錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~スポーツ青年で洋画ファン(その1)

2012-10-19 11:34:57 | 【錦之助伝】~若手歌舞伎役者時代
 錦之助は凝り性であった。また、とことん突き詰めなければ納得しないところがあった。若い時の錦之助は好奇心も強く、いろいろなことに手を出しているが、自分に向いていないと思ったこと、特に人に敵わないと感じたことは辞めるのも早かった。また、自分のためにならないと思ったことはほどほどにして切り上げた。たとえば、将棋、マージャン、競馬などがそうである。
 錦之助はインドアのゲームよりアウトドアのスポーツの方がずっと好きだった。

 何よりも一番好きだったのは野球で、小学生の時のゴロベース、三角ベースに始まって、中学時代は放課後の校庭で、歌舞伎時代は役者仲間を誘って浜町のグラウンドで早朝野球をやっていた。
 錦之助は兄の梅枝と計らって吉右衛門一座の役者たちで播磨屋チームを作った。昭和二十五年か二十六年のことだと思うが、監督は中村又五郎で、兄弟で三、四番のクリーンアップを張り、守備は錦之助が二塁、梅枝が一塁、慶三が三塁を守った。播磨屋チームのオーナーに、野球のルールも知らない伯父の吉右衛門を担ぎ出し、新しい野球道具一式を買ってもらい、チーム全員のユニフォームを作らせたことは有名な話である。吉右衛門は歌舞伎の衣裳は着慣れていたが、真新しい純白のユニフォームを着て事の外ご満悦だったそうだ。
 播磨屋チームは他の草野球チームや菊五郎劇団チームなどと試合をやったが、戦績は振るわなかった。朝試合をして楽屋入りすると、吉右衛門は一人一人に「どうだったい」と結果を聞いたそうだが、「お前は?」「へえ、負けました」、また「お前は?」「負けました」と続き、「錦坊お前も負けたのかい」「はい」というとガッカリしたそうで、吉右衛門は、野球は一人一人で勝負するものと思っていたと錦之助は書いている。吉右衛門は試合で怪我をすると、たとえそれがかすり傷でも大変怒るので、みんな怪我をすると黙って隠していたそうだ。


播磨屋チーム 左から又五郎、梅枝、錦之助

 雷蔵のいる関西歌舞伎の若手チームと試合をした時など、錦之助は絶対負けたくないと思い、家に出入りの野球の上手な米屋を弟子の錦三という偽名でチームに加え、投手をやらせて相手をキリキリ舞いさせた。が、関西チームの監督坂東簑助はどうやらそれに気づいていたらしく(父の時蔵が耳に入れたのか)、後で雷蔵の知るところとなり、錦之助の家へ怒鳴り込みに来た。「錦三なんて弟子はいないはずだ!」と雷蔵に問い詰められ、錦之助がとぼけていると、勝手口からその米屋が「こんちは」と現れ、ついにバレてしまった。雷蔵はカンカンになって怒ったそうだ。
 また、錦之助は子供のころから大の巨人ファンだった。昭和二十六年以降は巨人軍の第二次黄金時代で、日本シリーズ三連覇。監督は水原茂、選手では川上、千葉、与那嶺、藤本らが活躍していた頃である。

