あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 」

2017年07月20日 12時06分22秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一 
七月十二日朝
同志十五名は
従容或は 憤激或は 激怒様々な心
を もつて刑についた
余と村兄とは何の理由か全く不明のまゝ
あとに残されて十五名の次々に赴くのを
銃声によつてきゝつゝ
血涙をのまねばならぬ不幸をみた

1、
死刑の判決うけた七月五日から
同志十七名一棟の拘禁舎に集められた
刑の執行前十一日迄は吾々は大内山の御光を願った
そして必ず正義が勝つ
吾々をムザムザ殺すと云ふ様な事は 或は ないだらふと 信じようとつとめた
そして毎日猛烈な祈りをした、
誰も彼も死ぬものか、
2、
死んでたまるものか、
殺されてたまるものか
千發玉を受けても断じて死なぬ
等々と激烈な言葉によつてヒシヒシとせまる死魔に対抗した、
刑の執行迄の數日間はそれはそれは血をしぼる様な苦しいフンイキであつた
國の爲どうしても吾々の正義を貫かねばならぬ
吾々が殺されると云ふことは
吾々の正義が殺されると云ふことだと
皆な沖天の憤激を以て神をシカリ 仏をうらんだのであつた
面会に來て呉れる父母兄弟の顔を見 言葉に接する
益々生きなければならなくなつた
それは 親兄弟が大変に圧迫をされていると云ふことがわかつたからだ
國の爲にも親兄弟の為にも どうしても生きのびて 出所して 吾々の正義を明かにせねばならぬと考へ出したのだ
同志の中にはもうスッカリアキラメテ静かに死期を待ってゐる者もあつたが
余、安、香、等は断じて死なぬ 必ず勝つと云って他の同志を激励した
そして吾々に残ってゐることは祈りである
祈りによつて國を救ふことがまだ残ってゐるから
十七名の同志の心を一つにして
天地の神に祈りをしようと云って 朝 昼 晩 ひまさえあれば祈りをさゝげた
その至誠が天に通したのか十日の朝から天気がよくなつて来た
十一日も青天であつた
益益猛烈な祈りを捧げた
一方悪魔タイ散のノロヒもした
十一日の午後になつて
入浴をさせられ 新しいゴク衣を着せられいよいよ明日の死を知った
私と村兄は十一日午後
理由も云はれず他の獄舎にうつされて同志とはなれてしまつた、

十二日朝は君が代を同志がうたつた
万才をとなへた
必ず仇をとるぞと云ってはげましあつてゐた、
暑いから湯河原へ一週間程行って出直して来ようと云ふものもあつた
いやいや殺されたらすぐ 宮城にかけつけよう
陛下の御側へ集って一切の事情を明白に申上よう等云ってゐるのをきいた

最後の瞬間迄同志は元気、正義、頑張り を貫きとほした、
看守諸君も同志の偉さ 美しさをたゝへてくれた
      ○
余は神様の力を信じている
この手記が神様の力によつて正義の士の手に渡ることを信じてゐる
だから吾々が蹶起して以来
処刑される日迄の事のアラマシを思ひのまゝに記しておく
一言断っておくのは 何しろ明日銃殺されるかも知れぬ命だ
だから此の手記は順序立てゝ系統をつけて記するわけにゆかぬ
一日一日が序論であり
結論でなければならぬはめにおかれてゐると云ふことである
読者に於て判読して下さることを願ふ

