ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

平成経済 衰退の本質

2021年04月07日 | 書評
京都市上京区千本通り今出川 「釘抜き地蔵」

金子勝 著 「平成経済 衰退の本質」 

岩波新書(2019年4月)


序に代えて
① 金子勝・児玉龍彦著「逆システム学―市場と生命のしくみを解き明かす」岩波新書2004年(その2)

20世紀の後半、経済学では「一般均衡理論」という新古典派ドグマを生んだ。それは競争的市場経済が一つのシステムとして自動的に成立するというものであった。取引場(証券、市場)をモデルにした数学的理論である(ミクロ経済学)。しかし「一般均衡理論」は自己完結するには「政府の存在」という厄介な問題を抱えている。初めから市場に介入する政府の排除を前提にしている。公共財や外部不経済も排除されるのである。これらは「市場の失敗」とみなされた。1920年代大恐慌後のデフレに対応するため「ケインズ経済学」という、財政政策や金融政策を誓った総需要管理政策が有効であるとされた。つまり「ケインズ経済学」は市場経済を制御する主体としての政府の役割を積極的に評価した(マクロ経済学)。しかし1970年以降の2回の石油ショックによってケインズ経済学に有効性はないことがわかって、レーガン、サッチャーといった規制緩和と民営化を金科玉条にする市場原理主義(政治的には新保守主義)や新古典派経済学(応用ミクロ経済学)が勢いを増した。市場が自動的に成り立つためには同じ利益最大化の利己的な人種しか念頭に入れない。これをホモエコノミカスという。自己責任の名の下に規制緩和やセーフティネットをはずしてゆくと、人々は雇用不安や年金不安によって将来に悲観的になり貯蓄に励んで消費が縮小し不況が深刻化する事態になる。銀行というシステムは信用によって成り立つが、将来の取引を先取りするため経済を飛躍的に拡大する効果を持つが、信用崩壊が恐慌とデフレを招いたため中央銀行の「最後の貸し手」機能が生まれたため銀行パニックはなくなった。こういった方法論的個人主義を蔽うルールの存在が社会には必要であろう。

新古典派経済学は複雑な「非市場的」制度をなるべく排除して出来ているが、この制度が市場をコントロールして暴走を防いでいるのである。資本主義的市場経済はまず家族と地域共同体を破壊した(スーパーや大手量産販売店が地域商店街を破壊したのと同じこと)。そのために労働法が必要となり、生活の不安から年金制度や健康保険・失業保険という社会制度がうまれたのである。アメリカでは今日でも個人主義によってこれらの制度が皆無である。働くものにとってどちらがいいかは一目瞭然ではないか。更に資本主義市場経済では富める者と貧しいものの格差が拡大し、社会の停滞と不安を増大した。税制や補助など所得再配分制度が求められる。市場経済はセーフティネットがないと機能しないし、多重の制度的コントロールのもとで維持されているのである。価格を唯一のシグナルとする市場は直ぐに暴走し壊滅するのである。不正を防止する法体系、監督官庁のチェック機能、リストラをカバーする雇用対策、議会民主主義がきちんと機能していなければならない。ゲーム理論やインセンティブという概念で市場経済を補完する考え方も有るが、制度モデル設計者の恣意性がルールの選択や大きな環境変化でルールの崩壊が問題となる。地球環境問題においても京都議定書においてグリーンメカニズムというゲーム取引を是としているが、これは実際の排出量削減というよりは市場原理で排出権を買い取り、概念上の架空取引に過ぎず、このような制度が横行すれば、実質排出量削減はどっかへ飛んでいってしまう心配がある。又不良債権問題ではルールの崩壊が問題である。銀行と企業経営者が共謀して不良債権のごまかしと隠し飛ばしをやる。監督官庁はそのごまかしを追認する。金融機関は倒産しなければ背任や法律違反は問われることはない。つまり法の支配というルール自体が崩れているのである。日本社会は同調的人間を是として、反論する人間を徹底的に排除する傾向が顕著で(天皇制に反対する人に対する治安維持法)、内部では誰も責任を問えない無責任社会を作り出している。異なる経済システム間における制度移植がもたらす弊害を見て行こう。米国の圧力でグローバルスタンダードとなる金融ビッグバン政策が取られた。これで日本経済は猛烈なデフレ圧力下で呻吟した。自己資金比率規制、国債会計基準の連結キャッシュフロー、時価会計主義、年金債務開示義務などがそうである。これにより銀行の貸し渋り、貸し剥がし、持ち株の放出、雇用条件の劣悪化が進行した。

(つづく)