アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

首里城破壊と日本軍の関係示す注目資料

2020年11月24日 | 沖縄と戦争

    
 沖縄では22日、焼失した首里城再建の課題を議論する「首里城再興に関する公開討論会」(首里城再興研究会主催)が開かれ、熱心な議論が行われました(写真右、23日付沖縄タイムスより)。
 大きなテーマの1つは、正殿前の大龍柱の向きです(10月24日のブログ参照)。公開討論会では後田多敦神奈川大准教授が先に発表した「正面向き」を示す1887年のフランス人による写真が注目を集めました。大龍柱の向きは日本の琉球支配・皇民化政策とも無関係ではなく、今後の研究・議論の進展が注目されます。

 さらに、私たち「本土」の日本人がけっして見過ごすことができない資料があることが分かりました。それは、沖縄戦(1945年4~6月)における首里城の焼失(写真左)と日本軍(第32軍・牛島満司令官)の関係を示す重要な証言です。

 沖縄タイムスは10月下旬からの連載「首里城再建を考える」で、県内識者の論評を掲載しました。その中で、辺野古新基地建設反対の先頭に立っている平和市民連絡会の共同代表でもある建築家の真喜志好一氏が、『写真集・首里城』(1987年、那覇出版社)に掲載されている川平朝申氏(首里城復元期成会副会長―当時)の「特別寄稿」に、「興味深い記述がある」ことを紹介しました(10月22日付沖縄タイムス)。

 真喜志氏の論稿を読んで驚きましたが、このほど『写真集・首里城』(写真中)で実際に川平氏の証言を確認することができました。注目される証言は以下の通りです。

 「昭和二〇年四月一日、米軍が沖縄本島中部に上陸を開始し、破竹の勢いで南進をし、宜野湾、浦添の線まで進出して、嘉数高地の大激戦で石部隊(司令官藤岡中将)は米軍に大きな打撃をあたえましたが、米軍の補給作戦は早く、五月十七日に石嶺の線まで進出、首里那覇への総攻撃を前に、米軍総司令官バックナー中将は、沖縄守備隊第三二軍司令官牛島中将に対し「首里地区は首里城をはじめ琉球の古い重要文化財の多い地域である故に非戦闘地域にしたい、日本軍は速やかに首里を撤退されたし…」という要旨の勧告文を送りました。
 ところが心ない日本軍守備隊は、これに応えず反撃戦に出ましたので、首里は激戦場と化し、四日三晩砲爆撃の嵐にさいなまれ見る影も無く灰燼に帰しました。」 

 米軍は首里城はじめ首里地区は「琉球の古い重要文化財」が多いから「非戦闘地域」にしたい、日本軍は首里から撤退するように、と促す「勧告文」を送った。にもかかわらず、日本軍がこれを無視したため、米軍は首里に総攻撃をかけ、首里城は「灰燼に帰した」、という証言です。沖縄戦における首里城破壊が、事実上日本軍によってもたらされたものであることを示すものです。

 川平朝申氏は、敗戦翌年(1946年)から米軍統治下の沖縄民政府文化部に勤務し、「終戦直後から郷土の栄誉ある文化行政に携わることができ(た)」(前掲川平氏「特別寄稿」)人物です。その証言の信ぴょう性は高いと言えるでしょう。

 真喜志氏は、「この勧告文を見つければ、戦争が人命を奪うだけでなく歴史や文化も破壊するという事実を伝え、首里城の復元・再建が「太平洋の要石」を拒み「平和の要石」としての象徴になる」(10月22日付沖縄タイムス)と述べています。

 首里城の再興は、「沖縄県とウチナーンチュが主導すべき」(友知政樹沖縄国際大教授、23日付沖縄タイムス)課題です。同時に「本土」の私たちはこれを機に、日本が琉球を侵略・植民地支配し、天皇制(「国体」)を守るために沖縄戦で琉球(沖縄)を捨て石にして多くの人命を奪い郷土を破壊した歴史を改めて肝に銘じる必要があります。
 川平氏の証言は、その重要な歴史的事実を示すものの1つであり、今後のいっそうの究明が期待されます。

 

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