あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」

2017年07月17日 11時45分04秒 | 磯部淺一 ・ 獄中手記


磯部浅一
獄中手記(一)
北、西田両氏の如き人を殺す様な日本には最早、少しの正義も残っておりません。
日本國に少しでも正義が存在しており、一人でも正義の士が厳存して居るならば、
必ず両氏はたすかるものと信じます。
私は日夜両氏の助かる様、精魂をつくして御祈りをしています。
必ず両氏は助かります。
どうぞ此の確信のもとに百万の御手段を御とり下さる様にねがひます。
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三月一日報道   湯浅倉平   寺内壽一陸相
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一体何故、北、西田両氏を殺す様な次第になつたかを探究してみませう。
寺内が重臣とケツ托して極刑方針で進んでゐるからであることは表面の現象です。
二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、
而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて
「 最後迄やれ 」 と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞とんじです。
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば、
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです。
即ち、
アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は國賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて 「 大命に抗したり 」 の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。 さァ事が面倒になつた。
今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるので どうにもかうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
①  大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
②  戒厳命令は謀略なり、
 との申合せをして、
㋑  奉勅命令は下達した と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺  大命に抗したり と云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財の責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです
この基礎作業は寺内がしたのではなくて、川島を中心とする当時の軍首脳部がしたのです。
二月事件を明かにするには、どうしても此の軍部の大インチキをバクロせねば駄目です。
「 大命に抗したり 」 「 國賊なり 」 と云ふ黒い幕で蔽はれたまま、
如何にこちらが大臣告示と戒厳命令を主張しても一切はむだです、
泥棒が忠義仁義を説く様なものです。
北、西田両氏を救ふには、此の点を充分に考へて作戰を立てねばならんと思ひます。
即ち軍部の云ふ分である所の
「 青年将校を煽動し勅命に抗せしめたるは北、西田なり 」
 に対して、こちらはアク迄も
「 奉勅命令は下達せられず、下達せざる命令に抗すると云ふ理窟なし、
 抗せざる青年将校に対し 抗したりと発表せる軍部と重臣の、陛下と國民に対する責任を問ふ 」
と攻撃してゆかねばならぬと思ひます。
「 奉勅命令に抗したりや否やと云ふ問題は、司法問題としては大した事はない、
それよりも 反乱をしたと云ふことが大事な問題だ、だから奉勅命令については、
吾々(法ム官)は力コブを入れてしらべる必要はない。
吾々の必要なのは反乱の事実だ」 と云ふのが、法務官の云ひ分でありました。
然しコレハ軍部の極めてズルイ遁辞とんじです。
奉勅命令を問題にされると、軍部はタマラない立場におかれるからです。
すべての道はローマに通ずではありませんが、すべての問題は奉勅命令のインチキから発してゐるのです。
ですから、その出発点のインチキを先ず第一に攻撃せねばなりません。
これが為には川島、香椎、山下、村上等を 俎上にのぼせねばなりません。
これを俎上にのぼすことが、寺内を危地に陥し、湯浅を落すことになるのです。
世間でも、刑務所内の同志でも、唯感情的に寺内をウランだりしてゐる風がありますが、
唯寺内だけをウランでも駄目です。
奉勅命令と大臣告示と警備命令(戒厳命令)をシッカリと認識して、
二月事件当時にさかのぼって堂々と理論的に攻撃し、
國民の正義心に訴へて軍部そのものをヤッツケる事をせねばならんのではありますまいか。
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或る法ム官が私に
「 青年将校はエライ、こんな人達を殺すのは惜しい。
 実は下士官兵を罰しない事にしたので、青年将校を殺さねばならなくなった」
と もらしました。 然り然りです。
川島、眞崎、香椎、山下等を罰しない事にして北、西田を殺さんとしてゐるのですぞ。

三、四  附記しておきます
一、所謂奉勅命令はとうとう下達されませんでした。
 私は今でもその命令の内容をよく知らない位です。
日本一の大事な命令が、とうとう下達されないで 始末つたのです。
二月二十九日午后、私共が陸軍省に集まった時、
幕僚等が不遜な態度をとって国賊呼ばはりをしましたので、
たまりかねて
「 何ダッ、吾々が何時 奉勅命令に反抗したか、
 奉勅命令は下達されもしないではないか、下達されない命令に抗するも何もあるか」
と云ひましたら、
一中佐が
「 アッ それはしまつた。下達されなかつたのか。これはしたり 」
と云って色をかへたのです。
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二、無能無知なる法ム官(検察官)が吾々に対する論告の時、
 日本改造法案には皇室財産を没収するとかいてあるから國體に容れずと称し、又、
私有財産百万円限度は結局私有財産を認めない共産主義に落ちるのだと曲言しました。
私は 「 皇室財産没収ニ非ズ、下附ナリ 」 「 私有財産ハ確認セザルベカラズ 」
と著者は断言してゐる等等と云ひて、改造法案については、法ム官の不明をヒドクナジリましたが、
彼等は言を曲げて、曲げて、ヒンマゲて、西田、北両氏をオトシ入れようとしたのです。
三、法務官等は法案をソシャクする頭をもつてゐません。
 幕僚は一ガイに法案を民主主義だと云ひハルノデス。
そのクセ彼等の戰時統制経済思想は、反國體的なおそる可き思想なのです。
ですから、どうしても思想的に一大鉄槌を幕僚等に加へる必要があるのです。
四、満井中佐    求刑十年。
 大蔵大イ         同八年。
ササ木大イ       同七年。
末松大イ        同七年  (志村、杉野中尉、六年、五年)
福井幸、加藤春海、杉田氏等各々五、六年とかの事です。
菅波大尉は公判中ですが、どうもアヤシイです。
ひどい事になりはせんかと思ひます。
五、目下、眞崎御大はサキ阪? (匂坂春平)法務官(少将相当)と対戦中らしく、数日前は相当にひどく激論したらしくあります。
 眞崎の云ひ分は
『 我輩は責任なしと云はざれども、
 我輩より当時の陸軍大臣以下の当局者の責任の方を先にしらべる可きた。
大臣告示に関しては川島はじめ軍の長老たる 全軍事参議官 の責任ではないか、
寺内も当然に責任を負ふ可き也 』
と なかなかいいところを突いてゐる様です。
真崎御大があく迄 全軍事参議官の責任を主張して進めば、寺内だつてたまらなくなるのです。
もう一息です。
遺憾な事は、刑ム所内の戦は如何に有利でも、すべて暗に葬られてしまふことです。
六、眞崎御大がどこ迄も川島及全軍事参議官の責任を突いて進んでゆけば、
 川島は
「 大臣告示に於いて青年将校の精神行動を認めたのだ 」
と 云はざるを得なくなる筈です。
川島がたつたこの一言をはけば、すべては我が勝利になるのです。
寺内は川島の此の一言によつてたほれます。
何故なれば、大臣告示は青年将校を認めたものであるのに、認めたるものに非ず、
単に説得案なりとして、死刑をしてしまったのですから。
然らば川島に此の重大なる一言をはかせる為には、如何にすればよいかとの問題が残ります。
それは、
①  眞崎にアクく迄も川島の責任をとはすこと。
②  川島を告発すること ( 有力なる政治家及有力なる軍人=例へば眞崎勝治少将 )。
右の事がうまくゆけば北、西田両氏は全くの無罪になるのですがね。
七、寺内と共に湯浅 ( 当時の宮相 ) をたたかねばいけないと思ひます。
 それには次の様な方法もよいと思ひます。
宮内大臣は三月一日、青年将校を 「 大命に抗したり 」 と云ふ理由で免官にしました。
所が公判でよくしらべられた結果、「 大命に抗したのではない 」
と言ふことが明らかになつてゐるのです。
大命に抗せざるものを抗したりとして、上御一人をアザムキたる専断を攻撃すべきと思ひます。
この事が特に重要である理由は、
北、西田が青年将校を煽動して大命に抗せしめたのだと云ふのが、
敵の云ひ分であるからです。
戒厳司令部から三宅坂附近を警戒せよと命令されてゐたから、最後迄頑張ってゐたのです。
しかし最後迄、所謂奉勅命令は下達されなかったのです。
軍部の奴は自分が奉勅命令を下達しなかったことは、たなにあげて北、西田が煽動したと云ふのです。
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大臣告示               陸軍大臣より                  軍隊に関する告示                奉勅命令
…リンク→大臣告示
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八、所謂 謀略命令 について。
 軍部が青年将校の行動を認めた事は確かです。
認めたからこそ、三宅坂附近一帯の地区を警備させる戒厳命令を下したのです。
然るに奴等は、戒厳命令は青年将校の行動を認めたから下したのではない。
青年将校を静まらせる為に謀略的に命令を下したのだと云ふのです。
命令に謀略があると云ふならば、皇軍は全くみだれてしまふのです。
すべての命令がカケヒキを有してゐるならば、命令の権威はなくなり、命令に服従するものはなくなります。
これは恐るべき皇軍の破カイです。
軍を毒するは青年将校に非ずして、軍中央部の奴等ではありませんか。
しかも おそれ多くも天皇宣告の戒厳、
その戒厳の戒厳命令が
軍隊をダマス為に下されて居たと云ふことになると由々しき國体上の問題です。
即ち 陛下の命令は謀略である、國民をダマスものであると云ふことになるではありませんか。
軍中央部の國賊的幕僚共は、自分の身をのがれる為に謀略命令などと勝手なことを云って、
つみを 上陛下になすりつけてゐるではありませんか。
青年将校が統帥権干犯の賊を討つたのだと主張しました所、
奴等は統帥権は干犯サレテゐないと云ひました。
何ぞ知らんや、謀略命令と云ふことそのことが統帥権の干犯され、
みだれてゐる一つの証コではありませんか。
所謂謀略命令については統帥権問題で軍部をタタキつける事がいいと思ひます。

九、反乱罪について。
私は
「 吾人は反乱をしたのではない、
 蹶起の初めから をわり迄 義軍であつたのに反乱罪にとはれる道理なし。
義軍であることは、告示に於て認め、戒厳部隊に入れられた事によつて明かになり、
警備を命ぜられた事によつていよいよ明々白々ではないか 」
と 強弁しました。
所が法ム官の奴等は、
「 君等のシタ事は大臣告示が下る以前に於て反乱である 」
と 云ふのです。
これはおもしろいではありませんか、
私は次の様に云って笑ってやりました。
「 左様ですか、これは益々おもしろい。
 大臣告示が下達される以前に於て國賊反徒であると云ふことがそれ程明瞭であるのに、
なぜ告示を下し、警備命令を与へたのです。
國賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀総長ですか、
戒厳司令官ですか、國賊を皇軍の中に 陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯ではないか」
と、
そしたら法ム官の奴は、
「 何しろ中央部の腹がきまらんからねェ、君 」 と云ってウヤムヤに退却をしました。
この事は公判廷に於ては特に強くやりました。
所が裁判長の奴、私がチチブの宮様の事を云ふたことにカコツケて、
「 言葉がスギル 」 と云ふて叱りつけるのです。
奴等は道理に於てはグウの音も出ないのですが、権力をカサにきてムリを通すのです。

一〇、維新大詔案について
維新大詔案は二月廿八日、幸楽へ村上大佐が持参して見せました。
そもそもこの大詔案は荒木陸相当時に出来、
それを林大臣に申し渡して現在に及んだものらしくあります。
この事は眞崎大将が証言してゐます。
然るに、此の大詔案に関して村上大佐 は、維新大詔案は自分は知らない。
( 当時の軍首脳部の相談により定まつたる言ひのがれならん )
自分の知ってゐるのは軍人が政治運動に関係するのがよくないから、
大詔を仰ぎたいと思ってゐたので、
それの事を間違へたのだらうと云ふ様な、みえすいたうそを云ってゐます。
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村上啓作大佐 
…リンク→維新大詔 「 もうここまで来ているのだから 」 
…リンク→…リンク→大臣告示
 

・・・リンク→ あを雲の涯 (五) 安藤輝三
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一一、大臣告示について。
大臣告示が宮中に於て出来た時の情況は、
大体先般大沢先生のところへ出しておいた書きものの中にあるとほりです。
二た通りあるのですが、
「 諸子の行動は國體の眞姿顯現にあるものと認む 」 と云ふのが第一案です。
所が奴らは色々ごまかす爲に、大臣告示は三ツ出ていると云ふことを云ひ出して、
告示などは無価値なりと云ひのがれをしてゐるのです、用心々々。
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最後に申しますことは、
眞崎が不起訴になると北、西田両氏の為にはすこぶる不利です。
川島が告発され起訴されたら、両氏が無罪になる所に迄事件が発展すると云ふことです。
私は信じてゐます。 どうぞ両先生のことをたのみます。
私のヤッタ事、ヤリツツあることは、手段としては下手なことであるかもしれません、
( 眞崎告発については同志からも色々のことを云はれました、誤解もされました )
が、両氏をすくひたい一心です。
衷情御くみとり下さつて、此の文を参考にして下さい。

朝野の愛國者の方方 御願ひ申上げます。
維新の敵 軍閥を倒して下さい。
既成軍部は軍閥以外の何物でもありません。
寺内も杉山も川島も荒木もその他一切の軍人は悉く軍閥の家の徒です。
どうぞ彼等を根こそぎ倒して眞の維新を實現さして下さい。
私はどこ迄もやります。

日本には天皇陛下が居られるのでせうか。
今はおられないのでせうか。
私はこの疑問がどうしても解けません。
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北、西田両氏の如き真正の士と
同志青年将校の様な真個の愛国者をなぜ、

現人神であらせられる天皇陛下が御見分になることが出來ぬのでせうか。
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陛下はなぜ
寺内の如き、湯浅の如き、鈴貫の如きをのみ
御愛しみになり、御信じになり、

塗炭に苦しむ国民と、忠諫に泣く愛國者を御いつくしみにならないのでせうか。
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私は断じて死にません。
川島と香椎と而して全軍部を國賊にするか、死せる十八同志の生命をかへしてもらふか、
二つの中一つをとらぬ内は断じて死にません。
屁古たれるものですか、どこ迄もやります。

大日本の為にどんな事があっても、
二先生と菅波三郎君を殺してはなりません。

どうぞどうぞたのみます
二先生方の為なら私はどんな事でもします。
どんなぎせいにでもなりますから、先生方をたのみます。

軍部の奴は自分が奉勅命令を下達しなかつたことはたなにあげて、北、西田が煽動したと云ふのです。

極秘    ( 用心に用心をして下さい )
千駄ヶ谷の奥さんから北昤吉先生、サツマ先生、岩田富美夫先生の御目に入る様にして下さい。
万々一ばれた時には不明の人が留守に中に部屋へ入れていたと云つて、
云ひのがれるのだよ。 ( 読後焼却 )


次頁  獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい  に続く