退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「自分の基準のみに従わないこと」について

2015-05-31 01:48:53 | Weblog
晴れ。蒸し暑い。

今宵もクインビー。

マスターとあれこれ話しているうちに思いがけず知り合いの夫婦が来る。
普段は月イチのはずが彼女の休みがたまたま日曜になったせい。

いつものように飲んでいたところ彼女の「エンジン」に火が付き
とりあえず「受け止める」。

「ふたりの関係」について新たな情報が入ってふむふむ。
「占い師できますよ」と太鼓判を押される。

「お代はボトル一本ってことで」と答えたところ
「でもそんな気ないですよね」と言われて「ウイ」。

気が付けば終電の時間でちょいと走る。
帰宅後買いもしないダービーの予想などして飲み直している次第。

その他にもお客さんはそこそこ。
自らを「迷える子羊」だと思う方は是非お出でいただきたい。

少なくとも「わが国の首相」のような「意味不明かつ品性を疑わせる発言」はせず
ひたすら「意味ありげな発言」に終始するはずなのでよろしく。

彼とも話した中で思ったのは
「ネジがはずれた人」に対してはこちらも「ネジをはずした方がいいかも」ということ。

要は「こちらの基準」に対して相手は「無知あるいは気付いてない」ので
「ここで言うのはどうか」と思う前に「言った方がいい」かもしれないこと。

「自分」をそのまま相手に「投影」するのが間違っているのは「事実」。
ならば「予想外の展開」を期待しつつ言ってしまうのがよさそうだったり。

少なくとも「どうせ伝わらない」のだったら試してみる価値はありそう。
ここでもやはり「ひきこもり」はよくない。

てなわけでもう少し飲んで寝る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「多様性」について

2015-05-30 02:52:48 | Weblog
晴れ。やや蒸す。

今日はいつもと違う仕事場に行く。

ローカル線の普通電車に乗ると気分は「遠足」。
目的地の途中にちょいとオシャレな喫茶店があってそこでしばしゆっくり。

その後淡々と仕事をこなしていつもより早く帰宅。
夜のローカル線は「哀しい」ことをあらためて確認する。

「ハンナ・アーレント『人間の条件』入門講義」読了。

著者は何より「複合的=複雑なものはそのままにというスタイル」で読んでいる。
その「豊かさ」を味わうのみ。

この「入門シリーズ」は出来るだけ読もうと思った次第。
もっとも「怠惰」が基本ゆえどうなるかは不明。

引き続き群ようこ「ヒヨコの蠅叩き」を読む。

いわゆる「女子的な素振り=ブリッ子」が嫌いな女子が
家族に振り回されつつなぜかそれを本気で拒否しない不思議なお話など。

オリジナルは16年前。
現在は娘にとって母が「重すぎる」話が多いことに「時代の変遷」を感じる。

著者の姿勢には「結局面倒みるしかないじゃない」という雰囲気が濃厚。
その「常識」はおそらく今では通用しないのだろう。

実は単純な話で「生物学的な距離」と「精神的な距離」が違うだけ。
それを「家族」という形で強引にまとめるのが無理筋。

もちろん「幸せな家族関係」があることを否定するものではない。
「すべてをそれでまとめるのは不可能」だということ。

どうやらポイントはここでも「多様性」。
「幸せのかたち」を「ひとつ」にすることが間違っているだけ。

「同じかたち」でなくていい。
人はいろんな風に「幸せ」になれるはず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史と由来」について

