退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「外国語絡みの『地口』とカルト絡みの映画」について

2022-07-31 03:04:33 | Weblog
晴れ。まあ暑い。

「南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学」を読み進める。

かの人にしては案外短い文章が多く。
おそらくは「雑誌への寄稿の制限」ゆえか。

「象牙の英語で相惚れときた」は「象牙=ivory=アイヴォリー=相惚れ」という地口。
「あたかも安珍を道成寺の鐘下に匿したごとし。(中略)ドウモ安珍ならぬと案じたのだ」も。

この種の文章の調子をおそらくは英語でも出来たはずなのが凄いところ。
シェークスピアを全編諳んじた人ならではの業だろう。

漱石が「Do you see the boy?」を「ずうずうしいぜ、おい」としたのを思い出したり。
言語に一定程度通じると誰もがしたくなることではあるけれど。

いちおう明日読了予定。
「鷲石考」と「燕石考」が待っている。

マル激を観る。

今回は5金で「カルト絡みの映画」の紹介。
「過去を知らない若者たちの教育のために映画を」といった趣き。

とはいえ「早送りで映画を観ること」がすでに「普通」になっていたり。
この「教え」は結局のところ「受け取る相手を限定する」かも。

実は「そもそも映画を観られるのか」というあたりから始めないと微妙だったり。
「劣化」はすでにそこまで来ているのだから。

とはいえ所詮「わかる人には電光石火」という山本夏彦の言葉に尽きる。
そうするよりないと言うか「そのようにしか出来ない」。

というわけでもないが大森立嗣「星の子」(’20)を観る。

わが子の病気を救ってくれた「水」ゆえに「新興宗教」に入る両親。
現在の医学が救ってくれなかったのだから「仕方のないこと」ではあり。

娘ふたりのうち姉は家を出て救われた妹は家に残り。
「おじさん」が「科学的根拠」を元に両親を否定するものの。

一方で大好きな先生に両親を「不審者」と呼ばれ自らも責められ。
悩める妹にとっては新音(にのん)演じる幼少期からの友人が「救い」か。

それにしても謎なのは。

芦田真菜、岡田将生、大友康平、高良健吾、黒木華、 蒔田彩珠、 粟野咲莉、池谷のぶえ、
池内万作、宇野祥平、大谷麻衣、長瀬正敏、原田知世といった豪華キャストにも関わらず。

本作の噂が全くこちらに届かなかったこと。
「新作に関するアンテナ」が相当に錆びているらしい。

今どきフレッド・アステアの映画など観ているからだと言われればそれまで。
この種の「好ましい作品」をもっと「広告」してくれと身勝手な願いなど。

ただしこの「ハッピーエンド」は微妙。
「娘に『包摂』を求めること」はむしろ「無理筋」だと思うので。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あらためての『エンサイクロペディアぶり』と幸せな気持ちになれる映画」について

2022-07-30 02:46:18 | Weblog
晴れ。今日も暑い。

「南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学」を途中まで読む。

中沢新一の「解題」の長いこと。
熊楠の文章が読めるだけでいいのに。

今のところ「いつもの調子」か。
「二本足のエンサイクロペディアぶり」が発揮されて。

「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」は読んでみたいもの。
今度図書館で借りてくることにしよう。

ウィリアム・A・サイター「ロバータ」(’35)を観る。

アイリーン・ダンの顔と歌声がいかにも「古い」のに比べて。
ジンジャー・ロジャースはそうでもなく。

アステアとのダンスは見ているだけで幸せになれる。
ランドルフ・スコットのいかにもな「アメリカの田舎の若者ぶり」もなかなか。

ミニー叔母さんのヘレン・ウェスリーとヘンリー卿のフェルディナンド・ミュニアがいい感じ。
こういう「老人たち」がいると若者たちも安心してあれこれ出来るというもの。

スタンダードナンバーになった「煙が目にしみる」と「lovely to look at」も素敵。
作曲はジェローム・カーンで本作のオリジナルのミュージカルも彼の作品。