一、世間では二、二六事件と呼んでいるが これは決して吾人のつけた事件名ではない
 又 吾人が満足している名称でもない
五、一五とか二、二六とか云ふと何だか共産党の事件の様であるので
余は甚だしく二、二六の名称をいむものだ
名称から享ける印象も決してばかにならぬから
余は予審に於てもそれ以前の憲兵の取調べに於ても
二、二六事件とは誰がつけたか知らぬが余等の用ひざる所なる旨を取調べ官に鞏調しておいた
 然らは余等は如何なる名称を欲するか
と 云へは義軍事件と云ふ名称を欲する
否欲するではない
事件そのものが義軍の義擧なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ
余は豫審公判に於ても常に義軍の名称を以て対した、
そもそも義軍の名称は事件發起前
二月二十二日栗原宅に於て同志の間の話題にのぼつた事だ
私はその会合の席に於て云った
「 吾人は維新の義軍であるから普通戦用語の合言葉では物足らぬ 
四十七士の山川では物足らぬ
どうしても同志のモットウを合言葉として下士官兵に迄徹底させる必要がある 」 と
そしたら村兄が尊皇絶対はどうだと云ふから
私は
「 それなら尊皇討奸にしよう そしたら尊王の為の義挙なる意味がハッキリする 」
と 云ったら一同大いにサンセイして即座に合言葉が出来た
この合言葉は事件そのものも意味すること勿論である
従って二月事件はその蹶起の真精神から云って尊王義軍事件と云ふを最も適当とする
略して義軍事件でもいゝ
おもしろい事には
二月二十七日北さんの霊感に國家正義軍云々と云ふのが現れた
私はこの電ワをきいた時は思はす
「 不思ギですね 吾々は昨日来尊王義軍と云っています
正義軍と現われましたか 不思議ですね 」
と 云って密かに自ら正義の軍 尊皇の義軍なることをほこり
神様も正義と云はれるなら何おか、はばからん
吾人は國家の義軍なりと云ふ信念が強くなつた
吾々同志が鉄の如き結束をして軍の威武にも奉勅命令にもタイ然として対し
正義大義を唱へつづけ得たのは國家の正義軍なりとの信念が強かったからだ
然るに ワケノワカラヌ憲兵や法ム官等が
二、二六事件等変てコな名をつけた事は如何にも残念だ
事件当時 義軍の将兵は尊皇討奸の合言葉を以て天下に呼号した
実に尊王討奸の語を知らぬものは
現役大将たりとも國務總理たりとも占領台上の出入は出来なかったのだ
兵卒が自動車上の将軍を剣をギして止め合言葉を要求している、
将軍、尊王討奸を知ず百方弁解すれども
兵は頑として通過を不許さる状態は実に此コカシコに現出し厳粛な場面であつた、
この如き歩哨線へ同志が行って尊王と呼ぶど兵が討奸と答へる 
そして兵が
「 大尉殿 シツカリヤリマセウ、何ツ 此処は大将でも中将でも入れるものですか 
上官が何ダ 文句を云ったら討ち殺シマス 」
等 云って堂々たる態度で
この歩哨卒等は義軍なる事を信し
國家の爲尊皇の為めなる強い固い信念にもえていた
富貴も淫する能ず威武も屈する不能ず 唯義の爲めに義を持してゆづらないのであつた、
余は日本人は弱いと思つた
特に将校、上級将校はよわいと思った
尊王義軍兵の銃剣の前にビクビクしてゐるのを見てコレデハ日本がくさる筈だと思った
こんな弱い将校上級将校だから必ず
富貴に淫し 威武に屈して 正義を守ることを忘れ不義にダラクしてしまふのだとツクツク感じた
然し日本人は正義を体感すると その日暮らしの水呑み百姓でも非常につよくなる
大義を知るとムヤミヤタラに強くなるのが日本人だと痛感した、
然り義の上に立つ者は最強也
吾々同志将兵が強かったのは義の上に立つたからだ
大義を身に体して行動したからだ
この意味から云って余は二、二六事件と云ふ名称を甚だしく忌む
吾々は二、二六と云ふ年月の為に蹶起せるには非す
大義の爲めに蹶起せるものだ
天下正論の士 宜しく解セラレヨ。

二、義軍事件を裁く鍵は大臣告示、と 戒厳軍隊に入ッタ事と 奉勅命令との 三ツで足りる

イ、奉勅命令について
( 事件を解くには第一番に奉勅命令は如何なるものであつたかを明かにせねばならぬ )