2015-05-28 02:15:27 | Weblog
『晴れ。30度超えでも夜風は涼しく。

越澤明「東京都市計画の遺産 防災・復興・オリンピック」を読む。

都市計画の在り様ひとつで「街並み」が変わることをあらためて知る。
「路面電車」のよさも同様に。

「都市計画の挫折」が「木造密集市街地」を生み出し
救急車や消防車の入れない「マイナスな土地」を作ってってしまう模様。』と書いて昨日は寝る。

晴れ。夜はやはり涼しい。

仲正昌樹「ハンナ・アーレント『人間の条件』入門講義」を読み始める。

英・独・ラテン語を中心とした「語源」の確認と
関係人物や著作に関する「教養」を背景にした「解釈」が凄い。

なるほど「読む」というのはここまでやることなのねと思った次第。
もちろん「講義」なので著者の頭には当然それ以上のことが入っているわけで。

この「レベル」を知ってしまうと「迂闊なことは言えない」と思いつつ
相変わらず「怠惰なかたち」であれこれ思ったり書いたりするのだろうなと感じた次第。

あれこれ「歯が立たないこと」はあるけれど
「ヨーロッパの言語の類似と相違」を知ることが出来るのは楽しい。

「言語の由来」は「元々あった思考の由来」でもありそう。
それらがいつのまにか「失われてしまう事実」も覚えておきたいもの。

とりあえず「詳細」は著者におまかせするとして
明日読み終えた後が楽しみ。

妙な言い方ではあるものの
こういう人がいると「安心してバカが言える」。

いつものように勝手ながら今後もお付き合いをさせていただく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「音楽を楽しむこと」について

2015-05-27 02:16:00 | Weblog
晴れ。30度超えの割りに暑さはそこそこ。

円堂都司昭「ソーシャル化する音楽 『聴取』から『遊び』へ」を読む。

クラシックなら演奏会に来た聴衆は静かに聞くものだけれど
ライブあるいはフェスでは聴衆も一部「演じる」存在。

DJは他人の曲を組み合わせ「N次創作」された「ボーカロイド」がいればAKB48もいる。
すでに死んでしまったアーティストたちとの「共演」も出来るようになって。

「エア〇〇」といった形でもはや「楽器を演奏できること」が「条件」ではなくなったり
いわゆる「口パク」も認められて。

技術の発達あるいは音楽と映像もしくは「物語」の結び付きによって
音楽は文字通り「楽しむもの=遊び」になったらしい。

要は「ジャンル」にこだわって「聞くべき曲」などあれこれするより
それぞれの「好み」にしたがって好きにすればいいということか。

もっとも「圧倒的な才能」というものがあるのも確かで
従来通りに「アーティスト」を選んで聞くのもまたよし。

とにかく自分に響くものを楽しめばいいだけ。
多種多様な音楽に触れる方が個人的には楽しそう。

ただし。

人は「肯定」より「否定」が得意なので
ついついそちらに走りがちになるのは気をつけたいもの。

対象が何であろうと「途方もない肯定」を目の前にすると
「何じゃそりゃ」とよくも悪くも興味を惹かれる。

そうした中で「新たな出会いと別れ」があるのが「普通」だということにしておく。
「判断基準」としての「自分」が変わることもお忘れなく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「視野」について

2015-05-26 02:59:45 | Weblog
晴れ。暑さはそれほどでもなし。

鎌田浩毅「マグマの地球科学 火山の下で何が起きているか」を読む。

岩石の「密度の差」がマグマが上昇する原動力だというのにふむふむ。
地球内部の化学反応によって異なる岩が生み出され「運動の源」になるとは。

マントルの主成分である「カンラン岩」が「部分溶解」したものを「ダイアピル」という模様。
それが「マグマだまり」から上昇してやがては噴火をもたらすという「仮説」も面白い。

著者の文章には「センス・オブ・ワンダー」がある。
言い換えれば「本気で驚いて面白がっている」ということ。

おそらくはそれこそが人を動かす「マグマ」だったりするのを忘れずに。
「受験」のせいで「地学」が疎かにされている「貧しい現実」を吹き飛ばす力はありそう。

「数百万年前」など「当たり前」という時間感覚は
「目先の利益」にしかない人々にとっても刺激になること請け合い。

われわれには気の遠くなるような時間の経過があり
それを確実に「我が身」に刻んでいるのが「地球」だったり。

英語で火山を表す「volcano」はローマ神話の火と冶金の神「ウルカヌス=Volcanus」が語源。
「ガイザー」は英語で「間歇泉」を表しアイスランドの地名「ゲイシル=Geysirs」が元など。

