退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「好ましい場所」について

2016-01-31 02:24:51 | Weblog
『くもり。だったか。』と書いて昨日は寝る。

快晴。2週間ぶりの図書館。

小沼勝「わが人生 わが日活ロマンポルノ」を読む。

カバーには「花と蛇」の谷ナオミの両腕を縛られたスチール。
通勤に持ち歩くのはいささか憚られるゆえ帰りのドトールで読む。

日活が「ロマンポルノ」をやっていたのは71年から88年まで。
監督たちがそれぞれに腕を見せる場所だった。

白川和子、小川節子、片桐夕子、田中真理、宮下順子、山科ゆり、谷ナオミ
小川亜佐美、小川恵、風祭ゆき、松川ナミなど女優陣も多彩で。

やはり映画に関わる人々の熱気は何とも楽しく
青春時代の思い出も相俟ってグッド。

今となっては思いもよらない「経験」もあれこれ。
「束の間の自由広場」とでも言ったらいいのか。

「付き合うのもめんどくさい」という現代の若者たちには
逆に大いに刺激になる作品群であることは確か。

さて。

今年の全豪オープンも終了。

個人的にはラオニッチの将来性に惹かれた次第。
ジョコヴィッチの黄金時代はまだまだ続く模様。

マレーの青さとフェデラーの円熟が交わる試合を観たいもの。
ランキングは2位と3位らしい。

どこの世界でも次から次へと新しい才能が出てくるのにニコニコ。
「まっとうな競争」さえあればそれは「自然なこと」であり。

「ルール」が共有された上での争いは見応えがある。
そこには「インチキ」が介在する余地がないから。

もちろんスポーツの世界でも「インチキ」がなくはないことは承知の上。
それでも他の世界と比べるといやはや。

とにかく。

素晴らしいものを観るのは心にいい。
対象が何であれそれだけは確かなこと。
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「野暮であることと複雑さ、あるいは見送ること」について

2016-01-30 02:36:40 | Weblog
雨。夜遅くに止む。

今頃高田純次「適当論」を読む。

精神科医和田秀樹による「解釈」。
本書がそこそこ売れてから十年になるらしい。

昔はこういうことをすると「野暮」だと言われたもの。
そのまま「おかしな人」でいいのに。

おそらく和田はそれを承知の上で敢えてしたのだろう。
「人の複雑さ」が理解されにくくなっている「現実」を意識したという見立て。

あるいはあらためて「適当=良い加減」であることを
具体的な人物をもとに説きたかったのか。

この「残念さ」は「笑い」を解説することに似ている。
「理に落ちること」はむしろ「笑い」を遠ざけるから。

「良い加減」を訴えたくなる気持ちの底にある「生真面目さ」よ。
かくして「人は複雑だ」というあたりに落ち着くはず。

「ないものねだり」が「人の基本」だとするとわかりやすいのか。
長所と短所が表裏一体であることをあらためて思わせる内容。

さて。

明日は仕事場の研修で老舗バーは「お休み」。
結局そういうことになる。

あれこれ思いついてはブレーキがかかるのが自分の「スタイル」。
どうにも「腰が重い体質」のよう。

「物語」という意味からすると今まであれこれあったのだけれど
なぜかそれを「遠ざける」ことに。

何にせよ「見送り」が得意なのだということで。
偶然は偶然のままに。

そこに意味を見出さない姿勢に変わりはなさそう。
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「まだ踏みもみずの土地と音楽」について