音楽監督にマックス・スタイナーの名前が。
「風と共に去りぬ」(’39)「カサブランカ」(’43)なども。

「ファッションショー」のシークエンスもあり。
モデルの中に「アイ・ラブ・ルーシー」のルシル・ボールがいた模様。

敢えて文句を言うなら演出のテンポがやや緩く。
ただしこれだけ「豊か」ならまあいいかと思わせる内容。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「約20年前に出たチョウチョウウオたちの姿と気になるその現在あるいはアステアの映画デビュー作」について

2022-07-29 02:26:19 | Weblog
晴れ。今季一番の蒸し暑さ。

中村庸夫「チョウチョウウオ ガイドブック」を見て読む(再読かも)。

約20年前の作品なので今はどうなっているのだろう。
とりわけサンゴのポリプをエサにしている魚たちが気になる次第。

「地球温暖化」によってグレートバリアリーフでは広範囲でサンゴの白化が進んでいる模様。
おそらくその他の地域でも同じようなことが想定され。

本書に見られる「多様性」は失われてしまったのか。
あるいはまだ残されているのか。

わが国では毎年のように「豪雨被害」も起きていて。
もっとも国土が沈みつつあるツバルを思えばまだマシかも。

繰り返すが「気候危機」になぜ「人類」として対応できないのだろう。
SF映画の中ならいとも簡単に「一体」になるというのに。

われわれがもたらす「危機」はエイリアンより怖ろしいはず。
本来なら「くだらない国内事情」などに構っている場合ではないにもかかわらず。

ロバート・Z・レナード「ダンシング・レディ」(’33)を観る。

昨日一昨日の「ザッツ・エンタテインメント」シリーズの結果。
フレッド・アステア作品を観なければと思い。

若き日のジョーン・クロフォードはやはり大きな瞳が魅力的。
ダンスは決して上手いとは言えないけれど頑張っている。

クラーク・ゲーブルは思いがけず彼女に恋することになり。
いかにもな演出家の姿など。

「金持ち」フランチョット・トーンは案外「いい人」。
耳の遠い祖母のメイ・ロブスンは「香辛料」の役割。

アステアは本人として登場。
本作が「映画デビュー作」でその後のダンスの凄味は見せていず。

「三バカ大将」の「軽快なギャグ」も楽しめる次第。
「万華鏡」を思わせる演出もなかなか。

92分という作品の長さは悪くないものの演出のテンポがやや遅く。
そこが唯一残念なところ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「何事かを思わせる画家とやはり素敵なミュージカル映画その他」について

2022-07-28 03:22:12 | Weblog
くもり。蒸し暑い。

クリストフ・グリューネンベルグ&ダレン・ファイ編著「マグリット事典」を見て読む。

マグリットのさまざまな作品が見られて満足。
「これはパイプではない」「光の帝国」「恋人たち」はもちろんのこと。

「ゴルコンダ」はまるで映画「マトリックス」のエージェント・スミスの「先祖」のよう。
かの画家に「ルノワール時代」と呼ばれる時期があったのを知る。

バタイユ「マダム・エドワルダ」の挿画はいかにも「ポルノチック」で。
その後には「小石」や「凌辱」もあり。

鏡に自分の後ろ姿しか映らない「複製禁止」。
「明快な意図」あるいは「秘密の生活」の謎の球体など。

晩年にはフーコーとも関係があったり。
もっとも絵そのものが「語る内容」をじっくり味わいたいもの。

ジャック・ヘイリー・ジュニア&ジーン・ケリー
「ザッツ・エンタテインメイント PART2」(’76)を観る。

前作を観たら続けて観ないとということで。
当時76歳(!)のアステアの「ラストダンス」のキレが素晴らしい。

マルクス兄弟、アボット&コステロなど「コメディ作品」もあり。
スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘップバーンのコンビが「懐かしい」。

