12日のNHK・ETV特集は「長すぎた入院」と題して、日本の精神医療の闇を報じました。
東京電力福島第1原発の周辺には4つの精神病院がありました(原発の周辺に精神病院が集中していること自体大きな問題)。それが「3・11」によって立ち退きを余儀なくされ、それを契機に、数人の入院「患者」たちが退院しました。
その中の1人、Tさん(66)は実に39年ぶりの退院でした。しかし、もともとTさんはそんなに長期に入院する必要はなかった、と複数の医師が証言します。にもかかわらずなぜ39年も入院していたのか。「患者」を社会の邪魔者として隔離・収容する政府の政策のためです。
過去の話ではありません。ある医師は「今もほとんどの精神病院はそうだと思う」と言います。その結果、患者をできるだけ社会へ戻そうとする欧米諸国は精神科病床数が減っているのに対し、日本だけはその数は高止まりしています(写真中。赤が日本。同番組より)。日本は世界の精神科病床の約2割をが集中する「精神病院大国」になっているのです。
「自由はいいな。自由に感謝します」というTさんの言葉に胸打たれながら、沖縄の「私宅監置」を想起せずにはいられませんでした。
沖縄では今、かつての「私宅監置」の問題があらためてクローズアップされています。沖縄タイムスが連載などで報じたほか、シンポジウムも開催されました(4月27日)。
「私宅監置」とは何か。
「私宅監置とは、精神障がい者を自宅の一室や敷地内の小屋に『隔離』したかつての制度である。本土では1950年の精神衛生法で禁止された。ところが沖縄は米軍統治下にあったため、同法の適用の範囲になかった。
60年、沖縄でも琉球政府によって精神衛生法が制定されたが、私宅監置は禁止にならなかった。沖縄の医療、特に精神医療施設整備の絶対的不足と遅れが深刻だったためである。…禁止になったのは、復帰時の72年だった」(ジャーナリスト・山城紀子氏、4月17日付沖縄タイムス)
「私宅監置」はどんな状態だったか。
「コンクリートのその建物は、食べ物を出し入れする小窓がひとつついているだけの、その中で人が過ごすということを考えるとあまりにも狭く、あまりにも過酷な建物だった。低い鉄製のドアがついた出入り口、中にはトイレが備わっているだけだった」(山城氏、同。写真右は沖縄本島北部に残る私宅監置小屋の跡=4月14日付沖縄タイムスより)
1966年に沖縄で実施された調査では、沖縄県内の精神障がいの有病率は「本土」の約2倍だったといいます。
この背景には、沖縄戦(トラウマを含め)と戦後の米軍占領があります。
「1900年に制定された精神病者監護法で精神障がい者は治安維持のため監禁の対象とされ、監置の責任は家族に負わされた。…(沖縄)県内は病院そのものが少ない上、精神病院、精神科医師は戦後まで存在しなかった。
沖縄戦ではスパイ視され虐殺される精神障がい者もいた。医師数は戦前の3分の1の64人に激減し、県内全域、特に離島やへき地での医師不足が長く続いた。
戦後、沖縄を占領した米軍は『軍事上の安全保持』で医療政策を進め、軍人・軍属に直接影響する性病や結核以外の対策に消極的で、精神衛生については無策だった。…医療機関は少なく、医療保険制度もない中…私宅監置のほか公立の監置所も使われた」(4月22日付琉球新報)
必要のない入院を強制される「精神病院大国」の「本土」と、精神病院・精神科医不足で72年まで「私宅監置」が公認された沖縄。どちらも精神障がい者の人権は踏みにじられ、人生が奪われた点で共通しています。「私宅監置」にはその上に何重にも沖縄差別がのしかかっていました。根底にあるのは、精神障がい者、沖縄に対する日本政府の差別・棄民政策です。
「私宅監置」はけっして「過去の沖縄」の話ではありません。先日も兵庫県で精神疾患がある長男を25年間自宅に監禁していた事件が発覚しました。軍事優先・福祉切り捨ての自民党政府の下で、”現代の私宅監置“が各地で増え、悲惨な事件に至る恐れは今後ますます増えていくことが予想されます。
「私宅監置」の歴史は、ヤマトによる植民地化、沖縄戦、戦後米軍占領という沖縄の苦難の歴史を象徴するものであると同時に、障がい者を隔離・収容し、切り捨てる現代日本の政治・社会に対する大きな警鐘ではないでしょうか。