退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

’16GW1

2016-04-30 01:33:51 | Weblog
晴れ。風が強く吹く。

今日は一日中ひきこもり。

ジャン・ルノワール「大いなる幻影」(’37)を再見。

やはりシュトロハイムがいい感じ。
ピエール・フレネーとの「時代の変化の中のブルジョワ談義」にうなずく。

マルセル・ダリオの在り方は「富の分配」に関して好ましい。
ジュリアン・カレットの「道化ぶり」にニコニコ。

収容所に入れられた兵隊としては「逃亡を図る」のが基本という「前提」。
その種のものとしてはジョン・スタージェス「大脱走」(’63)もある。

引き続きジャン・ルノワール「ゲ-ムの規則」(’39)を観る。

男女を問わず「好きに」したらどうなるのかというひとつの例。
そもそも「好き」って何なのという疑問も浮かび上がる仕組み。

あるいは「結婚という制度」についても同様。
結局は何を「優先前提」とするかというおなじみの問題に。

もちろんそれは変わり得るもので
そのことを身に沁みて思えるかどうかがポイント。

「不幸」も「幸福」もいろんなかたちがある。
それぞれに身銭を切るしかないわけで。

ひとつだけ確かなことは
困難が何であろうと個人だけでは対処しにくくなっていること。

いろんな知恵が必要だから
どうでもいいことで小競り合いしている場合ではないのが常のはず。

深夜朝生を観る。

今回はパネラーが女子のみの回。
冷静な三浦瑠麗の指摘にふむふむ。

中野円佳という人を初めて知る。
この「キャラクター」はなかなか魅力的。

いずれも身近にいればあれこれ話したいタイプ。
ここには少なくとも「理」がある。
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「好きに生きることあるいは妄想に狂うこと」について

2016-04-29 03:25:48 | Weblog
雨。夜にって止み風が吹く。

沖大幹「東大教授」を読む。

「水危機 ほんとうの話」の著者がなぜと思って読んだ次第。
どうやら「上を向いて歩こう」というエールを送りたかった模様。

大学教授の多忙な現実についてふむふむ。
もっともそれは著者が優秀だからだと思われるものの。

会議などでは思った通りの「暴れん坊」である一方
そろそろ「大人の自覚」も芽生えてきた模様。

「好きに生きることのうれしいパターン」だと思っておくことにする。
若者たちは参考までに知っておくべきか。

クリスチャン・ジャック「花咲ける騎士道」(’52)を再見。

ジェラール・フィリップの軽快と「ジプシー=ロマ」のようなジーナ・ロロブリジーダの純情。
ノエル・ロクヴェールはやっぱり面白い。

馬で疾走するシーンで足元だけを撮っているのになるほど。
「チャンバラ」はわが国のそれと比べるといささか劣るかも。

マルセル・カルネ「陽は昇る」(’39)を観る。

ジャン・ルノワール「獣人」(’38)同様ジャン・ギャバンはちょいと狂う。
同じ孤児院育ちのジャクリーヌ・ローランを愛しながらアルレッティの家に通い。

前者には愛を後者には肉体を求める矛盾よ。
「思い出とはセックスできないもの」と言うアルレッティの「純情ぶり」を忘れずに。

一見可愛いジャクリーヌ・ローランが
いかにもいやらしいジュール・ベリーに惹かれる複雑さを味わおう。

男女の「わがまま」が交錯する世界は「大人風味」。
もっとも時代を問わず似たようなことはあるのだろう。

ほぼ毎日のように「性犯罪」が新聞で報じられるわが国の事情は
少なくとも「『大人』であることが普通」であるとはとても思えない現状。

ジャン・ギャバンとは違ったかたちでさまざまに狂う人々がいるのは確か。
よかれあしかれ人は妄想を生きるのだと思うことしきり。
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「好ましいものと人」について

2016-04-28 02:15:32 | Weblog
雨。深夜に止む。

真壁智治⦿チームカワイイ「カワイイパラダイムデザイン研究」を読む。

モダンの「ムダや隙の無さ」からカワイイの「緩さとやわらかさ」へ。
「作者の主張」から「客も巻き込むコミュニケーション」へ。

「カワイイの正体」にここまで真摯に迫ったことにふむふむ。
個人的には「カワイイ=互いの安全保障」だと思っていたものの。

「ほわヌケヘルシー=蒼井優」「POPクラシック=YOU」「メルヘンクラシック=美波」
「ヌケクラシック=深津絵里」「クラシカルベーシック=宮沢りえ」「クラロマ=柴咲コウ」

「スケロマ=中谷美紀」「シックシャイニー=小雪」「おりこうモダン=杏」
「小悪魔クラシック=沢尻エリカ」「POPテクノ=木村カエラ」「小悪魔POP=土屋アンナ」

「メルヘンインパクト=YUKI」「POP IN SHOWER=ベッキー」という分類がわかりやすい。
(もちろん具体的な商品やさらに細かいコメントがあってのこと)。

目に見える形での比較や言葉の工夫によるていねいな説明が好ましい。
「カワイイ」は清少納言「枕草子」の「をかし」だと思えばいい模様。

「抽象的なもの」を敢えて「言語化・視覚化」した努力よ。
「否定する」前に「相手の懐」を探る動きは実に「まともなコミュニケーション」。

おそらくは「ある時期のモード」を記録した著作になりそう。
後世の人々にとっても「役立つ資料」になること請け合い。

NHKで「family history 余貴美子」の回を観る。

迂闊にも彼女が台湾と日本のハーフで范文雀の従妹だということは初めて知った次第。
若くして日本舞踊の師範になった母の若々しさにも驚く。

「ちょうちん」(’87)に出ていたことも同様に。
塚本晋也「妖怪ハンター ヒルコ」(’91)や石井隆「ヌードの夜」(’93)で観ていたのか。

以前「GONIN2」(’96)で知ったというようなことを書いたが違っていた。
いやはや記憶は当てにならないもの。

彼女はもうすぐ還暦になるよう。
夏木マリのラインで魔女なども似合いそうなので是非。
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「倫理あるいは圧倒的な貧しさ」について

2016-04-27 03:36:09 | Weblog
晴れ。今日もやや蒸す。

廣野喜幸「サイエンティフィック・リテラシー 科学技術リスクを考える」を読む。

「リスクの定義」が実はさまざまであること。
「1%」という数字そのものは小さくてもその元が1億人なら100万人であること。

「よく知らないこと」や「自分の考え方」によって
リスクが過大評価されたり過小評価されたりするということ。

「わかりやすい正しさ」を求めると間違えやすくなるという「事実」を知ろう。
「宙ぶらりん」を生きることが「まっとう」だと教えてくれる好著。

何事かを判断する上での「前提」がいかに「認知バイアス=偏見」になるか。
どのような意見を持とうとそのことに敏感であることは重要。

深夜にマル激のNコメを観る。

さまざまな理由で調査が十分でないせいために「活断層の空白」が生まれ
それを元に作られた「ハザードマップ」が実は役に立たないこと。

「断層の枝」によって両隣は全壊したものの真ん中の家は無傷ということがある現実も。
われわれがその上で暮らす地盤はかくも「不公平」を生み出すらしい。

その一方。

わが国のマスメディアは政府を「悪者」にしがちだけれど
公式非公式のあれこれに参加できる「情報特権」を失いたくないのでその事実を報道しないこと。

「弾圧」と言うほどのものもないのに「萎縮」するのはそのせい。
それで「ジャーナリスト」などと称するのはちゃんちゃらおかしいだけ。

普通に暮らしたいなら「普通の仕事」をすればいいのに。
「本物の弾圧」に対する覚悟もないのにその種の仕事に就いてはいけないという「当然」。

下世話な話だが今どきのごく普通の働き手と比べれば高給取りなはず。
「『いたずらな正義』を気取って安楽に暮らす」のはいかがなものか。

あらゆる分野で「倫理」が問われているものの
残念ながらわれわれはそれにきちんと答えられるだけの「器量」の持ち主ではなさそうで。

とりあえず「圧倒的な貧しさ」を噛みしめるよりなさそう。
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「またまたのハズレと謎解きと歌舞伎」について

