退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

GW1・2

2013-04-30 02:11:23 | Weblog
晴れ。おだやか。

昨日からいちおうの連休。
明日ちょいと働いて5連休の予定。

ほぼひきこもりで読書もせず。
近所にあるカインズへ出かけて商品の多さに驚く。

それぞれの商品はある種の生活様式を訴えかけ
自分は必要なものだと主張する。

残念ながらそれらの主張には「なるほど」と応じるのみ。
たとえそこに「地道な労働」が含まれているとしても。

少なくともそこに「私の生活」はなく「私の好み」もない。
それだけのこと。

妹の末娘がようやくこちらを見るようになる。
向こうからそばに寄ってくるようにも。

「馴れた」ということなのか「ヘンなおぢさん」として認知されたのか。
あるいはこちらの「作戦」に引っかかったのか。

とりあえず今後も「様子見」。
ずっとそうじゃないかという声も聞こえてきそうだけれど。

さて。

普段適当に働いているせいで「長い休み」はついついボーッとしがち。
そもそも「休日」は「忙しい人々のためのもの」だろう。

もちろん「ヒマつぶし」は得意のなので別に困ることもなく。

というわけで今年も淡々と過ぎるはず。
寿命のあるうちはこのままで。
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「古典という資源」にいついて

2013-04-28 03:31:39 | Weblog
晴れ。夜にまだ冷える。

リースマン「孤独な群衆」を読み始める。

「伝統指向型・内部指向型・他人指向型」というモデルは現在でも十分通用する。
「規範・理想・情報」をそれぞれ重んじるタイプとしておこう。

あるいは「保守・革新・現代人」と言ってもよさそう。
前者ふたつには「疑い」がなく後者には確実にある。

専門家向けに書かれたはずが思いがけず一般人にも売れ
かなり慎重な態度になっているところが伺えるあたりの戸惑いが面白い。

今から60年余り前のもので
わが国で言えば戦後しばらくして朝鮮戦争が始まった年に書かれている。

そのことを思えばなるほど「現代」はこんな頃から始まっているらしい。
月並みではあるけれど今後の展開が楽しみ。

インターネットという道具を手に入れたわれわれは
もはや「孤独な群衆」ではないと言えるのかどうか。

いい意味で「群衆=crowd=クラウド」であることによって
どうやら「希望」を見出す方向性が見え始めてはいるものの。

もちろんどんなことにもプラスとマイナスはあるのだから
どちらかのみを強調するのは好ましくない「単純化」。

「複雑さ」を生きるという「前提」を抱え込んだ以上
いずれの「具合」も考慮しつつ進んでいくしかないことは確か。

たとえばニーチェが「神は死んだ」と宣言したのは1882年か。
哲学者の洞察がわれわれの「生きる条件」となるまでに一世紀以上の年月が流れたことになる。

本書の出版までは70年足らず。
この「時差」をどう考えればいいのか。

ここは前向きに「古典という実が熟すまでの期間」だとでもしよう。
おそらくは「埋もれたまま」のものも少なくないはずだとして。

その種の「資源」をきちんと確保し受け継ぐことは
メタンハイドレートを掘り出すことより重要だったりするのを忘れずにいたい。
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「過去と現在のモデル」について