2016-01-29 02:17:03 | Weblog
晴れのちくもり。あたたか。

仲村清司「住まなきゃわからない沖縄」を読む。

沖縄の「異国ぶり」を伝えた内容。
オリジナルは2000年文庫は2004年に出たもの。

もう16年前になるので今はさらに変化しているはず。
ちなみに沖縄には一度も行ったことがない身。

もっぱら親しんでいるのは音楽のみ。

すでに解散して久しいコイナと上間綾乃。
思い出したように何度も聴いている次第。

後者はメジャーデビュー以降より以前の方が生き生きしている感じ。
繰り返すが好きなのは「ハリクヤマク」と「PW無情」。

これだけの才能があるのに全国的に売れないのは不思議。
もっともこちらが詳細を知らないだけだったらすまん。

前者についても同様。
わかりやすい「世願ぇ うない神ぬ祈り」を再び。

いずれもyoutubeの再生回数は十万か一万単位そこそこ。
「ブレイク」するために必要なものは何なのだろうとあらためて思う。

CMソングあるいはドラマの主題歌にでもしないとダメなのか。
もちろんそれをこなせるだけの力はあると思いつつ。

由紀さおりがピンク・マルティーニに見出されたような「出会い」があれば。
国内なのだからどうにでもなりそうな気もするのだけれど。

どうやら「回路」が足りない模様。
いっそ海外に期待する方がマシだとしたら残念なことだと言うよりない。
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「肩透かしと文脈と顔」について

2016-01-28 02:51:07 | Weblog
晴れ。やや寒さが戻る。

石黒圭「『読む』技術 速読・精読・味読の力をつける」を読む。

どんなものかと思って買ってみたものの
「目からウロコ」はなしで残念。

自分がどうやらすでに持っている技術を
「分析用語」であらためて解説された感じ。

それはそれとして。

電車の車内で端の席が空いたのに気付いた女子中学生が
友人の男子を手招きしたところ。

杖を持ったおばあさんがいるのに気付いて遠慮し
ついでに連れのおばさんに席を譲ろうかと立ち上がりかけたのだが。

「あー、いーいーいーいー」

おばさんは甲高い声で母音ふたつのみのお答え。

「?」に対して「!」で答える「古典的な伝達」もあるけれど
これはこれで面白いものだと思いつつ。

ここに「味気ないアダルト・ビデオ」という「文脈」を加えると
また違った味わいなど。

唐突に「あえぎ声」について考えてみると
「あ・い・う・お」はあっても「え」がないことに気付く。

地域限定であれば「え」もあるのかどうか。
詳細は関係各位におまかせ。

「えー」と書けば通常は「始まりや驚きあるいは反対」を表し
「ぇぇ」とすれば「同意」を表すのが「通常」だとしておいて。

深夜NHKで「ちかえもん」を観る。

優香や早見あかりがきちんと関西弁をこなしているのにふむふむ。
松尾スズキのモノローグはいかにも。

脚本・藤本有紀の力が感じられる。
ちなみにNHKの朝ドラ「ちりとてちん」はこの人が書いたらしい。

いけずなおかみの高岡早紀のメイクがいい感じ。
他に岸部一徳、富司純子、北村有起哉、青木崇高、小池徹平、山崎銀之丞ら。

これだけのキャストを揃えればそれなりの作品になるのは間違いない。
個人的には「あさが来た」で初めて意識して観た山崎銀之丞の「大衆演劇顔」が好き。

舞台ではつかこうへい作品にも出ていたようで
その存在をきちんと知らなかったのはこちらの不勉強のせい。

ちょいと「天知茂」な雰囲気もあり
「明智小五郎」など演じてみたらと勝手なことを。

もっともすでにその種の役は演じているのだろう。
おそらく「絶滅危惧種の顔」なので大切にしていただきたい。
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「政治家と歴史」について

