退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「懐かしいホラーと女優の現在もしくは観てもいない映画の批評を読むことと『物語の在り様』」について

2019-04-30 02:14:56 | Weblog
くもり。夜になって雨。

気付いたらいつもより遅く起きていたので少しバタバタ。

シャワーを浴びて自転車で近所のシネコンへ。
デヴィッド・ゴードン・グリーン「ハロウィン」(’18)を観る。

オリジナルから40年ということでついつい。
内容についてはあまり期待しないで観たところやはりという感じ。

かつての「絶叫クイーン」ジェイミー・リー・カ-ティスも還暦を過ぎ。
実は彼女の現在を観たかったというのが本当のところ。

「殺し方」に新しい工夫は見られず。
マイケル・マイヤーズを取材する男女が登場する「意味」も不明。

ドナルド・プレザンスの跡を継いだ主治医の描写も微妙。
おそらく別の病院への移送の際にマイケルを「解放」したのは彼のはずなのだが。

唯一ふむふむと思ったのは「祖母・母・孫娘」の関係。
三代にわたって「怪物退治」に関わるあたりに何か意味があるような。

ジョン・カーペンターの第一作を観た時の面白さは
「動機が全くわからない不死身の殺人鬼」だったはず。

ジェイミー・リー・カーティスが「決着」を付けるシーンが長すぎて耐えられず。
「要塞」のような家の仕組みの結末は悪くないものの。

その後喫茶店で北川れい子「勝負 ニッポン映画評」を少し読む。

今のところ「にっかつロマンポルノ」についてのあれこれ。
残念ながら採り上げられている作品はほぼ未見のものばかり。

名前と顔だけ知っている女優たちが懐かしい。
当時は確か「ロードショー」という雑誌でその存在に触れたのだったか。

今と違って簡単に「エロ映像」に接触できる環境もなく。
「男女のからみ」を条件とした中でさまざまな監督たちも育ち。

むしろこうした作品の数々に付き合った著者の姿は「不思議」。
何がきっかけだったのかを知りたいものではある。

本書は相当な量があるのでこの長い連休に読むにはピッタリ。
明日も読み進めるつもり。

ポール・マクギガン「PUSH 光と闇の能力者」(’09)を観る。

「予知」「念動」「嗅覚」「記憶操作」「音による破壊」あるいは「肉体の再生能力」など。
さまざまな「特殊能力」とその「利用」をめぐるお話。

ダコタ・ファニングと香港あるいはアクションの魅力がなかなか。
ただ主人公の男女に魅力が感じられないのと作品の長さが残念。

敵の「予知能力者」に自分の考えを知られないための工夫が面白い。
案外「アナログな手段」だったり。

やはり映画の「基本」は「90分前後」ではないか。
それ以上の長さを観客に納得させるためにはそれなりのものがないと。

同時に「物語の展開」と「各エピソードの収束」について考えたいもの。
もちろん「発散」するのも悪くないけれど。

「物語」はもっと魅力的なものであるのが「本筋」。
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「言葉の力を知るゆえに怖れられた存在あるいは『自分以外の何物か』を自分に都合よくしたいことの罪」について

