アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

天皇制「歌会始」の政治的役割

2023年01月19日 | 天皇制と政治・社会
   

 宮中の新年恒例行事とされている「歌会始」。今年は18日に行われました。その起源は鎌倉時代とも言われていますが、「一般国民」も歌を寄せるようになったのは明治時代から。入選者が皇居の儀式に参加するようになったのは敗戦後の1947年からです。

 短歌に興味がない人には無関係と思われるかもしれませんが、「歌会始」が持つ政治的役割はけっして軽視できません。

 今年の徳仁天皇の歌は、「コロナ禍に友と楽器を奏でうる喜び語る生徒らの笑み」。3年連続「コロナ禍」がテーマです。時々の政治・社会情勢に関係した天皇・皇后の歌には濃い政治性を持つものが少なくありません。

 たとえば、2016年「歌会始」の明仁天皇(当時)の歌は、「戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ」。15年4月に太平洋戦争の激戦地だったペリリュー島を訪れたことを詠んだもの。父・裕仁の戦争責任を隠ぺいしたまま、「慰霊・平和の天皇」を印象付けるものです。

 2006年の「歌会始」では、美智子皇后(当時)が、05年に阪神・淡路大震災10周年で神戸を訪れた時のことをこう詠みました。「笑み交はしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ」。すでに大震災からの「復興」が成し遂げられているかのような歌です。

「近年の歌会始の天皇・皇后はじめ皇族たちの作品を一覧してみると…さまざまな配慮、バランスをもって構成されていることがわかる。…大震災後…いくつかの短歌作品が折に触れて発表されることによって…根本的な復旧や復興、問題解決の困難から一時的にでも逃避させる機能を担ってはいなかったか。これは、皇族方個人の善意とは全くかかわらないところでの政治的役割を果たしているにちがいない」(内野光子著『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房2013年)

 「歌会始」の政治的役割は、天皇や皇后の歌の内容だけではありません。

 「歌会始」には「召人(めしうど)」といわれる、天皇が指名する詠み人がいます。今年は小島ゆかり氏でした。
 歴代の「召人」には、湯川秀樹、谷崎潤一郎、金田一京助、南原繁、飯島宗一、梅原猛、大岡信、谷川健一、加賀乙彦氏ら、「民主的」とみられている学者・文化人が数多く含まれています。
 「歌会始」はこうした学者・文化人を、「召人」として天皇に従わせ宮中儀式に取り込む役割を果たしています。

 さらに、応募された歌(今年は1万5005首、1人1首)は都道府県ごとに仕分けされ、天皇に差し出されます。「歌会始」は、短歌を通じて「国民」を天皇の下に集結させる場にもなっているのです。

 宮内庁御用掛で「歌会始」の選者でもある永田和宏氏(歌人・京都大名誉教授)は、こう述べています。
「(歌会始は)皇室と国民が共通のお題で歌を作る共同作業であり、同じ場で互いに感じていることを歌を通して伝え合い、思いを寄せることに大きな意味がある。世界で類を見ない形です。日本人であることを確認する場にもなるのではないでしょうか」(18日付朝日新聞デジタル)

 「国民」を皇室と一体化させ、天皇の下で「日本人であることを確認」させる場。それはすなわち天皇制の維持・強化を図る場にほかなりません。それこそが「歌会始」の最大の政治的役割と言えるでしょう。

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Nスぺ・エリザベス女王の危険な賛美

2022年12月27日 | 天皇制と政治・社会
   

 25日夜のNHKスペシャル「エリザベス女王~光と影 元側近が語る外交秘話」は、「光と影」と題しながら、「光」がほとんどで、9月に死去した同女王を賛美するものでした。
 それは日本の天皇制を考える上でも、見過ごすことができない危険な内容を含んでいました。

①天皇裕仁の戦争責任隠ぺい・美化

 エリザベス女王は1975年5月、初めて日本を訪れました。その際、裕仁天皇(当時)との会談を切望し、通訳だけ入れて2人きりの会談を行いました。女王が裕仁との会談を強く望んだのは、立憲君主の手本は裕仁しかいないと考えたからで、女王は裕仁から多くのことを学んだ―というのが番組の内容です。

 これは天皇裕仁の実像を歪めるたいへんな美化です。

 エリザベス訪日の4年前(1971年)、裕仁は敗戦後初めて欧州諸国を訪れました。
「訪問した7カ国、とくにオランダ、西ドイツ、イギリスでは、憤慨したデモ参加者が彼の車列に物を投げつけたり、侮辱したりした。彼らは天皇を平和の象徴とは認めず…日本人を戦争のただの被害者とは見ていなかった。…ヨーロッパでの抗議運動は、「戦争責任」がまだ過去の問題になっていないことを改めて教えた」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇・下』講談社学術文庫2005年)

