省も国岡商店に対して生産調整の協定に従うように言ってきて鐡造と重役達は激怒します。
鐡造は石油連盟脱退を決断し、記者会見で堂々と語ります。
「われわれは何も怖れていない。生産調整は間違っている。国岡商店は、常に消費者の立場に立って、正しく行動しているのであるから、なんら疚しいことも恥じることもない」
「政府の石油業界に対する干渉はあまりに強すぎる。消費者の立場を完全に忘れ、供給制限をやるのは間違いである。まして輸入自由化に逆行する統制強化は時代錯誤も甚だしい」


国岡商店の徹底抗戦によって、ついに福田一通産大臣が「生産調整をできるだけ早いうちに廃止し、石油市場を自由化して消費者の立場も尊重する」と発言します。
昭和41年8月、ついに生産調整が廃止されます。
「「統制の時代」が、この日をもって幕を閉じた。」とあり、市場経済の下で石油を自由に販売できるようになりました。

昭和41年9月、鐡造は国岡商店の本社を日比谷の国際ビルに移し、その翌日に正明を社長に、東雲を副社長に任命します。
鐡造は隠居するつもりでしたが正明に「社長を辞めても、店主は辞めることはできません」と言われ会長になります。

昭和43年5月、71歳になっていた専務の武知が引退します。
物語の終盤は大きな戦いもなくゆったりとした気持ちで読めました。

鐡造は「会長」という肩書が嫌なため、会社の定款に「当会社は創始者国岡鐡造を店主と称する」という一文を入れ、正式に「店主」になります。
昭和46年、国岡商店は創業60周年の式典を開きます。
鐡造は86歳になっていましたがまだまだ矍鑠(かくしゃく)としていました。
昭和47年、72歳の正明が社長を退き63歳の東雲が新社長になります。
鐡造は重役達の顔を見渡し、どの顔もたくましい顔つきをしているのを頼もしく思います。
自分が死んでも、この男たちがいるかぎり国岡商店は大丈夫だろう。
最後の「終章」で鐡造は95年の生涯を閉じます。


ドキュメンタリー小説の良さは、かつて日本にはこんなに偉大な人がいたというのを小説で後世に語り継げることだと思います。
私は鐡造の生涯を無理とは思いますが大河ドラマで見たいと思いました。
明治、大正、昭和を生き、小さな商店での勤務から始まり、独立して国岡商店を開き、幾度もの苦難に見舞われながら、やがて押しも押されもせぬ大企業になる生涯はとても面白かったです。
大河で見たいと思わせてくれるような偉大な人物の生涯を描いた作品を読むことができて良かったです。


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ブログ開設から4000日

2018-02-07 21:38:59 | メモリアル
今日でブログの開設から4000日になりました。
2007年2月25日にブログを始めてからちょうど11年経っています。

11年の間に、直前の記事の内容から見て、もしかしてこの人はもうこの世にいないのかなと思ったことがありました。
ある時を境にブログの時間が止まっていて、しかしその時までは確かにその人がこの世にいたことを示しているブログは、独特の静けさを持っています。
砂漠や廃墟といった言葉が思い浮かびます。
ネットの世界であっても生と死の温度差は伝わってくるなと思います。

この11年、私自身も色々なことがありました。
死にたいと思ったこともありますし、生きたいと思ったこともあります。
その繰り返しが人生なのかなと最近ふと思いました。
死にたい思いと生きたい思いは正反対なようでいて、互いにつながっていると思います。
死にたいと思っている時は生きたい気持ちが「待て、死ぬな」と生きるほうに引っ張っていきます。
生きたいと思っている時は、絶えず死にたい気持ちが後ろで気配を忍ばせていて、何かの拍子に落ち込んだ時はすかさず引っ張り込もうとします。
互いに引っ張り合っていて、自分自身の中にはどちらの気持ちもあるというのを認めてあげることが、自分自身を受け入れてあげるということかなと思いました。
常に生きる気持ちだけを持っていなくてはいけないのだ、死にたい気持ちなどわずかでもあってはならないのだと強迫観念のように思うよりは、健全な状態ではと思います。

11年、4000日ブログを見たり書いたりしてきた中で、ブログにはその人の魂が宿っているのを何度も実感しました。
他の人のブログでは根っからの明るさ、朗らかさを感じる文章が私の好きな文章で、これは私にはなかなか書けない文章だからです。
やはり生まれ持った性格の違いは自然と文章に現れると思います。
そしてどんな人にも「その人の特徴」があり、他の人の特徴を真似したり無理に偉そうな文章を使うより、自身の特徴を生かして書く文章がその人にとって一番良いと思います。
これからもこの気持ちを大事にしてブログを続けていこうと思います。

