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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

NHK・東京五輪「世論調査」の偏向

2021年04月15日 | 五輪と国家・政治・社会

   

 NHKは12日、東京オリ・パラについての「世論調査」結果を発表しました。それによると、「これまでと同様に開催」2%、「観客数を制限して開催」34%、「無観客で開催」25%、「中止」32%、「その他・わからない・無回答」7%―となっています(写真左)。観客の形態はともかく今年7月に予定通り「開催」すべきだという人が61%で「中止」を大きく上回っていることになります。

 しかしこれはきわめて恣意的な方法で行われた、偏向「世論調査」であり、五輪開催についての市民の意識を反映したものではまったくありません。恣意的手法は2つあります。

 1つは、誘導質問です

 質問は「東京オリンピック・パラリンピックについて、IOC=国際オリンピック委員会などは開催を前提に準備を進めています。どのような形で開催すべきだと思うか聞きました」(NHKサイト)というもの。「開催」を前提に、「どのような形で」と聞いているのです。これでは上記のように「開催」の回答が多くなるのは当然です。まさに誘導質問にほかなりません。
 そうした誘導にもかかわらず「中止」が32%あったことは、いかに「中止」の世論が強いかを逆に証明するものといえるでしょう。

 もう1つは、「さらに延期」の選択肢をなくしたことです。

 NHKの今年1月までの「世論調査」には、「さらに延期すべき」という選択肢がありました。ちなみに1月の結果は、「開催すべき」16%、「中止すべき」38%、「さらに延期すべき」39%、「わからない・無回答」7%でした。この時の質問は、「ことしに延期され夏の開幕に向け準備が進められている東京オリンピック・パラリンピックについて聞いた」(同サイト)というものでした。

 それが2月の調査から質問方法が前述のように変わり、選択肢から「さらに延期すべき」が消え上記のような選択肢になりました。「さらに延期すべき」と思う人を「観客を制限して行う」か「無観客で行う」に吸収したのです。

 「さらに延期すべき」の選択肢が消されたのは、大会組織委の森喜朗前会長らが「再延期はありえない」と述べたことを受けたものであることは明らかです。
 NHKの「世論調査」は、組織委の意を体して、「さらに延期すべき」すなわち今年7月の実施に反対の世論を抹殺するものと言わねばなりません。

 同時期に発表された他の世論調査では、共同通信(13日)が、「今夏開催するべきだ」24・5%、「再延期すべきだ」32・8%、「中止するべきだ」39・2%。朝日新聞(13日)では、「今年の夏に開催する」28%、「再び延期する」34%、「中止する」35%となっています。いずれも「中止」が最も多く、「再延期」がそれに続き、合わせて7割以上が「今夏の開催」に反対しています。NHKの「調査」はこれと真逆の結果をつくりだしたのです。

 NHKは4月1日の「聖火リレー」(長野、写真中)の特設サイト映像でも、「「オリンピックに反対」といった声が聞こえてきた直後に音声が約30秒間途切れ、音声が戻った時には反対などの声は聞こえなくなっていた」(12日の朝日新聞サイト)というトリックで、「五輪反対」の声を映像から消しました。

 こうしたNHKの相次ぐ作為は、事実を公平・公正に報道するというメディアの鉄則を踏みにじるものであり、政権に追随する「国営放送」の醜悪さを露呈したものと言わねばなりません。


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政府・東電を免罪する「風評被害」という言説

2021年04月13日 | 原発・放射能と政治・社会

    

 菅政権は13日、東電福島原発「事故」の汚染水を海に放出する方針を正式決定します。これに対し市民グループは12日、記者会見で反対を表明し、代替案の検討を要求しました(写真中)。全漁連(全国漁業協同組合連合会)はすでに昨年6月の通常総会で、「断固反対」を全会一致で決議するなど、福島県内外に強い反対があります。

 菅政権はそれを無視して強行するもので、政権のファッショ的体質を露呈しています。しかも「復興五輪」とうそぶく東京五輪の「聖火リレー」をメディアがお祭り騒ぎで報道しているドサクサの中で、「復興」とは対極の暴挙を強行することは言語道断です。

 そもそも政府・東電やメディアは、一定の「処理」をしたとして「処理水」という用語を使い、まるで放出する水が無害であるかのような印象を振りまいていまが、放射能で汚染されていることに変わりはなく、「汚染水」というべきです。