 エリザベス女王が裕仁との会談を切望したというのが事実なら、それはイギリスはじめ欧州諸国の市民の思いとは全く相いれないことであり、裕仁の戦争責任隠ぺいに加担したものです。

②「皇室外交」の政治利用容認・拡大の危険

 イギリス(イングランド)は12世紀にアイルランドに侵攻し植民地化しました。以後、同地域の独立問題が大きな政治的課題になっています。とりわけ1960年代以降、IRA(アイルランド共和国軍)との対立を深めました。エリザベス女王はその対立を収め、和平合意(1998年)に大きな役割を果たした―というのが番組の内容です。

 ここでアイルランド問題を詳述する力は私にはありませんが、1つ言えることは、イギリスにおいても女王(王室)が直接政治的活動を行うことは許されていないにもかかわらず、エリザベス女王の言動が「和平合意」に向けて重要な役割を果たしたと番組が賛美していることはきわめて問題です。
 「女王外交」の賛美は、アイルランド問題だけでなく、植民地化していたガーナの独立(1957年)でも強調されました。

 「女王外交」の主な手段は、植民地化の犠牲者への「慰霊」であり、晩さん会などにおける「スピーチ」(写真右)です。

 このスタイルは、イギリス王室と歴史的に深い関係にある日本の皇室が踏襲しているものです。戦争・植民地化の現地や政治的に問題のある地へ出向いて「慰霊」「慰問」し「スピーチ」する。それはいかにも平和的活動であるかのように思われていますが、実は時の国家権力の利益に沿ったきわめ政治的な活動です。
 それは、皇室の政治利用にほかならず、憲法上も許されるものではありません。

 エリザベス女王の「王室外交」を美化することは、日本の天皇・皇族の「皇室外交」を美化し、その政治利用を容認・拡大する危険性を持っています。

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「母性」―個人と社会と天皇制

2022年12月20日 | 天皇制と政治・社会
   

 『母親になって後悔している』(オルナ・ドーナト著、鹿田昌美訳)がベストセラーになっています。著者はイスラエルの社会学者で、2017年にドイツで刊行後世界中で翻訳され、日本では今春翻訳・出版されました(私は未読)。

 13日のNHK「クローズアップ現代」が取り上げました。衝撃的なタイトルですが、子どもを産んだことを後悔しているのではなく、「母親」とはこういうものだという固定観念(ジェンダー)によって「母親業」を担わされている(担っている)ことを「後悔している」という「母親」たちの声だそうです。

 番組のアンケートでは、「母親にならなければよかった」と思ったことがある人は32%にのぼっています。理由のトップは、「自分は良い母親になれない」(42%)、第2位は「子どもを育てる責任が重い」(40%)(複数回答)。

 自身母親で『母性』という著書があり、その映画が公開中の作家・湊かなえ氏が、番組のインタビューでこう述べました(写真中)。

「母性という言葉を定義づけすぎているのではないでしょうか。生まれた瞬間に(母性を)持つものだっていうなにか神話化されたものがあって、精神的にも追い詰めるようなことを周りがしているのではないでしょうか。「母親になって後悔している」という言葉の9割は別の言葉に置き換えられるのではないでしょうか。例えば「(夫が)育児に協力してくれない」とか。

 母親ってただの役割であるのに、すごく何か重いもの、子どものためなら命をかけないといけないとか、犠牲にするのを美徳としているところがあって、我慢している母親こそが真の母親であるという捉え方をしていて、社会の制度とか会社の制度とか家庭内での役割分業が整っていないのを全部母親にのっけてしまって、個人の努力が足りないって、なんかちょっとごまかして、自分の責任転嫁を1人の母親にさせているところがあると思うのです。時代が進化しているのに、母性像が変わっていなくて、本当は追い詰められなくていい人まで追い詰めてしまっている」

 アンケートの「誰が・何が変わるべきか」との質問では、「自分自身」と答えた人がトップ(61%)でした。
 これについてコメンテーターとして出演した、「母ではなくて、親になる」のエッセイもあるエッセイスト・山崎ナオコーラ氏はこう述べました(写真右)。

自己責任論が広がっています。でもこれは社会の問題です。社会が母親の声を聞く耳を持っていない。(必要なのは)まず社会を疑うこと、社会のせいすることです」

 湊氏も山崎氏も、「母親」の生きづらさは「個人」の問題ではなく「社会」の問題だと強調しています。まったく同感です。

 同時に、「母性」という言葉の歴史性にも目を向ける必要があります。

 女性史研究家の加納実紀代(1940~2019) は、「日本で「母性」という言葉が使われるようになったのは、1910年代後半の「母性保護論争」以後のこと…女が母である状態になることによって社会的にマイナスを被らないようにするにはどうすればいいか―これが母性保護論争のテーマであった」とし、続けてこう書いています(抜粋)。