ブログの日

2018-02-06 23:06:19 | ウェブ日記
今日は2月6日で「ブログの日」とのことです。
「アメーバブログ」のサイバーエージェント社がブログの普及のために2007年に制定しました。
今まで意識したことはなくて、今年はツイッターで「今日はブログの日」という情報が流れてきたのを見て知りました。

私がブログを始めたのも2007年の2月で、偶然にも普及に向けてブログの日が制定された月にブログを始めました。
ブログは広く普及しましたが2018年までの間には何度か新型のネットワークサービスの登場で勢いに陰りが見られるかなと感じる場面がありました。

2009~2010年頃はツイッターが猛烈な勢いで普及していきました。
私も興味を持ち2010年の4月にツイッターを始めました。
リアルタイム性に優れ、一つのツイート(つぶやき)につき最大140文字でブログよりもお手軽なため、これはブログの時代ではなくなるかも知れないなと思いました。

2012年頃になると今度はフェイスブックが広く普及します。
同じ頃、ラインもスマートフォンの普及に合わせて広く普及しました。
インスタグラムもこの頃には広く普及していたと思います。

ブログはサービスの提供を終了する企業もあり、やはり最盛期に比べると勢いはなくなりました。
ただし次々と新型のネットワークサービスが普及していった中でも依然としてたくさんの人が活用しているのは凄いことです。
新型のネットワークサービス達と比べてブログは「総合力の高さ」が大きな武器のような気がします。
文字数は少なくても多くても良く、写真はあってもなくても良く、この組み合わせによって幅のある表現をすることができます。
ラインに見られる「既読にしたのだから早く返信しろ。それをなかなか返信しないとは、お前は友達ではない」のような、返信の早さを強要する歪んだ関係性もブログにはないです。

「140文字に特化したツイッター」、「写真に特化したインスタグラム」のように何かに特化しているわけではないですが総合力の高さで依然として高い人気があるのだと思います。
私もブロガーの一員としてこれからもマイペースに記事を書いたり他の人のブログを見に行ったりして楽しんでいきたいと思います

「海賊とよばれた男 (上)」百田尚樹

2018-02-05 00:21:53 | 小説


今回ご紹介するのは「海賊とよばれた男 (上)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
1945年8月15日、男の戦いは0(ゼロ)からはじまった…
戦後忘却の堆積に埋もれていた驚愕の史実。
なにもかも失った経営者が命がけで守ったものは社員だった。
出光興産の創業者・出光佐三をモデルにしたドキュメント小説!
2013年第10回本屋大賞受賞作。

-----感想-----
普段読む小説なら「この物語はフィクションです。」とあるところに「この物語に登場する男たちは実在した。」とありました。
短い言葉から力強さが伝わってきて、実在した男達の大活躍が予感されました。

「序章」
国岡鐡造(てつぞう)が小学校の校庭でラジオの玉音放送を聞き、日本が戦争に負けたのを知るところから物語は始まります。
東京への空襲が激化したこの年の5月、栃木県の松田(現・足利市)に小さな家を借り、妻の多津子と娘4人を疎開させ、東京では都立一中(現・日比谷高校)に通う17歳の長男、昭一と二人で生活していました。
鐡造は60歳で国岡商店という石油販売会社の経営者で、東京の銀座に本社の「国岡館」があります。
空襲によって銀座もビルの大半が瓦礫と化しましたが国岡館は奇跡的に焼失を免れていました。
国岡商店は鐡造が一代で築き上げ、社員達からは「店主」と呼ばれ、国内の営業所が8店、海外の営業所が62店あり、社員数は1千人います。
そのうちの700名弱は海外支店と営業所にいて、200名弱は軍隊に応召中とありました。
「戦前戦中、活動の大部分を海外に置いていた。戦争に負けたということは、それらの資産がすべて失われるということを意味していた。」とあり、国岡商店は存亡の危機に立たされていました。
しかし本社での訓示で、鐡造は社員達が国岡商店の終わりを告げられるのを覚悟する中、毅然として次のように言いました。
「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからといって、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」
ここから国岡商店の立て直しに向けた苦闘が始まります。


「第一章 朱夏 昭和二十年~昭和二十二年」
9月の終わりに国岡商店で重役会議が開かれ、重役達が「社員の首を切りましょう」と言います。
国岡商店は終戦後は石油を手に入れるルートを失い開店休業状態になっています。
海外の資産は全て消失し莫大な借金だけが残り、まずは社員の首を切らなければどうにもならないというのが重役達の主張です。
しかし鐡造は「ひとりの馘首(かくしゅ)もならん」と言います。
重役の一人がなおも「社歴が浅い若い者だけでも辞めてもらうというのはどうでしょう」と言うと、鐡造は激怒して次のように言っていました。
「店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」
これは凄まじい覚悟のある言葉だと思います。
社員を使い捨てにするブラック企業の社長や幹部に聞いてほしい言葉です。