 汚染水の処理問題をめぐって黙過できないのは、「風評被害」という言葉が多用されていることです。

 「風評」とは国語辞典でも「うわさ」と定義してあるように、根拠がない評判という意味・ニュアンスになります。しかし、汚染水に対する不安はけっして根拠がないものではありません。放出されようとしている水にトリチウムが含まれているのは厳然たる事実です。しかもこの汚染水は福島第1原発のデブリ(溶解核燃料)に注水されたものであることを見落とすことはできません。
1原発の処理水はデブリに触れた水だ。不安の声があるのも無理はない。東電と政府が不安解消へ向け手を尽くしたのかは疑問だ」(10日付琉球新報=共同)。

 にもかかわらず、当然の不安を「風評被害」とすることは、政府と東電の加害責任を免罪し、福島・東北の生産者と消費者を分断するものと言わねばなりません。

 ジャーナリストの吉田千亜さんは、「風評被害」について、福島県農民連の根本敬会長(二本松市の農家)の言葉(2017年11月『現代農業』掲載)を紹介して問題提起しています。

「消費者の過剰な反応を「風評被害」だと言います。しかし、今起こっていることは、東電が起こした原発事故による放射能が大地と作物を汚染している「実害」です。風評被害と片付けるのは、消費者に責任をなすりつけ、東電を免罪することです。心ある方々から、福島の産品を買い支えたいという申し出がきます。でも、私はこう応えています。「お気持ちは嬉しい。でも、みなさんにお願いしたいのは、国・東電はあらゆる損害をすべて補償せよという世論を消費地で起こしてほしい」と…。」(根本敬さん。吉田千亜著『その後の福島 原発事故後を生きる人々』人文書院2018年より)

 東電の被害を受け続けている生産者・根本さんの言葉は、「風評被害」という言説の危険性、そして私たち消費者が主張すべきことやるべきこと、生産者と消費者の団結のあり方を示しており、きわめて示唆的です。

 政府・東電の免罪に通じるこの「風評被害」という言葉を、天皇徳仁が公に使ったことを改めて想起する必要があります。
 徳仁天皇は今年3月11日に行われた政府主催の追悼式で、「原子力発電所の事故の影響により…農林水産業への風評被害の問題も残されています」と述べたのです(写真右)。

 追悼式での天皇の「ことば」は、全体として「国民」の「共助」を強調したもので、その中での「風評被害」発言は、問題の根源である政府・東電の加害責任を隠蔽・免罪するものであり、けっして黙過することはできません。


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東京五輪組織委の新たな2つの罪

2021年04月12日 | 五輪と国家・政治・社会

    

 不祥事・失態という言葉では片づけられない東京五輪組織委員会(橋本聖子会長)の問題行為が相次いでいます。

★言論・出版・報道の自由への攻撃

 週刊文春は4月1日発売の同誌および3月31日の文春オンラインで、五輪開会式の演出案を「内部資料」の画像とともに報じました。
 これに対し組織委は1日、コメントを出し、演出案は「秘密情報」だとしたうえで、文春報道は「著作権を侵害」し「不正競争防止法違反の罪及び業務妨害罪」にあたるとして「掲載誌の回収、オンライン記事の全面削除」などを要求しました。また、「所管の警察に相談しつつ…内部調査に着手した」ことも明らかにしました(4月1日の日刊スポーツサイトより)。

 週刊文春編集部は2日、コメントを発表し、「記事は、演出家のMIKIKO氏が開会式責任者から排除されていく過程で、葬り去られた開会式案などを報じている。侮辱演出家や政治家の“口利き”など不適切な運営が行われ、巨額の税金が浪費された疑いがある開会式の内容を報じることには高い公共性、公益性がある。著作権法違反や業務妨害にあたるものではないことは明らか。組織委の姿勢は税金が投入されている公共性の高い組織のあり方として異常である。不当な要求に応じることなく、取材・報道を続ける」と表明しました(2日のスポニチサイトより)。

 出版労連(酒井かをり委員長)は7日、組織委に対し「公的機関による言論妨害、出版・表現の自由の侵害に抗議する」との「声明」を発表。文春報道が「公共の利益と合致することはだれの目にも明らか」とし、組織委が掲載誌の発売中止・回収を要求したことを「即時撤回」するよう要求しました。組織委が警察と連携して内部調査したことについても、「取材活動を萎縮させることを意図した恫喝」だと批判しました(出版労連HPより)。

 週刊文春編集部、出版労連のコメント・声明はきわめて妥当と考えます。

★「聖火リレー」感染対策よりスポンサー優先

 コロナ感染第4波で深刻な事態が続いている中、「聖火リレー」は各地で「密」を生み、感染対策に逆行していることは明らかです。組織委は当初、密集が解消しないときはリレー中断することがある、などと言っていましたが、たいへんな密集にもかかわらず中断したことはありません。感染対策の軽視は明白です。この背景には何があるのでしょうか。