「そうした「母性」は、「昭和」の15年戦争の時代に天皇制と癒着し、日本やアジアの息子たちを死にいざなうものとなる。15年戦争下、自己犠牲と無限抱擁の「母性」賛歌が日本社会に溢れた…女により多くの子どもを産ませ、しかも身を削って生み育てた子を「天皇陛下の御為に」死なせるという犠牲に耐えさせるためである。

 さらに大きいのは、「母性」賛歌が天皇制賛歌と重なり合うことによって国民統合力を強め、「挙国一致」で侵略戦争を遂行させる役割を果たしたことである。

 「無我」と「献身」を内実とする「母性」は、女たちに犠牲を強いただけでなく、天皇制の加害性を支えるものにもなったのだ。

 そしてまた、それは戦後における日本国民の戦争責任意識の稀薄さにも関わっているように思える。「無限抱擁」の「母」の胸に安住しているかぎり、自他の認識に立った「責任」観念が鍛えられることはないからだ」(「「母性」の誕生と天皇制」、『天皇制とジェンダー』インパクト出版会2002年所収)

 「母性」と天皇制の癒着―湊かなえ氏がいみじくも「母性」という言葉には「神話性」があると述べたことと通底します。

 「母性」という言葉が使われ始めて100年余。「母性保護論争」で提起された問題は、いまもまさに「変わっていない」のです。変わらない上に、新自由主義の「自己責任」論によってさらに個人に、母親にのしかかっています。

 自民党の改憲草案が「家庭・家族」を強調していることも、けっして無関係ではありません。

 「母性」賛歌が天皇制賛歌と重なり合って、侵略戦争を遂行させる役割を果たした―日米軍事同盟の深化による大軍拡・戦争国家化が急速に進行しているいま、この過ちを繰り返すことは絶対に阻止しなければなりません。

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若者へ浸透図る秋篠宮一家と“無意識の天皇制”

2022年08月20日 | 天皇制と政治・社会
   

 皇嗣・秋篠宮文仁一家が民間の行事に参加し、それをメディアが報道する頻度が多くなっています。7月~8月の主なものは以下の通りです(宮内庁HPより。写真は朝日新聞デジタルから)

▶7月20日 秋篠宮 「全日本高等学校馬術競技大会」(静岡県)に出席・観戦。
▶7月27日 秋篠宮夫妻 「全国高校総合体育大会(インターハイ)」(徳島県)のバドミントン競技を観戦。翌28日、開会式に出席。あいさつに続き高校生の阿波踊りを鑑賞。
▶7月31日 秋篠宮夫妻と長男・悠仁氏 「全国高校総合文化祭東京大会(とうきょう総文2022)」の開会式に出席。悠仁氏が現地で「公務」に臨むのは2019年12月以来(写真左、中)。
▶8月2、4日 秋篠宮夫妻と悠仁氏 同「とうきょう総文2022」のかるた、軽音楽・合唱を鑑賞。
▶8月5日 秋篠宮夫妻 科学技術館(東京都)の「全国学生児童発明くふう展」鑑賞。
▶8月7日 秋篠宮夫妻 「日本スカウトジャンボリー」(東京都)に出席・懇談。
▶8月7日 秋篠宮の次女・佳子氏 「ガールスカウト・キャンプ」(長野県)に参加(写真右)。

 「コロナ」以前の2019年の同時期と比べると、「高校馬術大会」「児童発明くふう展」の鑑賞が増えています。また、「高校総合文化祭」への出席・鑑賞は、今年から悠仁氏が加わりました。今後、悠仁氏の出番が増えることは間違いないでしょう。

 こうした秋篠宮一家の「公務」の特徴は、若者(児童~高校生)の企画への参加が頻繁だということです。若者への浸透が意図的に行われています。これは日本社会にとってどういう意味を持つでしょうか。

 秋篠宮一家が出席した企画に参加した若者たちの多くは、おそらく明治以降の天皇制の歴史について十分な知識がないまま(なぜなら学校教育では教えない)、皇族の権威(差別)と「親近感」だけが印象付けられるでしょう。そこに醸成されるのは、“無意識の天皇制”です。

 政府にとって“無意識の天皇制”が威力を発揮するのは、国家権力にとって重大事態が発生したときです。東日本大震災直後の天皇明仁(当時)の「ビデオメッセージ」(2011・8・8)はその典型でした。

 そして今、注視しなければならないのは、「安倍国葬」への皇族の出席です。

 「国葬」の歴史に詳しい宮間純一・中央大教授は、「重要な点は国葬に皇室がどう関わるかだ。吉田(茂)氏の国葬の時は当時の皇太子夫妻(上皇夫妻)が参列した。今回、先例にのっとれば、秋篠宮の参列の可能性はある」としたうえで、こう指摘します。

「しかし、国葬を天皇の名のもとに政府が演出してきた戦前・戦中の歴史を踏まえれば、政治主体で行う国葬に皇族が参列し、権威を添えることは皇室の政治利用という観点から問題がある」(7日付中国新聞=共同)

 批判の強い「安倍国葬」に皇族を参加させて、「国葬」に権威を添え、批判を抑えようとする政治利用です。

 皇族の「公務」によって醸成される“無意識の天皇制”は、国家権力が必要とする時に「皇室の政治利用」を首尾よく遂行するための土壌づくりにほかなりません。

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ハンセン病判決3年・消えぬ差別と天皇制

2022年07月08日 | 天皇制と政治・社会
   

 6月28日は、ハンセン病元患者の家族が受けた差別の認定と補償を求めた裁判で、原告が勝訴した熊本地裁判決(2019年、写真左)から3年の日でした。判決を機に家族補償法が制定され、「偏見と差別を国民と共に根絶する決意」(前文)が表明されましたが、元患者・家族に対する差別は無くなっていません。

 黒坂愛衣・東北学院大教授は「課題は山積している」として、とくに次の4点を指摘しています(6月30日付中国新聞=共同)。

「一つ目は、ハンセン病をはじめ感染症にまつわる差別を日本社会がいまだ克服できていない点」
「二つ目に、ハンセン病家族のエンパワーメント(潜在的能力の強化)。…勝訴後も家族たちが名乗れない状況は変わっていない。…家族は地域社会の中で見えない存在となっている」
「三つ目は、ハンセン病回復者たちの暮らしの保障。…療養所では医師不足が常態化し、看護職員の削減が進む」
「最後に、ハンセン病問題の歴史の継承」

 これらは主に政府の政策・施策の問題ですが、加えてハンセン病差別には特殊な背景があります。皇室・天皇制との関係です。

 毎年6月25日を含む週は「ハンセン病を正しく理解する週間」とされています。6月25日はかつては「らい予防デー」「救らいの日」とされていました。なぜ「6月25日」なのか。この日が大正天皇(嘉仁)の妻・貞明皇后(節子=さだこ、写真中)、すなわち裕仁の母の誕生日だったからです。

 日本は1907年の法律「らい予防に関する件」から始まり、1931年に制定された「癩予防法」が1996年に廃止されるまで、ハンセン病を「国辱」とし、患者を死ぬまで療養所に強制隔離しました。それに貞明皇后が深くかかわっていました。

「1930年、貞明皇后は手許金24万8000円を全国の療養所に寄附した。この一部をもとに翌年「らい予防協会」が設立され、貞明皇后の誕生日6月25日は「らい予防デー」と定められた。…貞明皇后は「救らい」の象徴となっていく。…ハンセン病療養所は限りなく「皇恩」がもたらされる場、というイメージが作られていった。(中略)
「皇恩」や「御仁慈」は、絶対隔離政策を正当化する思想的支えとなると同時に、病者にも隔離を受容させ、療養所に入ることが国家的使命と意識づける役割を果たした」(吉川由紀・沖縄国際大非常勤講師「皇室とつれづれの碑」、『入門沖縄のハンセン病問題 つくられた壁を越えて』2009年所収)

 ハンセン病と皇室の関係はけっして「戦前」だけのことではありません。

 貞明皇后の「寄附金」で設立された「らい予防協会」(初代会頭は朝鮮侵略・植民地支配を推進した渋沢栄一)は強制隔離を先導しましたが、敗戦後は財団法人・藤楓協会(1952年)がそれを引き継ぎました。

 藤楓協会の総裁は、貞明皇后の三男・高松宮宣仁、裕仁の2番目の弟でした。ちなみに、藤楓協会の「藤」は貞明皇后、「楓」は義母(明治天皇の妻)昭憲皇太后の印章です。

 藤楓協会は2003年に「社会福祉法人ふれあい福祉協会」に改称・改組しました。もちろん現在は「差別と偏見のない社会をめざす」としていますが、同時に、「ふれあい」は「藤楓協会の理念を継承」(HP「使命と決意」)していると公言しています。

 貞明皇后の誕生日にちなんで制定されている「ハンセン病を正しく理解する週間」で、政府・厚労省はその「実施主体」に「ふれあい」を指定しています。
 そして、全国の療養所には、貞明皇后が1932年に詠んだ歌の歌碑が建てられています(写真右は沖縄・宮古島の療養所「南静園」)。

