日本万歳を嫌う海外在住の日本人は多い。そのくせ彼らは食べ物、漫画、アニメやゲーム、日本株式会社の株などへの最新情報には鋭い。現地に帰化する人の数が少ないのは、日本という国が住みやすい国だとわかっているからだ。当然、親戚や家族が日本にいることもあるが、大抵は病気になると日本に戻るとかが多い。
さて、外国人からみた日本とは、過去には小さい体のくせに強い国というイメージが多い。まさに一寸法師こそが日本なんだろうか。日本の軍隊は残忍という説についても、「戦争だし、当時の記録はほとんどが敵国人からの電文」という事情もよく理解している。それは昨今の戦争がまさにそれだからだ。ISによる公開処刑ばかりが注目されるが、未だに石打、むち打ちという処罰は存在する。死刑もいろいろな方法が存在する。それを動画にして見れたら、おそらく誰もが「残酷だ。」と表現するだとうと自分は予測する。人が死ぬのは事故などで幾度か目撃しているが、本当に信じられないぐらいに簡単に死ぬ。病気や高齢でも同じ。唯一の違いは同じ人間の手による死。 死刑には自分も反対側に立つ。だが、現実として、殺人の方法や種類によっては死刑もあって当然とも考える。特に残虐な拷問に近い状況で殺した場合は、同じ状況で殺されて当然だ、という気持ちもある。さて、死刑は一体何のために存続が必要なのか。むしろ、どこかの孤島で脱出不可能な状況を作り、そこで自給自足で生活してもらうなどではどうだろうか。単純に処刑するために誰かの手を使わない状況であればいいだけだ。ゆえに、そういった混沌に投げ込む状況がふさわしい。人間としての尊厳は誰もが持つというが、果たして社会のルールを犯してまでの殺人となれば、人間という価値はどうなるんだろうか。集団社会で生きる動物の場合、集団のルールに従わなければ、そこから追い出される。そうなると生き延びる確率はほぼゼロに近くなる動物もいる。逆に自分が権力を取れるような弱い集団で生き延びる場合もある。遺伝子とはまさに多種多様な状況に対応できる仕組みとも言える。
こういった現実の上に知能としての学問がある。倫理だとか道徳だ。そこには集団社会で生きるためにはどうすればいいのか、というコツがある。例えば、キリスト教などの元となる十戒や宗教による戒めは、類似している。つまり集団社会でどう生きるべきかと教えているのだ。それでも戒めを破る人はいるので、そういった人への処罰にむち打ちや死刑がある。近代国家は法律としての処罰として死刑をどう定義しているのか。たぶん、こういった部分から議論していかないと、日本の死刑制度の変更は難しいと思う。なにせ、日本の宗教である神道には死刑という発想がない。しいてゆうなら、社会から排除するという行うなんだろうか。でも、別に一人でも自給自足はできるのだから、死刑とはいいがたい。そもそも人の魂は死んだなら集まって別な何かになるという。地獄とか天国といった人が作った世界ではないところがなんとも凄い。宗教議論で自分が持ち出す疑問は「全知能の神」という存在はなぜ生まれたのか。まさに鶏か卵か。人間が考える範囲や知り得る範囲には限界がある、とも言える。だが、世界の多くがこういった価値観を歓迎し、影響されて三大宗教は今でも世界中に信者を持つ。ただし、それぞれは細かいグループに分裂し、教義の違いで戦争までする不思議さ。多様性を受け入れることができないのだ。だからスピリチャル系だとかいろいろな宗教が生まれてくるし、古来からの宗教も活性化してきている。こういった現象こそが多様性そのものを表していると自分は感じるのだが。
