日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

石井筆子 いばらの道を

2009-05-06 | アート・文化

明治維新後、近代日本国家へと急ぐ動乱の時代に知的障害児のために一生をささげ
日本で初の障害児福祉施設「滝野川学園」のためにいばらの道を歩いたひとりの女性がいた。

Isiihudeko

石井筆子は1861年(文久元年)、現在の長崎県大村市に生まれた。 
父、渡辺清は大村藩士であり薩摩藩からも信任を得ていた人物であった。
父と叔父はのちに新政府に赴き筆子も東京女学校に学んだ。
叔父の渡辺昇は筆子を大変かわいがり、鞍馬天狗のモデルにもなった人物である。

多くの外国人との交流の中で筆子は欧米の新しい空気に接し、
フランス留学も果たしている。英語、フランス語、オランダ語に精通し知と美をそなえていた筆子は
「鹿鳴館の華」とまでいわれた存在であった。

23歳のとき旧大村藩士・小鹿島果(おかじまはたす)と結婚し、筆子は華族女学校の教師を勤めた。
このときの生徒には貞明皇后もいる。
筆子は三人の子供に恵まれたが (いずれも女児) 長女は知的障害があり
次女は生後数ヶ月でこの世を去ってしまう。

生まれた子供の不幸に次いで病弱だった夫も世を去り、筆子の運命は一変してしまう。
小鹿島家から離縁を言い渡された筆子は長女と三女をつれて渡辺家に戻る。
苦難の中で知的障害児施設「滝野川学園」にふたりの子供を預け、創設者の石井亮一と再婚したが
三女も7歳で夭折してしまう。

当時の社会では、まだ知的障害児への閉鎖的な偏見や無理解の中、筆子は再婚した亮一と
ともに「滝野川学園」で障害児のために身を捧げるがその道は困難を極めたものであった。

国の未完な福祉政策のため、学園は慢性的に窮乏状態にあり金策奔走の問題をかかえていた。
大正5年長女が死去、そして大正9年、園児の失火で学園が火災し6人の子供が命を落としてしまう。
このことが筆子にとって消えることのない傷となって残る。
又この時、火中で園児をさがして負傷し片足が不自由になってしまう。
津田梅子らの支援で学園が再開するも、関東大震災、筆子を襲う脳溢血、
夫亮一の急逝と心が休まることのない厳しい試練の連続であった。 

亮一が存命中に現在の国立市に移転した学園の一室で
1944年、82歳の生涯を閉じるまで夫の石井亮一の亡き後も学園と障害児を守ることだけに生きた。
恵まれた環境に育ちながらも筆子の運命だったとはいえその生涯は壮絶であり
また神の愛をこころに持って生きた高潔な生涯だったともいえる。