十一年三月一日
宮内省の発令で大命に抗したりとの理由により同志将校は免官になつた、
吾人は大命に抗したりや、吾人は断じて大命に抗していない
大体、命令に抗するとは命令が下達されることを前提とする
下達されない命令に抗する筈はない
奉勅命令は絶対に下達されなかつた、従って吾人は大命に抗していない
奉勅命令が下達されそうだと云ふことは二月廿八日になつて明かになつた
それで二十八日午後陸相官邸に集まった
村、香、栗等諸君はもう一度統帥系統を通して 陛下の大御心を御たづね申上げよう 
どうも奉勅命令は天皇機関説命令らしい
下つているのかどうかすこぶるあやしい
と云ふことを議したのだ
余は二十七日夜半農相官邸にとまり
場合によつては 九段坂の偕行社 軍人会館をおそつて
不純幕僚を焼き殺してやらふと考へてゐたので
相當に反對派の策動に注意していたら
清浦の参内を一木湯浅がそ止した事
林、寺内、植の三将軍が香椎を二十七日夜半訪ね
その結果 余等を彈圧する事になつた旨
を 知ったので怒り心頭に發して
戒厳司令官と一騎打のつもりで司令部へ 二十八日朝行った
所がどうしても会見させない
午前中待ったが会わせない
石原、満井に会ひ両氏より兵を引いてくれと交々たのまれ
両氏共声涙共に発して余を説いた
特に石氏は戒厳司令官は
奉勅命令を実施せぬわけにはゆかぬと云ふ断乎たる決心だから兵を引いてくれ
男と男の腹ではないかと云って
涙して余の手を握ってたのまれた
余は
「 それは何とも云へぬ 同志の軍は余が指キ官にはあらず
然し余は余に出来るだけの努力はする
唯余個人は断じて引かぬ 一人になりても賊をたほす 」
と 云ひて辞し 
陸相官邸に来りて見れば
前記三氏 ( 栗、村、香 ) 等は 鈴木、山下、にとかれている
余は此処にて
斷じて引いてはいけないことを提唱した、
それで前記の栗君の も一度大御心を御伺ひしたいといふ意見が出たのだ
若し陛下が死せよと云はれるなら自決しようと云ふ意見であつた
彼レ是れしている間に堀第一D長が来て勅命は下る状況にある
兵を引いてくれと切願した、
爲めに大体兵を引かふ 
吾人は自決しようと云ふことに定つた、
余は自決なんぞ馬鹿な事があるかと云ひて反対し
唯陛下の大御心を伺ふと云ふことはこの場の方法として可なりと云ふ意見を持した
自決ときいた清原があわてゝ安ドの所へ相談に行ったら安は非常にいかり
引かない
戦ふ、
今にも敵は攻撃して来そうになつてゐるのに引けるかと云ふて応じない
村兄、安の所へゆき敵状を見てビックリし とびかへり、
余に 磯部やらふ と云ふので余は ヤロウ と答へ 
戦闘準ビをすべく農相邸へかへる
右の様な次第なる故
遂に奉勅命令は下達されず未だに奉勅命令が如何なるものかつまびらかにしない
此くして二月廿九日朝迄吾等は頑張った
吾人があんまり頑張ったので むかふも腹を立てゝ目がくらみ 処チを失ひ
奉勅命令を下達することも忘れ 唯包囲を固くすることのみをやつたのだ
日本一の大切な勅命が行エ不明になつたのだ
戒厳司令部では下達したと云ひ 吾等は下達を受けずと云ふ故に。
二十八日夜 
安の所へ第一D参謀桜井少佐が奉勅命令を持参したるも歩哨にサエギラレて安は見ず
山本又君 少佐を安の所へ案内せんとしたるも出来ず
山本君のみは奉勅命令を見たりと云ふ
二十九日朝ラジヲにて奉勅命令の下達されたるを知りたるが最初なり、
それ迄は決して命の下達されたるを知らず

要するに吾等は
二十七日朝戒厳軍隊として守備を命ぜられたるものデアルカラ
奉勅命令を下すならば
一D長一R長を経て下すべきであるのに
ワケもワカラヌ有造無造がヤレ勅命だ
やれさがれと色々様々な事を云ふので
トウトウワケがワカラなくなつたのだ