2019-04-29 01:57:19 | Weblog
くもり。おだやか。

「中国詩文選19 蘇軾」読了。

詩人の直言が自らを流浪に追い込む世界があったことをあらためて。
もっともそれは「言葉の力」を怖れた「権力」のなせる業でもあり。

権力者さえそれを怖れるという「ルール」が成立していたからこその出来事。
堂々と嘘を吐きその糊塗に何の痛痒も覚えない人々が「普通」の現在ときたら。

「不文律」どころか従来の「ルール」はすべて取り払われる始末。
かくも「『普通』という基準」がいい加減なものであることを知ろう。

「現在」は常に「歴史の一部」でしかない。
そのことを身に沁みて理解したいもの。

マル激を観る。

今回のゲストは原武史で天皇についてのあれこれ。
「退位」を持ち出した平成天皇の思いについて。

伊勢神宮を訪れた天皇が車の中から手を振るだけで泣き出す人々がいる事実よ。
そうした現在は昭和の「『君民一体』の超国家主義」に近いと。

政治家あるいは官僚たちへの「絶望」が天皇の「聖性」をさらに高め。
ただし「全国行脚」や「祭祀への参加の多さ」は昔の天皇にはなかったという指摘も。

「国事行為」にはない「象徴としての役割」を自ら定める一方
マスコミが「被災地を訪れる姿」にスポットライトを当てすぎるがゆえの影響も。

まあいろいろあるけれど。

自分以外の「何者か」を自分の都合のみで「動かそう」というのがダメなのは明らか。
「天皇という『庇護者』」に甘えていていいのかどうか。

少なくとも平成天皇は「わたしはこう思う」という意志表示をしたのだから
それをどう思うのかについて国民は答えなければならない。

個人的には「天皇」がいるから「大人」になれないんじゃないのかと思うことしきり。
「伝統」がもたらす「血の汚れ」が現在の皇后もしくはその後の皇后を苦しめた過去も。

「自分の人生は自分で引き受けること」。
この「当然」がないからこそいたずらに「身勝手な信仰」は続くわけで。

そろそろ「子どもでいられる環境」をどうにかしないと。
とりわけ年齢の多少を問わず男子たちに言いたい。

たかだかお前ごときを「成立」させるためにどれほどの「犠牲」が必要なのかを知れと。
それが「最低限の倫理」だと思いたいところ。
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「前向きな詩人とディズニーの戦略のズルさあるいは『キャラクターイメージの浸透』」について

2019-04-28 00:47:20 | Weblog
晴れ。風強し。

山本和義「中国詩文選19 蘇軾」を半分くらい読む。

かの詩人が「歎かない人」であることと同時に
「常に前向きな人」であることを知る。

「詩人の歴史」についても細かく書かれているので
それを知るとまた詩の趣きが変わるところもあるやもしれず。

「人生は寄するが如し」という思想についてもふむふむ。
「寄=かりそめ」だから「不安定」だとしても「生」を全うすることは可能だと。

「与えられた条件の中で生きる」という基本をあらためて。

今宵は本来なら休みであるはずの日なので老舗バーへは電話もせず早目に帰宅。
TVで「アベンジャーズ」(’12)を観る。

それなりに楽しめるとはいえ読んだこともない「アメコミのヒーロー」を
「世界共通のもの」にしようとするディズニーの「陰謀」が気にくわず。

「ダンボ」や「アラジン」の実写化はどうなのかと思うせいもあり。
ただでさえ幼児期に「刷り込み」をされている現実があるゆえ。

要するに。

グラムシじゃないけれど「文化的ヘゲモニー」の取り方がズルいような。
いずれ「負け犬の遠吠え」とも。

ディズニーは本来こういうものじゃなかったのか。
これだったら大いに「洗脳」されてやろうというもの。

さて。

仕事場の若い同僚に「GWはどう過ごすんですか」と聞かれたので
「昼間は喫茶店で煙草を吹かしつつ読書、夜は映画を観つつ酒を飲む」と答えたところ。

「いかにもな感じですね」と言われる。
「その様子が目に浮かびます」とも。

かくも「イメージ」は浸透しているのかと我ながら驚いた次第。
ディズニーほどの力があるわけもないが「そういうもの」だと思わせれば「勝ち」。

フッフ。

いっそ「宇宙人」になるか。
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『学』の有無による大きな違いとハリウッドのたくましさあるいは今回の連休が『陰謀』であること」について