 こうして、ハンセン病を「国辱」として差別・強制隔離し、それを「正当化」し「受容」させるために、貞明皇后や高松宮らが深くかかわってきたのが、ハンセン病と皇室・天皇制の関係史であり、それは今日に引き継がれています。明仁天皇・美智子皇后(当時)がさかんに沖縄などの療養所を訪問したのもその継承です。

 ハンセン病元患者・家族への差別が無くならないことと、こうした皇室・天皇制のかかわりは、けっして無関係ではありません。

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「叙勲・褒章」への態度で「民主主義」が試される

2022年05月02日 | 天皇制と政治・社会
   

 日本では年2回、春と秋に「叙勲・褒章」の受章者が発表されます。褒章受章者には芸能人も多いため、市民の関心も引きやすく、メディアは大きく報じます。

 「叙勲・褒章」制度は、明治政府が天皇制を強化するために設けたものです。そのため敗戦でいったん生存者叙勲は廃止されましたが、自民党政権によって復活されました(1963年)。これが年中行事のように繰り返され、大きく報じられているのは、無意識のうちに天皇制・国家主義を植え付けるものであり、主権在民の民主主義社会とは本来相容れないものです。

 「叙勲・褒章」制度の原点は、1875年の天皇睦仁(明治天皇)の詔勅とそれを受けた太政官布告第54号です。それは、「明治維新を受けて伊藤博文が近代国家の中央集権体制を確立するために『華族制度』とともに創設」(大薗友和著『勲章の内幕』現代教養文庫1999年)したものです。

勲章はその創設期から、国家にとって功績のあった人間を国家が選び、天皇が与えるもの、いいかえれば「大日本帝国」の統治者・天皇を守る人々をつくるものであった」(栗原俊雄著『勲章―知られざる素顔』岩波新書2011年)のです。

 年2回の「叙勲・褒章」は、春は4月29日=天皇裕仁(昭和天皇)の誕生日、秋は11月3日=天皇睦仁(明治天皇)の誕生日に行われます。

 受章者を決定するのは時の政権(国家権力)であり、その名簿は天皇に見せて最終決定とされます。受章者は天皇に「謁見」します(コロナ禍の間は中止。写真左は謁見のようす)。

 「勲章・褒章」を与えるのは天皇で、それは憲法に規定された天皇の「国事行為」(7条第7項)として行われます。

 こうして明治天皇制政府が始めた中央集権体制=天皇制国家確立のための「勲章・褒章」制度は、日本国憲法の下でもあらゆる点でその趣旨が受け継がれています。

 「勲章・褒章」を受章して歓喜している人々は、こうした歴史やその意味を知っているのでしょうか。

 たとえば、今回紫綬褒章(芸術文化分野、写真中)を受けた作家の島田雅彦氏は、「これまでの私の態度に対する励ましだと、ありがたく受け止めたい」「褒章をもらうことで『私は怪しい者ではない』と証明することになるのではないか」(28日付沖縄タイムス=共同、写真右)と喜んでいます。

 島田氏は「ロシアのウクライナ侵攻」について、「民主主義の最後の砦は独裁者を退場させられるかどうか」(「世界」臨時増刊「ウクライナ侵略戦争」)だと述べていますが、日本の独裁政治である天皇制を強化する歴史を受け継ぐ「褒章」の受章が、なぜ「怪しい者ではない証明」なのでしょうか。「褒章」が「励まし」だという島田氏の「民主主義」とはいったい何なのでしょうか。

 同じ作家でも、かつて「叙勲・褒章」をきっぱり辞退した人がいます。
 大江健三郎氏は、勲章の中でも特別の意味を持つ文化勲章を辞退しました(1994年)。大江氏は、「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観を認めないからだ」と「ニューヨークタイムズ」紙のインタビューで語っています(栗原俊雄氏、前掲書)。

 大江氏の文化勲章辞退に対し、城山三郎氏(故人)は「言論、表現の仕事に携わるものは、いつも権力からアメをもらっていては、権力にモノを言えるわけがない」(朝日新聞1994年10月15日付夕刊)とエールを送り、その後自らも紫綬褒章を辞退しました。

 「民主主義」を口にするのは簡単です。しかしその「民主主義」がホンモノかニセモノかは、「叙勲・褒章」=「天皇制」「国家権力」に対する姿勢・態度で証明されるのではないでしょうか。



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「昭和の日」も「明治の日」もいらない

2022年04月29日 | 天皇制と政治・社会
  

 4月29日が「昭和の日」とされたのは2007年からです。1989~2006年までは「みどりの日」、1948~1988年までは「天皇誕生日」、敗戦後に祝日法ができるまでは天皇誕生日の別名「天長節」でした。名前は目まぐるしく変わりましたが、“根拠”はただ1つ、天皇裕仁(昭和天皇)の誕生日だったということです。

