あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

獄中日記 (五) 八月廿八日 「 天皇陛下何と云ふザマです 」

2017年07月01日 15時12分14秒 | 磯部淺一 ・ 獄中日記


磯部浅一 
八月廿八日

竜袖にかくれて皎々不義を重ねて止まぬ重臣、元老、軍閥等の為に、
如何に多くの國民が泣いてゐるか

天皇陛下
此の惨タンたる國家の現状を御覧下さい、
陛下が、私共の義擧を國賊反徒の業と御考へ遊ばされてゐるらしい
ウワサを刑ム所の中で耳にして、私共は血涙をしぼりました、
眞に血涙をしぼつたのです
陛下が私共の擧を御きき遊ばして
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
と 云ふことを側近に云はれたとのことを耳にして、
私は數日間気が狂ひました
「 日本もロシヤの様になりましたね 」
とは 将して如何なる御聖旨か俄にわかりかねますが、
何でもウワサによると、
青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであると云ふ意味らしい
とのことを ソク聞した時には、
神も仏もないものかと思ひ、神仏をうらみました
だが私も他の同志も、何時迄もメソメソと泣いてばかりはゐませんぞ、
泣いて泣き寝入りは致しません、
怒って憤然と立ちます
今の私は 怒髪天をつく の 怒にもえてゐます、
私は今、
陛下を御叱り申上げるところ迄、精神が高まりました、
だから毎日朝から晩迄、 陛下を御叱り申して居ります
天皇陛下
何と云ふ御失政でありますか、
何と云ふザマです、
皇祖皇宗に御あやまりなされませ

八月廿九日
十五同志の四十九日だ、
感無量、
同志が去って世の中が変わった、
石本が軍事課長になり、寺内はそのまま大臣、南が朝鮮総督、
嗚呼、
鈴木貫も牧ノも、西寺も、湯浅も益々威勢を振ってゐる、
たしかに吾が十五同志の死は、世の中を変化させた
悪く変化させた、
残念だ、
少しも國家の爲になれなかつたとは残念千万だ、
今にみろ、
悪人ども、何時迄もさかえさせはせぬぞ、
悪い奴がさかえて、いい人間が苦しむなんて、
そんなベラ棒な事が許しておけるか

八月卅日
一、余は極楽にゆかぬ、断然地ゴクにゆく、
 地ゴクに行って牧ノ、西寺、寺内、南、鈴貫、石本等々、
後から来る悪人ばらを地ゴクでヤッツケるのだ、
ユカイ、ユカイ、
余はたしかに鬼にはなれる自信がある、
地ゴクの鬼にはなれる、
今のうちにしつかりとした性根をつくつてザン忍猛烈な鬼になるのだ、
涙も血も一滴もない悪鬼になるぞ
二、自分に都合が悪いと、正義の士を國賊にしてムリヤリに殺してしまふ、
 そしてその血のかわかぬ内に、今度は自分の都合の為贈位する、
石碑を立て表忠頌徳をはじめる、
何だバカバカしい、下らぬことはやめてくれ。
俺は表忠塔となつて観光客の前にさらされることを最もはらふ、
いわんや俺等に贈位することによつて、
自分の悪業のインペイと 自分の位チを守り 地位を高める奴等の道具にされることは眞平だ
俺の思想信念行動は、銅像を立て石碑を立て贈位されることによつて正義になるのではない、
はじめから正義だ、
幾千年たつても正義だ
國賊だ、
反徒だ、
順逆をあやまつたなど
下らぬことを云ふな、
又 忠臣だ、石碑だ、贈位だなど下ることも云ふな
「 革命とは順逆不二の法門なり 」
と、コレナル哉  コレナル哉、
國賊でも忠臣でもないのだ

八月卅一日
刑ム所看守の仲にもバク府の犬がゐる
馬鹿野郎、今にみろ、目明し文吉だ
トテモワルイ看守もいる、
中にはとても国士もいる、
大臣にでもしたい様な人物もいる


磯部浅一は村中孝次と共に、香田大尉いか十四名が処刑される前日、突然分離されて、
さらに一年余の獄中生活を送り、昭和十二年八月十九日、最期を遂げた。
これは彼が十五同志処刑直後の十一年七月三十一日から八月三十一日までの、
獄中の万感を日記体で綴ったものである。
・・・

目次 磯部浅一 ・ 獄中日記   
二・二六事件 獄中手記遺書 河野司編 から
 


北一輝 『 一輝こと北輝次郎 』

2017年07月01日 05時22分46秒 | 北一輝


北一輝 は新潟県佐渡に生れ
承久以降皇室に関係ある佐渡の伝説遺跡等に刺激せられ
早くより国史及国体に就き関心を有して居た。
同地の中学校に入学したが病気の為 中途退学し
其後上京して独学を以て広く社会科学に関する研究に没頭し二十四歳の頃
『 国体論及び純正社会主義 』
と題する著述を出版し
其の国体観に基き当時の幸徳秋水一派の唱導した直訳的社会主義を痛烈に反駁し世論を喚起した。
之が機縁となつて支那亡命客の
孫 逸仙    黄 興
宋 教仁    張 継
等と相識り、遂に同人等の秘密結社支那革命党に加入し
二十九歳の秋頃支那第一革命が勃発するや 単身支那に渡り
上海、武昌、南京等の各地に於て革命達成の為めに画策奔走した。
其の為三十一歳の時 帝国領事から三年間支那在留禁止処分を受けて帰朝した。
大正五年頃
『 革命の支那及び日本の外交革命 』
を著述して我朝野の人士に頒布し 帝国外交の進路に就き警告を促した。

大正五年夏 再び支那に渡り 支那第三革命に参加したが事志と違ひ上海に滞在中、
我外交の行詰り、米国及び全支那に捲起る排日熱、支那に於ける英国の制覇ならむとするの事実を見、
悶々として居た折 大川周明より祖国の情勢が日に日に悪化し、
欧州大戦以来世界を風靡した左翼思想は国内に瀰漫びまん
加ふるに重臣官僚政党等 所謂特権階級は財閥と結託し私利私慾を肆つらねるにし、
国政を紊り、国威を失墜し、国民生活を窮乏に陥しめたり、
と 聞き  今にして之等 支配階級の猛省を促し、
政治経済其他諸般の制度機構に一大変革を加ふるに非ずんば我国も亦露独の轍を踏み
三千年の光輝ある歴史も一空に帰すべしと成し、
国家改造の緊急焦眉の事なるを痛感して 大川周明、満川亀太郎 と共に国家改造を遂行する目的を以て、
大正九年一月帰朝した。
之より先 我国改造の中核は軍部竝に民間志士の団結に依り形成せられるべきとの信念の下に
大正八年八月
『 国家改造法案原理大綱 』  ( 後に 『 日本改造法案大綱  』 と改題 )
を 執筆し、当時 北を迎へるため上海に渡って居た大川周明に之を示し
之を基礎として国家改造を断行しようとしたもので
北一輝の革新思想は同書によつて識るべきである。
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現代史資料4  国家主義運動1
「 右翼思想犯罪事件の綜合研究 」 
第五節  北一輝  『 日本改造法案大綱 』 から