アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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政府・東電を免罪する「風評被害」という言説

2021年04月13日 | 原発・放射能と政治・社会

    

 菅政権は13日、東電福島原発「事故」の汚染水を海に放出する方針を正式決定します。これに対し市民グループは12日、記者会見で反対を表明し、代替案の検討を要求しました(写真中)。全漁連(全国漁業協同組合連合会)はすでに昨年6月の通常総会で、「断固反対」を全会一致で決議するなど、福島県内外に強い反対があります。

 菅政権はそれを無視して強行するもので、政権のファッショ的体質を露呈しています。しかも「復興五輪」とうそぶく東京五輪の「聖火リレー」をメディアがお祭り騒ぎで報道しているドサクサの中で、「復興」とは対極の暴挙を強行することは言語道断です。

 そもそも政府・東電やメディアは、一定の「処理」をしたとして「処理水」という用語を使い、まるで放出する水が無害であるかのような印象を振りまいていまが、放射能で汚染されていることに変わりはなく、「汚染水」というべきです。

 汚染水の処理問題をめぐって黙過できないのは、「風評被害」という言葉が多用されていることです。

 「風評」とは国語辞典でも「うわさ」と定義してあるように、根拠がない評判という意味・ニュアンスになります。しかし、汚染水に対する不安はけっして根拠がないものではありません。放出されようとしている水にトリチウムが含まれているのは厳然たる事実です。しかもこの汚染水は福島第1原発のデブリ(溶解核燃料)に注水されたものであることを見落とすことはできません。
1原発の処理水はデブリに触れた水だ。不安の声があるのも無理はない。東電と政府が不安解消へ向け手を尽くしたのかは疑問だ」(10日付琉球新報=共同)。

 にもかかわらず、当然の不安を「風評被害」とすることは、政府と東電の加害責任を免罪し、福島・東北の生産者と消費者を分断するものと言わねばなりません。

 ジャーナリストの吉田千亜さんは、「風評被害」について、福島県農民連の根本敬会長(二本松市の農家)の言葉(2017年11月『現代農業』掲載)を紹介して問題提起しています。

「消費者の過剰な反応を「風評被害」だと言います。しかし、今起こっていることは、東電が起こした原発事故による放射能が大地と作物を汚染している「実害」です。風評被害と片付けるのは、消費者に責任をなすりつけ、東電を免罪することです。心ある方々から、福島の産品を買い支えたいという申し出がきます。でも、私はこう応えています。「お気持ちは嬉しい。でも、みなさんにお願いしたいのは、国・東電はあらゆる損害をすべて補償せよという世論を消費地で起こしてほしい」と…。」(根本敬さん。吉田千亜著『その後の福島 原発事故後を生きる人々』人文書院2018年より)

 東電の被害を受け続けている生産者・根本さんの言葉は、「風評被害」という言説の危険性、そして私たち消費者が主張すべきことやるべきこと、生産者と消費者の団結のあり方を示しており、きわめて示唆的です。

 政府・東電の免罪に通じるこの「風評被害」という言葉を、天皇徳仁が公に使ったことを改めて想起する必要があります。
 徳仁天皇は今年3月11日に行われた政府主催の追悼式で、「原子力発電所の事故の影響により…農林水産業への風評被害の問題も残されています」と述べたのです(写真右)。

 追悼式での天皇の「ことば」は、全体として「国民」の「共助」を強調したもので、その中での「風評被害」発言は、問題の根源である政府・東電の加害責任を隠蔽・免罪するものであり、けっして黙過することはできません。


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