フランク・シナトラがボビーソクサーを熱狂的にさせていた頃も。
「上流社会」(’56)で久方ぶりに観たグレース・ケリーはやはり美しく。

マージ&ガワー・チャンピオンのダンスを初めて見る。
いいですな。

「雨に唄えば」(’52)の「グッド・モーニング」が何とも気持ちいい。
デビー・レイノルズとドナルド・オコナーよ。

キリがないのでこの辺にしておく。
まだ未見の素敵なミュージカル映画があれこれあるのを確認した次第。

いやはや。
またまた堪能させて頂きましたといった趣き。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「好ましい昔の女優とMGMミュージカル映画の楽しさ」について

2022-07-27 03:46:44 | Weblog
晴れ。雨も降り深夜まで稲光など。

浪花千栄子「水のように」を読む。

NHKの朝ドラ「おちょやん」は2年前のこと。
おそらくはそれに合わせて出た作品。

二代目渋谷天外と結婚していたことは迂闊にも知らず。
それにしても「たいへんな生い立ち」であることよ。

溝口健二「祇園囃子」(’53)「山椒大夫」(’54)「噂の女」(’54)「近松物語」(’54)。
木下惠介「女の園」(’54)「二十四の瞳」(’54)。

豊田四郎「夫婦善哉」(’55)「猫と庄造と二人のをんな」(’56)。
黒澤明「蜘蛛巣城」(’57)吉村公三郎「大阪物語」(’57)。

小津安二郎「彼岸花」(’58)「小早川家の秋」(’61)。
あるいは増村保造「華岡青洲の妻」(’67)など。

これを載せておく。
「昔の関西弁の好ましさ」を覚えておこう。

ジャック・ヘイリー・ジュニア「ザッツ・エンターテインメント」(’74)をようやく観る。

フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ビング・クロスビー、フランク・シナトラ。
ジミー・デュランティ、ピーター・ローフォード、ミッキー・ルーニー、ドナルド・オコナー。

ジュディ・ガーランド、デビー・レイノルズ、エリノア・パウエル、シド・チャリース。
「水着の女王」エスター・ウィリアムズやエリザベス・テイラーも。

ジョーン・クロフォードやクラーク・ゲーブルが踊りケーリー・グラントが歌い。
リナ・ホーンの姿もじっくり観られる内容。

MGMミュージカル映画の数々を思い出し。
もちろん未見の作品もあれこれあり。

しばし「忘我の境地」に。
「圧倒的な技術」によるエンターテインメントの素晴らしさを知っておきたいもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「言葉を失う現実があることとそれを『新たな言葉』で描くことあるいは『規模』を大きくしすぎた映画」について

2022-07-26 02:54:24 | Weblog
晴れ。日差しが熱い。

信田さよ子・上間陽子「言葉を失ったあとで」を読む。

信田さよ子が相当な「つわもの」であることをあらためて。
上間陽子の作品はまだ未読だがついさっき図書館で予約したところ。

「性被害に対して新しい教科書が必要だ」というのにふむふむ。
「加害者臨床」についても同様に。

「中立とか客観というものが、加害者寄りになってしまうんだ」という言葉よ。
「加害の瞬間に解離が意外と多い」のだという指摘には驚くのみ。

とにかくこうした「現実」があるのを知っておかないと。
「暴力がもたらすもの」がかくも酷いものであると。

何よりわが国ではそうしたことへの対策がほぼないことに驚く。
なおかつ「現実が伝えられていないこと」にも。

タイトルの意味を噛みしめると同時に。
「新たな言葉」を見つけていく「困難」を受け止めるよりない。

J・ブレイクソン「フィフス・ウェイブ」(’16)を観る。

たぶん再見のはずだが内容を忘れていることが多く。
「波」には「5段階」あるもののそれがどうも「論理的」でなく。

「人類を『駆除』する」だけならもっと簡単に出来るだろうに。
いわゆる「色眼鏡」を使って若者たちに対応する必要があったのかどうか。

クロエ・グレース・モレッツとアレックス・ローの「恋愛劇」も余分で。
キャラクターとしてはマイカ・モンローのリンガーが好ましいけれど。

いかにもあやしいリーヴ・シュライバーが全体の雰囲気を支えて。
「物語の底流」には「大人を信用するな」というのがある模様。

その気持ちはわからないではないが物語の展開と描写が緩くてどうにも。
「ぼくらの七日間戦争」(’88)レベルにしておけばまだしもといった趣き。

もっともラストのSia「alive」は圧倒的。
映画の出来との落差がスゴい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わが国における『世界情勢』と『国内情勢』の対立の嚆矢あるいは『正義』がほぼ『嗤い』になるスペイン映画」について