「組織委の幹部がリレーの「最大の懸案」と認める密集対策だが、沿道での観覧自粛までは呼び掛けていない。背景には多額の運営資金を拠出するスポンサーの存在があるためだ。各社は宣伝用の車両を走らせ、沿道でPR活動に取り組む。関係者は「スポンサーの手前、『観覧自粛』と言うことはできない」と明かす」(4月8日付中国新聞=共同)

 一時県内のリレー「中止」の意向を示していた島根県の丸山達也知事は6日、組織委を訪れ「スポンサー車両が参加しない形」でのリレーを要求しました。これに対し組織委は、「スポンサー車両の帯同は不可欠」(7日付中国新聞)として要求を一蹴しました。

 コロナ感染対策より「スポンサー企業」優先―これが「聖火リレー」・東京五輪の実相です(写真中は「聖火出発式」で壇上に上がったスポンサー企業の面々)。

 五輪組織委をめぐっては、国立競技場エンブレム盗用問題(2015年7月)、竹田恒和JOC会長(当時)の誘致買収疑惑(18年12月)・辞任(19年3月)、森喜朗前会長の女性蔑視発言(21年2月)、開閉会式企画・演出の佐々木宏統括役のタレント侮辱発言・辞任(3月)などなど、問題が絶えません。まさに腐った組織としか言いようがありません。

 これはたんに組織委の問題ではありません。そもそも東電原発汚染水「アンダーコントロール」という国際的ウソで誘致し(2013年9月)、森氏を組織委会長に据えた(14年1月)、安倍晋三前首相、そして当時官房長官でもあった菅義偉現首相の責任です。
 組織委のこうした数々の問題・罪からも、東京オリ・パラは中止する以外にありません。

 


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日曜日記144・「はだいろ」から思うこと・出る人がいない電話相談

2021年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「はだいろ」から思うこと

 3月下旬、ファミリーマートで販売していたプライベート・ブランドの肌着を自主回収する騒動があった。「はだいろ」と記してあったからだ。コンビニのバイトをしていて、この肌着シリーズは当然知っていたが、「はだいろ」には気付かなかった。

 では絵具や色鉛筆はどうなんだろう? 小学生の子どもがいるパートの同僚に聞いてみたが、絵具などはかなり以前から「うすピンク」の表示に変わっているそうだ。この面では時代は進歩しているようだ、と感心した。

 「はだいろ」問題で考えさせられたのは、これまで当然と思ってなにげなく使っていた言葉も、けっして当たり前ではないということ。小さいころからの慣習や概念を絶対視してはいけない、相対的なものとして疑い、点検する必要がある、ということだ。

 そう思うとまだまだいろいろある。色でいうと、「ブラックバイト」「ブラック企業」など「黒」を悪の象徴とする言葉、「ご主人」「奥さん」「父兄会」など家父長制を示すもの、「バカチョンカメラ」「支那そば」など民族差別にかかわるもの…問題用語が身の回りにあふれている。いずれも差別にかかわるのが特徴だ。無意識のうちに人を差別し、傷つけている。このことに無頓着であってはならない、と自戒する。

☆出る人がいない9割の電話相談

 コロナ禍で自殺者が増えている。女性や子どもが特に増加している。5日の報道では、2020年に自ら命を絶った小中高生は499人で前年度より25%増(厚労省まとめ)。

 以前ラジオで、電話相談をしているNPO代表の話を聴いた。掛かってくる電話は急増しているが、スタッフ不足でその1割くらいしか応対できていないという。救いを求めて掛けてきた電話の9割には出ることもできないというのだ。

 どれだけ力になれるか分からないが、話を聴くことはできる。むなしく切れる9割の電話を少しでも減らしたい。そう思って電話相談のスタッフに加えてもらおうと、県内の社会福祉法人に問い合わせた。
 そうしたら、「電話相談員」に認定されるためには、約1年間、20回近い講座を受ける必要がある、費用が3万円(交通費別)かかる、という。モチベーションが一気に下がった。

 文字通り命にかかわる活動だから、相談員の養成に慎重になるのは分かる。しかし、1年・20回の研修は過剰ではないか。せめて費用の自己負担はなくせないだろうか(交通費は別としても)と切に思う。

 社会福祉法人やNPOの問題ではない。「共助」にまかせて知らん顔をしている国・政府の責任だ。国の予算で相談員を大幅に増やせ。生死の境で電話をしても誰にも出てもらえない人を、少しでも減らしたい。そして自死の背景にある貧困にこそ税金を使え。それが国の責任、「公助」ではなく「公責」だ。