2016-01-27 02:11:49 | Weblog
晴れ。寒さは緩む。

林芳正・津村啓介「国会議員の仕事」を読む。

副題にウェーバーの著作のタイトル「職業としての政治」。
政治家が普段何をしているかがわかる内容。

発行は震災後だけれど書かれたのは震災前。
このふたりの関係は現在どうなっているのだろう。

今となってはいずれの政党もその「凋落」が著しいような。
もっとも「まともな政治家」を育てられないわれわれの問題でもある。

深夜NHK「新・映像の世紀 第4集 世界は秘密と嘘に覆われた」を観る。

東西冷戦の「スパイ合戦」の影響で
CIA・FBIは国の内外で秘密工作を行い。

イランではモサデク政権が倒され、国内では「赤狩り」がはびこり。
とりわけ後者ではFBI長官エドガー・フーバーが政治家の秘密を握り権力を拡大。

その一方ソ連ではスターリンが「粛清」を繰り返し
東ドイツでは秘密警察シュタージが「密告」を奨励し。

戦争犯罪と言うべき「東京大空襲」を指揮したカーティス・ルメイは
ソ連に対する原爆投下をケネディ大統領に進言したり。

「第三次世界大戦」の直前までいった「キューバ危機」。
それを回避に導いたアメリカのスパイ、ペンコフスキーの情報とソ連での彼の処刑。

朝鮮戦争終結から十年あまり後ヴェトナム戦争が始まる。
どちらもアメリカとソ連の「代理戦争」。

「ソンミ虐殺」を代表とする蛮行にアメリカで反戦運動が巻き起こり
そこにキング牧師の公民権運動も絡み。

ヴェトナム戦争が終わったと思ったら今度はソ連によるアフガン侵攻。
アメリカはそれに対しオサマ・ビン・ラディンを始めとするイスラム戦士たちを訓練して。

宇宙人の眼からすれば
「いったい何をしているのか」というほどの「愚かな歴史」よ。

その延長線上にわれわれの「現在」がある。
嗤うべきか泣くべきか。
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「便利さの裏側」について

2016-01-26 03:00:30 | Weblog
晴れ。朝には少し雪も。

慎武宏・河鐘基「ヤバいLINE 日本人が知らない不都合な真実」を読む。

国内ユーザー数が約5800万人というアプリの始まりはどうやら韓国。
もちろん急成長だけれど背後にコンプライアンス無用の企業風土も。

「閉じたコミュニケーション」によって「いじめ」を増幅している面など。
子どもだけでなく「ママ友」の間でもそうらしい。

「嫌韓」の風潮ゆえ敢えて「韓国発信」であることを避けたとも。
「東北大震災」をきっかけに開発が急がれた事情もあった模様。

個人的には使用していないのでアプリそのものに関する詳細は不明。
おそらく今後も使う予定はなく。

そもそも「いつでも連絡が取れるという道具」そのものが煩わしく
普段はガラケーの電源さえ切っている時間が長いというタイプなので。

「四六時中つながること=コミュニケーション」という前提に立てば便利なのだろうが
「既読の有無」によってリアクションを強制されるのはめんどくさいのみ。

「いつでも連絡が取れる=こちらの事情に関係なく踏み込まれること」だと思えば
その「鬱陶しさ」もわかろうというもの。

警察や消防のように「緊急出動」が要請される仕事ならまだしも
そうでないのにもかかわらず「同じ環境」にいる意味が不明で。

「付き合い方を十分に考えるべき道具」であることは確か。
いたずらに「コミュニケーションを広げること」が犯罪につながることもあり。

言語あるいは表現能力、感情の劣化を思えば「有害な面」も少なくないはず。
面と向かっていないだけに表現も過激になりやすく。

あらためて「他人との距離感」を思ってみてもいいのではないか。
もちろん「役に立つ使い方」があることは否定しないけれど。

「友だち地獄」に否応なく放り込まれる前に
「干渉されない自由」という視点を思い出そう。

電話のベルは無視することができるが「既読」はそうはいかない。
「グノシー」とやらはそれをテクニカルに解決する宣伝を盛んにしていたけれど。

繰り返すが「手近な便利さ」に溺れるとロクなことがない。
その種の「危険性」については十分に知っておきたいところ。
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「身近なことと縁遠いこと」について

