退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

見事な受け身と対処について

2010-08-31 01:55:02 | Weblog
快晴。午前中から喫茶店で避暑。

クリント・イーストウッド「グラン・トリノ」(’08)をようやく観る。

「遠くの親戚より近くの他人」というか
「スタイル」を持った者同士にご縁があったというお話。

「ポリティカリー・コレクト(政治的な正しさ)」などなんのその
友人のイタリア系の床屋、アイルランド系の現場監督との会話がなかなか。

かつて「ダーティー・ハリー」だった男は
今回も厄介事を招き寄せるものの解決の仕方が鮮やか。

モン族の姉が魅力的。
「チャーミング」という言葉がピッタリな可愛さ。

この主人公のような「男らしさ」ならあってもいい。
いや、むしろなくてはならないのかもしれない。

さて、現代の男性諸君は
これだけの「粋」を自然に演じることができるだろうか。

できるかどうかは別にしたとして
少なくともここにはひとつの立派な「モデル」がある。

もっとも妻に先立たれた上に心配をかけたのだから
「これくらい当たり前じゃない」と言われても仕方のないところはある。

それにしても押しかけられて付き合い始めるあたりに
監督の「Mっ気」は相変わらず感じられる。
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「可能世界」を開くものとしてのギャンブルについて

2010-08-30 01:38:44 | Weblog
快晴。今日明日と久方ぶりの連休。

植島啓司「賭ける魂」を読む。

ドストエフスキーの「賭博者」を出すまでもなく
「賭けること」の何とも言いがたい楽しさはある。

いわゆる「現実」が実はそれほど堅牢なものでないということ。
自分の視点を変えることが一番難しいかもしれないということ。

そうしたことを教えてくれるのがギャンブルであり
さまざまな行動や選択はすべて「賭け」だったりする。

未知は「行方も知れない恐怖」でもあるけれど「まだ知らない未来」でもあり
「ひょっとしてこうだったかもしれない過去」でもある。

おそらく「賭け」という行為は
後者ふたつの側面を際立たせるのだろう。

とりあえず「貨幣がかりそめのもの」であることを知るためにも
多少はかじっておいた方がいいものかもしれない。

もちろんそれを選ぶかどうかが
すでに「賭け」であることを承知の上でのことだけれど。
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味をわかることと出せることの違いについて

2010-08-29 02:42:37 | Weblog
快晴。ばかりなのも味気なし。

井上ひさし対談集「映画をたずねて」を読む。

著者の黒澤フリークぶりを読むと
ついつい引き込まれて作品を見直したくなるほど。

いわゆる「戦後民主主義」の
最も理想的だった部分を感じさせて爽やか。

福田和也「大作家 “ろくでなし”列伝」を読む。

著者は元々「繊細」なるがゆえに「列外」を好むタイプのはず。
敢えて「ろくでなし」を称揚する所以はそこにあるのだろう。

ただこの「文学的ロマンティック」は独善的に甘く
その種のものとは無縁な人々を惹きつけることは少ないと思われる。

「作家=何かを突き詰める人」が実は「ろくでなし」というのは
その「落差」を認める人によってのみ支持されるもの。

そうした「前提」を「共有」する、あるいは「共有」せよと言うことは
自分でもしていてわかるのだが「古い」と言わざるをえない。

「前提」を「共有」しないまま「凄み」を感じさせること。
それが重要なのが「現代」だと思われるのだけれど。
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色はとりどりに

2010-08-28 01:48:35 | Weblog
快晴。暑さはぶり返すのか。

ペーター・スローターダイク「大衆の侮蔑」を読む。

すべての者を自分と同じ高さに引き下げながら
「身近な者」を「英雄」として「個人崇拝」するのが「大衆」らしい。

ヒトラーが受け入れられたのは
「大衆の本質」を「代理=表象」していたからだと。

たとえば「炎上」などという現象も
「祭り」や「デモ」で暴れられない者たちが「安全」に楽しむイベントなのだろう。

ある種の「ガス抜き」としての機能を果たすこともあるのだろうが
その心性は到底「まとも」とは言いがたいことも確かで。

本書に引用されているカネッティ「大衆と力」には
「突然、全てが人間たちで真っ黒になるのだ」とある模様。

人が生きる上での「平等」は守られるべきだけれど
「垂直なもの」を何でも「水平なもの」にするのがいいかどうかは別。

圧倒的なものがこの世界にはさまざまに存在する。
その彩りの素晴らしさは知っていた方がいいと思うのだが如何。
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神話と幻想

2010-08-26 02:01:05 | Weblog
快晴。夜風に涼しさあり。

池田信夫「ネットワーク社会の神話と現実」を読む。

「電波利権」の著者が7年前に書いたもの。
哲学・数学・物理学・経済学のバックボーンがあれこれあってやや高級。

文章にいかにも情報量が多い感じは変わっていない。
ただ03年当時には少し早すぎた内容だったろう。

これを読むと
新書版「電波利権」がどれほど「一般向け」に書かれているかがわかる。

深夜久方ぶりにTVで「黒執事Ⅱ」を観る。

絵の雰囲気も内容もずいぶん変わった模様。
やや男色な傾向が増したかも。

原作のマンガは未読なので不明だけれど
思えば三島の「黒蜥蜴」にタイトルが似てなくもない。

あるいは「午後の曳航」の世界か。
「Yes,my Lord」が「Yes,your Highness」に。

いわゆる「ヴィジュアル系バンド」が好きだったりすると
こういう「ロマンチックな世界」は好ましいのだろうか。
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積み重ねの「力」について