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多文化共生妨げ「天皇の臣民」つくる「元号」

2021年04月10日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任

    

 前回のブログで「日の丸・君が代」に対する無抵抗が何をもたらすか考えましたが、「元号」にも同様の危険性があります。
 前回触れた福山市の「学校教育を考える市民・保護者有志」の市教育委員会への申し入れには次のような内容もありました。
西暦記載の卒業証書を希望する児童・生徒には、その思いをかなえてください」 

 「元号」は日常生活にあふれ、その弊害に気が付きにくくなっていますが、実際に生活上被害を受けている人びとがいます。在日外国人の人たちです。
 先日、市の日本語教室の講習を受けました。その中で、災害時に地域の外国人に分かりやすい日本語で情報を提供することが重要だとし、強調されたことの1つが、「元号は西暦に言い換えること」です。元号は外国人には理解できず、緊急時の情報に使うことは禁物だということです。

 もともと元号は、「皇帝は空間のみならず時間をも支配する」という古代中国の専制君主制をまねたものです。明治藩閥政府は1868年に「一世一元制」を制定し、「国民が天皇と結びつけないでは時間を意識し表現することができず、したがって天皇から一日もはなれていられないようにした」(井上清著『元号制批判』明石書店1989年)のです。
元号制は、国家神道、天皇と結びつけた祝祭日制度、教育勅語による教育、「日の丸」「君が代」の強制、皇国史観の強要等々と一体となり、日本国民を天皇の臣民として強力無比に統合していった」(同)のです。

 「元号」は「日本国民」を「天皇の臣民」として統合しただけでなく、植民地支配の強力なツールとなりました。
 帝国日本は朝鮮、台湾の植民地において「皇国臣民の誓詞」を唱和させ、現地民族の信仰・慣習の一切を否認し、民族の言語と歴史を学ぶことを禁止しました。「同化政策・皇民化政策の苛酷さ、間さを象徴するものが、皇紀と年号の使用の強制」(遠山茂樹「元号法制化の本質」、永原慶二・松島栄一編『元号問題の本質』白石書店1979年所収)でした。「政治的に支配するだけではなく、思想・信仰の内側にまでふみこんで支配する天皇制の特質的機能のシンボルが、元号の本質」(同)なのです。

 その戦前の元号制度が1979年の元号法制化によって復活し、政府・自治体によって生活の隅々で事実上使用が強制され、無意識のうちに「天皇の臣民」化がすすめられている。それが今日の日本の実態です。

 「元号」は「日の丸・君が代」と一体となって、侵略戦争・植民地支配の加害の歴史を隠ぺいし、多文化共生を妨げ、今日的植民地主義を再生産しています。その強制に抗い、無意識に使用する思考停止から脱却し、廃絶へ向かうことは、今に生きる私たち日本人の責務です。


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「日の丸・君が代」への無抵抗がもたらすもの

2021年04月08日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任

    

 卒業式・入学式のこの季節は、全国各地で「日の丸・君が代」の強制に反対して、思想・信条の自由をまもろうとする人々のたたかいがあります。私が居住する福山市でも、「学校教育を考える市民・保護者有志」が市教育委員会に対し、「卒業式・入学式で「日の丸・君が代」を強制しないこと」を申し入れました(2月22日)。申し入れ文書にはこうあります。

「子どもの権利条約、多文化共生の観点から、「日の丸・君が代」に違和感をもつ児童・生徒・保護者・教職員・参会者に特段の配慮をし、起立・斉唱・伴奏することを強制しないでください」

 「子どもの権利条約」の観点は非常に重要です。同時に、「多文化共生の観点から」という視点に注目したいと思います。

 在日3世のピアニスト崔善愛(チェ・ソンエ)さんは、かつて(2005年)、長女の小学校の式典で「日の丸」が正面に掲げられ、「君が代」斉唱が行われることに反対し、東京・町田市の教育委員会に申し入れを行い、地域の自治会でも問題提起しました。崔さんは教育委員会で教育委員たちを前にこう意見陳述しました。

「わたしたち在日にとって「君が代」の曲は、ある歴史と結びついています。その記憶を取り去ることはできません。人が生きていくということは、記憶を重ねていくということです。みなさんにとってはその記憶はもう過去のことなのかもしれませんが、わたしが在日としてなぜ韓国の名前を持ち、日本に住んで生きているのかを考えると、わたしの存在そのものが、その歴史とかかわっていることは明らかな事実です。それを考えれば、「君が代」はわたしにとって特別な曲で、ほかの曲と同じとは到底いえません」