2016-01-25 01:56:01 | Weblog
晴れ。寒い。

土曜日はまた老舗バーへ。

ジンのボトルを入れて飲むものの
なぜかいつもよりやや回りが早かったか。

店に行く前に珍しくちょいと腹に食べ物を入れたのに。
アツアツのオニオングラタンスープは美味だったけれど。

マスターがまたあれこれ本を見せてくれる。
歌舞伎や文楽にも詳しいようで勝手に「お勉強」させてもらうつもり。

次週は仕事場の研修がある。
ただ店の若者が最後の日だからいちおう顔を出そうか考え中。

今日は午前中に起きて昼からクインビーへ。

片付けはそこそこ進んでいてふむふむ。
居抜きで借りる人がいるらしく少しは負担が減ったようでグッド。

途中からマスターのお子が奥方とともに登場。
ポテトフライやピザをつまみながら彼の「独演会」に付き合う。

あらためて子どもの「パワー」を間近で見て確認した次第。
子育ては大変だとつくづく思う。

結局閉館後の図書館で本を返すだけで終わる。
今週は毎日古本屋に行くことになりそう。

マル激を観る。

ゲストは経済学者の小黒一正。
わが国の国民の税負担が軽く「財政破綻」が目前であることにふむふむ。

そうした「現状」を伝えるにはマスコミがどうしようもなく
その「情報」を個人で受け取るしかないわれわれの「ひよわさ」なども。

ここでも「現実」を受け止められない「事実」が。
「経済の成功」で「政治的資源」を得てきた自民党の「歴史」も明らかに。

ただしそれがうまくいかなくなってからが問題。
アメリカを「お手本」にしたものの「理想」が「貪欲」にとって代わり。

損得を抜きにした「まともな判断」を教えてくれる者が必要だと。
ただしわれわれの民度はあまりに低い模様。

その「ツケ」を回される若者たちよ。
ジジイどもを蹴散らせ。
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「市場とザル法と震災あるいはバー」について

2016-01-23 01:28:41 | Weblog
『晴れ。風はなし。

「市場社会と人間の自由」読了。

「市場」というものが実は歴史的に限定された存在であること。
そしてそれが人々の自由を奪うものであるかもしれないこと。

われわれがあくまで「自由を望む者」であるなら
それを基本に生活や社会のあり方をあらためて見直してみるのもいいはず。

「安楽な生活」を「当然のもの」とするのを「最低限」として
そこから周囲を見回して考えてみる機会は必要。

わが国ではとかく「余裕」がなさすぎる。
「仕事」しかできない人生を振り返ってみてはいかが。

深夜国谷裕子のいなくなった「クローズアップ現代」を観る。

「内部告発者」については「公益通報者保護法」があるものの
辞職してからの告発は認められず告発された側の「報復」についても罰則がなく。

専門の行政機関もなければ専門家もいないというありさま。
こんな役に立たない法律をいったい誰が作ったのだろう。

敢えて危険を承知の上で「悪事」を告発した者が
いたずらに報復に苦しむのみだなんて。

「正直者がバカをみる」ことを放置していると
「生活を守るため」に誰もが「悪事」を見逃し続けることになるのは必定。

すでにわれわれの社会は「底が抜けている」という事実を認めることがスタート。
「平気で悪事を働く人々」を前提に対処しないと。

ここでも「昭和幻想」がはびこっている。
かくも「現実認識」が難しいことは知っておきたいもの。

引き続きNHKスペシャル「震度7 何が生死を分けたのか」を観る。

阪神淡路大震災における「圧迫死」は「窒息死」であった模様。
肋骨が折れない程度の圧迫でそれは起きてしまうのだと。』と書いて昨日は寝る。

晴れ。冷える。

本は読んだものの今ひとつ。
敢えてどうこう言わない方がよさそう。

クインビーのマスターにメールを打つ。

おそらくは片付けその他でゴタゴタしているはず。
落ち着いたら会いましょうという内容。

明日は老舗バー2回目の予定。
とりあえずジンのボトルを入れて飲むつもり。

ボトルが原価というサービスなので
それ以外にどうやって儲けるのだろうといささか疑問。

食べ物はあまりなさそうなので
合間にショットでスコッチを頼むことにするか。

ただ昔ながらのせいか椅子に背もたれがないので
常に「正気」でいなければならないのはいいのか悪いのかといった感じ。

まああれこれ思うより行けばわかる。
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「好ましい人格と付き合うこと」について