「複雑な世界」は多種多様な「プリズム」によってこそ表現されるもの。
生物の世界だけでなくここでも「多様性」が大事。

さて。

「脳内ひきこもり」が得意な若者たちの「視野狭窄ぶり」はある意味スゴい。

目の前にある「動かないもの=活字」を十分に見ることもせず
特定の単語を拾って意味を解釈する。

あるいは「ちょっと前がそうだったから」という理由のみで
全く異なる「問題」を「同じ方法」で解こうとしたりするのだからいやはや。

例えば「abcde」という文字の列があったとして
彼ら彼女らの目に「bcde」しか映っていないのはよくあることで。

その種の輩に言うのが「車の免許は取ってもいいがペーパー・ドライバーで居続けろ」。
もちろんその理由は「必ず人身事故を起こすから」。

それに対する返事はいつも「だいじょうぶ」。
「自分に言い聞かせるんじゃない」と即座に突っ込む日常よ。

只事でない「退化ぶり」には苦笑するよりなく。
「地球人のマネをするならもっとうまくやれ」と「エイリアン扱い」をしてやり過ごすよりない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どん底であること」について

2015-05-25 01:34:05 | Weblog
晴れ。おだやか。

昨日は恒例のクインビー。

最初はマスターとマンツーマンだったのだけれど
あれよあれよという間にほぼ満席になる。

忙しく働くマスターを横目に何やらニヤニヤしつつ
ニューボトルなど入れて静かに飲む。

毎日こうでないとしても
せめて週末はこんな調子であってもらいたいもの。

ちょいと余裕をもって店を出て帰宅後爆睡した次第。
繰り返すが心ある者は一度お出でいただきたい。

仲正昌樹「精神論ぬきの保守主義」を読む。

ヒューム、バーク、シュミット、トクヴィルなどについての「解説」。
いずれもきちんと読んだことがないのでありがたい限り。

わが国で「議論の蓄積」が受け継がれないのはなぜなのだろう。
それが「劣化の原因」ではないかと思ったり。

「NHKスペシャル 自衛隊の活動はどこまで拡大するか」を観る。

中谷防衛大臣は憲法学者木村草太の「まともな質問」をはぐらかすのみ。
元内閣副官房長官補の柳澤協二の指摘に対する森本敏の答えも同様。

この番組を観るだけで現政府の「デタラメぶり」がわかる。
ツイッターによるコメント紹介は「ジジイの勇ましさとオバサンの不安」といった感じ。

「議論」の上では圧倒的に柳澤・木村組の「勝ち」ではあるのだが
視聴者がどう見たのかはまた別の話。

マル激を観る。

Nコメではあらためて「特定秘密保護法」の厄介さを知る。
なにせ何が「秘密」でなぜ「秘密」にされたのかも不明なのだからチェックのしようもなく。

「普通の感覚」ではどう考えても「デタラメ」以外の何物でもないはずなのだが。
やはり安倍内閣は可及的速やかに退陣させる方がいい。

その一方。

沖縄の「本気さ」が「本土」ではあまり伝わっていない模様。
翁長知事の言っていることは実に「まとも」。

「日本の安全保障」が結局は沖縄を「犠牲」にすることでしか成り立たないなら
われわれは「腹をくくる」しかないだろう。

戦後から今までそれで「何とかなったつもり」でいられたのは
「見たくないものを見ない」ことにしたから。

言わば「本土と沖縄」が常に「オヤジと愛人の関係」であったということ。
平成も二十七年になるというのにここでもまだ「昭和」か。

少なくともこの「構図」にはいいかげんウンザリ。
アメリカに限らず諸外国と「普通のお付き合い」をしたいものではある。

「普通の国」であるためにはわれわれはあまりに「子ども」すぎる。
「専守防衛のための重武装化」に耐えられるとはとても思えない。