日本という国は古来から天皇という一種の宗教がらみのような一族をトップとして、小さい集団から時間を経て統一してきた。これは中国も同じだが、あちらは宗教というような部分はほとんどない。ある意味、古代中国大陸では日本と同じように古来からの民族信仰が人を支えていたのかもしれない。オカルトや妖怪とか迷信がたくさんある国や民族もまさに多種多様。それでもそこに共通点はある。形態はいろいろだとしても結婚、子供を育てるという部分において、人はそこに幸せを見出そうとしているのだ。これは日本も同じ。ならばどうして昨今、結婚や子供という状況で幸福を達成しようとしなくなったのか。こういった分析がない限り、少子化は止まらないだろう。なにせ子供は親のペットみたいな感覚が未だにまかり通る日本なのだから。
日本国民が認識せざる得ないのは、日本もグロバール化の波で変わっていくことだと思う。だからこそ、いかに文化を継承しつつ、オープンな国になれるのかをそれぞれが考える時期でもある。だが、決して被害妄想やら卑下するような見方をしないでもらいたい。そもそも人はみな平等とか、過去に囚われることはないのだ。おまけに詫びたところで死んだ人が蘇るわけでもないし、名誉回復といったところで何世代後にどんなメリットがあるのか。それとも未だに身分やら家柄とかで人の価値が決まるのか、と問いたい。本当の平等とは、現在共に生きるためにどうやってやるべきことを分担するのかを考え、実行する相手への条件でもある。ゆえに未だに日本がどうたらと過去を持ち出したりするような国との交流や関係を維持するのが好ましいとは思わない。ネガティブな人に交われば、影響を受け、ネガティブな方向に進むのは事実だからだ。法的に処理できないからこそ、民間でこういったネガティブな人たちとの交流を断つ覚悟も必要だろう。もし、こういった選択が差別というのなら、自らの未来を進む自由のために必要な仲間を選択する権利であり、それを差別とは定義できない、と返せばよい。今時、自分がメンバーに選ばれないから差別と裁判したところで、勝利する可能性は少ないし、例え勝利したところで、同じチームから信頼されることもないので仕事にしてもそりゃもう楽しくもないし、苦しくても誰も助けてすらくれないだろう。そもそも平等とは同じ仲間という前提から生まれた価値観であり、敵対している相手と平等なんてありえない。
日本は自らの自浄作用として、敵対国からの来日や交流を民間レベルで断つ努力は必要だと思うのだが。
さて、外国人からみた日本とは、過去には小さい体のくせに強い国というイメージが多い。まさに一寸法師こそが日本なんだろうか。日本の軍隊は残忍という説についても、「戦争だし、当時の記録はほとんどが敵国人からの電文」という事情もよく理解している。それは昨今の戦争がまさにそれだからだ。ISによる公開処刑ばかりが注目されるが、未だに石打、むち打ちという処罰は存在する。死刑もいろいろな方法が存在する。それを動画にして見れたら、おそらく誰もが「残酷だ。」と表現するだとうと自分は予測する。人が死ぬのは事故などで幾度か目撃しているが、本当に信じられないぐらいに簡単に死ぬ。病気や高齢でも同じ。唯一の違いは同じ人間の手による死。 死刑には自分も反対側に立つ。だが、現実として、殺人の方法や種類によっては死刑もあって当然とも考える。特に残虐な拷問に近い状況で殺した場合は、同じ状況で殺されて当然だ、という気持ちもある。さて、死刑は一体何のために存続が必要なのか。むしろ、どこかの孤島で脱出不可能な状況を作り、そこで自給自足で生活してもらうなどではどうだろうか。単純に処刑するために誰かの手を使わない状況であればいいだけだ。ゆえに、そういった混沌に投げ込む状況がふさわしい。人間としての尊厳は誰もが持つというが、果たして社会のルールを犯してまでの殺人となれば、人間という価値はどうなるんだろうか。集団社会で生きる動物の場合、集団のルールに従わなければ、そこから追い出される。そうなると生き延びる確率はほぼゼロに近くなる動物もいる。逆に自分が権力を取れるような弱い集団で生き延びる場合もある。遺伝子とはまさに多種多様な状況に対応できる仕組みとも言える。
こういった現実の上に知能としての学問がある。倫理だとか道徳だ。そこには集団社会で生きるためにはどうすればいいのか、というコツがある。例えば、キリスト教などの元となる十戒や宗教による戒めは、類似している。つまり集団社会でどう生きるべきかと教えているのだ。それでも戒めを破る人はいるので、そういった人への処罰にむち打ちや死刑がある。近代国家は法律としての処罰として死刑をどう定義しているのか。たぶん、こういった部分から議論していかないと、日本の死刑制度の変更は難しいと思う。なにせ、日本の宗教である神道には死刑という発想がない。しいてゆうなら、社会から排除するという行うなんだろうか。でも、別に一人でも自給自足はできるのだから、死刑とはいいがたい。そもそも人の魂は死んだなら集まって別な何かになるという。地獄とか天国といった人が作った世界ではないところがなんとも凄い。宗教議論で自分が持ち出す疑問は「全知能の神」という存在はなぜ生まれたのか。まさに鶏か卵か。人間が考える範囲や知り得る範囲には限界がある、とも言える。だが、世界の多くがこういった価値観を歓迎し、影響されて三大宗教は今でも世界中に信者を持つ。ただし、それぞれは細かいグループに分裂し、教義の違いで戦争までする不思議さ。多様性を受け入れることができないのだ。だからスピリチャル系だとかいろいろな宗教が生まれてくるし、古来からの宗教も活性化してきている。こういった現象こそが多様性そのものを表していると自分は感じるのだが。
日本という国は古来から天皇という一種の宗教がらみのような一族をトップとして、小さい集団から時間を経て統一してきた。これは中国も同じだが、あちらは宗教というような部分はほとんどない。ある意味、古代中国大陸では日本と同じように古来からの民族信仰が人を支えていたのかもしれない。オカルトや妖怪とか迷信がたくさんある国や民族もまさに多種多様。それでもそこに共通点はある。形態はいろいろだとしても結婚、子供を育てるという部分において、人はそこに幸せを見出そうとしているのだ。これは日本も同じ。ならばどうして昨今、結婚や子供という状況で幸福を達成しようとしなくなったのか。こういった分析がない限り、少子化は止まらないだろう。なにせ子供は親のペットみたいな感覚が未だにまかり通る日本なのだから。
日本国民が認識せざる得ないのは、日本もグロバール化の波で変わっていくことだと思う。だからこそ、いかに文化を継承しつつ、オープンな国になれるのかをそれぞれが考える時期でもある。だが、決して被害妄想やら卑下するような見方をしないでもらいたい。そもそも人はみな平等とか、過去に囚われることはないのだ。おまけに詫びたところで死んだ人が蘇るわけでもないし、名誉回復といったところで何世代後にどんなメリットがあるのか。それとも未だに身分やら家柄とかで人の価値が決まるのか、と問いたい。本当の平等とは、現在共に生きるためにどうやってやるべきことを分担するのかを考え、実行する相手への条件でもある。ゆえに未だに日本がどうたらと過去を持ち出したりするような国との交流や関係を維持するのが好ましいとは思わない。ネガティブな人に交われば、影響を受け、ネガティブな方向に進むのは事実だからだ。法的に処理できないからこそ、民間でこういったネガティブな人たちとの交流を断つ覚悟も必要だろう。もし、こういった選択が差別というのなら、自らの未来を進む自由のために必要な仲間を選択する権利であり、それを差別とは定義できない、と返せばよい。今時、自分がメンバーに選ばれないから差別と裁判したところで、勝利する可能性は少ないし、例え勝利したところで、同じチームから信頼されることもないので仕事にしてもそりゃもう楽しくもないし、苦しくても誰も助けてすらくれないだろう。そもそも平等とは同じ仲間という前提から生まれた価値観であり、敵対している相手と平等なんてありえない。
日本は自らの自浄作用として、敵対国からの来日や交流を民間レベルで断つ努力は必要だと思うのだが。