2022-07-25 02:19:47 | Weblog
晴れ。外は暑いが家の中はそうでもなく。

「柳田国男 南方熊楠 往復書簡集」読了。

ふたりを隔てたのは「言語の壁」か。
日本語においては「共通項」があったというのに。

「外国語に通じる者とそうでない者の差」がどうやら。
「世界情勢」と「国内情勢」が「対立する」のはこの頃からあった模様。

もっとも「正しさ」を持つ熊楠の「世間知の無さ」は柳田から見れば「厄介」。
「圧倒的に優れた人」が結局「困った人」になってしまうわが国の「磁場」よ。

それはおそらく橋本治がずっと「無視されたこと」に同じ。
「民度の低さ」というものについてあらためて思いを致す次第。

ガルデル・ガステル=ウルティア「プラットフォーム」(’19)を観る。

ゴヤを生み出した「スペインらしさ」にふむふむ。
「階級社会」が「階層」として描かれるのと同時に。

「自分が生き延びること=他人の肉を喰らうこと」という「直接さ」がいかにも。
「最底辺」に「子どもかいる」のを忘れずに。

いかにも「旧左翼な構図」であるのも確かで。
とはいえそれが必ずしも「無効」とは思えない現実はあったり。

もっとも「適切な分配」を促す女子は「自殺」して。
「声が届かない」という描写も覚えておこう。

主人公が「ドン・キホーテ」を持ち込むことも同様に。
「正義」は「風車に戦いを挑む」ほど「頓珍漢なこと」だということで。

「現在の世界の在り様」を示した作品。
要は「デタラメ」ということに尽きるのだけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「相容れなくなる事情とわが国が『後進国』であること再びあるいは残念な映画」について