2010-08-24 02:31:44 | Weblog
快晴。夜になっても暑い。

鈴木邦男「鈴木邦男の読書術」を読む。

ノルマを決めて忠実にこなそうとする姿勢は
まっすぐすぎてコワイくらい。

田中智学の本を途中まで読んで
図書館に返却してしまった自分とは大違い。

たとえば赤軍派の場合
そうしたまっすぐさが仲間である他人に向かってしまったのだろう。

「自分ではもう右翼も左翼も超えたと思っている」という
「はじめに」の言葉は十分な背景を感じさせる。

「世界」はもっと広いし、「本はタイムマシンだ」という
控えめではあるものの確実な訴えに耳を傾けよう。
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ややこしい性格について

2010-08-23 02:48:00 | Weblog
くもりのち晴れ。

予定通り午前中から友人の墓参り。
マスターの子どもの困った表情にどこか見覚えがある気がする。

その後川へ出かけて鮎を食べる。
サンダルは持っていなかったがせっかくなので川に入って少しだけ水遊び。

その後座敷で幼い女の子に好かれる。
肝心なところには人気がないけれど。

ところで「肝心なところ」ってどこと聞かれると困る。
とりあえず良くも悪くもずっと付き合っていただける方ならば。

当人の気持ちとしては
出会った人とは出来る限りずっとお付き合いしたいと思ってはいるものの。

たとえばそれが「恋愛沙汰」になると
いつも微妙にタイミングがズレるのがこれまでの経験則。

そういう「学習能力」はいたって欠けているらしい。
さまざまにご迷惑をおかけしたみなさんには誠に申し訳ない。

などと、本気で思ってないあたりが問題なのかも。
めんどくさくってすまん、というのは本気だったりするけれど。
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必ず振り返る場所について

2010-08-22 01:36:42 | Weblog
快晴。風がやや涼しい。

久方ぶりにソウルバーへ行く。
先客は奥様らしき二人組。

昔のバーベキューその他のビデオがあるというマスターの話。
当然の事ながらみなさん若いらしい。

明日は午前中から店で知り合った友人の墓参り。
その後にちょいと会食の予定。

誰とでもわけへだてなく話すいい男だった。
みんなを楽しませる才能の持ち主でもあった。

彼の事を思うと自分の至らなさに頭を垂れるのみ。
それなりに出来ることをするしかないと思うものの。

とりあえずそういうご縁があったのはうれしいことで
今後もそんなことがあれば幸せ。
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自分のためより他人のために生きる幸福を知るということ

2010-08-21 03:27:28 | Weblog
快晴。夜に虫の声。

内田樹「街場のメディア論」再読。

読み返したら案外難しい話もあったけれど
結局基本は「ありがとう」。

「君たちがいて僕がいる」というご存知チャーリー浜の決め台詞に
実は非常な「真実」があったということにしておく。

消費は人を孤独にするというのが正しいのは
自分の好みを深く追求すれば他人と合わなくなるというのが必然だから。

さてそこで、
自分の好みなどいかほどのものだろうという「謙虚」があればいいのだが。

強烈な自負は過剰な不安と同居するもの。
そこそこ、こんなものだろうというあたりがおそらくは「賢明」。

もちろん「敢えてする強調」があるのは知っている。
そこにもやはりある種の「謙虚」がうかがえるのが「芸の力」。

本当にいいものはいくら取り入れてもかまわない。
ただしそれを見分ける眼力があるかどうかが境い目。
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人とつながるための手段としての貨幣

2010-08-20 02:40:06 | Weblog
快晴。少しだけ秋の気配。

内田樹「街場のメディア論」を読む。

あまりにスラスラと読めてしまうので
山本夏彦のように途中で難しい漢字もしくは内容をお願いしたいところ。

「市場原理」というものの正体は
実は「無茶をする売り手」と「無茶を言う買い手」から成っている。

相手の懐具合も考えずに高額な商品を売りつけたり
それを無視して借金させたりするのが前者。

「対価」を考えずに「客の立場」を主張したり
自分の非を全くと言っていいほど認めないのが後者。

いずれも実に「野蛮」と言うより他ない存在だけれど
いたずらに「数字」のみで評価するとどちらも「得」をしたことになる。

繰り返すが「貨幣の量」だけを求めるものは「貧乏」。
残念ながら「成金」は金の使い方を知らないということもある。

そもそも人と人とがつながる時にこそ
「貨幣」の「無色透明さ」が意味を持ったりするもの。

「あらゆるものとの交換性」をひたすらに貯める行為は
実際に「交換する」ことの「飛躍」を知らない。
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