2016-01-21 02:27:51 | Weblog
晴れ。朝方に降った雪が残る。

カール・ポランニー「市場社会と人間の自由」を半分くらい読む。

意味がわかる部分とそうでない部分があれこれ。
統計で「生産手段」は見通せても「欲求と労苦」については見通せないと。

今となってはそうでもないかもと思いつつ。
当時の「統計=産業に関するもののみ」という意識が垣間見えた次第。

「商品と貨幣」だけの付き合いでは「人格的な交わり」がないというのにふむふむ。
そもそもそうしたい相手がそんなにいるのかという問題もあり。

もっとも「顔の見える範囲」で暮らせば現在でも可能で
そういう「小さな集団」が増えることは重要。

「リアルゲーム」としての「街づくり」を考えたときに
近所に信用できる肉屋、魚屋、八百屋、米屋、パン屋などがあるといいかも。

喫茶店や飲み屋を代表とする「集まれる場所」も必要だろう。
気心の知れた仲間になれれば幸いということで。

ある意味「閉じられた空間」ではあるけれど
どうやらそこから始めるしかない模様。

出来る限り「好ましい人やモノ」を集めること。
その「好ましさ」が互いに合えば。

各地でそういう動きがあってそれがさらに重なること。
「遠回り」だとしてもじっくり確実に。

さらに繰り返すが「人材」を見逃したくないもの。
おそらくは「埋もれている人々」がいるはずなので。

「役割分担」をしながらゆっくりと「前」へ。
「腰を据えてかかる」態勢をととのえて、いざ。
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「残念な事ふたつ」について

2016-01-20 02:02:53 | Weblog
晴れ。今シーズン一番の寒さ。

「考える人」編集部編「伊丹十三の映画」を読む。

「お葬式」(’84)「タンポポ」(’85)「マルサの女」(’87)
「マルサの女2」(’88)「ミンボーの女」(’92)「スーパーの女」(’96)。

観たことのある作品はそれだけ。
あらためて「~の女」というタイトルが多いことに気付く。

伊丹十三を知ったのはおそらくエッセイが最初のはず。
「ヨーロッパ退屈日記」「女たちよ!」「問いつめられたパパとママの本」

「再び女たちよ!」「小説より奇なり」「日本世間噺大系」など。
そう言えば橋本治の初期の随筆集成はこのタイトルを真似ていたはず。

俳優としては「北京の55日」(’63)「日本春歌考」(’67)
「草迷宮」(’83)「家族ゲーム」(’83)。

実に多才な人ではあったけれど
自らを「からっぽ」だと思う一面もあったらしい。

映画を作る以上はヒット作にしないといけないという考えに縛られすぎたかも。
彼はそれをきちんと実行できる力を持ってはいたものの。

津川雅彦の「復活」、小林桂樹の「軽味」を引き出し
数々の俳優たちを世に送り出した功績は素敵。

もう少し生きてまた違ったタイプの作品を作ってもらいたかった。
おそらくはそこに「本領」が表れたはずなので。

仕事場で。

若い女子の同僚が「今日は閉めるんですか」と聞くので
「今日は寒いし手伝ってくれなくていいよ」と答える。

問題はその後。

「君にやってもらうのはいささか気が引ける」といったようなことを言ったのだけれど
これが大失敗。

彼女は「小さい人」なので重い物を持たせるのはどうかと思っていたところ
「わたしは『小さいこと』にアイデンティティーがあるんです」と言われ。

「なるほどそういう考えもあるのか」と答えはしたものの
やらかした感が濃厚で。

「余計なお世話」が彼女のプライドを刺激した模様。
やはり自分はどこか「圧倒的に鈍い」ことを再確認する。

この一点だけは昔から変わらず。
やれやれと思いつつ付き合っていくしかない。
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