退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「科学と宗教の共存あるいは職人の真っ当さ」について

2018-08-31 02:07:54 | Weblog
晴れ。木陰が涼しい。

フランス・ドゥ・ヴァール「道徳性の起源」を途中まで読む。

科学がいたずらに宗教を非難するのはいかがなものか。
それと同時にボノボのコミュニケーションの在り方についても。

信仰と無神論の「互いに相手を言い負かしたい気持ち」は横に置いて。
「共存」すればいいじゃないかというのには賛成。

どうやら宗教が失われて「道徳心」も減った事実があることを思えば
まだまだその「役割」に意味がありそうな予感がしないでもなく。

自己流に「翻訳」するなら「緊張感=ヘタなことは出来ない」という感覚か。
分野を問わず「すぐれたもの」がそれを感じさせるのは確か。

「徹底的な性悪説」より「性善説」をというのにもふむふむ。
ボノボやチンパンジーに「助け合い」があるならわれわれにあるのも当然だと。

「共感」が「ミラーニューロン」という科学の発見によって「証明」されてもいて。
そこをもっと生かせばいいのに。

たとえば宇宙の姿を見て感動した後の感じは
その厳かさを含めてある種の「神の啓示」に似ているところもあるのだから。

著者のおだやかで時にさりげないユーモアを含んだ語り口は素敵。
明日の読了が楽しみ。

それとは別に。

「2×2=4」というルールはとりあえず「揺るぎないもの」。
もちろん思考を徹底すればそうではなくなることもあるけれど。

その「揺るぎなさ」は「職人の手仕事」にもあり。
目をつぶっていても同じことができるためには「相当な鍛錬」が必要。

その事実を無視したら「揺らぐ」のはむしろ当然。
手近な安楽さを求めるだけでは「自信」など生まれるべくもなく。

むしろ「いい加減さ」が「不安を生み出す根源」であることを知っておきたいもの。
おまけにそれは最終的に「もういいや」という「自爆」をもたらすだけ。

「反復作業の意味」をあらためて思い出したいところ。
そこで得た「自信」は何物にも代えがたい「土台」になるのを忘れずに。

その上にこそ「素敵なもの」が築かれるのだし「余裕」も生まれる。
何度でも繰り返すが「職人」は圧倒的に「正しい存在」。

先人たちの「技術の素晴らしさ」を知ってしまった以上
「いい加減な仕事」は出来なくなる「倫理」よ。

さらには「日々の研鑚」には「終わり」がない。
なぜなら「自分の至らなさ」を痛感せざるを得ないから。
コメント
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