 しかし、教育委員会はのれんに腕押し、地域の自治会の反応も鈍いものでした。

「この国では「君が代」の曲の前に立つと、死の記憶も歴史も原爆も侵略もすべてが吹き飛ばされてしまう。
 私は、式典で「君が代斉唱」という場面になると、からだが動かなくなるような感覚をもつ。ただただ黙って座り込んでしまうことしかできない無抵抗な自分、そうすることが精一杯で、「国民」という名の集団からまたそぎ落されてゆくのを感じる。「君が代」は、わたしたちの弱さと愚かさをつきつける曲だ。だからこんなレイシズムにまみれた政治のうたをこどもたちにうたわせたくない」

 「国旗国歌法」(1999年)が強行されて時、政府が「強制ではない」と言ったことについて、崔さんは、沖縄戦の強制集団死も念頭に、こう指摘します。

「1940年、植民地時代の朝鮮で創氏改名がすすめられる際、朝鮮人に対してあくまで「強制はしない」「自発的に改名すること」、といいながら実際には、改名しなければこどもは学校には入れず、ある人は拷問を受け、職を失った。
 「強制ではない」といいながら圧力をかけ暴力をふるい生活を奪う。「自発的にするようにしむける」というこのやり方は、旧日本軍の常套手段のようで、志願兵はあくまで自発的に「志願」させ、まるでそのことが最高の名誉であるかのごとく錯覚させる。その装置が「愛国心」という美しい言葉だ。その催眠にかけるための子守唄が「君が代」ではないか」

 日本人が「日の丸・君が代」をおとなしく受け入れていることについて、崔さんはこう述べています。

「先生も教育委員も自治会のおじさんも、みな、個人的には穏やかな、善良な人だった。けれど、あまりにも政治や国家に無抵抗で、上の顔色ばかり見て、怯えていた。こどもたちのための教育と言いながら、国家に従順であることを良しとし、国家が何をしようとそれを受け入れるその姿勢は揺るがないだろうと思われた。もし戦争が始まると言われたとしても、その号令に誰ひとり抵抗する人はいないだろう。善良で従順な市民の「君が代」への無抵抗ぶりをみるにつけ、わたしは、戦争はこうやって起こりうるんだな、と思った」
(以上、崔善愛さん「「君が代」の向こうにあるもの」『父とショパン』影書房2008年所収より。写真右は小学校の卒業式「国歌斉唱」で独り起立しない崔さんの長女=同書より)

 侵略戦争・植民地支配の旗頭となった「日の丸・君が代」。その強制が在日コリアン、中国、台湾の人々にもたらす暴力性に私たち日本人は思いを至さねばなりません。その意味で、確かにこれは「多文化共生」の問題でもあります。

 しかし、日本人にとっての「日の丸・君が代」問題の本質はそこにあるのではないでしょう。「日の丸・君が代」の学校や社会での事実上の強制とそれに対する無意識・無抵抗は、日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任に対する日本人の無知・忘却・無頓着・無反省を象徴するものです(写真中はラグビーWカップでの「君が代」斉唱)。
 同時にそれは、これから起こりうる新たな戦争(日米軍事同盟によるアメリカ追随の覇権戦争)に対する無抵抗・容認の下地となるものです。
 だからこそ、私たち日本人は自らの問題として、「日の丸・君が代」に抗わねばなりません。


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コロナと子どもと“安倍の罪”

2021年04月06日 | コロナ禍と政治・社会

    
 4日朝のNHK「あさイチ」は「コロナ感染と子ども」を特集しました。大変興味深いものでした。
 森内浩幸医師(日本小児感染症学会理事)は次のように指摘しました。
①子どもへの感染経路は家庭内が大部分で、小学生で79%、中学生で63%。一方、学校内感染は小学生が4%、中学生で8%にすぎない。
②たとえコロナに感染しても子どもが重症化することはまずない。死亡例はゼロ。
③変異株は子どもにも感染しやすいと言われることがあるが、それを実証するデータはない。
 要するに、「子どもはコロナ感染の中心ではなく、インフルエンザに比べコロナは子どもにとってはただの風邪に等しい」という指摘です。

 一方、さいたま小児クリニックの峯医師によると、コロナ禍で「心の不調」を訴える子どもが2~3倍に急増しています。運動会などの行事が中止になったり外で遊べなくなったこと、さらにコロナに対する不安・恐怖の影響です。診察に訪れた小学生は、「ふつうの生活ができなくなった違和感がある。コロナを移してしまったらどうしようと思う」と顔を曇らせていました。