小藤に云はすと
「 アイツ等は正規の軍隊ではない反軍だ、ダカラ命令下達も系統を経てヤル等の必要はない 」
と 云ふだらふ 否 彼は左様に云ってゐる
だが何と云ったとて駄目だ
戒厳部隊に入ってゐるのだから

奉勅命令については色々のコマカイイキサツがあると思ふが
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は斷じて抗してゐない
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ國賊云云の宣伝文は不届キ至極である
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒厳群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる、
勅命には抗してゐない
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。

以上で賊軍でないことは明々白々になつた筈だ
賊軍でないならば本来の義軍である筈ではないか

ロ、大臣告示について
( 大臣告示は蹶起後半日を経過せる二十六日午后陸相官邸に於て発表シタルモノダ )

二十六日午后 山下少将宮中より退下 官邸に来り吾等を集め大臣告示をロウ読シタ
いまソノ大意を記する
1、諸子の蹶起の眞意は國體の眞姿顯現なることを認メル
2、天聽に達した
3、國體明徴については参ギ官一同恐クにタエヌ
4、各閣僚も一層ヒキョウの誠を致す
5、コレ以上は大御心にマツ

この席上 同志は 村、香、對、磯、野中、 
軍中央部側 次官古莊、山下、鈴木、西村、満井、であつた。

この告示をきいて余は 行動を認メタルヤ否ヤ につき疑問を生じたので
山下氏に対し 
義軍の義挙を認メタルモノなりや、義軍なることを認めたるものなりや 
と質問せり
對馬君、行動を認メタルナリヤトノ質問をしたり
山下氏確答をせざりしも 
行動を認めたるものなりとの体度アリアリと見えたり、
又行動は認めずと云ふ断定は山下氏はしなかつた
この告示をきいて次官以下居並ぶ中央幕僚将校はシュウビを開いた
一同ホットした安心の態がアリアリと見えた
そこで西村大佐は直ちに警備司令部にゆき 行動部隊は現地に置く可く交渉をすることを快諾し
次官は宮中に至り 大臣にその旨を連絡することになつた、
大臣告示によりこの場に居た十数名の将校が等しく受けた感じは
ホットした安心の気と
ヨシソレデヨシ事がウマク運ブゾ
と 云った感じであつて
決して重苦しい悪感ではなかつた
又 決して後になつて云ふ如き
大臣告示によつて青年将校を説得すると云ふ様な気で山下氏は告示をロウ読せず
又 吾々同志は斷じて説得とは思はなかつた
説得と思ったらその場でケンカになつてゐる
行動を認めるのかなど変な、やさしい質問はしない
そんな事はいゝとしてあの告示の文面をみてみるかいゝ
どこに一語でも説得の文句があるか
吾々をよく云って居る所ばかりではないか
参議官一同は恐クし、各閣僚も今後ヒキョウの誠を致すと云ってゐるではないか
吾々は明かに大臣によつて認められた、
而も吾々の要求した所の行動を認めるか否かと云ふ点については
明かに行動を認めると云ふ印刷物が部隊の将校の方へ配布された、
吾人が義軍であることは真に明々白々の事実となつた、
二十六日から二十七日にかけて吾々は実にユカイであつた
戦時警備令下の軍隊に入り続いて戒厳部隊に入り
戒厳命令を受け
いよいよ吾々の尊皇討奸の義挙を認め
維新に入ることが明かになつたので皆な大いに安心をし
これからは維新戒厳軍隊の一将校として動くのだと称して
一同非常にゆかいに安心してゐた
所が大臣告示が変化した、
吾々が二十九日収容されると同時に変化し出した、
先づ最初に告示は陸軍として出したものではないと云ふことを云ひだした、
そして曰く、
あれは陸軍大臣個人として出したのだとつけ加へた、
そんな馬鹿な話があるか 大臣告示と銘打って出したものが
陸軍として出したものでないとか 川島個人のものだとか云ふ理クツがどこにあるか
予審廷でサンザン同志によつて突込まれたあげくの果て
弱って今度は大臣告示は軍事参議官の説得案だと云ひ出した、
どこ迄も逃げをはるのだ
そんな馬鹿な話しがあるか
あの文面のどこに説得の意があるか