 野球のほかに、水泳、柔道、相撲、スケート、ボクシングなど、錦之助は一通りやっている。
 高所恐怖症なので飛込みは駄目で、水泳は遠泳が得意だった。泳法は「ノシ」。クロールやブレストではなく、古風な純日本的式で、いかにも歌舞伎役者らしい泳ぎ方だと言えよう。鎌倉から逗子まで泳ぐことが出来たと錦之助は自慢している。普段は、神田のYMCAのプールで泳いでいた。
 柔道は、中学の頃水道橋の講道館へ通っていたが、段位を取るほどまでは行かなかった。それでも講道館の行き帰り、黒帯でもないのにインチキの黒帯を柔道着に巻いてちらつかせ、強そうにしていたようだ。
 相撲は、後年若乃花の大ファンだったが、この頃は誰のファンだったのだろうか。歌舞伎座裏の土俵で、「トンボ」の練習に飽きると、相撲をやっていたようだが、小兵なので弱かったのではなかろうか。
 スケートは、十七歳の頃、芝浦にスケートリンクが開場した時から、親に内緒でこっそり通って練習したという。
 ボクシングは相当凝ったようだ。最初は手にタオルを巻いて練習していたが、後年拳闘用のグローブまで買ったようだ。錦之助はアメリカ映画の『チャンピオン』(マーク・ロブソン監督 昭和二十六年八月日本公開)を見て、大変感激したという。有馬稲子との初めての対談(「近代映画」昭和三十一年一月号)で、好きな男優を誰かと訊かれ、錦之助はカーク・ダグラスと答え、「『チャンピオン』がすごく好きだった」と話している。『チャンピオン』は、ボクサー映画の走りで、カーク・ダグラスの出世作である。錦之助がカーク・ダグラスを好きになったのも、この映画を見てからだと思われる。
 白井義男がダド・マリノ(米国)に判定勝ちして、世界フライ級チャンピオンになるのは昭和二十七年五月十九日だが、日本でボクシング熱が急に高まり始めたのは昭和二十六年頃からである。プロレスはまだで、相撲を辞めた力道山がレスラーとしてデビューするのは昭和二十八年、シャープ兄弟と戦って日本中を沸かせるは昭和二十九年である。

 錦之助は、当時の日本人男性たちと同様に、ナショナリスムに燃えてスポーツを観戦したが、自分でもやってみようとするスポーツ青年であった。

 昭和二十七年は、日本が戦後初めてオリンピックに参加した年である。夏のヘルシンキ・オリンピックで、七月十九日から八月三日まで開かれた。錦之助の関心度も非常に高く、日本人選手をラジオの前で熱狂的に応援していた。
 特に男子水泳への熱の入れようはすごかった。明治座で東西合同歌舞伎があり、「十六夜清心」で錦之助と雷蔵が恋塚求女を一日交替で演じ始めた頃で、これは、この時錦之助の家に滞在していた雷蔵の話である。「平凡別冊スタア・グラフ 中村錦之助集」(昭和三十一年九月発行)に雷蔵が寄せた「羨ましい金光教の申し子」から引用してみよう。

――水泳の実況が夜半頃から始まり、彼の家で僕と賀津雄君とで寝ながら聴いていたが、彼は古橋が絶対に勝つと信じていた。僕は別に気にもとめていなかったが、彼の真剣さは驚く程だった。だが遂に古橋は敗れ、古橋をいたわるアナウンサーの声がラジオから流れると、彼はベッドの中でオイオイ泣き出し、寝かけていた僕が下らんことを云うと、錦ちゃんは、涙だらけの顔を上げて僕に喰ってかかって来た。そして遂には大論争となり、錦ちゃんはますます興奮してタバコを五、六本口に押し込んで吸い出し、とうとう朝まで家の辺りをウロウロ歩き廻っていた。
 文中の「古橋」とは、もちろん「フジヤマのトビウオ」こと古橋廣之進である。すでに選手としてのピークを過ぎていた古橋は、400m自由形で八位に終わった。この時、実況を担当したNHKのアナウンサーは、「日本のみなさん、どうか古橋を責めないでやってください。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのであります。古橋にありがとうを言ってあげてください」と涙ながらに訴えた。錦之助はこれを聞いて、感極まり泣いたのだった。
 雷蔵は続けて、こう書いている。

――翌日の橋爪の時にもまた彼は賞に入るといい、僕は入らないといい争い、この競技に一万円をかけることになった。が、今度は僕の負けだった。彼は得意満面で一万円を渡せといい出し僕も約束はしたが、渡すのがシャクで何のかのと口実をつくりとうとう現在まで払っていないが、彼は橋爪が入賞したのに満足して忘れてしまったことだろう。
 「橋爪」とは、橋爪四郎のことで、1500m自由形で見事銀メダルを取った。橋爪は古畑の親友でライバルだったが、万年二番、古畑の陰に隠れた存在だったが、ようやく陽の目を見たのだった。それにしても、一万円を賭けたとは、すごい。当時の一万円と言えば、今の十万円くらいであろう。雷蔵が払わなかった、いや払えなかったのも無理はない。明治座の一ヶ月の出演料より高かったのではなかろうか。



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