「国岡商店は何もかも失ったという者もいるが、それはとんでもない間違いだ。国岡商店のいちばんの財産はほとんど残っている
鐡造が全社員の名簿を見ながら常務の甲賀治作(じさく)に言ったこの言葉は良い言葉だと思います。
たしかに人がいなければ何もできないです。
会社の仕事が消失した状態での人を「邪魔な存在」ではなく「これから新しく始める仕事をしてくれる大事な人材」と捉えているのが鐡造の凄いところだと思います。
戦国時代きっての名将、甲斐の虎・武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉が思い浮かびました。
情けを深く持って人に接すればその人は城のごとく殿を守ってくれる頼れる存在になりますが、薄情に接して仇に思われるようだと、いざという時に頼れるどころか裏切られるという意味です。
鐡造は外地から社員が引き上げてくるといったん忸怩(じくじ)たる思いで自宅待機を命じた後、自ら全国の社員達のもとを訪ね歩き、「必ず、仕事を作るから、今しばらく待っていてくれ」と言い当座の生活資金を与えていました。
鐡造の社員を守ろうとする姿を目の当たりにしたら社員達も国岡商店復活に向けて尽力してくれるのではと思いました。

妻もまた傑物でした。
会社の仕事が消失した中で社員の給料を払うために「財産を全部失ってもいいか」「お前が嫁に来るときに持ってきた着物も売り払うことになるかもしれん」と言う鐡造に笑って快諾していました。
これは以前読んだ河合隼雄さんの本に「夫婦の功績は半々」とあったのが思い浮かびました。
妻の多津子の支えがあってこそ、敗戦後の鐡造の活躍はあったのだと思います。

窮地に立たされている国岡商店にラジオ修理の仕事が舞い込みます。
元海軍大佐の藤本壮平という男が鐡造に面会を申し込み話を持ってきました。
日本を占領しているGHQ(連合国軍最高司令官司令部)が財閥解体や農地改革をはじめ様々な政策を打ち出し、それを日本各地に知らしめるために、放送施設の整備とラジオの普及を日本政府に命じました。
しかし空襲で通信機を作っていた工場は大半が焼けてしまい新規のラジオ製作が不可能なため、代わりに壊れているラジオの修理を急ぐように命じました。
逓信院は一旦壊れている2百万台のラジオの修理を民間に委託することにし、藤本はそれを国岡商店がやらないかと言ってきました。
鐡造の決断は凄く、ラジオ修理の事業をやるとその場で決めただけでなく、藤本をラジオ部の部長にして入社させました。

藤本は事業に必要な500万円(昭和20年ではかなりの高額)を銀行から融資してもらおうとしますが、応対した人から藤本の元海軍大佐の経歴をあげつらわれ、「だらしない海軍、そんなことだから戦争に負けたんだ」のようなひどいことを言われます。
ただし藤本は自ら元海軍大佐と名乗りどこかその経歴を誇る気持ちがあったことに気づき恥じ入ります。
「俺は今日から元海軍大佐という過去をいっさい忘れることにした。国岡商店の商人となって一から修行する」と決意を新たにしていました。
そして目の前でラジオの修理を実演して見せた熱意が通じ、ついに融資をしてもらえることになり、年が明けてラジオ修理の事業が始まります。

藤本が胸中を語っていて「死に場所」という言葉が二回続けて出たのは印象的でした。
一回目に死に場所と思ったのは戦場で二回目は国岡商店です。
戦争中、戦場を死に場所と覚悟した藤本ですが、戦争が終わった今は企業人として長く働いていこうとしています。
これは冒頭で鐡造が語っていた「昨日まで日本人は戦う国民であったが、今日からは平和を愛する国民になる」に重なると思います。

2月、南方からの初めての帰還船である旧海軍の駆逐艦「神風」に、復員兵士達に混じって国岡商店の社員17人が乗って第一便として帰還します。
続々と社員が帰還する中、鐡造は決意を新たにします。
日本は一刻も早く主権を取り戻し、独立を勝ち取らねばならない。それこそ鐡造の悲願であった。それには経済の復興が不可欠だった。国岡商店の使命もそこにあった。
単に国岡商店の存続だけを考えているのではなく、日本の主権回復、経済の復興を考え、そこに国岡商店も貢献したいと考えているのが鐡造の凄いところです。