 国立成育医療研究センターの田中恭子医師は、「子どもの気持ちを受け止めながら、子どもと一緒にこれからを考えていくことが大切」と指摘します。

 その指摘を実践する画期的な取り組みを行った富山県の中学校が紹介されました。今年の卒業式、コロナ対策を必要最小限に抑え、可能な限り通常通り、また生徒の要望を叶えるものにしたのです。

 無言の会場入場時にはマスクをとり、席に着いてからマスクを着ける。晴れの顔が親によく見えるように。「親に感謝する「卒業の歌」は親の席に向かって歌いたい」。その生徒たちの希望を叶えるため、教師たちは会場を綿密に調べ、生徒席と親席の間の距離を7㍍(必要距離は5㍍)とる席の配置で生徒の要望を実現しました(写真中)。
「今年1年つらかったけど、最後の最後にみんなで集まって話せたのが最高でした。先生方は僕たちのためにいろんな試行錯誤をしてたくさん時間をかけて準備してくださいました。本当に感謝しています」。丁寧な敬語でこう話す卒業生の顔は輝いていました。

 この中学校の素晴らしい実践の背景には、富山大学小児科の種市尋宙医師(写真左)らが作成したコロナ感染対策のマニュアル「Q&A」があります。種市医師らは科学的データにもとづき、「僕ら自身がもしかしたら何か見誤っているのではないか」と自問し、「子どもの日常生活を取り戻す」ことを最重視し、対策を最小限にし、感染防止のために「必要なこと」だけでなく「必要でないこと」を明記しました。前記の中学校の校長は、この「Q&A」があったから確信をもって取り組めたと述べています。種市医師らはこの中学校の卒業式のために、親や地域住民へ向けたリーフレットも作成し、学校の取り組みを後押ししました。

 「なんでもOKというわけではありません。マスクを外すなら距離をとる。必要なのは、常に前に向かって、子どもたちを守るという覚悟です」(種市医師)
 教師と医師が連携し、科学的知見にもとづき、「子どもを守る。子どもの日常を取り戻す」ことを最重視して、親や地域の理解を得ながら、生徒が主人公の卒業式をつくりあげた。最高の実践でした。 

 その実践に感動しながら、想起されたのは安倍晋三前首相の愚挙でした。安倍氏は昨年2月27日、突然「全国小中高一斉休校」をブチ上げました(写真右)。専門家などの意見を聞くこともなく、思い付きで行ったまさに独裁者の所業でした。これが一時的な休校だけでなくその後の学校行事の中止など、子どもたちの日常生活を奪う出発点になったと言っても過言ではないでしょう。

 重要なのは、「一斉休校」が正しかったか誤りだったかではありません。安倍氏の最大の過ちは、子どもたちの意思をなんら聞こうともせず(彼の頭の中には「子どもたちの意思」という概念すらないでしょう)、「感染対策」という政府の都合で一方的に上から学校を閉鎖し、子どもの権利を奪ったことです。これはまさに「子どもの権利条約」(1994年4月22日日本も批准)を踏みにじるものです。ここに安倍氏の最大の罪があります。

 子どもの気持ちを受け止めながら、子どもと一緒にこれからを考えていく。親、教師、医師、地域が一体となって、子どもの日常生活・権利を守る。
 コロナ禍の中、「子どもの権利条約」を実行することができるかどうか。それが問われています。


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「聖火リレー」に仕組まれた国家主義

2021年04月05日 | 五輪と国家・政治・社会

    
 テレビのニュースを見ていると、嫌でも「聖火リレー」が目に入ってきます。NHKはじめメディアが菅政権に追随して東京五輪の強行を後押ししているからです。目に入ってきた映像からは、東京五輪・聖火リレーに仕組まれた国家主義が随所で目につきます。

沿道に自衛隊(国軍)

 4日は岐阜県における2日目のリレーが行われました。その中で、「聖火」が各務原市内に入ったとき、コースのすぐ近くの広場にあったのは、なんと海上自衛隊の飛行機でした(写真左、ANN=テレビ朝日系の昼のニュース)。
 聖火リレーコースのそばになぜ自衛隊機なのでしょうか。各務原市には自衛隊の基地があります。自衛隊が聖火リレーとの一体化を図り、存在をアピールするために駐機したのものとしか考えられません。
 東京五輪と自衛隊は切っても切れない関係にありますが(3月25日のブログ参照)、この日の光景はそれを端的に示しています。自衛隊のこうした動きは各務原基地だけの単独行動とは思えません。聖火リレーに便乗して全国各地の自衛隊(国軍)が存在をアピールする恐れがあります。

