ブログ 「ごまめの歯軋り」

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平成経済 衰退の本質

2021年04月18日 | 書評
京都市下京区 「東本願寺 宗務所新門」

金子勝 著 「平成経済 衰退の本質」 

岩波新書(2019年4月)

第1章 資本主義は変質した  (その4)

③ 「失われた30年」の深層

1997年の日本の金融危機以来、日本の経済と社会は衰退過程に入った。経営責任や監督責任を曖昧にし、粉飾決算を放置したため不良債権処理は一向に決着がつかなかった。その間重厚長大の伝統的重化学工業が衰退し、情報通信産業やバイオ医薬品、自然エネルギーなど先端産業部門では取り残された。企業が生き残るために労働市場は企業側へ大きく傾いた。賃金の低下、労働の流動化、実質所得は持続的に低下し中間層は分解し格差が拡大した。大都市への資源の集中と衰退する地域という地域間格差も拡大した。かくして平成時代は「失われた30年」となった。その遠因は戦後の在り方が行き詰まったからである。自民党政府はアメリカの援助と市場開放の下で高度経済成長を実現してきた。それが昭和時代の特徴であった。1970年代のニクソンショック以来変動相場制に移行し、1980年代には日米経済摩擦が前面に出てきた。そしてバブル期にはアメリカの要求に他愛もなく譲る関係になった。かって日本がそうであったように、今や中国がアメリカに経済進出するようになると、トランプ大統領はなりふり構わない「米国第1主義」を掲げ、保護主義貿易に徹した。日本はどこまでもアメリカに譲り続ける時代となった。経済衰退がより加速された状態を隠すために、マクロ政策もミクロ構造改革も今までなかった局面に追い詰められたのが「アベノミクス」であった。戦後の支配者たちの「無責任体制」の帰結が今日の衰退の原因であるなら、問われなければならないのは経営者・政府の責任を取る気概と規律・倫理である。とかく日本は集団に過剰な同調圧力が高まると意思決定があいまいになり(空気を読む)、トップは責任を取らなくなる。それは「会社主義」についても言える。ある意味もっとも官僚的なのは会社組織なのかもしれない。こうして日本社会は基底から自浄作用(道徳感覚)をなくしてしまった。あったこともなかったことにしてしまう「歴史修正主義」、新自由主義というイデオロギーは「無責任体制」を強固なものにした。忖度かご機嫌取りか知らないが、罪悪感なしに官庁の公文書や政府統計の改ざんに染まってしまった。森友学園への国有地値引き問題、加計学園の獣医学部新設問題などである。閣議や官房長官・首相談話ではウソを平気で発表する「大本営発表」となった。政治家は誰も良心をなくした亡国の民である。官庁だけでなく民間企業でも、東芝の不正会計から経営危機、三菱自動車など名だたる企業の検査データーの改ざん問題が次々と摘発された。政治家は政治資金規正法や公職選挙法が疑われる不正疑惑があっても謝罪だけで済み誰も罰せられない。記録にないではなく「記憶にない」でそれ以上追及されない国会審議やメディアのやり方は戦後70年を経過しても、戦後民主主義の底の浅さ・未熟さが如実である。国際的にみてもこの無責任さはあきれ果てて見られている。

(つづく)