2022-07-24 02:18:54 | Weblog
快晴。風がなぜか涼しく。

「柳田国男 南方熊楠 往復書簡集」を今日も。

徐々にふたりの間に「ひび割れ」が。
自分を活かしたい熊楠と雑誌を活かしたい柳田の姿よ。

いずれも「正しい」からどうにもならず。
最後を見届けることにしよう。

ただし明日そうするかは不明。
新しい本を借りてくるのでそちらを読むことになりそう。

マル激を観る。

今回は宗教と政治の関係について。
ゲストは宗教学者の島薗進。

「選挙協力」と「勢力維持」をバーターとする関係の貧しさ。
「国民のため」など何処へやら。

朝日新聞が宮台真司の原稿を「検閲」したことを知る。
「統一教会」の「問答無用の集金システム」も忘れずに。

「オウム」同様に「カルト指定」されるべき存在だというのに。
祖父岸信介の結果が孫を殺すことになる「因縁」よ。

わが国の「バナナ・リパブリックぶり」をあらためて。
経済指標など挙げなくても「圧倒的に後進国」である事実がここに。

安倍元首相の「国葬」も含めて。
「税金」は「みんなのために使われるもの」であり。

そのためには「国民の一致した意志」がなければならず。
政府がそうした「当然」を無視し続けるのであれば。

現在の野党がほぼ「うんこ」であることも鑑みて。
あらたに「まともな政党」を作るよりないのだけれど。

「頭がいい若者」は登場しないものか。
別の分野では相当に優れた若者が出ているのにこの分野に限っては皆無なのが残念。

キム・ジフン「第七鉱区」(’11)を観る。

「石油採掘絡みの『エイリアン』もの」。
好ましくない意味での「韓国風」が出過ぎていて。

「怪物」を「アメリカ」だと思えばちょいと意味が違ってくる趣きはあるものの。
アン・ソンギがこれではもったいない限り。

「バカな男子」がいたずらにハシャぐ描写はどうにかならないものか。
「紅一点の女子」がむしろ「男子」である設定にも飽きて。

「怪物の姿」にも魅力はなく。
「クリオネそっくり」なのが変わるパターンは「グレムリン」(’84)の「ギズモ」に同じ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自分の間違いをきちんと認められることと『自閉症的傾向」あるいは『中毒の結果』と『慣れてしまうことの怖ろしさ』」について

2022-07-23 02:44:05 | Weblog
晴れ。暑さはそこそこ。

「柳田国男 南方熊楠 往復書簡集」をさらに。

今回の分は熊楠が柳田に自らの間違いを認めるあたりがなかなか。
あとはふたりがさまざまなものに興味を持つ姿にふむふむ。

明日読了予定のつもりがなかなか。
そこにこだわる必要はそもそもないのだけれど。

なぜか「スケジュール」が気になるところもあったり。
決まった時間の電車に乗ることを目指したり。

いくぶん「自閉症的な部分」があるのだろうという「自己診断」など。
いずれ「当てにはならない」けれど。

他人から見れば「ほとんど病気」だということになるはず。
「中毒」があれこれあるのは確か。

フェリックス・フックシュタイナー&カタリーナ・シェード
「エメラルドグリーン タイムトラベラーの系譜」(’16)を観る。

シャーロットのローラ・ベルリンが「覚醒」する物語かと思いきや。
中途半端に終わったのは残念。

ある意味で「覚醒」はしたのだが。
主人公たちと「同じ」になった方が魅力的だったような。

それにしても「慣れてしまうことの怖ろしさ」よ。
この「緩い描写とテンポ」が気にならなくなってくる始末。

がしかし。

やはり「つまらない作品」だということは言っておこう。
「物語をナメている」としか思えず。

というわけで「三部作」の確認終了。
キャラクターの「配置」はそれなりに出来ているのに「展開と描写」が全くダメ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「圧倒的な『知性の迸り』とダメな映画の確認作業」について

2022-07-22 03:00:01 | Weblog
くもり。少しだけ降る。

「柳田国男 南方熊楠 往復書簡集」を読み進める。

明治四十四年十月二十五日午後の熊楠の手紙が圧巻。
まさに「迸る知性」といった趣きで素晴らしいというよりなく。

その前の十月十七日夜の手紙も含めて。
さすがに柳田も「精読仕り候」と答えて。

このところいささか睡眠が不規則で本書を読みながらウトウトすることも少なからず。
とはいえ「肝心な部分」を読み落とすことがなかったのは我ながら「エラい」。

「ご縁がある」とはこういうことだろう。
それにしても互いに「批判」を受け止めつつのこの様は何とも素敵。

「人という生きもの」を知るためには「それ以外の生きもの」を知ることが肝要。
そのこともあらためて思った次第。

フェリックス・フックシュタイナー&カタリーナ・シェード
「サファイア・ブルー タイムトラベラーの系譜」(’14)を観る。

前作で「慣れてしまった」ので多少はマシのように思えるものの。
「隠居の身」としては主人公ふたりの恋愛模様がむしろ煩わしい。

シェークスピアまで登場させて「ロミオとジュリエット」を思い出させるのも何だか。
かの劇作家に「謝れ」と言いたくなるところ(それもドイツ語で喋るのだから)。

残念ながらやはり「圧倒的にユルい」のみ。
ルビーが歌って踊るのは「バック・トゥー・ザ・フューチャー」(’85)の匂いが。

マイケル・J・フォックスによる「johnny be good」を載せておく。
「レーガンが大統領だって?」というネタもあったか。

「毒を喰らわば皿まで」ということで三部作最終編を明日観るつもり。
「気分はfilm wissenschaftler=映画科学者」とでも言っておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする