錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~若手のホープ(その3)

2012-10-03 21:20:26 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 昭和二十五年暮、東京の歌舞伎座が新築完成し、翌二十六年正月より歌舞伎興行を再開することになった。東京大空襲で焼けた歌舞伎の殿堂が五年経って復活したのである。そのため、戦後の歌舞伎の本拠地であった東京劇場は映画館に鞍替えし、歌舞伎座とバトンタッチすることになった。
 新橋演舞場はすでに昭和二十三年三月に改築完成、興行を再開しており、明治座は、歌舞伎座と同じ昭和二十五年十二月落成し、歌舞伎座より一足早く開場したていた。(明治座のこけら落としは、菊五郎劇団が受け持った。ただし、明治座は松竹の傘下から離れ、株式会社明治座が運営するようになる。歌舞伎座も株式会社組織になったが、こちらは松竹が全面的にバックアップしての運営であった)
 ここで少しだけ戦後の東京の劇場史に触れておくと、昭和二十二年末に新宿第一劇場は映画館になり、帝國劇場は敗戦後の菊五郎劇団の出演に始まって吉右衛門劇団も出演し、年に一、二ヶ月は歌舞伎公演を行っていたが、松竹優位の情勢に圧されて昭和二十四年で歌舞伎は打ち切る。三越劇場は昭和二十二年十二月から二年間、主に若手を主体に三越歌舞伎を催して来たが、昭和二十五年末で歌舞伎から撤退。結局三越青年歌舞伎は二回で終わり、若手を育成しようという当初の企画も挫折してしまう。

 昭和二十六年一月三日、歌舞伎座が開場。各界から四千五百名を招待して開場式が行われた。松竹社長大谷竹次郎が挨拶に立ち、その後、「寿式三番曳」を三津五郎(翁)、猿之助(三番曳)、時蔵(千歳)で踊った。俳優総代としては吉右衛門が挨拶。続いて伊原青々園作「華競歌舞伎誕生」(一幕四場)が演じられた。歌舞伎の創始者・出雲の阿国をヒロインにした新作で、阿国は時蔵が演じ、錦之助と賀津雄も弟子役で出演した。
 錦之助は「あげ羽の蝶」で新築の歌舞伎座を目にした時のことをこう書いている、

――私はその偉容を駈けるようにして行って、はじめて仰いだ時、私の瞳は霞んではっきりとながめることが出来ない程でした。歌舞伎座のこけらおとしの興行の朝。父の明るい顔、こみ上げて来る喜びに身の置くところも知らないと云った風景でした。

 こけら落しの正月興行は、一月五日から二十五日の二十五日間であったが、新生歌舞伎座を見ようと客の入りも多く連日満員になった。吉右衛門劇団に三津五郎と時蔵が加わり、それに猿之助一座が出演した。(菊五郎劇団は明治座に出演していた。)
 出し物は、昼の部の最初が「新舞台観光闇争」(渥美清太郎作)で、これは舞台の仕組みの紹介も兼ねたバラエティショー、続いて「箕輪の雪」(舟橋聖一作)、「二條城の清正」、「文屋」と「喜撰」。夜の部が「華競歌舞伎誕生」「二人三番曳」「籠釣瓶」「戻橋」であった。
 吉右衛門は昼の部の清正と夜の部の「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門の二役だったが、体調不良。途中四日間、次郎左衛門の役は勘三郎が代演している。猿之助と時蔵が昼夜合わせ五役、まさに大車輪の働きで、勘三郎、幸四郎、芝翫、羽左衛門(十六代目)たちも数役勤める活躍だった。
 時蔵一家も、種太郎、梅枝、錦之助、賀津雄が揃って出演した。錦之助は、「華競歌舞伎誕生」の阿国の弟子のほかに、「二條城の清正」で侍女、「文屋と喜撰」で所化(坊主)の三役勤めた。猿之助の孫の団子(のちに三代目猿之助)、幸四郎の息子の染五郎(現・幸四郎)と萬之助(現・吉右衛門)、勘三郎の娘の久里子と千代枝も子役で出演した。
 正月の開場披露興行が千秋楽を迎える二日前の一月二十三日、松竹会長白井松次郎が死去した。享年七十五歳だった。
 歌舞伎座でのこの興行は、「二條城の清正」を「石切梶原」に代えたほかは二月も同じ演目で二十五日間続演された。

 昭和二十六年というのは戦後の日本にとってその後の運命を左右する重要な年であった。西暦で言うと一九五一年、二十世紀の後半が始まる年である。
 日本を占領していた米国による統治が一応終わりを告げ、敗戦国の日本は曲がりなりにも独立国家として再出発することになった。
 九月八日、サンフランシスコ講和会議で、対日講和条約と日米安全保障条約が調印。これは、日本が自ら独立を宣言したのではなく、米国が条件付きでそれを認めてくれたのである。つまり、米国の世界戦略にとって日本の立場と利用価値が決まり、また、日本もそのまま米国の同盟国(軍事的には属国)になることを否応なく選択した。平たく言えば、アメリカという強大な親分は、日本に元のシマ(縄張り)を返してくれたが、その代わり、アメリカの子分になって、出入りの時には必ず力を貸すことを約束したようなものだ。一九五〇年六月、朝鮮戦争が始まっていた。日本は、米国の戦略上、中国とソ連という二大共産主義国家に敵対するための軍事的橋頭堡と化した。が、一方で、朝鮮戦争はその後の日本の経済的繁栄につながる大きなきっかけにもなった。日本はその対米支援で、甘い汁を吸ったのだった。いわゆる特需景気である。それからの日本の歩みは、政治的外交的にアメリカに依存しながら、他の資本主義諸国との貿易も拡大し、経済成長を続けていく。国としての主体性も自尊心も失い、物質的な享楽をむさぼるだけの経済的肥満大国になっていく。

 昭和二十六年は日本の芸能史にとっても画期的な年であった。
 一月三日、東京に歌舞伎座が新築開場したのと同じ日に、NHKで紅白歌合戦が始まる。もちろん、ラジオ放送である。NHKが初めてテレビの実験実況中継を試みるのは六月三日で、後楽園球場から日本橋三越へプロ野球を中継した。
 映画界では、三月二十一日、日本初(国産の富士フィルム)の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督、松竹)が公開される。九月十日、黒澤明の『羅生門』(昭和二十五年八月公開、大映)がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞。日本映画も俄然活気を帯びてくる。
 四月一日には、東横映画、大泉映画、東京映画配給の三社が合併して、東映が発足。京都太秦の東横映画撮影所は、東映京都撮影所と改称。が、まだこの頃の東映は、経営不振で配給網もなく映画会社としても存立の危機にあった。
 無論、錦之助は、それを知るよしもなかった。昭和二十六年、十八歳の錦之助は、歌舞伎座の偉容を眺めて歌舞伎への情熱を燃やし、一流の役者になろうと決意を新たにしていた頃であった。



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