まして「アジア諸国」にそれを納得させられるだけの「外交力」もないし。
「まとも」であるためには「そこ」から再び「やり直す」しかないとして。

それでも再び。

上を向いて歩こう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「科学と宗教」について

2015-05-23 02:23:27 | Weblog
快晴。おだやか。

昨日は飲んでいるうちに何となく寝てしまう。
ついついすすんだということで。

リチャード・ドーキンス「悪魔に仕える牧師」を読む。

面白いかと言われるといささか微妙。
おそらく「無神論」がどう評価されるかという「環境」の違いが大きそう。

ただ「インチキなもの」がはびこっているのを見ると頭に来る気持ちはわかる。
「宗教に関して話すのはタブー」だというのも同様に。

とはいえ「マシな宗教」でもないと
人々がおかしくなりそうな予感もなくはない。

どうでもいい「自己主張」や「ルール無用の輩」は各地に見られ
情報技術の進歩によってそれらが実に簡単に「つながれる」ようになってしまった現在。

そもそも「論理」を重んじるのかどうかすらあやしい中で
それでも「論理」を説く意味はあるのかとか。

「論理」を無視するならせめて「マシな宗教」でもあればというのが正直な感想。
もっともその一方で「あらゆる宗教は邪教だ」という考えもあり。

ひとつだけ大事なことがあるとすれば
「論理」を突き詰めもしないで「論理の不確かさ」を言うのは間違っているということ。

大した「人生経験」もない人間が
言葉だけでそれっぽいことを語ってもむしろその意味が死ぬのと似ている。

その対象が「論理」でないとしても
何事かについてある程度「徹底したもの」が背後にないと。

「人を見て法を説け」という言葉とは逆に「法が人を選ぶ」ということがある。
たとえ言葉そのものは寸分違わないものであったとしても。

その人がどのようなものを評価するのかあるいはどのような手法を取るのか。
「見る目」さえあればそれでほぼ「すべて」がわかるはず。

少なくとも「科学」は簡単に捨て去っていい手段ではないだろう。
「盲信」しないための「クッション」であることは確か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「耳につく曲」について

2015-05-21 04:28:13 | Weblog
昨日あたりから。

ゲスの極み乙女「私以外私じゃないの」が耳につく。

PVはいかにも「オリエンタル」であまり好みではないけれど
好意的に解釈すれば「日本という磁場」を表したものだとも思えなくもない。

仕事帰りのコンビニからも聞こえてきたので
普段あまり音楽に親しんでいない身にまで届くなら「相当なもの」だと判断した次第。

タイトルのサビのメロディーを噛みしめているうちに
なぜか原田真二「雨のハイウェイ」を思い出した次第。

「driving all night」と歌うあたりの展開が少し「似ている」と思ったのか。
もっとも声も音程も違うしリズムの刻み方にも差がある。

話は全く変わるが
ゲスの極み乙女のドラマーの不敵な顔が素敵。

シシド・カフカとは全くタイプが違っていて
むしろ広瀬すずを「コワく」したタイプか。

もっともこのあたりはあくまで「個人的な印象」にすぎないので
とりわけ「他人がどう思うか」を気にしていないのでよろしく。

それにしてもわが国の女子たちは何とも「豊作」である一方
男子たちはいささか魅力に欠けるように思えるのはなぜだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トリアージあるいは人材育成」について