2019-04-27 02:40:19 | Weblog
晴れのちくもり。仕事帰りにちょいと降られる。

「雑草学入門」読了。

読み終わった後であらためてタイトルを見て愕然とする。
「雑草『学』入門」か。

「学」があるとないとでは大違い。
借りてくるべきは「雑草入門」だったということで。

相変わらず「粗忽」な自分を確認する。
ますます「老人力」発揮中。

ニールス・アルデン・オプレヴ「デッドマン・ダウン」(’13)を観る。

妻と娘を殺された男と自動車事故で人生を狂わされた女の出会い。
コリン・ファレルは「耐える男」を演じると見栄えがする模様。

どこかで観た顔だと思っていたらノオミ・ラパスは
「ミレニアム」シリーズ(’09)の主人公だった(ずいぶんな変わり様)。

イザベル・ユペールやF・マーリー・エイブラハムが脇を固めて(どちらも主役級なのに)。
ここでも「潜入」が物語のポイント。

アイルランド、スウェーデン、フランス、イギリスそしてアメリカ人俳優たちのミックスぶりよ。
ちなみに監督はデンマーク出身で。

「復讐」を目指す者たちがその「終わり」を引き延ばすというのにふむふむ。
なぜならその時が来ると自分が「抜け殻」になってしまうから。

「モンスター」と呼ばれ住んでいる部屋の扉にもそう書かれる「イジメ」の酷さも。
彼女が主人公の殺人を目撃したのをネタに彼に「自らの復讐」を依頼する展開はなかなか。

ダーシーのドミニク・クーパーが個人的には「お気に入り」。
アルフォンスのテレンス・ハワードはフォレスト・ウィティカーからアクを抜いたような。

何とも贅沢な俳優陣が生み出すドラマは
ハリウッドが昔から常に「外国人」を頼りに生き延びて来た「歴史」を思わせて。

主人公がハンガリー人で殺し屋たちがアルバニア人なのも覚えておこう。
わが国でこの種の試みをする人々に期待したいところ。

さて。

明日まで仕事でその後は9連休。
これといった予定もないのでダラダラ過ごしそう。

「個人消費」を束の間増やして「経済」がうまく行っていると言いたい輩の「陰謀」。
今回の連休はそうしたものだと思っているのだが如何。
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「『入門』とは言い難い『入門書』とちょっとした映画の記憶」について

2019-04-26 03:01:15 | Weblog
晴れ。朝は雨だったと。

「雑草学入門」を半分くらい読む。

「入門」というのでもう少し素人にやさしい内容かと思いきや
ガチガチの「雑草の定義」に始まってそれぞれの研究内容が紹介され。

何だよと思いつつ読み進めた次第。
どこまでも論文調なので結構なスピードで。

エノコログサやオナモミ(ひっつきむし)などは懐かしいけれど。
かつて身近にいくらでもあったはずのそれらが消えて久しい。

とりあえず明日読了予定。

一瀬敬重「帝都大戦」(’89)を久方ぶりに観る。

正直「物語」はどうでもよく。
三十年前の俳優陣を確認したかっただけ。

加藤雅也も南果歩も若いこと。
嶋田久作は本シリーズの「加藤」が一番目立っていた。

野沢直子が窓際で撃たれるシーンの記憶は少し歪められて。
斎藤洋介は申し訳ないが忘れていて。

草薙幸二郎、高橋長英、中丸忠雄、土屋嘉男、日下武史に加えナレーションは内藤武敏。
何より丹波哲郎がいかにもいい感じ。

空襲の「リアルさ」が今にして思えば辛うじて描かれているかも。
「初期のワイヤー・アクションの姿」も覚えておこう。

特殊効果にスクリーミング・マッド・ジョージ。
美術には小さめで種田陽平の名前など。

ラブ・イズ・ブラインド」で有名なジャニス・イアンも懐かしく。
その絡みで深作欣二「復活の日」(’80)が思い出される。

当時草刈正雄は「どうやって大陸を渡ったのか」と茶々を入れられたもの。
現在のNHK朝ドラ「なつぞら」の姿のオリジナルはここにあるはず。

ボー・スヴェンソン、オリヴィア・ハッセー、グレン・フォード、ロバート・ヴォーン
チャック・コナーズにジョージ・ケネディという豪華な配役よ。

撮影は最近監督もやっている木村大作。
ついでに「you are love」も載せておく。

こういう「歴史」を語れるようになったことはうれしい。
深夜にちょいと微笑む。
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「名前によって病になった症状と生きづらさあるいは『イヤだ、イヤだ』と繰り返す『悪夢探偵』」について

2019-04-25 02:40:36 | Weblog
くもりときどき雨。夜になって上がる。

立岩真也「自閉症連続体の時代」を読む。

発達障害、ADHD、アスペルガー症候群、統合失調症あるいは高機能自閉症など。
かつては名前もなく家族が原因だと思われて。

それらが「病」だとされ「症状」も紹介されることで
「現在の自分」を把握できるようになったことはいいことである一方。

個人によって「症状の在り様」は異なる上に
「本当にその病なのか」という判定が実は微妙。

仮に「本物」であったとしても周囲の人間にとっては受け止めがたい「症状」もあり。
どのように「共存」していけるかについてあれこれ考える内容。

いずれにせよ「普通に仕事をすること」が難しい以上
「生活を維持できる手段」を提供するのは重要なのは確か。

「人付き合い」が苦手ならそうでない仕事で収入を得られるように。
もっとも「感情労働」が多くなった現在では厳しいところも。

ある種の「ハンディキャップ」を抱えた人々がどう暮らしていくのか。
「病者」だけでなく障害者や貧困家庭あるいは公害や災害、犯罪被害者についても同様に。

「スポットライト」が当たるにふさわしい「物語」だけが好まれるのでは仕方なく。
「病者であることの証明」や「個々の事情」が「当事者間の分断」を生み出すこともあり。

実に複雑な問題をピンセットで薄皮を剥がすような手付きで語る著者の文体は
その魅力ゆえに読者を「立ち止まらせる部分」が少ないという「危惧」なども。

もっとも「どういうところに問題が潜んでいるか」についての指摘は大いに参考になるはず。
誰もが一度はじっくりお付き合いした方がいいように思われるけれど。

塚本晋也「悪夢探偵」(’07)「悪夢探偵2」(’08)を観る。

前者の方が内容は豊かかも。
ガタガタ震える小物と鼻を中心にうずまき型に歪む顔がコワイ。

役者としては素人のHITOMIの「睡眠不足な顔」をうまく使っている印象。
電話や歪んだ声、「エルム街の悪夢」の設定など採り入れて。

「不穏な顔」をした松田龍平はいかにも。
「イヤだ、イヤだ」と言いつつ事件の解決に協力する。

フジファブリックのエンディングテーマ「蒼い鳥」もいい感じ。

後者は女子高生の登場で「よくあるホラー感」が出過ぎなような。
イジメに遭う菊川は鈴木清順「ピストル・オペラ」(’01)でロリータな魅力を見せた韓英恵。

和風の家の階段を上って行くあたりは「呪怨」を思い出し。
「おちんちん丸出し」の男の子の映像は案外珍しいかも。

「人の考えが声になって聞こえてしまう」主人公が
同じ能力を持ち彼を憐れんで殺そうとした母親と「和解」するのがポイント。

「ビル街」を切り取ったショットの挿入はある種の「小津感覚」か。
「怖いものだらけの黒い絵」のあとに「光の粒が溢れる『天使』の絵」が出てくる。

このシリーズで続けて出る「近所の子どもたち」も印象に残る。
ただし「お兄ちゃん、いなくなっちゃいそうな」と泣く演出はいささか「やりすぎ」。

宙に浮く女の幽霊に「工夫」が。
その正体をお楽しみに。
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「ちょっと『覗き見』することあるいは『人間万事塞翁が馬』であること」について

2019-04-24 02:08:29 | Weblog
くもり。少し蒸す。

加藤典洋・高橋源一郎「吉本隆明がぼくたちに遺したもの」を読む。

残念ながら吉本隆明のいい読者ではないので詳細は不明。
ただふたりが「周囲とは必ず違う視点からものを言う」というのにふむふむ。

呉智英は「吉本隆明という『共同幻想』」で批判していた一方
「支持者」だとこういう内容になるのねという感じ。

本来は著作を読んで判断すべきだが今のところあまりその気にはなれず。
「ある時代に相当な影響力を持った人」という事実を知るのみ。

いちおう「両サイドの意見」を見てみたかっただけ。
本当にただそれだけ。

「わからないもの」を「わからない」と思うのか「それゆえに魅力的」だと思うのか。
二者を分かつものはいったい何なのだろう。

個人的には前者のタイプ(だと思う)。
「ご縁」があればまたいつか。

若い女子に「進路」について相談を受ける。

選択肢は4つありそのどれを選ぶべきかと。
ちなみに彼女は看護師を目指していて。

とりあえず「評判は悪いが給料はいい」のは捨てろと言う。
「いたずらにいい給料」には「罠」があると。

おそらくは「人の出入り」が激しいので
「いい給料」を提示することで「人集め」を狙っているはずだと。

残りは3つ。

第一希望は人気があり「競争率」が高いとのこと。
ただしそこに受からないと彼女の避けたい第三希望に行くことになり。

第二希望の条件は第一希望よりやや劣る。
要は「お金の面」だったり。

「事前に100%確実にわかることはないのであとは君の決断次第」だと言っておく。
身を捩って迷う彼女の姿が表しているのは「人生がギャンブルであること」。

「どういう人を選びます?」と聞かれたのは
彼女が「好まれるキャラクター」を演じるつもりだったのか。

「『大人』を舐めたらいかんな」と答えて。
「現場をこなしている人にはすぐバレるよ」と。

「おそらくいろんな経験を積める場所が望ましいことだけは確かだね」で終わる。
「貴重なご意見ありがとうございました」と帰って行ったのだけれど。

自分が今やっている仕事は
若い頃「決してするまい」と思っていたものであることを伝えるべきだったかも。

「人間万事塞翁が馬」。
何が幸いするのかはやはり誰にもわからない。
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「北に生まれた人のスタイルと北欧の『豊かさ』あるいは『陰翳と黒の魅力』」について

2019-04-23 02:30:15 | Weblog
晴れ。夏の暑さ。

西部邁「保守の遺言 JAP.COM衰滅の状況」を読む。

語源を明らかにしてそもそもの意味を教えてくれる文章が素敵。
敢えて「核武装」を解くことの意義を忘れずに。

「オーソドックスここにあり」といった内容で
「オーソドックス」はギリシャ語「オルトドクシア=正しい考え=正教」から。

「正しいこと」を説くなら「負け戦」であることを基本にというのにふむふむ。

「デモクラシー=民衆政治」はやがて「オクロクラシー=衆愚政治」に変わる「必然」。
さらには「オリガキー=寡頭政治」や「プルトクラシー=金権政治」を通じて。

最終的には「専制君主」による「独裁政治」に至るのだと。
「民主主義」がそのような「危険な制度」であることを意識するのは重要だろう。

「最適な制度」などない以上いかに「バランスをとるか」が大事なことも。
それを維持するためには「共同体」が大切なことも同様に。

周囲の状況を慮りつつ淡々と自死に至る「スタイル」よ。
何とも「粋なパーソナリティー」なことは確か。

この「美学」と「教養」は何としても受け継ぎたいもの。
「絶滅危惧種」並みの「貴重さ」だと思われるので。

深夜「世界はほしいモノにあふれてる」の再放送を観る。

前回に引き続きデンマークの「ヒュッゲ」をもたらす照明について。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」を持つ国の住人としては何ともはやといった趣き。

コンビニに代表される「異様な明るさ」はカラカラに乾いていて
「穏やかな明かり」がもたらす「親密さ」を遠ざける「当然」。

「焚火」に魅入られることを知っていながら
それを身近なものにしない「現実」を問いたいところ。

「陰翳」は「互いの境界線」を曖昧にするものであり
それゆえ普段とは異なる「親密な空間」を生み出すというのに。

日照時間が短く寒い冬に覆われるかの国ゆえの「豊かさ」を知っておこう。
「微妙な光の具合」を知り「豊かな色彩」を求めるのが「常識」である国の文化を。

「ヒュッゲ」という「ホームグラウンド=安心できる場所」があるからこそ
人々は仕事に精を出すこともできる。

いつでも「帰れる場所」があることは「冒険」の気持ちも支えて。
この「当然」が忘れ去られて久しいのがわが国の現在。

個人的には「夜を生きる者」であったりするので
悪いが昼間は「世を忍ぶ仮の姿」だと思っていただいて結構。

さて。

黒はあらゆる色を際立たせる色。
もちろんそれを濃淡で描く水墨画の美しさも。

線の自在な躍動と幾何学的な配列。
いずれも楽しむことのできる「環境」を生きたいものではある。
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「『コミュ障』は既成への批判であることあるいは『正義』のかけらもない司法の現実」について

2019-04-22 01:55:15 | Weblog
くもり。上着いらずの暖かさ。

夕方底の減った靴を直しに近所のホームセンターへ。

日曜ゆえか「1時間かかります」と言われしばらくブラつくものの帰宅。
結局自転車で2往復することになる。

その間にそそくさと夕食など。
蕗の煮物が味わい深い。

貴戸理恵「『コミュ障』の社会学」を読む。

「不登校」がむしろ「従来の学校のあり方への批判」になるというのに納得。
とはいえ「既成の『レール』」からいったん外れるとその後は難しいこともあり。

「当事者」の経験を「モデル」にしてしまう「危険性」も同様に。
それぞれの「事情」があり「当事者でない者の考え」を排除しがちになるから。

ここでも浮かび上がるのが「最低限」。
「自分の生きたいように生きさせろ」というのは「当然の権利」。

「普通であること」を基準に「わがまま」にされるのではどうしようもなく。
「我慢」を強要したところでどうにもならず。

「新しい道」を作るのには常に困難が伴うけれどやるしかない。
そのためにあらゆる知恵を総動員したいもの。

マル激を観る。

今回のゲストは「冤罪弁護士」の今村核。
以前にNHKのドキュメンタリーを観ていたのである意味「お馴染み」。

「人質司法」についてあらためて。
そもそも現在の司法が「自らの出世のためなら冤罪もOKな世界」であることを忘れずに。

上司から「まだ自白は取れないのか」とせっつかれてその怒りを被疑者にぶつける検事の姿は
どう見ても「ブラック企業の中間管理職」。

彼は仕事を辞めてその事実を明らかにしてくれたのでありがたいのだが。

国連で自国の「中世ぶり」を笑われ「シャラップ!」と言った「外交官」がいたという事実も。
その言葉が何を意味しているのかをわかっていたのかさえ疑わしい「ダメさ」よ。

わが国の現在は場所を問わず「ブラック企業」だと思っていい。
「途方もないバカ者たち」は君たちをいたずらに「追い込む」ばかりで。

カルロス・ゴーンの「現在」がわれわれにいつ降りかかってくるかわからない。
せめて「検察の生み出した『冤罪の歴史』」は知っておこう。

一度逮捕されたら23日間拘留される事実が間違いなくあり。
「怒鳴られ」「懐柔され」を繰り返してあまりの「非現実ぶり」に調書にサインさせられ。

「軽い罪」ならむしろ「やってもいないこと」を認める方がラクになれるので
ウソの自白に追い込まれる現実はすぐそこにある。

「弁護士の立会い」もないまま23日間の「取り調べ=脅迫と懐柔」を受ければどうなるかは明白。
ましてその内容は「都合のいい編集」の出来る「録画」しか許されていないのだから。

どう考えても「拷問」でありを海外の人々はその現実を「中世」だと言っているだけ。
「シャラップ!」と言うべきは司法関係の人々に対してではないのか。

かくも「世はいかさま」。
それを決して報じないマスコミは「ハイエナ」どころではない。

繰り返すが「これが現実」。
そろそろ「底抜けの姿」を誰もが知る時が来ているのだと思いたい。
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「今ひとつ乗り切れなかった切り口と『寄らば斬る』こと」について

2019-04-21 01:48:39 | Weblog
晴れ。おだやか。

「精選漢詩集 生きる喜びの歌」読了。

後半は「趣味の喜び」「四季折々の自然の喜び」「老いの喜び」。
残念ながら今ひとつ著者の思いには乗り切れずに終わる。

杜甫の詩が「ほぼ絵画」であることには大いにうなずきつつ。
おそらく別の機会に読めばまた感想は変わるのだろう。

さて。

特定の「技術」を学ぶ上で教える側と教わる側がいるとしよう。
後者が前者のそれを「受け入れない」という意味が不明。

そもそもその「技術」を学びたくないのなら学ばなければよい。
それだけのことなのだが。

「学びたい」と言いつつ「妙な自己主張」をするのは何故か。
自分の好きにすればいいのに。

敢えて言うなら「頭の悪い者」に限ってそうなる。
何故か無根拠に「自分の感覚」を「絶対のもの」にして。

繰り返すが好きにすればいい。
「学ぶ気もない」のに「学ぶフリ」をするのはよしてくれ。

「現在の自分がすべて」だというのはいかにも「愚か」だけれど
この世には「愚行権」というものもある。

勝手にしていただければ結構。
ただし「寄らば斬る」。

悪いがそのような存在に付き合うヒマなどない。
時間もエネルギーも無駄になるだけだから。

もっとも「何事かを学ぶ上での基本姿勢」も知らずに育ったのは
「バカな大人のせい」でもあり。

「世界にひとつだけの花」というのが案外「厄介なもの」であることを知ろう。
すべての花が「美しい」はずもなく。

というわけで「さよなら」。
ご縁がなかったということでよろしく。
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