鐡造はラジオ修理は素晴らしい事業だと思っていますが、頭の中にはやはり創業以来35年間一筋にやってきた石油のことがあります。
GHQは日本への石油の輸入を一切認めず、太平洋沿岸にある製油所も全て操業を中止させています。
日本政府は「現状のままでは日本人の生活が成り立たない」とGHQに石油輸入の要請をしますが、GHQは「旧海軍のタンクの底にたまっている油を浚(さら)え。これを使わない限り、新たに石油は配給しない」と言ってきます。
これは明らかな日本への嫌がらせで、タンクの底に残っている油は海軍の屈強な軍人でさえも汲み出せなかったとありました。

3月、商工省(現・経済産業省)から斎藤健治という役人が国岡商店を訪ねてきて、旧海軍のタンクの底にたまっている油を浚う仕事をしてほしいと言います。
当初商工省は石統(石油配給統制会社)に業務を発注しましたが、あまりに過酷な作業のため石統に加入している業者はどこも手を上げませんでした。
石統は戦中に軍部が石油の流通と販売を統制しようとして作った国策会社で、国内の石油は石統に加入している会社以外は扱えなくなっています。
役人との癒着が甚だしい会社でもあり、石統のやり方に反対している鐡造は石統から閉め出されています。
このため国岡商店は国内より海外の営業所のほうが大幅に多くなっていました。
鐡造は斎藤の頼みを聞き業務を引き受けます。
「タンク底を浚わないかぎり、新たに日本に石油を入れないというのであれば、やるしかないでしょうな」と言っていて、ここでも日本全体のことを考えていました。

国岡商店の社員達は梯子でタンクの底に降りて油を汲み出す作業を始めます。
泥が混じっていてポンプは使えないため人力で汲み出すしかないです。
過酷な作業にも関わらず社員達は嫌な顔一つせず活発に作業していて、鐡造は社員達の士気の高さに胸が熱くなります。

6月、鐡造に「公職追放令」が出されます。
公職追放令とはGHQが「戦争犯罪人」や「軍部に協力的だった」と見なした人を公職や会社役員から追放するというものです。
鐡造は貴族院議員でもあったためその辞職を勧告されます。
ただし公職追放の理由が事実無根の言いがかりだったため鐡造は激怒してGHQに乗り込みます。
この頃、GHQの恐ろしさは「泣く子も黙る」とまで言われ天下に知られていて、抗議しに行くのは異例のことでした。

鐡造はアメリカの石油資本などの国際石油資本に日本を蹂躙されるのを防ぐためなら、他の石油会社と合併して国岡商店がなくなっても構わないと考えていて、これは凄いと思いました。
自身が創業した会社がなくなってでも国際石油資本の支配から日本を守ろうとしていて、真に日本のことを考えています。

鐡造は東雲(しののめ)忠司という37歳の男を国岡商店の次代を担う男にしたいと考えています。
山口県の徳山でタンクの底から油を浚う作業の現場責任者をしている東雲を一旦呼び戻し、東雲を連れて商工省の鉱山局を訪ね、日本の石油市場を外国資本の石油会社の独占から守るためにすべきことを語ります。
ところが応対した鉱山局石油課長の北山利夫はあからさまに馬鹿にした対応をします。
さらにその場に石統社長の鳥川卓巳がやってきて、役人の北山と鳥川の蜜月ぶりを見ることになり、鐡造は石統と全面対決して解体する決意をします。

GHQ法務局は日本を経済的に立ち直らせるには石油業界の自立が必要と考えていて、この状況は役人や石統に敵視され逆境にある鐡造に味方すると思いました。
法務局のアレックス・ミラー少佐は石統を解体させ新たな石油配給機構を作ろうとしていて、「石油業界のしがらみには染まっていないが石油業界に人脈のある人物」を探していました。
まず終戦時に旧陸軍の軍務局に務めていて大佐だった武知甲太郎に声がかかります。
依頼を受けた武知は軍務局の局長で少将だった永井八津次(やつじ)に相談します。
この永井が鐡造と交友がありその人柄に惚れ込んでいて、武知に鐡造のことを紹介します。
GHQと会って会談をしてほしいと依頼された鐡造は快諾し、GHQが「お互いに相手の身分や名前を一切明かさないで会談したい」と条件をつけていて自身はGHQに広く顔を知られていることから、東雲を行かせることにします。

東雲とGHQ法務局の会談はとても実りのあるもので、応対したアレックス・ミラー少佐とソニー・レドモンド大尉は東雲の言葉に聞き入っていました。
三度目の会談ではお互い身分を明かすことになり、国岡商店の東雲忠司と名乗ります。
二人は国岡商店と鐡造を知っていて鐡造のことを凄く評価していました。

やがて鐡造の公職追放が解かれます。
鐡造の無実を知り、さらに人柄にも引かれていたGHQ法務局が公職追放の解除に尽力してくれていて、GHQの心をも動かす鐡造の人柄は凄いと思いました。