2015-05-21 02:21:36 | Weblog
晴れ。夜に強風の後雷雨なども。

酒井順子「地震と独身」を読む。

3・11の大地震では「家族」が採り上げられるのが主だったが
「独身」はどうしていたのかという著者らしい視点。

あらためて被災者たちの体験を知ると涙腺が刺激される。
「理不尽な災害の力」を噛みしめるよりなく。

ただそうした中でまたそれぞれがそれぞれの思いで動き出す。
「戦争」同様あらゆる種類の「交通=人々のやりとり」があり。

「人生や思い出がかき消されてしまう」のは
津波および原発事故のもたらす最大の「苛酷さ」。

そのことをある程度「推察」できるくらいの「想像力」は持っておきたいもの。
少なくとも「戦争」もないのに「国土」を失ったのはこれが初めてなのだから。

たとえば「尖閣諸島」や「竹島」についてあれこれ思うことがある者が
それについて全く「鈍感」であるということは「明らかな矛盾」だろう。

今も続く「未曾有の災害」をどうにか「落ち着かせる道」へと位置づけられるかどうか。
われわれの「民度」がここでも試されている。

もっともその「現実」は「見たくないものを見ない」人々にとっては見えない模様。
何度でも繰り返すがその種の人々を「代表」にしてはいけない。

「自衛隊の海外派遣」以前にすべきことはいくらでもある。
どうでもいい「怨念」や「プライド」に振り回されるのはまっぴら御免。

さて。

「トリアージ」とは
「災害・事故現場で一時に大勢の負傷者が発生した際に重症度で治療の順番を決めること」。

「現場」では「誰が一番重症か」はおおむねわかるのだが
「現場を知らない人々」にはそれがわからない。

よくも悪くも「重症な人々」が各地にいるのだとすれば
「迅速な手当て」が必要なことは言うまでもなく。

「公共の福祉」というのはおそらくそれらをきちんとやっていくことで
その種の「まともな判断」ができる人々が持っているのが「見識」。

「世界の大小あるいは複雑さ」を決めるのが「人の器」だとして
結局は「人材育成」が「未来」を保障することになると思うのだけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「貧困の極み」について

2015-05-20 01:59:28 | Weblog
晴れ。案外おだやか。

仁藤夢乃「女子高生の裏社会 『関係性の貧困』に生きる少女たち」を読む。

「JK」と呼ばれる風俗に取り込まれた少女たちへのインタビューが中心。
「居場所のない」彼女たちを「スカウト」「店長」「オーナー」が見事に「支える」。

「裏社会」が必要にかられてする「関わり」を
なぜ「表社会」がしないのかという著者の疑問になるほど。

話をまともに受け止めず約束を破る大人たちが
実は彼女たちの「居場所」を無くしている「事実」も忘れずに。

それにしても男たちの「欲望」たるや。
「性のめんどくささ」をあらためて思った次第。

「家庭環境」という「ジャングル」の存在も
あらためて見直した方がいいのかもしれない。

もっとも「ジャングル」がなくなることがないのだとすれば
彼女たちを支える「表社会の人々」がどうしても必要になるのは間違いなく。

著者を「お姉ちゃんみたい」と言う少女たちの「素朴」よ。
その一点からだけでも「関係性の貧困」は十分にうかがえる。

さて。

自民党は2030年における原発のエネルギー比率を20%くらいに見積もった模様。
河野太郎はかなり反発したようだがいつものように「委員長一任」とか。

ちなみに現在稼働している原発はなく
それでも「エネルギー不足」は起きていないのだけれど。

福島第一が放射能を垂れ流し続け「汚染水」が毎日確実に増え続けている「事実」はどこへ。
東電は不可能としか思えない「デブリの取り出し」を目指していたり。

そうしたことを見据えずに「20%」などとは全くバカバカしい限りだが
その「バカバカしさ」が「日常」になっている「怖ろしさ」を心底知ろう。

わが国の「バナナ・リパブリックぶり」を噛みしめた上で
「まともな人材」を政治家の中に見つけつつ一方で育てること。

「東京オリンピック」の「デタラメぶり」もどうやら明らかになりつつある今
少なくとも「ダメな人」を自分たちの「代表」にすることはやめたいものではある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする