退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ミイラと絵」について

2013-03-29 01:26:52 | Weblog
くもり。ちょいと雨も降った模様。

コンラート・シュピンドラー「5000年前の男」を読む。

1991年オーストリアとイタリア国境の標高3210m地点で見つかったミイラ。
「彼」をめぐる様々な騒動を描きつつ謎を探るお話。

残念ながら今ひとつ乗れなかったのは
「報告」の調子が勝ちすぎていたからかも。

もう少しあれこれ「肉付け」がされていたら
ミイラ君にも興味が持てたのかもしれない。

引き続き福岡紳一「フェルメール 光の王国」を読む。

真珠の耳飾りの少女」で有名な画家の作品を現地の美術館で観つつ
科学分野における「偉人」たちと絡めて語る内容。

アインシュタイン以前に「光が粒だと知っていた」ことや
一瞬を止める「微分」を感じさせる「時間」を描いたというあたりが素敵。

「ラピスラズリの青」はさすがに美しく
「部屋」を彩る淡い光の加減が心地よい。

ヨーロッパやアメリカの美術館や風景の写真も見事で
落ち着いた色彩と幾何学模様に見入ることしきり。

普段その種の「美」を目にすることが少ないせいもあるけれど
本当の意味での「癒し」はこうしたものから得ていただきたいもの。

著者のテーマである「動的平衡」は
フェルメールの絵画に由来するところもあったのだと納得。
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「味わうこと」について

2013-03-27 01:22:42 | Weblog
晴れ。早起きするとまだ寒い。

「江戸奇談怪談集」読了。

後半はやや急ぎ足のせいもあったか
あまり印象に残るものなし。

ただし「やらかした」後なので感想に偏りがあるかも。
もう少し落ち着いた状況で読んでいたら違ったやもしれず。

それぞれの本にも出会うタイミングのようなものがあるので
ぴったり合えば「幸福な出会い」となるのは人と同じ。

「魔がさす」のもおそらくは同様で
「気がついたらそうなっていた」ということもあるだろう。

いやはや。

地道に暮らしているつもりでも「さざ波」が立つこともある。
「なるほどそう来たか」と思うことしきり。

これがやがてまたどうなるかはお楽しみ。
とりあえず寿命が来るまでこの繰り返しが続くのみ。

さて。

明日はまた早起きだが明後日の早起きはなくなる。
ささやかな「幸せ」といったところ。

何事も身を切れば味わいも深く。
そういう理解をしておくことにする。
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「ダメなこと」について

2013-03-25 23:51:31 | Weblog
晴れ。いやはや。

昨夜は仕事場の飲み会。
おとといは何となく寝てしまう。

飲み会そのものは楽しく終わったのだが
久方ぶりに「やらかした」。

全くいくつになっても成長しないとはこのこと。
自己嫌悪を噛みしめながら半日を過ごす。

須永朝彦「江戸奇談怪談集」を途中まで読む。

「牡丹燈籠」「耳なし芳一」などのオリジナルもあり。
個人的には「果心居士」の幻術や妖怪の悪戯に付き合い続ける武士が好み。

さて。

明日からしばらく早起きの日が続く。
やはり「慣れる」までがめんどくさい。

何事も「時間」がクスリか。
しばし「耐える」のみ。


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「没落と希望」について

2013-03-23 02:29:31 | Weblog
晴れ。今日も風なし。

「古川ロッパ昭和日記 晩年篇 昭和28年-昭和35年」読了。

これでようやく全4巻の終わり。
最期は「疾走の果て」という雰囲気。

本人も書いているけれどこの「日記魔」ぶりは尋常ではない。
「I stand alone」というつぶやきがなかなか。

とはいえ「親身になってくれる人」が次々と態度を変えるあたり
三木のり平の「ロッパは威張らしとくよりない」という「寛容」は難しそう。

それにしても「ある特殊な人生」を「並走」した感慨よ。
この「大河小説」を体力のあるうちに読めたのはよかったかも。

明治36年(1903)8月13日 ~ 昭和36年(1961)1月16日。
「男爵家」に生まれた男は「天国と地獄」を味わって死んだ。合掌。

さて。

NHKアーカイブスで東浩紀が若者を連れて梅原猛の話を聞きに行くのを観る。

「山川草木悉皆成仏」か。
「一神教」でないわが国では「アニミズム」が理解されやすいのはわかるとして。

昔から若者たちが田舎から都会に出るのが
「仕事場」がないからなのは世界共通。

「山川草木」に囲まれながら
それを「仕事場兼遊び場」にする「余裕」はむしろ「老人」のものではないか。

もちろんメディアに注入された若者たちの「価値観」が変われば
実は「地元」が「資源に恵まれている」という「発見」もあるとはいえ。

要は「貨幣量の多寡」に囚われずにすむ「生活」を「確立」すること。
果たしてそれが出来るかどうか。

「美学」が「背骨」になるためにはそれなりの「ゆとり」と「ご縁」がないと。
ロッパのようにそれが「アダ」となることもあり。

イカンイカン。

どうしたら可能なのかについて「知恵」を絞る方向に進まなければ
いわゆる「奇跡」も起きようがない。
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「遊び人であること」について

2013-03-22 02:46:39 | Weblog
快晴。夜には風も止みおだやか。

深夜「PSYCHO-PASS」最終回を観る。

何とも面白味に欠ける展開。
結局「男たちの戦い」になるなら「少年マンガ」でいい。

予想通り「女子」がそれを見守ることにはなった。
ラスト近くのさりげないシーンのメッセージは「男はいらない」。

実は男ふたりの戦いが「必要な男を選別するためのもの」だったのだとでもすれば
もう少しビターな「大人の味わい」になったことを思うと残念。

「頭のいい女子」からすれば
そもそも「システム」などという「硬直したもの」に頼るのは「頭の悪さ」になるはず。

「論理」という「単調な繰り返し」によってしか「納得」しない「男子」は
単なる「めんどくさい存在」でしかないことも事実ではあり。

「自然の秩序」に敏感なはずの彼女たちにはそれ以上の「余計なもの」は必要ないのだ。
この「簡潔さと力強さ」には勝てるはずもなく。

なるほどあらためて自分の「できそこない加減」を認識する次第。
その「弱さ」を自覚しているからこそ「男子」は「自分に都合のいい秩序」を作ったのか。

さて。

その一方で「できそこない」にも取り柄がある。
「存在意味の希薄さ」ゆえに必要以上の「意味」を見出すあたりに。

もっともそれはたいていの場合
身近にいる「女子」に相当な「負担」をかけながらのこと。

いやはや。

「男子」は基本的に「遊び人」であるらしい。
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「事実の素っ気なさ」について

2013-03-21 03:02:29 | Weblog
くもり一時雨。夜に強風。

まだまだ「古川ロッパ昭和日記」を読み続ける。

親しい「後援者」にも冷たくされ始め
以前と比べれば「格安のギャラ」の仕事をポツポツとこなすロッパ。

結核の症状もいよいよ重くなり
理由を知らぬ周囲からは「やる気がない」とみなされて。

「意識と身体の乖離」に気付かないまま
いたずらに「ひがみ根性」が顔を出しまくる。

「八方塞がり」の中でそれでも必死に働く姿はまさに「鬼気迫る」感じ。
「世間知らずの坊ちゃん気質」に迫る「試練」はいかにも厳しい。

「包摂」とひと言ですますのはたやすいけれど
おそらく現代のわれわれは彼を受け入れられないのではないか。

なるほどこうした「先輩」の姿を見たら
たとえば渥美清が「マイナス志向」な話ばかりしていたのもわかるような。

もちろんあくまで「わかるような」であって
「芸人」でない「素人」には「遠い世界のこと」ではあり。

「過剰と欠如」が織りなす「物語」を読んでいると
「平穏無事」が何よりと思えてくるのも道理。

「人気を得ること」と「ハイブローであること」が反比例するのは「定石」。
素っ気ないほど苦い「事実」よ。

ただし「定石」は「例外」を含まず
おそらく「本物」とはそうしたものなのかもしれない。
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「アンバランス」について

2013-03-20 03:27:17 | Weblog
晴れ。一転おだやか。

「ロッパ昭和日記」を読み進める。

ようやく昭和三十年(1955)まで。
いよいよ「手詰まり」になってきた感じが濃厚。

血を吐きながらあと5年の命。
その「体力」はやはり「食」のおかげなのだろうか。

できない禁煙を何度となく誓いつつ必死に働く姿は「狂気の沙汰」。
ある種の「過剰」の物凄さをあらためて感じる次第。

「芸事」に関して「炯眼」を持つはずのロッパが
「生きるための知恵」に欠けているあたりの「アンバランス」よ。

ところで我が家で取っている中日新聞。
原発に関する記事はマスメディアとしてはなかなかのもの。

諏訪哲史のマニアックな「埋もれた作家紹介」もあれば
園子温の「日本映画批判」の記事もあったりして。

この前の日曜版には先頃亡くなった大島渚の「紹介」なども。
そのあたりに「センスのよさ」がまだ残っている。

その昔の「都新聞」の好ましさをわずかに現代に伝えている模様。
コラムや社説はそれほどでもないところが面白いのだけれど。

少なくとも読むに堪えない「天声人語」が
高校生向けの「教材」となったりしている朝日新聞よりはマシ。

質のいい「コラム」のある週刊誌を読むのと同じように
「贅沢」をいえばキリがないといったあたりで。

日曜の本紹介であまり目を引くものがないのも残念。
いっそ「古典」とされるものを採り上げるくらいがいいのかも。

もっと「そそるもの」がないと。
「読みたい気持ち」にさせるものがない「書評」は意味がないのだが。

芸能人追悼記事についても
当人の本当の「足跡」を教えてくれるものを望みたいところ。
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「繰り返すこと」について

2013-03-19 02:53:20 | Weblog
雨のちくもり。季節外れの台風のような。

昨日は予定なしのはずが墓参りに。
久方ぶりに「残念な叔母」とも付き合う。

「古川ロッパ昭和日記 晩年篇 昭和28年-昭和35年」を読み始める。

禁煙を誓ってはそのたびに誓いを破る姿は「偏執的」。
「誓うこと」がまるで「良心」であるかのよう。

税金に追われ金がないにもかかわらず
美食と映画出演のたびに「1万円」の祝儀を出すことはやめられない。

結核の症状も一向に改善しないまま。
それでもどこか「喜劇」の匂いがする「繰り返し」がたっぷり。

この味わいは島尾敏雄「死の棘」に似ているのか。
本作で「大長編」もようやく終わる。

当初は筋肉痛にもなった左腕も抱えることにすっかり慣れて。
「生きること」の複雑さをしばし味わう。

さて。

「活字とアルコールとニコチン」に関する中毒ぶりは自分もさして変わらず。
勤め先からの要求で受けた健康診断はとりあえず「問題なし」。

当分の間「不健康でいられる健康さ」はあるようなので
従来通り「寿命」まで同じ生活を続けるつもり。

「ご縁」があったらよろしくと
まだ見ぬ人々にも言っておくことにする。
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「休日の充実」について

2013-03-17 03:44:07 | Weblog
晴れ。やや風が吹く。

橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司「おどろきの中国」を読む。

「西洋基準」で測れば中国は「国家」ではない。
歴史を遡れば西洋以前にずっと「国家」であり続けたにもかかわらず。

一見「我も我も」と見える姿勢の中に
実は「決定的な破綻」を避ける「歴史的な構え」があったり。

「敵」に「蹂躙」される恐ろしさを知っている彼らは
何よりも「安全保障」を大切にしている模様。

そうした「隣人」と長い間付き合っていながら
「歴史」を忘れいたずらに「噴き上がる」日本人の愚かさについても。

竹内好や武田泰淳の「中国に対する理解」は橋爪大三郎に引き継がれていたのか。
この思いがけない「発見」はむしろ好ましい。

いちおう学校で漢文は習っているものの
われわれは一般的に「漢籍」から遠ざかって久しい。

かつてそれらを「模範」にして
幼い頃から暗唱したりした「過去」があったにもかかわらず。

「多民族国家」である中国において漢字が「ラテン語」として流通した事実は
わが国において「真名=漢字」「仮名=ひらがな」があったことを思い出せばよい。

「神」でなく「天」があり
「順位」という「秩序」を重んじることで争いを避ける「知恵」よ。

中国を知る上では必携の一冊。
コメダでアイスコーヒーを飲みつつ「充実」を味わう。

さて。

珍しく夕方に家を出てクインビーへ行く。

マスターとあれこれ話ながら望み通りのんびり飲む。
「激辛ウインナー」と「あんかけ豆腐」の夕食。

今宵は普段より酔いの回りが遅かったけれど
帰宅後PCを開いてあれこれしているうちに眠ったようで今頃ごそごそ。

個人的に楽しく過ごせたとはいえ
お店としては他に客も来ず残念な限り。

何度でも繰り返すが心ある者はクインビーへ。
壁一面のレコードとおいしい料理を楽しむべし。

とりあえずランチが好調なのはいいとして夜の部がなかなか。
「アベノミクス」とやらで財布に余裕がある向きは是非。
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「あれもこれも」ということについて

2013-03-16 03:00:04 | Weblog
晴れ。夜もおだやか。

明日が急遽休みになる。
久方ぶりに何もない連休。

ソウルバーへ行くか。
ゆっくり飲めそうなのも久方ぶりゆえ。

斎藤環「世界が土曜の夜なら ヤンキーと精神分析」を読む。

わが国で圧倒的な影響力を持つ「ヤンキー」についてのあれこれ。
ジャニーズもEXILEも結局「ヤンキー」だというのには大いに納得。

ただし著者の作品は「論理構成」がわかりにくく
部分でしか反応できないことが多いのが玉にキズ。

個人的には「ヤンキーもの」には飽き飽きしているのだけれど
「多勢に無勢」なのはどうしようもないか。

引き続き三中信宏「系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに」を読む。

「演繹=deduction」でも「帰納=induction」でもない「仮説的推論=abduction」。
「誘拐」の意味もある「方法」を使うと世界が違って見えると。

「真偽」でなく「合理的説明」がつくものを優先するやり方で
そこに数学を絡めた「系統樹」を持ち込むと「どうやら正しそうなもの」が絞り込めるらしい。

あらゆるものの「前提」を疑う基本姿勢の下に
「タコツボ」を横断することで新たな可能性を探る試みは悪くない。

「直線的論理」にのみ頼りすぎると
「整合性」はあるものの「実相」を単純化しすぎることにもなりがちで。

さて。

われわれの「無力さ」を思えば
とりあえず「気合いと情熱」で動くことで「事態」が好転することもあるのだろう。

ここでもそれぞれの「好ましさ」をうまく組み合わせることが
どうやら求められているのだとしておく。
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