2013-04-27 03:24:33 | Weblog
くもりときどき晴れで雨も降る。何がなにやら。

月刊望風編「不良老人伝」を読む。

いわゆる「望ましいモデル」を紹介するのは悪くない。
ただし一番の問題は彼ら彼女らの「よさ」がこれでは伝わらないこと。

「紹介」を目指しながら「紹介」になっていない矛盾。
そもそも個々の固有名詞を知らない限り接触しようがないもの。

むしろ紹介した人々の作品のよさを伝える方が先決。
あるいは「自伝」や「伝記」を読みたいと思わせないと。

大雑把に言ってしまえば「カッコイイ」という感想を与えることだろう。
紹介者たちに求められるのは読者にそう思わせる文章力に尽きる。

この「当然」をクリアしてもらいたいところ。
その点でいささか不満に思ったので是非。

とりあえず名前を挙げておく。

永井荷風、金子光晴、宇野千代、今東光、壇一雄、松尾邦之助、本田靖春、竹中労、
前田俊彦、上野英信、松下竜一、岡部伊都子、岡本太郎、升田幸三、今村昌平、

淡谷のり子、松永安左ヱ門、田辺茂一、三岸節子、植草甚一、天本英世、
城山三郎、中山素平、石田礼助、伊東正義、前川春雄、久野収、大岡昇平。

ところで。

流し見した朝生が久方ぶりに面白かった。
このメンバーなら「熟議」が出来そう。

「全体」を見渡せる人などいないことが明らかになった現在
それぞれの専門分野であれこれしつつ「マシな方法」を採り入れることで意見の一致がある模様。

ホリエモンが走ること走ること。
「まとめ役」として津田大介が冷静な解説。

それぞれ自然に「役割分担」が出来ていたのが不思議。
「KY」を奨励している人々が案外「KY」でないところがなかなか。

「国家」がいたずらに「好ましい個人」を邪魔するなと。
実に明快で気分は爽快。

彼ら彼女らの今後の活躍に期待したい。
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「時代」について

2013-04-26 02:24:18 | Weblog
晴れ。スーツの背中が熱い。

週刊金曜日編「70年代 若者が『若者』だった時代」を読む。

「三島由紀夫と高橋和己 学ぶべきものはすべてこの二人に学んだ」として
その後は「余生」だと言う鈴木邦男の文章が一番印象的。

寺脇研や斎藤貴男も自著ほどの「迫力」はなし。
もっとも「字数制限」があるから仕方がないのだろう。

あと知っていたのは山田厚史、宇都宮健児、雨宮処凛、
辻井喬、吉岡忍、佐高信くらい。

それ以外の書き手を含めてそれぞれに「独特の思い入れ」があるよう。
共感できるところがあまりなかったのは残念。

さて。

常にエネルギーを持て余す存在でいささか「バカ」、
なおかつ「正義」に溺れやすいのが若者の常ではある。

「祭り」の形はさまざまだとして
おそらく今でも過去と同様のことは行われているはず。

自らを省みてもわかることだけれど
若者に言えるのは「大いに放蕩すべし」ということのみ。

それで何事かがわかるかどうかは不明。
どうせ余っているエネルギーなら使えばよかろうという程度のこと。

マイナスを消す方向ではなくプラスを溢れさせる方向へ。
その上で「ダメなもの」を「殺す」のがわれわれ「年長者」の役目ではある。

もっとも逆にこちらが「殺される」ことが実は望みだったりするのだが。
きっとそうして「時代」は流れていく。
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「意志」について

2013-04-25 03:25:54 | Weblog
雨。一時激しく降る。

絓秀実「反原発の思想史」を読む。

人それぞれに「コップの中の嵐」は激しく
「勝手な夢」を見ていたいものなのだということを再認識する。

そもそもわが国に「思想」と呼べるほど堅固なものはあるのかと思いつつ
「歴史」を振り返るとなるほどとうなずく次第。

「理屈」の筋道は見えるのだけれど
なんだかめんどくさいというのが正直なところ。

たとえばカントの「物自体」をいわゆる「現実」だと思えば
そもそも誰にもそうした「リアル」はつかめないわけで。

もちろん原発はない方がいい。
「リアル」に沿ったロジスティクスを誰か教えてくれないものか。

と言うより「原発は使わない」ということを前提として
どうしたらエネルギーをうまくまかなえるかをみんなで考えたらいいのに。

「主義主張」はとりあえず脇に置いて
「どうしたら可能になるのか」を思考実験するだけでいいから。

「Linux」のようにはならないものなのだろうか。
肝心なのは「アイデア」と「意志」だと思うが如何。

少なくとも「一世代=三十年」程度の先を見据えて
困難な事態を収束する方向で歩き出そうという覚悟が欲しいところではある。

おそらくその頃には「高齢化」も終わり人口もずいぶん減るはず。
未来の彼ら彼女らにせめてまともな「置土産」をしたい。

常に「既存」あるいは「現前性」といった前提のみが優先されていては
どんなものであろうと「よくなる」はずがない。

これもまた「勝手な夢」であることを承知の上で
具体的なプランを持てない「情けなさ」を噛みしめるのみ。
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「『ご縁』という公式」について

2013-04-24 03:06:23 | Weblog
晴れ。おだやか。

「ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝」読了。

途中から「お腹いっぱい」になりつつ最後まで。
なるほどこうした人生もあると。

「ご縁」からついつい遠ざかる傾向の身としては
さまざまなつながりに驚くばかり。

もっとも著者ほどあれこれ才能はないのだから
それもまた当然と言うよりない。

ところで。

人間は自らの能力のなさゆえに「神」という存在を創り上げ
それを「信じること」の「正当性」を担保した。

科学は一見宗教を「破壊」するもののように思えるものの
その最先端では常に「宗教的」であらざるをえない。

なぜなら何事か新たな発見があるたび
「その先はどうなっているのだろう」という疑問が浮かび上がるのは必定。

結局は「直観」に基づく「信仰のようなもの」にすがって
「パラダイム」の影響を受けながら「進む」しかないから。

演繹がやがて行き詰るのは自らの「限られた能力」ゆえだとして
帰納はそもそも「きっとそうなるだろう」という「仮定」に過ぎず。

逆にだからこそ思いがけない「発信」が
人々を刺激してあれこれと波紋が起きるわけで。

人と人とのつながりもある種脳内のニューロンの発火のような。
いったん「回路」が出来てしまえばその「現前性」に支配されたり。

あくまで「安定」を求める性向は何らかの「公式」を生み出しやすく
「モデル」となる人物にすがったりしやすくもなる。

繰り返すが「森羅万象に多情多恨たれ」。

その上で起きることに驚き続けられる「好奇心」を持つことこそ望ましいはず。
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「個性ふたつ」について

2013-04-23 02:58:34 | Weblog
晴れ。風が吹く。

「ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝」を途中まで読む。

たけしやさんまを呼び捨てにするのは単に先輩としてだけではなく
「客に対してのあるべき態度」だったのだと知る。

ジャズ・俳句・麻雀・釣り・ゴルフ・ボウリングなど
いったん興味を持つと徹底的に付き合うのが「流儀」のよう。

圧倒的な「ブレなさ」は文学で言えば志賀直哉並み。
この種の「自然児」には誰も勝てないのもわかるというもの。

いったんは民主党に入りもしたけれど「脱退」したのは当然か。
これだけ強い個性があるとうまくいくわけがないのも道理。

なるほどこういう生き方もあるのかと思いつつ
「自分探し」などしている若者たちにはちょいと参考にしていただきたい。

深夜「Lie to me 嘘の瞬間 シーズン3」を観る。

何事であれ相手の表情からすべてを読み取ってしまう設定が生きるのは
やはり主演の「曲者」ティム・ロスの「神経質演技」のおかげだろう。

「コックと泥棒、その妻と愛人」(’89)に出ていたのは迂闊にも忘れていた。
「レザボア・ドッグス」(’92)ではさすがに目立ったけれど。

「パルプ・フィクション」(’94)はいいとして
「フォー・ルームス」(’95)での狂言回しぶりはいささか無理が目立った感じ。

「世界中がアイ・ラブ・ユー」(’96)でちょいと見かけて
「海の上のピアニスト」(’99)ではいかにもなエキセントリック。

「PLANET OF THE APES/猿の惑星」(’01)の猿のボスはピッタリで
「Lie to me」でも十分猿っぽく息を吐いたり鼻を鳴らしたりする。

外見からしていかにも「知能が高そう」なので
どうしても役柄がそういうものに限定される憾みがありそう。

個人的にはスティーヴ・ブシェーミあたりと組ませて
「ありえそうにない世界」をほのぼのと描いた作品など作っていただきたい。
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「そういうこと」について5

2013-04-22 02:46:35 | Weblog
晴れ。各地で雪も降った模様。

地元の市長選で河村たかしが勝つ。
以前の大阪府知事選同様「この人は悪いことはしない」という判断の結果だろう。

ひとつ評価していいのは「身銭を切っている」ところ。
「年収800万」はそれでも「恵まれている方」だから。

あれこれと文句はあるだろうが
とりあえずその程度の「当然」が出来なければそもそも話にならない。

もちろん「経費」がかかるのはどこでも確かなこと。
それ以上の「待遇」を要求するとなるといささか複雑になる。

ここでも重要なのは「最低限」。
「財源」が税金ならば出来る限り少なく使うことが「正しい」。

官僚の「システム」もそれを実現した人間が「昇格」することにしたらいいのに。
予算を使い切らないと評価されないというのは根本的に「間違っている」。

それらを「支えている」のは結局は「貧しさ」。
「本当の豊かさ」を知っていればそうはならないはずなのだけれど。

もっとも「普通の人」にそうしたことを要求するのは酷なので
そこでこそ「選ばれた人の義務」が発生する仕組みが重要。

さて。

学生は「真面目に勉強すること」で現在を「犠牲」にして「未来」を確保するのが「定石」。
それは「幼い」彼ら彼女らが「安定した生活」を求めるため。

ただしその「安定」とやらがどれほどのレベルのものなのかはあいまいで
はっきりしているのは「収入の多さ」のみ。

「貨幣量」という「数字」は何事かを明らかにするように思えるのだとして。
誰にもわかる「指標」でしか自分を判断できないのはむしろ「頭が悪い」のではないのか。

少なくとも世に言う「金持ち」が
必ずしも「好ましい存在」でないことはその人物を見ればわかる。

根本を問わずに行われ続けるこの種の「ゲーム」を「無条件の前提」とするなら
文字通り「世はいかさま」。

だから。

好きに生きればいい。
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「たくましさ」について

2013-04-20 02:53:59 | Weblog
晴れ。やや冷える。

常見藤代「女ノマド、一人砂漠に生きる」を読む。

エジプトの遊牧民の生活にも徐々に「都市生活」が忍び寄る。
著者の「思い描いた姿」は結局「旅人の理想」に過ぎず。

イスラムの教えに従った暮らしにも同様に
どこにもある「文明」と「悲しみ」が襲い。

「のんびり生きること」が当然ならば何も疑いは起こらないものの
観光客目当ての「商売」が始まると事態は一変する。

「環境の変化」にはいろいろな「適応の仕方」がありそうだけれど
われわれは「便利さ」というものにどうにも弱い生き物らしい。

深夜「シンプル・プラン」(’98)を再見。

「お宝」を発見したことで変わってゆく人生。
冒頭の「白い雪」が印象的でありそれがすべて。

ここで「アダムとイブ」のお話を思い出せばいいか。
ブリジッド・フォンダの「変貌ぶり」がなかなか。

つい最近屋根に逃げた覚醒剤使用のカップルを唐突に思い出すのは
ここでも「見張り役」をしていた女性がいたから。

「嘘」を「真実」だと信じ込める能力はいかにもたくましく力強い。
他愛もない話を延々と飽きずに続けられるのは少女の頃からのことで。

男子がいたずらに「筋道」にこだわる原因を
いっそ「生物学的弱者」だからということにしてはどうだろう。

与えられた「生命」のはかなさを
どうにかこうにか「正当化」したい気持ちのなせる業ということで。

おそらく「敗者の美学」は
男子と父親の影響の強い女子によって維持されるものなのだろう。
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「ご縁」について

2013-04-19 02:25:19 | Weblog
晴れ。だったか。

久方ぶりにクインビーへ行く。
寝られても5時間というマスターの疲れた顔がやや心配。

今日こそは食べものを注文しようと思いつつ
案外お客さんが来たのでタイミングを逃す。

昔の店の知り合いにもらったという焼酎をいただく。
その彼女はこちらのことを覚えているらしいのだが全く思い出せないのが申し訳ないような。

その一方。

昨日彼と別れたという若い女子の声が聞こえてくる。
彼女は「昔ながらの男」を好むタイプのよう。

仕事の話を遠慮なくしてくれる男がいいと盛んに言っていたけれど
あれこれ耳にするうちにどうやらある種の男にとって「都合のいい女」だと判明する。

「今日だけは聞いてください」と上司に言うのがいかにも。
実は彼氏に結構貢いでいたりする「ダメんず好み」らしい。

その友人と思しき女子が途中でやってきて
しばらく居た後でそそくさと帰ったあたりが面白いところ。

きっと「めんどくさい女」なのだろう。
そのあたりは傍で聞いているだけで十分にわかった。

さて。

小林信彦「読書中毒 ブックレシピ61」を古本屋で買って再読。

何度目かはわからないものの読むたびに感嘆しきりの一冊。
著者はもう「傘寿」を越えた模様。

何がキッカケだったかはこれまた忘れてしまったとはいえ
読者としても長い「お付き合い」になる。

確か昔に景山民夫が誉め言葉として「困ったオッサン」と呼んでいたのだが
この「天才」が「主流」にならないわが国の「貧しさ」よ。

読み返すに足りないあれこれの本を思えば
ここまで「飽きさせない」のは「なんのせいか」と思いたくなるほど。

おそらく今後もさらに「発見」があることだろう。
「断簡零墨」ならずとも「読み落とし」は「人の常」だから。
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