退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「台風を遊ぶことと『狂う人』あるいは束の間のカタルシスに溺れないこと」について

2018-08-24 02:45:56 | Weblog
台風。深夜まで風雨激しく。

仕事帰りにはさほど降っていなかったので敢えて歩く。

陸橋の上でビニール傘が3回裏返る強風。
風向きをいかに察知するかのゲームといった趣き。

前から吹いていると思ったら急に後ろから。
あるいはその逆もあって傘のコントロールにいささかの「技術」が要る。

傘を元に戻そうとするには力づくより風の力にまかせるのがいい。
気分は「合気道」もしくは「陸上のヨット」。

意外に楽しく満足する。
ただし他に誰も歩いていなかったのは事実。

諏訪哲史「紋章と時間 諏訪哲史文学芸術論集」を読む。

種村季弘に私淑していたことは知らず。
中日新聞のコラムでちょいと興味をそそられたので借りてきたもの。

いつものように著者の小説には接しないまま。
内容が面白いかと言われると微妙。

ただその「魅入られ具合」にふむふむ。
なるほど人はここまで「狂える」のだということがわかるから。

もっともその「狂おしさ」はむしろ好ましいもの。
「何事かを好きになること」の実例として是非。

それとは別に。

知り合いの若者が「君の膵臓を食べたい」がいいと言う。
先日TVで映画が放映されたせいもある模様。

言下に「うんこ」だと答える。
「病気で人が死ねばいいのか」と。

その小説や映画に接する若者たちはそれを材料に「泣きたいだけ」。
要は「束の間のカタルシス」を味わいたいだけだろうと畳み掛けて。

「自分の叶わない思い」を投影して泣くよりなぜ「現実」を生きない。
そういうのを「卑怯」だと言うのだと。

もちろん敢えて挑発的に。

「病人と子どもと動物」を安易に選ぶことはいい加減にしないとどうも。
仮に涙が出たとしてもそれはただの「生理的反応」に過ぎず。

「泣きたくなるような現実」を生きているならなおさらのこと。
「ガス抜き」はほどほどに。

なぜ現実がそのようなものでしかないのか。
そのあたりについてもっと考えていただきたいことしきり。
コメント
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