白と赤のユニフォーム(「国旗」)

 ランナーのユニフォームは白と赤でデザインされたものです。五輪のユニフォームは必ずこの2色の配色です。これが「日の丸」をイメージしている(させている)ことは明らかです。
 約1万人のランナーによって121日間行われる聖火リレーは、「日の丸」を身に着けて日本中をかけめぐるようなものです。NHKはじめメディアが逐一それを映像化して流す。聖火リレーは壮大な「日の丸ショー」ともいえるでしょう。

トーチのモチーフは「桜」(「国花」)

 聖火のトーチは「桜」をモチーフにしています。上から見ると桜の花びらの形になっています(写真中、オフィシャルサイトより)。桜は日本の「国花」とされています。日本にはもう1つ「国花」とされている花があります。それは「菊」です。
 「菊」が皇室の紋章であることは周知のことで、パスポートに菊の紋章が大きく印刷されているのは、日本が天皇制国家であることを世界に示すものです。

 では「桜」を紋章としているのはどこでしょうか。それは自衛隊(国軍)です。自衛隊のHPには、「自衛隊のエンブレム」として桜が刷り込まれた徽章が大きく掲載されています(写真右。抜き身の軍刀の下にあるのが桜)。聖火リレーは自衛隊と同じ紋章のトーチを次から次へと日本中で引き継ぐものです。ここにも東京五輪・聖火リレーと自衛隊の一体化があります。

 これらは政府・組織委員会によってすべて計算されたものです。このような国家主義の演出を意識している人は多くないかもしれません。しかし、こうした国家権力の仕掛けによって、無意識のうちに国家主義が刷り込まれていきます。その危険性をけっして軽視することはできません。

 

 


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日曜日記143・武藤類子さんと金城実さん・田中邦衛と「若者たち」

2021年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム

☆武藤類子さんと金城実さん

 ドキュメント映画「福島は語る」(土井敏邦監督・撮影・編集、2018年)を観た(3月20日、尾道「フクシマから考える一歩の会」自主上映)。
 東電福島原発「事故」の被害者・避難者100以上にインタビューした中から14人の証言・生活を紹介したものだ。被害者の苦悩、政府・東電への怒りが改めて迫ってきた。

 中でも印象的だったのは、武藤類子さん(福島原発告訴団団長)の証言だった。
 武藤さんはある時、沖縄へ行き、彫刻家の金城実さんのアトリエを訪ねた。金城さんは沖縄戦の犠牲者を靖国神社に祀ることに反対する沖縄靖国訴訟原告団の団長でもある。武藤さんは金城さんに訊いた。
「勝てそうにない国を相手にケンカ(訴訟)するのはなぜですか?」
 金城さんはこたえた。
それが人間の尊厳、プライドだからよ
 武藤さんはその一言に涙があふれ、「沖縄に来てよかった」と思った。
 国を相手にたたかっている者同士の共感・共鳴がそこにあった。

 ミャンマーの市民をはじめ、世界には「国」を相手に、文字通り命がけでたたかっている人たちがたくさんいる。そこには勝てるか勝てないかの計算はない。暮らしのため、民主主義のため、平和のため…。そしてその根底には、「人としての尊厳」があるのだと、武藤さんと金城さんに教えられた。

 たたかわなくても生きていけるという幻想に陥りやすいこの国で、たたかい続けることは簡単ではない。国家の暴力・武力と直接対峙している国とは違う困難さがある。
 そんな国で、自分のできること、できる範囲でたたかい続けよう。できればその範囲を少しずつ広げていこう。「人としての尊厳」ある人生のために。

☆田中邦衛と「若者たち」

 俳優の田中邦衛(敬称略)が亡くなった(3月24日)。テレビや新聞では「北の国から」が代表作として紹介されることが多いが、私にとってはなんと言っても「若者たち」だ。「若大将シリーズ」の「青大将」のイメージが百八十度転換した。

 ドラマを映画化した「若者たち」(山内久脚本、森川時久監督、1967年)と「若者はゆく」「若者の旗」の三部作を、大学サークルの新入生歓迎祭で上映したことがある。親のいない5人きょうだいの長男が田中邦衛。山本圭、佐藤オリエらが共演だった。主題歌もサークルでよく歌った。

 詳細は覚えていないが、きょうだいが本音でぶつかりあい、いたわり合いながら成長していく物語だった。政治的・社会的背景もしっかり描いてあった。「60年安保闘争」の場面があったことは覚えている。