鐡造とGHQ石油課のアーヴィング・モア大佐の会談で、モアが戦争での日本人の恐ろしさを胸中で語る場面がありました。
四年近く戦った日本軍の恐ろしさは多くの者が知っている。ゼロ戦をはじめとする優秀な戦闘機、それに米太平洋艦隊をさんざん苦しめた空母艦隊。今は占領下にあり、羊のようにおとなしい国民だが、ひとたび牙を剥けば、あのカミカゼアタックのように、命を懸けて戦ってくる恐ろしい国民なのだ。そうならないように日本人の牙と爪をすべて抜いてしまうというのが、GHQの使命のひとつでもあった。
「GHQの使命」という言葉が印象的で、私はすぐに日教組(日本教職員組合)が思い浮かびました。
日本人の牙と爪を無くし二度と歯向かえないようにするためにGHQは日本の教育を破壊します。
反日左翼思想の教師(日教組の教師)を教育現場に大量に送り込み、国旗や国歌、そして日本を嫌いにするための反日左翼教育を行います。
これは次第に浸透し、国旗や国歌、そして日本を好きになる(愛国心を持つ)のは悪いことと刷り込まれた人達が大量に産み出されました。
日教組の教師は公務員でありながら式典での国旗掲揚や国歌斉唱まで拒否しています。
私はGHQの亡霊のような日教組の教職員は一人残らず教育現場から一掃するべきだと思います。

武知が国岡商店の社員にしてくれと言い鐡造は快諾します。
鐡造のもとにどんどん人が引きつけられていて、読んでいて勇気が湧いてきました

石統に代わる「石油配給公団」が設立されます。
公団には旧石統の幹部がそのまま居座っていて商工省の役人との癒着も酷いままです。
公団は石油販売業者の指定から国岡商店を外そうとします。
商工省に頼まれたから日本のためにタンク底の油を浚う過酷な作業をしているのに、国岡商店が指定業者から外されるのは酷すぎると思いました。
この情報を徳山のタンク底で作業をしている宇佐美幸吉(こうきち)という社員がいち早く知り、すぐに鐡造に知らせます。
やがて武知の活躍で公団の「販売指定業者要領案」を手に入れ宇佐美の情報の裏付けを得た鐡造は激怒します。
公団の旧石統の人達は商工省からタンクの底の油を浚う作業の発注を受けた時、その作業をしないとGHQが石油を日本に供給してくれないにも関わらず、作業をしようとはしませんでした。
過酷な作業は国岡商店に押し付け、その後の「石油供給再開」という旨味の部分だけ自分達で押さえるという最悪なことをしています。

ただしGHQは公団ではなく国岡商店に味方してくれます。
GHQが商工省の北山を呼び出して激怒したことで公団の石油販売業者の指定から国岡商店を外す計略は失敗に終わります。
鐡造が一人たりとも社員の首を切らないと決意した日から二年経ち、ついに再び国岡商店が石油を扱える日がきます。


「第二章 青春 明治18年~昭和20年」
鐡造の生まれは福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市赤間)とありました。
少年時代の鐡造はとても勤勉なのと自身の将来をよく見据えているのが印象的でした。

明治40年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)の三年生になった鐡造は夏休みに東北旅行をします。
その時にたまたま秋田市の八橋(やばせ)に油田が発見されこの年から開発が始められたことを知ります。
油田開発の現地を訪れた鐡造は石油に魅せられ、神戸に戻ってからは石油について猛然と調べます。
これがきっかけで鐡造は石油の仕事に就くことになります。

鐡造は学内でも特に目立たない学生でしたが、神戸高商の近くに住む日田重太郎(ひだじゅうたろう)という32歳の資産家の男は鐡造に注目していました。
日田は鐡造の人間性を見込み、中学受験をする息子の重一の勉強の指導を頼みます。
鐡造の指導はとても厳しいもので甘やかされて育った重一は何度も泣きますが、やがて見違えるほどしっかりした子になりました。
日田が妻の八重に「あいつは人を育てる才能があるのかもしれん」と言っていたのが印象的でした。

鐡造は従業員3人の酒井商会という小麦と機械油を扱う小さなお店の内定を貰います。
その数日後、先に受けて一度は落ちたと思われた鈴木商店からも内定を貰います。
鈴木商店は急成長を遂げていた新興の商社で、この数年後には年商日本一になったとありました。
しかし鐡造はいつか独立して自分で商社をやりたいという夢のために、小さな商店で何もかも自分でやってみる経験を積みたいと考え、酒井商会への入社を決断します。
同級生達は鐡造を露骨に馬鹿にしますが日田は鐡造の決意を聞くと納得していました。
そこには「鐡造らしいな」と思っている雰囲気があり、若いうちに日田という良き理解者を得たのは鐡造の幸運だと思います。

三年目の春、鐡造は酒井商会店主の酒井賀一郎から命じられ小麦を売り込むために台湾に行きます。
初めての大きな出張に鐡造はワクワクします。
これから自分は広く世界に打って出る。これはその最初の一歩だ。

台湾の大手製麺所は大商社の三井物産に押さえられていて、どうやって対抗するか考えた鐡造は台湾から神戸に様々な荷物を運んでくる貨物船の帰りが空船になることに注目します。
この空船で日本から小麦粉を運べば運賃を値切れるはずだと読みこれが当たり、運賃が安くなったことで小麦の値段も安くすることができ、台湾で百以上の得意先を開拓します。
これに腹を立てた三井物産の大橋と下柳という男が鐡造の泊まっている宿に押し掛けてきます。
下柳は高商時代の同級生で、小さな商店に就職した鐡造を馬鹿にしていましたが、小麦の戦いで鐡造に大暴れされたのが悔しくて上司に頼んで圧力を掛けにきていました。
大橋と下柳に鐡造は堂々と商売の信念を語ります。
「ぼくが安い価格で小麦を売りたいのは、商売を広げたいというのはもちろんですが、それよりも消費者に安い値段で提供したいからです。生産者と消費者がともに得をするのが正しい商いと信じています。どちらかだけが得をする商売は間違っています。ぼくはその橋渡しをしているのです」
鐡造の「生産者と消費者がともに得をする」という信念は素晴らしく、読んでいて胸を打ちました。

鐡造の生家では父の徳三郎が商売に失敗し夜逃同然で引っ越し、子供達もバラバラになっています。
そのことを知った鐡造は家族を一つにして皆で暮らすために独立の思いを強く持つようになります。

鐡造は日田に誘われ一緒に散歩をします。
話しているうちに日田は鐡造の中にある独立への思いを見抜きます。
何と日田は自身が京都に持っている別宅を売ってお金を作るから独立してみないかと言います。
しかも返済も不要で「あげる」と言っていました。
鐡造は日田は自分が思っていた以上に遥かに大きな器の持ち主かも知れないと思います。

明治44年6月20日、鐡造は25歳で九州の門司(もじ)に国岡商店を旗揚げします。
そしてバラバラになった家族を一つにしてまた一緒に暮らせるようにします。

鐡造は機械油を扱う商売を始めます。
独立して半年経ったある日、日田が門司に引っ越してきます。
日田は「神戸は飽きた」と飄々と言っていましたが実際には京都の別宅を売ってそのお金を鐡造に与えたことを親族達から責められ、関西に住みずらくなっていました。
しかしそんな様子はおくびにも出さないところに日田の器の大きさが表れていました。

門司での油の販売に苦戦する鐡造は機械油、シリンダー油、グリースなどの様々な油を混ぜて性能の優れたオリジナルの油を作ることを思いつきます。
鐡造の調合した機械油は明治紡績という福岡有数の大工場から絶賛され大量の発注を受けます。
国岡商店を創業して一年、初めての大きな商いになりました。

鐡造は伯父の安一に縁談の話を勧められ春日ユキと結婚します。
しかし商売は苦戦が続き独立して四年目の春、日田から貰った資金が底をつきます。

日田に国岡商店を廃業すると言うと、何と日田は神戸の家も売ってお金を作ってくれると言います。
何て凄い人なんだと思い、器の大きい鐡造を支えるこの人の器は計り知れないと思いました。

もう一度商売を徹底的に考え直そうと思った鐡造は灯油を燃料にする小型漁船を関門海峡で何艘も見かけていたことに気づきます。
鐡造が目を付けたのは燃料で、エンジンの燃料に灯油ではなく軽油を使用できれば燃料費を大幅に安くできるため、軽油でエンジンを動かす実験をして全く問題ないことを確かめます。
鐡造は門司の対岸の下関にある山神組(現・日本水産)にエンジンに軽油を使ってもらうための交渉に行きます。
そして応対した技術者が鐡造の実験を見て国岡商店の軽油を使うことを承諾してくれます。
ただし国岡商店は大手の日邦石油と特約店契約をしていて、契約で門司の店は下関では販売してはいけないことになっています。
鐡造は「船を使って海の上で売る」と言います。
海の上なら門司も下関も関係ないという考えで、この機転は凄いと思いました。
船の上での商売は大繁盛し、大暴れする国岡商店の船は「海賊」と呼ばれるようになります。

鐡造は国岡商店で働く社員の教育にも力を入れます。
どんどん支店を出し社員達を支店長にしたいと考えています。
その支店長には何をするにも本店に伺いを立てるのではなく、自分で正しい判断ができる一国一城の主になってほしいと考えています。
そして国岡商店はどんどん販路を広げ、長崎、大分、宮崎、さらには四国にも支店を作り西日本の海で暴れ回ります。

鐡造は一度満州で油を売ろうとして外国石油企業の壁に阻まれて失敗したのですが、大正13年12月、再び満州に行きます。
満鉄(南満州鉄道株式会社)に油を売りたいと考えています。
鐡造には日本政府の後ろ楯がある満鉄はいずれ巨大な企業になるという読みがあり、今、満鉄の車輛の油を押さえておきたいと考えています。
満鉄の車庫を渡り歩いて熱心に油を売る努力が実を結び、鐡造が調合した満州の寒さに耐えられる油を使って実際に列車を走らせてくれることになります。
この実験が成功し、満鉄から国岡商店に車軸油の一部を注文したいと連絡がきます。
鐡造の努力が報われて良かったと思いました。

この頃、欧州での戦争(第一次世界大戦)が激化し、日本に入ってくる石油の量が減ると考えた鐡造は石油のストックを増やします。
すると予想どおり石油の輸入量が激減し石油の値段が高騰します。
この機に石油を高く売ろうと言う社員がいたのですが鐡造は一喝します。
「国岡商店が軽油の備蓄を増やしたのは投機のためではない。消費者に安定供給するためではないか。今後、二度と卑しいことを言うな!」
値段の高騰に合わせて高く売れば大儲けになるところをそうはせず、どこまでも消費者への安定供給を考えている凄い信念だと思いました。

満鉄の車軸油は大半をアメリカの石油会社が押さえていますが、鐡造は実験をしてその車軸油の寒さへの弱さを知り、このままでは満鉄の車輛に大きな事故が起きるのではと危機感を持ちます。
しかし満鉄にそのことを言っても相手にしてもらえません。
やがて鐡造の指摘どおり車輛の車軸が焼ける事故が起き、鐡造とアメリカの石油会社三社(スタンダード石油、ヴァキューム社、テキサス石油)の関係者を集めて車軸油の寒さへの耐性実験が行われます。
鐡造は見事三社に勝利し、満鉄の車軸油は全て国岡商店の新しい車軸油に切り替えられることになり、満州の地に国岡商店の名前が轟きます。

大正12年9月1日、関東大震災が起き日本経済は落ち込みます。
鐡造は突然大口の融資をしてもらっている第一銀行門司支店の副支店長の訪問を受け、これまでに融資した金を半年以内に返済するように要求されます。
商売は順調なのに倒産の危機になります。
鐡造はやむを得ず高利貸しから借りる決意をしますが日田に止められて目が覚めます。

鐡造はもう一つの大口融資銀行である二十三銀行門司支店の林清治支店長を訪ね、第一銀行から貸金の全額引き揚げを要求されたことを話します。
全額返済するには倒産して店を清算するしかなく、二十三銀行も第一銀行と同じように貸金を回収するならただちに店を畳むと言います。
倒産を覚悟し、二十三銀行に筋を通したのだと思います。
これを聞いた林は何とか鐡造を助けてあげようと、大分の本店に行き長野善五郎頭取を訪ねます。
林が「国岡鐡造という人物は立派な男です。国岡商店もまた立派な店です。できれば、われわれが支えてあげたいと思います」と言うとあっさり承諾してくれます。
林が鐡造を信じているように、長野は林を信じているのだと思いました。
第一銀行の融資分も二十三銀行が肩代わりすることを承諾してくれていて、この人もまた日田のように器の大きい人物だと思いました。

大正13年の暮れには国岡商店は社員の数が百名を超えます。
翌年春、日田が神戸に帰ります。
次男の重助が京都の美術大学を出て陶芸家になり、日田も一緒に焼き物をやると言っていました。

大正14年の暮れ、ユキが結婚して12年間子どもを生めなかったから責任を取って離縁したいと言います。
何とか思い止まらせようとしますが「鐡造は跡取りを作るべき」と言うユキの決心は固く、鐡造は離婚を承諾します。
読んでいてユキの決心は凄まじいと思いました。
仲が良いのに鐡造の跡取りのことを考えて自ら離縁したいと言い、鐡造の引き留めを拒むのは断腸の思いだと思います。
鐡造はこの時ユキが涙を流す姿を初めて見ました。

やがて大正が終わり鐡造は国、国岡商店、さらには自分自身にとって大正は激動の時代だったと思います。
そしてその次にあった一文が印象的でした。
しかし本当の激動の時代がこの後に押し寄せることになるのを、鐡造も国民の多くも知らなかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)が迫ります。

昭和2年、鐡造は知人の紹介で山内多津子と再婚します。
この年に男の子が生まれ昭和の元号から一文字取り「昭一」と名づけます。
昭和の元号の由来は興味深かったです。
「昭」は明るく照らすことを意味する文字、「和」はもちろん「仲良く」という意味の文字だ。つまり「昭和」という元号は、明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを祈って付けられたものだった。
穏やかな昭和を望んでいたのだなと、しみじみとしました。

昭和6年9月、満州事変が起き中国との戦いが始まります。
やがて日本政府は日本でも満州でも石油を統制しようとし、鐡造はこの動きに危機感を持ちます。
鐡造は満州の石油が統制されると中国の上海への進出を決断し、部長の長谷川喜久雄という鐡造が若い時から目をかけていた男に現地での指揮を任せます。
昭和13年4月、戦争遂行のために国家にあらゆる権力が与えられるという主旨の「国家総動員法」が成立し、陸軍の暴走が止まらなくなります。

鐡造が「富国強兵」について胸中で語っていたのが印象的でした。
鐡造が生まれた明治18年から日本はずっと富国強兵で突き進んできた。欧米の列強がアジア諸国を植民地化していく中で、日本が生き残る道はそれしかなかった。もしも日清戦争や日露戦争で負けていれば、日本は他のアジア諸国同様、ロシアや英米に植民地化されていたに違いない。
これはそのとおりで、当時世界は「白人至上主義」が支配し、白人以外はゴミ同然と考えていました。
ゴミ同然の国なら植民地化して奴隷にしても問題ないという考えのもと、オランダやイギリス、フランスなどの列強はインド、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、フィリピン、シンガポール、マレーシアなどのアジア諸国を植民地にし非道の限りを尽くしていました。
こちらがどんなに「平和に暮らしたいです」と言っても相手が問答無用で武力で侵略してくればあっという間にやられて植民地にされてしまいます。
これを防ぐには国が強くなり簡単には植民地にされない力を身に付けるしかないです。
この時代、日本はアジアで唯一列強の支配に対抗できる力のある国でした。
「昭和」の元号の由来に「明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを祈って付けられた」とありますが、それを実現するには大前提として国に簡単には侵略されない力がなければ成り立たないことを、今の時代を生きる日本人は忘れてはならないと思います。
ただし「国家総動員法」に見られるようにまずい部分もありました。
まずい部分は反省し、同じ失敗をしないように後世に生かすのが最善だと思います。

鐡造は直接アメリカやイギリスの石油会社から原油を中国での販売用に輸入しようと考え、タンカーを建造し完成したタンカーに「日章丸」と名づけます。
しかし世界は再び欧州戦争以来の大戦争に突入しようとしていて、日本のタンカーが自由に海外へ石油を求めて動ける情勢ではなくなっていました。

昭和15年、日本の経済は厳しさを増し、米穀(べいこく)が配給制になります。
この年の9月「日独伊三国同盟」が結ばれ、日本は米英と完全に敵対関係になります。
アメリカは日本へ石油の一部を輸出禁止にする対日経済制裁を行います。

日本では石油共販株式会社(後の石統)ができ、そこから閉め出されている国岡商店はもはや国内の営業所では商売ができなくなります。
鐡造は国内の営業所を縮小し満州と中国に主力を移すことを決断します。

昭和16年7月、ついにアメリカが日本への石油の輸出を全て禁止します。
12月、日本とアメリカの全面対決が始まります。

鐡造は陸軍省燃料課の中村儀十郎大佐に頼まれ、南方のスマトラ島の油田に国岡商店の社員200人を送ることを決断します。
昭和19年7月、昭南島(シンガポール)から現地の実情を報告するために長谷川喜久雄が一度日本に戻ってきます。
49歳になった長谷川は戦場で軍を相手にして民需石油の配給を一手に引き受け全身に風格と凄みが滲み出ていました。
この時鐡造は戦争が終わったら長谷川に国岡商店を任せようと考えていました。
しかし終戦後の二年間が描かれた第一章に長谷川の姿はなく、そうか、この人は死んでしまうのかと思い悲しくなりました。


第一章はとにかく「社員の首は絶対に切らない」という鐡造の経営者としての揺るがない信念が印象的でした。
第二章は第一章が始まるまでに鐡造がどんな人生を歩んでいたかを知る物語で、その人生は本当に波乱に満ちていました。
若い頃から第一章で見た圧倒的な器の大きさの片鱗を見せていて、その鐡造を支えた日田重太郎やユキ、困った時に国岡商店を助けてくれた銀行の人の器の大きさもまた印象的でした。
鐡造は自然とそういう人を引き寄せる天性の魅力と吸引力を持っているのではと思いました。
再び第一章の続きに戻る下巻で鐡造のどんな活躍が見られるのか楽しみにしています


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