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行動を認むとさへ記した印刷物を配布した位ひではないか
行動を認める説得と云ふものがあるか
吾人は放火殺人をしてゐるのだ
その行動を認めると云ふのだ
祖の行動を認めて尚どこを説得すると云ふのだ
行動を認めると云ふことは全部を認めると云ふことではないか
全部を認めたらどこにも説得の部分は残らぬではないか
宮中に於て行動を認めると云ふ文句の行動を眞意に訂正したと云ふのだ
ところが訂正しない前に香椎司令官は狂喜して電ワをしたと云ふ
此処か面白い所だ
即ち、最初はたしかに全参議官が行動を認めたので吾人はそれだけでいゝのだ
あとで如何に訂正しようとそんな事は問題にならん、
吾人の放火、殺人、の行動を第一番に、最初に軍の長老が認めたのだ、
吾人の行動直後に於て認めたのだ
第一印象は常に正しい
軍の長老連の第一印象は吾人の行動を正義と認めた、それだけでいゝではないか
軍事参議官が先頭第一にチュウチョせずに認めたと云ふ事実はもうどうにも動かせぬではないか
も少し突込んで云ってやらふか、
此処に絶世の美人がある
この美人に認められたらもうしめたものだと思ふ殺人犯の男が平素ねらつていた
或夜 戸を破って侵入し美人を説いてとうとうウンと云はせた
美人はその男の行動を認めた、
所があとになつて矢かましい問題になつたら
美人は色々と理由をつけてアノ時はいやだつたのだとか
何とか云ひ出したがもう追つかない  女は男の種をやどしてゐた、
これでやめておかふか、もつと云ってやらふか、後世の馬鹿にはまだ判然しないだらふ、
陸軍及陸軍大臣、及軍事参議官等が何と云ひのがれをしても駄目だ 
ちや(ん)と國賊? 反軍の種を宿しているではないか 
[ 註、吾人は反徒でも國賊でもないが若し彼等の云ふが如くならば ]・・・欄外記入
その罪の子が生れ出るのがコワイので
軍首脳部はヨツテタカツテ ダタイをしようとして色々のインチキな薬をつかつたのだ
説得案と云ふインチキ薬が奉勅命令と云ふ薬の次のダタイ薬に過ぎぬのだ
大臣告示は断じて説得案にあらず
然し軍は大臣告示を説得案にしなければ自分の身がたまらなかつた事は事実だと云へる
大臣告示は吾人の行動を認めたる告達文にして説得案にあらずと云ふことを明かにする為めに
もう一言云っておかふ、
[ 吾人の行為か若し國賊反徒の行為ならば ]・・・欄外記入
その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ
認めてはならぬものだ
吾人を打ち殺さねばならぬものだ
直ちに大臣は全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しすべきだ、
大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか
間髪を入れず討つ可きではないか
然るにかゝわらず 却って 先頭第一に行動を認めてゐるではないか
直ちに討つ可きを討たざるのみかその行動を認めたと云ふことは
吾人を説得する所か反対に吾人の行為にサンセイし、
吾人の行為をよろこんだとしか考へられないではないか、
断じて云ふ 大臣告示は説得案にあらず
大臣告示は二種ある
その一は
諸子の行動は國体ノ眞姿顯現なることを認む と云ふもの
他の一は
諸子蹶起の眞意は國體の眞姿顯現なることを認む と云ふのだ
而して行動の句を用ひたるものは最初に出来たものだ
眞意と直したのは 植田ケン吉の意見により訂正したものだ、
行動を蹶起の眞意と訂正して見た所で 「 認む 」 と 云ふことがある以上 吾人は認められたのだ
吾人の行動を認められたのだ
蹶起の眞意を認められたのだ
蹶起の眞意を認めると云ふことは直ちに行動を認めると云ふことではないか
全軍事参議官が認めたので警備司令官たる香椎は狂喜したのだ
ヨウシ来タ と思って直ちに部下に電命して大臣告示を印刷した、
香椎は正直な男だ その時の狂喜振りを告白している、
二月廿六日宮中に於て軍事参ギ官会同席上の様子をよく知っている香椎であるから
二十六日夜戦時警備令下の軍隊に何等のチュウチョなく義軍を編入したのだ
二十六日宮中於て参ギ官が吾人の行為を認めず説得すべしと云ふ意見であつたならば、
如何に香椎一人が吾人に同情してゐても決して戦時警備令下の軍隊に編入することはしない筈だ

