とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

花嵐忌

2010-08-12 21:58:59 | 日記
花嵐忌




 以前紹介した下関の田中絹代メモリアル協会の事務局長を務めておられる河波茅子氏からたくさんの資料をお送りいただいた。河波氏は国内外の田中絹代に関わる事業を第一線で進めておられるお方である。
いただいた『田中絹代の世界』(生誕90年田中絹代メモリアル実行委員会)という冊子などを急ぎ拝見し、かの大女優の生涯をあらかた把握することができた。栴檀(せんだん)は双葉より芳し。この真意をそのまま体現して見せた女優の一象徴が田中絹代だと私は思った。彼女のスターとしての出発点。それは筑前琵琶との出合いでもあった。その冊子の中に大阪琵琶少女歌劇時代の舞台衣装を身に着けた10歳前後の写真があった。凛として立っているその少女の姿に、すでに大女優としてのすべての資質が輝き出ている思いがした。
「私、映画と結婚しました」。彼女の役づくりへの情熱を物語る言葉である。『春琴抄・お琴と佐助』(昭和10年)では盲いた「お琴」になり切ろうと、眼をつむって指先に血が滲むほど琴の稽古をしたそうだ。また、『楢山節考』(昭和33年)では老け役づくりのために差し歯を抜いた。そういう逸話は枚挙に暇がない。また、小津安二郎を初めとする名監督たちとの出合いも彼女の演技力を深めた。そして、成瀬巳喜男監督の指導により、世界でも希な女性監督の仕事も学んだ。
14歳から始まった女優の道を60歳半ばまでひた走り、その都度年齢に応じた新しい芸境を切り開き、彼女は『愛染かつら』(昭和13年)の主題歌の歌詞の通り「花も嵐も踏み越えて」その名を世界の映画史上に深く刻んで、昭和52年3月21日に67歳で永眠した。下関市民から香名を公募して、その日は「花嵐(からん)忌」と名づけられた。                               (2005投稿)

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