2016-04-26 02:59:54 | Weblog
くもり。やや蒸す。

本は読んだがハズレ。

いつものように次の作品に向かうだけ。
これまで何度も繰り返したこと。

深夜「ブラックリスト」を観る。

ようやく夫が嘘をついている事実を知り彼を問い詰めるものの逃げられるリズ。
その一方彼はレディントンへの疑惑の種を残し。

「謎」をさらに身近な人物へ移行させるというテクニック。
なぜそうするかといえば「謎解き」は「終わり」を意味するから。

すべてが「そういうことだったのか」とわかればおしまいになるだけ。
わからないからこそ人は「謎」を追うわけで。

そうして「物語」は自らの生命を引き延ばす。
観客たちは「目の前にぶらさげられたニンジン」に釣られる仕組み。

さて。

老舗バーのマスターに借りたフランス映画のDVDは残り4作。
今週中に見終る予定だけれど気が付けばGWが間近。

2週連続でお休みしたのはいささか気が引けるところ。
今週の土曜はすでにGWだが営業しているのかどうかも不明。

とりあえず返さなければいけないのは確か。
今度はおそらく以前に見せられたイタリア映画の古典を借りることになるはず。

ありがたいような申し訳ないような。
「おとなしい客」ではあるが「いい客」かどうかは微妙。

そういえば山川静夫「歌右衛門の六十年」を読んだのだった。

歌舞伎も名優たちの姿も大して知らないままに。
これも「大外」から迫る悪い癖のせい。

映画でいう「クレジット順」にこだわる姿にふむふむ。
「狭い世界」ゆえそうなるのかどうか。

歌舞伎好き」の映像を載せておく。
金田一映画の加藤武のように「よーし、わかった」といつか言いたいもの。
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「ちょっとしたパトロン気分あるいは笑いの歴史と鈍感な男」について

2016-04-25 01:50:34 | Weblog
くもりときどき晴れ。薄雲が広がる空。

昨夜は老舗バーを欠席して「デート」。

留学から帰国した女子と友人とで「逆ドリカム」の飲み会など。
あれこれ楽しく話す。

その後カラオケを少々。
彼女は案外「箱入り娘」なようでちょっとだけ付き合ってもらう。

こちらは声が出なくなっていてメロメロ。
あまり食べていないところで飲んだせいか。

彼女が帰ってから友人と交互に歌い結局1時間ほどで帰宅。
飲み直しつつゴソゴソしているうちに爆睡した模様。

前者は「オタク」で後者は「いい人」。
それぞれに幸せになっていただきたいものではある。

高田文夫「誰も書けなかった『笑芸論』」を読む。

4年前に不整脈で倒れ8時間心臓が止まっちゃったが「呼び戻された」らしい。
盟友ビートたけしと同じような感じ。

幼少のみぎりから芸事に恵まれた環境に育った「江戸っ子」による「歴史」。
軽快な語り口が好ましくぐいぐい読ませる。

森繁久彌、三木のり平、青島幸男、渥美清、林家三平、永六輔、古今亭志ん朝、
森田芳光、立川談志、三波伸介、景山民夫、大滝詠一、坂本九。

脱線トリオ、ハナ肇とクレイジーキャッツ、コント55号、ザ・ドリフターズ
そしてビートたけしとの出会いとラジオ「オールナイトニッポン」など。

いいなあ。
知っている当時と後に仕込んだ知識を思い出してしばし溺れる。

マルセル・カルネ「天井桟敷の人々」(’45)を久方ぶりに再見。

アルレッティのいささか爛れた「三白眼の魅力」と「どこまでも正直なキャラクター」よ。
ジャン・ルイ・バローのパントマイムと「忘れじの純情」。

ピエール・ブラッスールの響くダミ声による「饒舌」と対照的なマリア・カザレスの「待つ女」。
ピエール・ルノワールの「狂言回し」ジェリコにマルセル・エランの「反社会的作家ぶり」など。

3時間余りの大作もあっという間。
当然ながら初見の時にわからなかった魅力が満載。

「恋なんて簡単よ」と誘ったガランスの言葉に
一方的に自分の愛情を押し付けて去るバティストの「若さ」。

一般男子はシチュエーションの違いはあれうなずくべき場面。
残念ながらいまだにこの「パターン」は続いているかも。

そういえば夏目漱石の小説にもパターンは違えど似たようなシーンがあったか。
「男子の鈍感さ」は時代を問わないのだとしておこう。

嗚呼。
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「圧倒的な光ふたつ」について

2016-04-23 02:38:47 | Weblog
晴れ。仕事場でエアコンをかける。

「谷崎潤一郎対談集【文藝編】」読了。

座談会での武田泰淳の谷崎への迫り方が印象的。
活字からその勢いが伝わってくる感じ。

「自称弟子」の今東光についてはやや迷惑がっていたような。
インタビューの中身もむしろ「すれちがい」が多く。

当時の若い女性の言葉遣いがずいぶん気に入らなかったようで
繰り返し同じ話をしているのにふむふむ。

その作品の多様さをあらためて認識しつつ
「巨人」と言うよりない凄さが身に沁みる。

もっとも全集を読んだわけでもないので推測も含めた「感想」にすぎず。
これまた「老後の愉しみ」が増えたようでうれしい。

NHKで「若冲 ミラクルワールド特別編」を観る。

もっぱら技術の解説がなされていたけれど「圧倒的な美しさ」は別次元の趣き。
「動植綵絵」を中心とする傑作群には茫然とするよりない。

映画でいう「パンフォーカス」のさらに緻密なかたちとでもいうのか。
「色彩の魔術師」といったらシャガールだと思っていたけれど。

おまけに水墨画も凄いのだから何ともはや。
久方ぶりに「掛け値なしの天才」をじっくり見たかも。

蛍光色やショッキングピンクなど
いかにも「ケバケバしい色彩」しか知らない向きは是非。

繰り返すが「本物」を知ると「世界」が変わる。
「光が影を浮き彫りにする残酷さ」にご注意を。
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「失われた教養とお子様向けアニメふたつ」について

2016-04-22 02:38:49 | Weblog
雨。夜になって止む。

小谷野敦・細江光編「谷崎潤一郎対談集【文藝編】」を読み始める。

辰野隆のキャラクターがたいへん好ましい。
控えめな猥談より才気煥発の受け答えぶりが素敵。

谷崎が和辻哲郎と友人だったとは知らず。
仲のよさはわかるもののこちらはいくぶん硬い印象。

昔の言葉遣いと趣味のあり様にふむふむ。
それにしてもみんな語学ができること。

もちろん古典その他に関しても詳しく。
われわれの「教養のなさ」をあらためて思った次第。

ソメイヨシノでない桜も見たいもの。
「失われたもの」はいつの時代も数多くある。

深夜アニメ「甲鉄城のカバネリ」を観る。

「カバネ=ゾンビ」が襲ってくる中
人々を救うのは人とカバネの中間のような存在「カバネリ」。

わかりやすく言ってしまえば「妖怪人間ベム」の設定。
もっとも彼ら彼女らは元々人間だったため人間の側に与するのが違う。

鋼鉄製の機関車の描写がなかなか。
進行方向を変えるために回転する機械も出てきて。

敢えて詳細を知らないまま機会があったら観ることにする。

引き続き「暗殺教室」。

ころせんせーの過去が明らかになるという「謎解き」で引っ張る模様。
女子生徒の「圧倒的な殺意」が「イケメンのキス」で緩むあたりはいかにも「お子様向け」。

「どこかでわかりあえる前提」が維持されている「予定調和」よ。
やがて「苦味」を味わえる日も来ることだろう。

「色気」を出すにはそのあたりも重要だとわかった頃
「好み」が変わる日がやってくるはず。
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「『下等遊民』であること」について

2016-04-21 02:13:31 | Weblog
晴れ。おだやか。

高木秀樹著・青木信二写真「新版 あらすじで読む文楽50選」を読む。

そろそろ「老後の愉しみ」としてこの「世界」もという感じの接触。
「身代わり」というパターンが多用されている印象。

昔NHKで坂本九が「狂言回し」をやっていた「新八犬伝」以来
いわゆる「人形劇」はご無沙汰。

それでも「われこそは玉梓が怨霊」という台詞や
ビートたけしが下ネタで使っていた「『いざとなったら玉を出せ』の歌」も覚えている。

本朝廿四孝」を挙げておく。
同じくたけしの番組での文楽の紹介(映画「Dolls」(’02)ですでに採り上げられていたのだった)。

そのうち生で観ることになるやもしれぬが
いつもの怠惰が顔を出すとついついyoutubeで済ましてしまうかも。

「人間性」を浮き彫りにするのはロボットだと思いがちだけれど
実は大昔から人形があったのだということ。

たとえば海外物なら「サンダーバード」があったりもして。
今さらながらそのことに気付くというわが身の不肖ぶりよ。

どうせなら近松をきちんと読むことも必要か。
「心中天網島」(’69)「曽根崎心中」(’78)「鑓の権三」(’86)といった映画もあり。

「相手を思うがゆえの悲劇」というスタイルをもっと身近なものに。
あるいは「圧倒的な『ルール』」の前に「どうしようもない人々の姿」を。

限られた一生のうちに「素晴らしいもの」に触れられる時間は残念ながら少ない。
せめてあれこれ知っておきたいもの。

おそらくそうした「感動の強度」は人生を左右するはず。
「下等遊民」としての「基本」がそこに。
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「算術の意味」について

2016-04-20 02:00:51 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

キース・デブリン「数学する本能」を読む。

「仕事でする計算」と「学校で習う計算」が違うものであること。
ブラジルの子どもたちがそのことを「証明」して。

「意味のある計算」と「そうでない計算」と言ってもいいのか。
ある種の「自己流」は「不器用」ながら「対応の柔軟性」を示すものらしい。

「何にでもどこでも使える」という「汎用性」は
むしろ「わかりにくいもの」だったりする模様。

「合理性」というものについてあらためて考えさせられた次第。
「生き延びるために必要」なのは案外前者なのかもしれない。

興味深いのは「わり算」や「分数」「小数」がわかりにくいこと。

「÷」という記号がそもそも分数のかたちを表していたり
「0.1」が「. 」を消して逆から読むと「10」になるから「10分の1」だと思えば案外易しい。

「0.24メートルのひもを0.06メートルずつ切り分けたらひもは何本できるか」がわかりにくければ
「0.24」や「0.06」の代わりに簡単な整数を使えばわかりやすくなるはず。

例えば「10メートルのひもを2メートルずつ」だとすれば
その式を「2÷10」とすることもなく。

2分の1という分数が「2÷1」ではないことがわかれば
「1÷2」とすればいいことも同様。

「わられる数」とか「わる数」という分類は結構わかりにくいもの。
「分数のわり算」が実は存在せず結局「かけ算」にすることしかないことなど。

味気ない計算もちょっとした工夫で「操作」が簡単になる。
その「当たり前」をもっとみんなが同じように知ることができれば。

「分数のたし算ひき算」において「なぜ分母が同じでなければならないのか」。
そこに「平等」という観点を加えてみたりすると「意味深」になったりしそう。
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