ハ、戒厳軍隊に編入されたること
( 戒厳軍に入った事によつて、吾人は完全にその行動を認められたのだ )

二月廿七日 吾人は戒厳軍隊に編入され /・・・リンク→命令 「 本朝出動シアル部隊ハ戦時警備部隊トシテ警備に任ず 」 
午前中早くも第一師戒命によつて 麹町警備隊となり 小藤大佐の指揮下に入った
戒厳は 天皇の宣告されるものだ
その軍隊に編入されたと云ふことは 御上が義軍の義挙を許された
御認めになつたと云ふことだ、それは明伯だ
鈴木貞一大佐も二十七日
余に対して次の如く云った、
「 戒厳軍隊に入ったと云ふことは君等の行動を認めると云ふ最大唯一の証ではないか 」 と
所が軍の不逞幕僚は
「 戒厳軍隊に入ったのは行動を認めたから入れたのではない、
あれは謀略命令だ 即ち反軍を静まらせる為めに入れたのだ 」 と云ふのだ
行動を認めないで入れたと云ふのだ
反軍であることを知りつゝ入れたと云ふのだ 
反軍を陛下の軍隊の中に入れて警備を命ずるとはそも如何なる理由か、
又 反軍を誰が戒厳軍の中に入れたのだ
軍首脳部が入れたと云ふのか 幕僚が入れたと云ふのか 
反軍なることを知りつゝ勝手に陛下の軍隊の中に之を入れたらそれこそ
統帥権の干犯ではないか
軍首脳部軍幕僚は挙って統帥権を干犯した國賊ではないか
臣下か勝手に反軍を天皇宣告の戒厳軍の中に入れると云こと
程重大な國體問題があるか
統帥権問題があるか、
彼等は謀略命令だと云ふ、
これをきく時吾人は怒り、怒り、激怒にたえぬ
どこ迄彼等は 天皇をバカにしてゐるのだ
戒厳命令だぞ
天皇宣告の戒厳だぞ
一體命令に謀略と云ふことがあるか
若し命令に謀略があるならば軍隊は破カイスル
友軍を謀るために命令を下す
反軍は命令によつてだまし討ちをされるのだ
命令は寸分のカケヒキのない所がいゝのだ 
カケヒキがないから之が励行をドコ迄もせまる事が出来、
之れに背反した時には斷乎刑罰することも出来るので 命令は森厳峻厳だ
決してカケヒキ、謀略のある可きではない、
若し戒厳命令 統帥命令 にカケヒキがありとせば、
陛下はカケヒキある命令を下し國民をだまし討ち遊ばされる事になるのだ
軍部上下の不逞漢どもよ、汝等はどこ迄陛下をないがしろにすればいゝのだ
汝等は謀略命令でもすむだらふが陛下はどうなるのだ
汝等が謀略命令と称する時陛下はどうなるのだ
余は怒りの情を表す方法を知らぬ程に汝等を怒るものだ、
汝等が勝手な事を云ふ為めに
天皇陛下は全くの機関、否、
ロボットとしての御存在にすぎなくなつてしまつてゐるではないか。

吾人は奉勅命令に抗してはゐない
故に賊と云はゝる筈なし
吾人の行動精神は 蹶起直後 陸軍首脳部によつて認められ大臣告示を得た、
続いて戒厳軍隊に編入されて戒厳命令により警備に任じた
以上の事を考へみたならは吾人が反軍でない事は明かである 
反乱罪にとはるゝ筈はないのだ
然るに軍部は気が狂ったのか 
大臣告示は説得案と云ひ
戒厳軍隊に入れて警備命令を発し警備をさせた事は謀略だと云って
無二無三に吾々を反乱罪にかけてしまつた

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