 約半世紀前のなつかしい思い出だ。あんな素晴らしいドラマ・映画がなくなったな、なくなって久しいな、と改めて思う。うわべの「家族愛」「絆」ではなく、政治・社会から遊離した「生活」ではなく、ほんものの家族、生活、人生を描いた作品を観たい。

 それにしても思う。亡くなって偉大さを再認識する著名人は少なくないが、その死亡記事に褒章・勲章の受章歴が書かれているのを見ると、一気に感動が冷める。天皇制による褒章・勲章の受章歴は故人の「尊厳」をおとしめるものでしかないと思う。


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ミャンマー・軍隊・「4・3事件」

2021年04月03日 | 日米安保と東アジア

    

 クーデターを起こしたミャンマー国軍と治安部隊による市民の弾圧・虐殺は収まるところを知らず、多くの子どもも犠牲になっています。市民は不服従運動(CDM)という非暴力の抗議行動を続けており(2月28日のブログ参照)、国軍はこの不服従運動に「いらだちを募らせている」(3月28日付共同配信)と報じられています。市民の非暴力の抗議行動に対する暴力・武力による弾圧は絶対に許されません。

 一方、ミャンマー国軍を「批判」する側の言動にも、けっして看過できないものがあります。それは「日本や米国など12カ国の参謀総長ら軍トップが「ミャンマー国軍と治安部隊が、非武装の市民に軍事力を行使したことを非難する」との共同声明を発表した」(3月29日付共同配信)ことです。

 「共同声明」(3月28日)を発したのは、日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、オランダ、デンマーク、ギリシャ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国の軍トップで、日本は山崎幸二統合幕僚長が名を連ねています。「声明」の全文は次の通りです。

「我々はミャンマー国軍と関連する治安機関による非武装の民間人に対する軍事力の行使を非難する。およそプロフェッショナルな軍隊は、行動の国際基準に従うべきであり、自らの国民を害するのではなく保護する責任を有する。我々はミャンマー国軍が暴力を止め、その行動によって失ったミャンマーの人々に対する敬意と信頼を回復するために努力することを強く求める」(統合幕僚監部のサイトより)

 「軍隊は…国民を…保護する」。よくも言ったものです。他国の詳しい実情は知りませんが、少なくとも日本に関しては、これは大ウソです。
 
 帝国日本「天皇の軍隊」が、「国民を保護する」どころか、住民を戦闘に巻き込み、避難壕から追い出し、集団強制死させたのが沖縄戦の実相です。軍隊は住民を守らない。守らないどころか死に追いやる。それが沖縄戦の最大の教訓と言っても過言ではありません。
 また、敗戦が確実になると、中国大陸では満蒙開拓団など「日本国民」を置き去りにして軍隊(関東軍)がさっさと逃げ帰ったことも想起されるべきです。
 その「天皇の軍隊」を思想的にも人脈的にも忠実に継承しているのが自衛隊です。現に、基地拡大を図っている沖縄・宮古島の自衛隊は、戦闘時には「島民は守れない(守らない)」と公言しています。

 軍隊は「国民を保護する」どころか、国家権力の都合次第で「国民」を踏みにじり牙をむく。それが軍隊の本質です。ミャンマー国軍の姿はその本質を露呈したものといえるでしょう。だからこそ12カ国の軍トップは、その本質を覆い隠し、軍隊への「敬意と信頼」を確保する必要に迫られ「共同声明」を出したのでしょう。

 きょう4月3日は、韓国・済州島で住民への大虐殺が行われた「4・3事件」(1948年)から73年です(写真右は済州島の平和公園の碑)。「4・3事件」は、「祖国分断に抗って蜂起した祖国統一のための”抗争“」(金石範氏『済州島4・3事件の記憶と文学』平凡社ライブラリー)であり、植民地宗主国だった日本は様々な意味で深く関係しています(2020年4月2日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20200402)。
 「4・3事件」で見落としてはならないのは、住民大虐殺の背後にアメリカ軍の存在があったことです。軍隊は抵抗する住民を平気で虐殺する。それが「4・3事件」の教訓の1つです。

 主権在民が民主主義だとすれば、軍隊は民主主義と絶対に相容れない存在です。その本質を隠ぺいして軍隊への「敬意と信頼」を図ろうとした日本・各国の軍トップの「声明」とは逆に、国家権力の武力による市民弾圧をなくするために、軍隊(自衛隊)を解体し非武装の世界へ向かうことこそ、ミャンマーの事態から私たちがくむとるべきことではないでしょうか。


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