 1989年1月に裕仁が死去したため、「天皇誕生日」とは言えなくなり、「みどりの日」などという名前で裕仁の影を残そうとし、2007年から「昭和の日」としました。それは天皇制と切り離せない元号を定着させようとする狙いがあります。

 問題は、「元号の定着」だけではありません。

 祝日法(第2条)には、「昭和の日」の意味がこう書かれています。
「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」

 「昭和」は63年。その大半(~45年)はアジア侵略と植民地支配、戦時体制下の民主主義圧殺でした。それを「激動」と「復興」に集約し「国の将来」につなげようというのは、歴史を改ざんして「昭和」=裕仁の美化を図るものです。

 重大なのは、「昭和の日」のこの危険な狙いが、いま新たな装いで繰り返されようとしていることです。天皇睦仁(明治天皇)の誕生日(11月3日、現在「文化の日」)を「明治の日」に改称しようとする動きが強まっているのです。

 今月7日、超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」なるものが発足しました(写真中)。会長は自民党の古屋圭司元国家公安委員長。先日も「神武天皇」にまつわるウソを公然とツイッターで発信した根っからの天皇主義者です(3月31日のブログ参照)。

 結成総会では、古屋氏のほか、大島敦衆院議員(立憲民主党選対顧問)、馬場伸幸衆院議員(日本維新の会共同代表)、前原誠司衆院議員(国民民主党代表代行)があいさつ。92人の国会議員が名を連ねました。

 設立趣意書では、「我が国の将来の発展を期して、明治を生きた人々の努力に敬意を表し…『明治の日』と改称する」とうたっています。

 当日古屋氏は記者団に、「機が熟した」と述べ、「6月15日の今国会会期末までに各党で改正案の了承手続きを終え、早ければ参院選後の臨時国会で成立を目指す考えを示した」(23日の産経新聞ウエブサイト)といいます。

 国会議員のこうした動きと並行して、神社本庁などによって「明治の日推進協議会」が結成されています(写真中・右は同協議会のサイトより)。神社本庁は議連結成に呼応してこう主張しています。

「明治維新以来のわが国の戦前の歴史については…あたかも闇黒の時代であったかのやうに捉へえたり、そのすべてを否定したりするやうな風潮も見られたのではなからうか。…昨今のロシアのウクライナへの侵攻など、内外の世情はいよいよ混迷を深めつつある。「諸事神武創業の始に原き」として原点に立ち返り、皇室を仰ぎつつ国民一丸になって歩みを進めてきた明治以来の歴史を改めて考へるべき時といへよう」(4月18日付「神社新報」、仮名づかいは原文のまま)

 旧態依然の歴史改ざん、明治美化に加え、ウクライナ情勢を利用する新たな手口で、「明治の日」の実現、皇国史観の復活を図ろうとする動きが、立憲民主を含む超党派で強まり、具体的な日程に上ろうとしています。きわめて重大で危険なこの動きは絶対に黙過できません。


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自民幹部の天皇制フェイクと「建国記念の日」

2022年03月31日 | 天皇制と政治・社会

    

 29日付の沖縄タイムスに<「神武天皇と今上天皇同じY染色体」自民衆院議員 古屋氏の投稿「根拠不明」本紙が調査>という見出しの記事が載りました(以下抜粋)。

< 自民党憲法改正実現本部長の古屋圭司衆院議員は今月6日、ツイッターにこう投稿した。「天皇制度は如何に男系男子による継承維持が歴史的に重要か、神武天皇と今上天皇は全く同じY染色体であることが、『ニュートン誌』染色体科学の点でも立証されている」

 神武天皇は初代天皇とされる。宮内庁は本紙取材に「日本書紀などの文献に基づき歴代天皇に数えているが、実在するか否かについては諸説ある」との見解を示した。宮内庁は「神武天皇のご遺体が発見されたということは承知していない」と述べる。

 Y染色体は父から男子に受け継がれる。しかし、神武天皇は実在も遺体も確認されておらず、「神武天皇のY染色体」をどう検査したのか不明だ。

 科学雑誌「ニュートン」を発行するニュートンプレス社は「神武天皇と今上天皇のY染色体に言及した記事はない」と否定した。

 古屋氏は真意を問う本紙の取材に回答しなかった。>(29日付沖縄タイムス)

 宮内庁は「諸説ある」と言っているようですが、「『古事記』と『日本書紀』は…律令天皇制を正当化するために創作されたもので…神武から開化までの天皇は架空の存在」(岩波『天皇・皇室辞典』)というのが定説です。この一事をもってしても、古屋氏のツイートが荒唐無稽なフェイクであることは明白です。

 その目的が、皇室の「男系男子」を強調し、「女性天皇」を阻止しようとすることにあるのも明らかです。

 問題は、古屋氏(写真左)がただの自民党議員ではなく、第2次安倍晋三内閣で国家公安委員長を務めるなど安倍氏ときわめて近く、現在は自民党総裁直属の憲法改正実現本部長として改憲の先頭に立っていることです。「日本会議議連」や「明治の日を実現するための議連」の会長を務めるなど、自民党右派の代表格でもあります。

 こうした自民党幹部が、公式ツイッターで明らかなウソを公然と振りまき、現行天皇制を維持しようとしていることは見過ごすことができません。

 さらに問題なのは、この古屋氏のフェイクは個人的な妄言ではなく、日本の法律に関係していることです。それは「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が2月11日を「建国記念の日」とし、その趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」(第2条)としていることです。

 この日を「建国記念の日」としているのは、明治天皇制政府が1874年に2月11日を「紀元節」として祝い始めたことに起源があります。それは、紀元前660年のこの日、神武天皇が即位したという『日本書紀』の神話に基づくものです。

 天皇制政府はこの紀元前660年からの始まりを「皇紀」とし、1940年を「皇紀2600年」と称して各種の行事を行いました。それは皇国史観を煽り、侵略戦争推進・植民地支配強化のテコとなりました。

 古屋氏の「神武天皇」を使ったフェイクは、天皇制政府の「紀元節」「皇紀2600年」と同根です。そしてそれは、「祝日法」という法律によって現在に引き継がれ、「建国をしのび、国を愛する心を養う」日として天皇制ナショナリズム強化の手段となっているのです。

 国家権力はウソ・フェイクを駆使して国家主義を煽り、支配強化を図ります。それは侵略を正当化し、「国民」を戦争に駆り立てる戦争国家化と表裏一体です。
 「ウクライナ戦争」のさなかに憲法改悪の先頭に立つ自民党幹部が天皇制フェイクを撒き散らしたことは、決して偶然とは思えません。

 

 


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与野党党首揃って「伊勢詣」の異常、それが問題にならない異常

2022年01月06日 | 天皇制と政治・社会

    
 岸田文雄首相は4日、三重県の伊勢神宮を参拝し、そのあと現地で記者会見しました(写真左)。これが「仕事始め」です。首相が「伊勢詣」で1年を始めるのは、コロナ禍の昨年を除き、近年の恒例になっています。

 一方、泉健太・立憲民主代表、玉木雄一郎・国民民主代表も同日、伊勢神宮を参拝し、その後現地で記者会見しました(写真中、右。朝日新聞デジタルより)。両党党首が「伊勢詣」を仕事始めとするのも近年の恒例です。

 日本のメディアはこれを新年の恒例行事のように淡々と報道しています。
 しかし、首相や野党党首が「仕事始め」として「伊勢詣」するのはきわめて異常・重大で、けっして見過ごすことはできません。

 第1に、伊勢神宮は天皇・皇室の祖神とされている天照大神を祀っており、「明治中期以降、靖国神社とともに国家神道の中核的施設」(『天皇・皇室辞典』岩波書店)となっている神社です。

 その神社への参拝を「仕事始め」とすることは、天皇への服従姿勢を示すものであり、主権在民の日本国憲法の基本精神に反することは明白です。

 第2に、この「伊勢詣」が、首相として、あるいは立憲民主、国民民主の党首としての公的活動であることは明らかです。けっして私的行動ではありません。また、伊勢神宮参拝が宗教的活動であることも言うまでもありません。

 つまり、岸田首相や泉、玉木両氏の「伊勢詣」は、「国及びその機関は…いかなる宗教的活動もしてはならない」(第20条)という憲法の政教分離の規定に反する違憲行為だということです。

 第3に、伊勢神宮が「靖国神社とともに国家神道の中核的施設」だということは、天皇制帝国日本の侵略戦争・植民地支配強行のための中心的施設だったということです。事実、天皇裕仁(当時)は、開戦・降伏(ポツダム宣言受諾)の節目に伊勢神宮を参拝し、アマテラスに「報告」を行っています。

 その伊勢神宮に、与野党の党首が年初に参拝することが恒例化しているのです。歴史の教訓を踏みにじる異常な姿と言わねばなりません。

 日本のメディアは、首相はじめ閣僚・政治家の「靖国神社参拝」は問題として報道しますが、「伊勢神宮参拝」はまったく問題にしていません。極めて不見識です。

 兵士らの戦死を「国家」に取り込み、戦犯を合祀している靖国神社に参拝することが問題であるように、天皇が侵略戦争・植民地支配を強行する精神的支柱とした伊勢神宮に政治家が公的参拝することも重大な問題です。それが問題になっていないところにメディアと日本社会の劣化が表れています。

 野党の党首が首相と足並みをそろえて「伊勢詣」を行っていることは、象徴天皇制の下での翼賛体制を示すものに他なりません。
 とりわけ立憲民主党は、枝野幸男前代表、蓮舫元代表から一貫して「伊勢詣」を「仕事始め」にしています。この一事をとっても、同党の「立憲民主」の看板は羊頭狗肉と言わざるをえません。

 天皇制翼賛勢力が憲法違反の「伊勢詣」を「仕事始め」にするなら、私たちはこれを批判し、憲法の民主的条項擁護、天皇制廃止への決意を「仕事始め」にしようではありませんか。


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「天皇杯・皇后杯」にみるスポーツと天皇制の危うい関係

2022年01月04日 | 天皇制と政治・社会

     
 年末年始はスポーツファンには楽しみな季節です。浦和レッズが優勝した年末の全日本サッカー、エネオスが優勝した全日本女子バスケット、全日本柔道、今月行われる全国都道府県対抗女子・男子駅伝。これらにはすべてある共通点があります。
 それは、男子の優勝者・チームには「天皇杯」、女子には「皇后杯」が与えられる(「下賜」される)ことです。

 優勝者・チームへの天皇杯・皇后杯授与は上記の競技だけではありません。代表的な国民体育大会はじめ、大相撲、東京六大学野球、柔道、剣道、卓球、水泳、テニスなどなど、授与されない競技をさがすのが難しいくらいです。

 「天皇杯・皇后杯」に限らず、スポーツと天皇・皇室の関係は深いものがあります。多くの皇族は各種スポーツ団体の「名誉総裁」になり、皇族の名を冠した優勝カップがあり、皇族は折に触れて競技を観戦(「台覧」)し、メディアがそれを報道します。

 スポーツと天皇制(天皇・皇族)の深い関係は、何を意味しているでしょうか。

 「天皇杯下賜」の始まりは、1923年に大阪で開催された第6回極東選手権大会です(坂上康博一橋大大学院教授著『スポーツと政治』山川出版2018年。以下は同書を参照)。
 極東選手権大会とは、フィリピンの提唱で1913年に始まったフィリピン、中国、日本3ヵ国による競技大会です。

 皇族のスポーツへの接近は、当時皇太子としてヨーロッパを訪問した(1921年)裕仁によって急速に進められました。1925年には摂政となった裕仁が大相撲を台覧、この時の下賜金で翌26年1月に「摂政宮賜杯(後の天皇賜杯)」がつくられました(写真右)。同年10月には東京六大学野球優勝チームへの賜杯授与が始まりました。

 王室のスポーツへの接近は当時の世界的な趨勢でした。背景には第一次世界大戦とそれに伴う社会変動、デモクラシーの高揚による「君主制の世界的危機」がありました。

 日本では、普通選挙(1925年)の早期実現など政治的諸権利をめざす社会運動や労働運動が噴出するデモクラシー状況のなか、皇室は深刻な危機感を持ち、「天皇制再構築のための必死の試み」(坂上氏)としてスポーツへの接近が図られました。

 やがて帝国日本の侵略戦争・植民地支配が本格化する中で、スポーツの取り込みが国家戦略として行われるようになりました。

 大きなきっかけになったのは、日本共産党員などが「治安維持法違反」で検挙された「3・15事件」(1928年)です。政府は「「思想善導」の手段としてスポーツに着目し、奨励し始めた」(坂上氏)のです。

 それは「三つの戦略」(文部省提唱)から成り立っていました。
 第1に、健康な身体づくりによる「不健全な思想」(左翼思想)の撲滅。
 第2に、運動精神の涵養による国民の「思想善導」(堅忍持久、一致団結、犠牲的精神など)。
 第3に、スポーツを「安全弁」として利用し、不平や鬱憤から逃避させ忘却させる。「人々はスポーツの「愉快」のなかにすべての不平や鬱憤を晴らし、反抗的な気分や破壊的思想を忘却することができるというのである」(坂上氏)。

 以上のスポーツと天皇制の関係史は、今日に多くの示唆を与えているのではないでしょうか。

 デモクラシー(民主主義)の進展に伴う「君主制の危機」の中で、「天皇制再構築」の手段としてのスポーツへの接近・利用。スポーツを国家に取り込む「三つの戦略」、とりわけ第3の「不平・鬱憤からの逃避」としてのスポーツ奨励。これらはけっして過去の話ではないでしょう。

 「天皇杯・皇后杯」の争奪戦となっている(させられている)「スポーツと天皇制」の関係・一体化の現実から、スポーツの本来の在り方、そして国家権力が天皇制を存続させている意味を再考することは、極めて重要な今日的課題といえるでしょう。


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